金曜だけ残る空室の解錠ログ

夜の木版画回廊と濡れた足跡

去年の十月、第二金曜の話だ。

空室の解錠ログに並ぶ、二十三時十四分という数字だけが、最初に目に入った。

私は賃貸管理会社で、二年目の管理担当をしている。

受け持ちは市内の十二棟で、いちばん新しいのが築二年の四階建てだ。

その建物の全室に、スマートロックが付いている。

入居者はスマホで、管理者は専用のアプリで鍵を開ける。

管理者は端末ごとに名前を付けて登録する。

入社初日に、端末名を「石渡のiPhone」と登録した。

開け閉めの記録は、すべて管理画面に残る。

朝は設備の不具合の連絡を受け、昼は現地を回る。

夕方に書類を片づけると、たいてい二十時を過ぎている。

忙しいが、画面の数字は嘘をつかないところが好きだった。

苦情の大半は、水回りと騒音と、ゴミの出し方だ。

幽霊の苦情というのは、一度も受けたことがない。

受け持ちの建物は、どれも手のひらのように覚えていた。

築二年のその建物だけは、少しだけ気の抜ける場所だった。

その日、私は月次の点検で空室の一覧を見ていた。

四階の角部屋は、竣工から二年たっても借り手がつかない。

日当たりも家賃も悪くない。

内見の予約が入っても、なぜか前日に取り消される。

仲介会社の営業さんは、電話でこう言っていた。

「お客様が玄関に立つと、廊下の奥から温かい風が来るそうなんです」

「空調の吹き出し口ではなく?」

「ええ。部屋の中に、誰かがいる感じがするって」

その話を聞いたとき、私は少し笑ってしまった。

古い建物ならともかく、築二年の新築だ。

壁の中を、配管と配線が走っているだけのはずだった。

どうせ換気扇か、床暖房の余熱だろう。

そう決めつけて、メモにも残さなかった。

画面の端に、小さな赤い印が付いていた。

空室の解錠ログが、未確認のまま溜まっているという印だった。

開くと、金曜の夜ばかりが並んでいた。

二十三時十四分に解錠。二十三時四十一分に施錠。

解錠者の欄は、どの行も「管理者」だった。

管理者のアカウントを持つのは、課長と先輩の久保田さんと、私の三人だけだ。

私はその週の金曜、同期と居酒屋にいた。

レシートが財布に残っていた。

課長は金曜の夜、必ず実家に帰る。

久保田さんの家は、市の反対側にある。

もちろん、誰かのうっかりだと考えた。

空室の解錠ログを疑う

翌朝、久保田さんにログの画面を見せた。

「ああ、これか」

久保田さんは、コーヒーを持ったまま画面をのぞいた。

「俺は金曜の夜、息子の習い事の迎えだよ」

「私は居酒屋にいました。課長も実家です」

「じゃあ、アプリの不具合だろう」

久保田さんは、あっさり言った。

「ロックのメーカーに問い合わせてみたら」

もっともな話だった。

その日のうちに、サポート窓口へメールを送った。

返事は二日後に届いた。

「記録に異常は確認できません。電池残量も正常です」

念のため、角部屋の暗証番号を変えた。

合鍵の管理簿も、一冊ずつ見直した。

課長にも、一応報告した。

「石渡さん、それ、幽霊の仕業じゃないの」

課長は笑いながら言った。

「だったら、管理費を請求しないといけませんね」

私も笑って返した。

そのときは、本当に冗談のつもりだった。

それでも次の金曜、二十三時十四分に解錠の記録は付いた。

暗証番号が変わっても、記録の形は同じだった。

施錠は、二十三時四十一分。

二十七分間だ。

一週目も二週目も、一分もずれていない。

機械の癖というものは、案外こういう顔をしている。

そう自分に言い聞かせて、私は画面を閉じた。

でも、閉じる前に気づいたことがある。

解錠の行には、一度も「失敗」がなかった。

暗証番号を変えた週でさえ、鍵は迷わず開いていた。

まるで、番号など最初から必要ない手つきだった。

その晩、自宅で缶ビールを開けながら、もう一度ログを見返した。

ベランダの向こうで、電車が通り過ぎていった。

母から電話が来たのは、そのときだった。

「ちゃんと食べてる? あんた、昔から夜更かしすると熱を出すでしょう」

「大丈夫。ちょっと調べものをしてるだけ」

「ならいいけど。髪、切ってから顔が細くなったわね」

「それ、三か月前にも言われたよ」

電話を切ったあと、画面の数字だけが部屋の明かりを受けて光っていた。

二十七分という長さが、どうしても偶然には見えなかった。

養生シートの上の足跡

翌週の火曜、昼休みに現地へ向かった。

築二年の外壁は、まだ白かった。

エレベーターを降りると、四階の廊下は静かだった。

角部屋の前に立ち、アプリで解錠した。

ドアを引いた瞬間、湿った匂いが顔にあたった。

