巡回ログの余った一行

月夜の駐車場と守衛

今でも、閉店後のショッピングモールには近づけない。

2年前の秋、俺は郊外の大型モールで夜間警備のアルバイトをしていた。

当時42歳。勤めていた会社が畳まれて、次の仕事が決まるまでのつなぎのつもりだった。

面接で、日勤の社員の田所さんは「夜は人が少ないので、静かですよ」と言った。

夜勤は22時から翌朝6時まで。

館内の14か所にICタグが貼ってあり、巡回のたびに携帯端末をかざして記録を残す。

その記録が巡回ログだ。

時刻と地点番号と担当者のIDが、1行ずつ端末に積み上がっていく。

この話は、その巡回ログに余計な1行が増えた件だ。

事務所の壁には館内図が貼られ、タグの場所が14個の赤い丸で示されていた。

支給された制服は少し大きく、袖を2回折って着た。

最初の晩の引き継ぎは、橋本さんという先輩だった。

60代半ばで、口数が少なく、制服の内ポケットにいつも名札をしまっていた。

「胸に付けなくていいんですか」と、俺は聞いた。

「付けると、読まれるから」と橋本さんは言った。

誰に読まれるのかは、聞きそびれた。

巡回は1時間半おきで、1周に40分ほどかかる。

1周目は0時、2周目は2時半、3周目は5時という割り振りだった。

最初の晩に回ったのは、正面入口、噴水広場、フードコート、書店の裏口の順だった。

フードコートの椅子は全部逆さにして机に載せてあり、背の低い森のように見えた。

非常口の緑の灯りだけが、床に細長く伸びていた。

端末をタグにかざすと、短い電子音が鳴って、画面に1行が足される。

1行増えるたびに、今夜も無事に回れたという実感が湧いた。

1周目を終えて事務所に戻ったのは、午前0時を少し過ぎた頃だった。

橋本さんは端末の画面を俺に向けた。

「ログに余計な行が出ても、消さずに報告だけしてくれ」

「余計な行、ですか」

「担当者の欄が空白の行だ。あとで会社が処理するから」

冗談かと思って笑ったが、橋本さんは笑わなかった。

最初の1週間は、何も起きなかった。

閉店後のモールは、昼間の賑わいが嘘のように静かだ。

エスカレーターは止まり、噴水は水を落とし、ショーウィンドウにはマネキンだけが残る。

聞こえるのは、空調の低い唸りと、自分の靴音くらいのものだ。

3階の立体駐車場だけは空調が届かず、冬のように冷えていた。

コンクリートの匂いと古いオイルの匂いが混ざって、鼻の奥に残る。

初めて一人で回った夜は、自分の呼吸まで大きく聞こえた。

休憩室の冷蔵庫には、前の担当者が残したらしい麦茶が入っていた。

ラベルの日付は、3か月も前のものだった。

家に帰ると、妻が朝食を作って待っていた。

「夜の仕事は、退屈でしょう」と妻は言った。

「退屈なくらいがちょうどいいよ」と俺は答えた。

本気でそう思っていた。

昼に眠り、夕方に起きて妻と食卓を囲む生活にも、1週間で体が慣れた。

夜勤明けの朝は、空がやけに白く見えた。

8日目の夜、橋本さんは別の現場へ異動になった。

引き継ぎの最後に、橋本さんは3階の立体駐車場の端を指さした。

「15番のタグは、ないから。探さなくていい」

タグは14か所のはずだった。

なぜ15番の話が出るのか、聞き返そうとした。

そのときにはもう、橋本さんは帰り支度を始めていた。

事務所のドアが閉まる音を、今でもはっきり覚えている。

巡回ログの余白

9日目の夜、1周目を終えて、事務所でログを開いた。

14行が並んでいる。

時刻と番号とIDが、きれいに揃っていた。

その下に、15行目があった。

時刻は03:12。地点番号は15。担当者の欄は空白。

見ている時刻は、まだ0時40分だった。

2時間以上先の時刻が、すでにログに刻まれている。

端末の時計が狂っているのだと思った。

田所さんに電話をかけて確かめた。

「時計は合ってますよ。ログのほうは、会社で見ておきます」

田所さんの声は、妙に事務的だった。

橋本さんの言葉を思い出して、行は消さずにメールで報告した。

返信は、朝になっても来なかった。

昼過ぎになって、田所さんから短いメッセージだけが届いた。

「了解しました。引き続き、通常どおりお願いします」

通常どおり、という言葉が、妙に引っかかった。

コンビニの弁当を事務所で温めて、味のしないまま食べた。

巡回ログを開くのが、それから毎晩の習慣になった。

3日後、15行目がまた出た。

今度の時刻は03:08だった。

その次の晩は、03:01。

その次は、02:54。

紙のメモに、時刻を書き写して並べてみた。

並べてみて、背中が冷えた。

時刻が、毎晩少しずつ早くなっている。

12日目の夜、3階の駐車場を巡回していたときのことだ。

背後から、ピッ、と音がした。

タグに端末をかざしたときの、あの電子音だ。

振り返ったが、通路には誰もいない。

照明を落とした駐車場に、コンクリートの柱が並んでいるだけだった。

音は、いちばん端の柱のあたりから聞こえた気がした。

懐中電灯で照らすと、柱の腰の高さに白いシールのようなものが見えた。

近づいてみると、ただのガムの跡だった。

俺はそう思うことにして、巡回を続けた。

噴水広場のベンチで、ぬるい缶コーヒーを開けた。

缶を置く音が、やけに遠くまで響いた。

ベンチの座面は、誰かが座った直後のようにぬるかった。

俺は立ち上がり、振り返らずに先へ進んだ。

事務所に戻って確認すると、15行目は02:49に変わっていた。

担当者の欄は、相変わらず空白だった。

家で妻に話すと、「機械の不具合でしょう」と笑われた。

「無理しないでね」と言って、妻は味噌汁を温め直してくれた。

俺も、そう言ってほしくて話したのだと思う。

3階の端のタグ

15日目の昼間、忘れ物を取りに事務所へ寄った。

清掃スタッフの佐伯さんが、休憩室でお茶を飲んでいた。

夜勤の人間と顔を合わせるのは珍しい。

俺はつい、巡回ログのことを口にしていた。

佐伯さんは湯呑みを置いて、しばらく黙っていた。

「あなたの前の人も、その前の人も、同じことを言ってました」

「前の人、というのは」

「橋本さんの前に、もう1人。その前にも、もう1人」

「みなさん、時刻が早くなる、って」

「それで、どうなったんですか」

「ここを辞めていくんです。みなさん、きれいに」

「橋本さんも、ですか」

「橋本さんは、異動でしょう。会社の人がそう言ってたから」

佐伯さんは、そこで話を打ち切った。

帰り際に、独り言のように付け足した。

「誰も、名札を付けなくなるのよ。夜のここの人は」

俺は言葉を返せなかった。

その夜から、俺も名札を内ポケットに入れた。

理由は、うまく説明できない。

ただ、胸に付けているのが急に嫌になった。

眠っている妻の寝息を聞きながら、朝まで天井を見ていた。

朝の光の中では、全部ただの気のせいに思えた。

夜になると、また思えなくなった。

佐伯さんの話を聞いてから、タグに端末をかざす手が少し重くなった。

1階も2階も、いつもより照明が暗く見えた。

エスカレーターの金属の縁が、濡れたように光っていた。

乾いているはずの床に、足音だけが湿って響いた。

ログの時刻は、毎晩数分ずつ早くなった。

02:49の次は02:41。次は02:36。

俺は日付を書いたメモを作り、計算してみた。

このペースなら、3日後の夜、15番の時刻は02:30になる。

02:30は、俺がいつも3階の駐車場に着く時刻だった。

休もうかと思った。

事務所の電話から、田所さんに代わりを頼むことも考えた。

だが、この時間に電話に出る人間がいるのかどうかも怪しかった。

だが、休めば誰かが代わりに3階へ行くことになる。

それが誰なのかを考えると、休む気にはなれなかった。

その夜、俺は02:28に3階へ着いた。

駐車場は、水の底のように静まり返っていた。

自動販売機の低い唸りが、柱の向こうから途切れ途切れに聞こえる。

端の柱の前で足を止め、端末を握りしめた。

掌に、じっとりと汗がにじんでいた。

腕時計の針が、02:30を指す。

何も起きなかった。

その瞬間、奥の換気扇がふっと止まった。

急に、音がひとつもなくなった。

自分の心臓の音だけが、耳の中で数えている。

息を吐いた、そのときだ。

俺の手の中で、端末がピッ、と鳴った。

タグには触れていない。かざした覚えもない。

画面に、新しい1行が出ていた。

02:31、地点番号15。担当者の欄に、俺のIDが入っていた。

見ている前で、IDの文字がゆっくり薄れて、欄が空白になった。

足の裏が、床に張り付いたように動かなかった。

背後の柱を、振り返って照らした。

腰の高さに、白いタグが貼ってあった。

ガムの跡だと思ったあの場所に、15、と印字されている。

いつから貼ってあったのかは、わからない。

ただ、角がまだ新しく、糊の端が光っていた。

名札の置き場所

俺は、その月で契約を更新しなかった。

最後の夜、後任の若い男が事務所に来た。

大学を出たばかりという、小林という青年だった。

引き継ぎの終わりに、俺は端末の画面を彼に向けた。

「ログに余計な行が出ても、消さずに報告だけしてくれ」

「余計な行、ですか」

「担当者の欄が空白の行だ。あとで会社が処理するから」

口をついて出た言葉に、自分で驚いた。

小林さんは、俺の制服の胸を見て首をかしげた。

「名札、付けないんですか」

「付けると、読まれるから」

そう答えて、俺は事務所のドアを閉めた。

帰りの電車で、窓に映った自分の胸元を見た。

名札のない制服は、他人の服のようだった。

駅のホームでふと振り返ったが、誰もいなかった。

1週間後、最後の給与明細と一緒に、勤務表の写しが郵送で届いた。

日付も勤務時間も、全部合っていた。

田所さんに電話で問い合わせると、少し間があった。

「あとで会社が処理しますから」

橋本さんと、同じ言い方だった。

妻には、夜の仕事はもう終わりだと告げた。

妻は理由を聞かず、「お疲れさま」とだけ言った。

その夜から、俺は夜にきちんと眠れるようになった。

ただ、午前2時半になると、必ず目が覚める。

勤務表の中で、俺の名前の欄だけが空白だった。

退職の手続きで書類を見直したとき、気づいたことがある。

橋本さんの名前は、事務所のどの名簿にも載っていなかった。

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