石けんと、乾ききらない髪の匂いだった。

空室のはずの部屋に、風呂上がりの匂いがある。

廊下には、床を守る養生シートが敷いてあった。

玄関から突き当たりまで、一枚続きの青いシートだ。

その上に、裸足の跡が並んでいた。

水を含んだ、小さな足の跡だった。

数えると、十一歩ある。

跡は奥から玄関へ向かっていた。

外から入った跡ではない。

中にいた誰かが、出てこようとした跡だ。

最後の一歩は、私のパンプスの爪先の前で止まっていた。

床に膝をついて、跡の縁を見た。

乾き始めた縁が、白く縮れていた。

水ではなく、石けんの泡が混じった湯だった。

天井の換気口は、止まっている。

洗面所の蛇口にも、手を触れた形跡はなかった。

私は、スマホで写真を一枚だけ撮った。

あとで見返すと、画像の隅に私の影だけが長く伸びていた。

私は後ずさり、ドアを閉めた。

「あら、石渡さん」

隣の部屋のドアが開き、吉村さんが顔を出した。

八十近い、小柄な女性だ。四階で唯一の長期入居者になる。

「昼間に来るなんて、珍しいのね」

「吉村さん、この部屋、夜に誰か出入りしていませんか」

「出入りというほどでもないけど」

吉村さんは、首をかしげた。

「お茶でもいかが。廊下で立ち話は、足に悪いわ」

断る理由もなく、私は吉村さんの部屋へ上がった。

麦茶の氷が、からんと鳴った。

壁一枚向こうが、あの角部屋だという。

「金曜の夜になると、ドライヤーの音がするの」

「ドライヤーですか」

「ええ。長い髪の人が、鍵を開けて入っていくのよ」

「後ろ姿が、あなたに似ていたから」

「管理の方だと思って、気にしなかったわ」

「私は髪、短いですよ」

入社した年の夏に、肩まであった髪を耳が出るまで切った。

「そうなの?」

吉村さんは、悪びれずに続けた。

「でもね、肩まであるころのあなたに、そっくりだったの」

「いつごろから、見ていらっしゃるんですか」

「ここへ越してきた最初の年からよ。竣工の翌月だったかしら」

「そのころの金曜は、まだ私は入社していません」

「あら。じゃあ、別の方ね」

吉村さんは、あっさり納得した。

「その人、何か持っていませんでしたか」

「タオルを首にかけていたわね。いつも同じ、水色の」

私の部屋の洗面所にも、水色のタオルが掛かっている。

入社祝いに、母が送ってくれたものだ。

私は納得できないまま、麦茶を飲み干した。

エレベーターの中で、手が冷えているのに気づいた。

会社に戻ってから、久保田さんの席の前を、二度通った。

話せば笑われる気がして、結局、何も言わなかった。

二十三時十四分の廊下

次の金曜の夜、二十二時半に現地へ着いた。

四階の廊下は、非常灯だけが点いていた。

角部屋の前に、折りたたみ椅子を置いた。

ドアのスマートロックは、青い小さなランプを灯している。

施錠の色だ。

管理画面の表示と、同じ色だと思った。

ランプは、私が見ている間じゅう、まばたきもしなかった。

非常灯の緑が、床の継ぎ目に細い線を引いている。

ドアの足元には、細い隙間があった。

そこへ、廊下の冷気がゆっくり吸い込まれていく。

吉村さんの部屋は、もう暗かった。

二十三時を過ぎると、空調の音が急に大きく感じられた。

同期からメッセージが来た。

「まだ飲んでるよ。石渡も来る?」

「今、仕事」とだけ返した。

「金曜の夜に? えらいな」

廊下の窓から、遠くの国道を走る車の音が聞こえた。

コンビニで買ったおにぎりは、結局、袋から出さなかった。

足先から、じわじわと冷えが上がってくる。

夜の十一時というのは、こんなに長い時間だっただろうか。

画面の明かりを消し、私は時計だけを見ていた。

二十三時十三分。

十四分。

ドアの内側で、モーターが一度だけ鳴った。

青いランプが、緑に変わった。

解錠の色だ。

ドアは開かない。誰も出てこない。

ただ、石けんの匂いが、ドアの隙間から廊下へ流れてきた。

温かい風だった。

内見の客が言っていた風は、これなのだと思った。

ドライヤーの乾いた匂いが、混じっていた。

鍵を開ける権限を持つのは、私だけのはずだ。

そう思っても、手は膝の上から動かなかった。

やがて、ドアの中から水を踏む音がした。

ぺた。ぺた。ぺた。

奥から玄関へ向かって、近づいてくる。

十一歩目で、音は止まった。

ドアのすぐ内側に、誰かが立っている。

私は、息を詰めた。

内側のノブが、ほんの少しだけ下がった気がした。

そこで、足音は引き返していった。

ぺた。ぺた。ぺた。

奥へ戻っていく。

しばらくして、ドライヤーが唸りを上げた。

二十七分間、私は椅子から立てなかった。

二十三時四十一分に、風が止んだ。

モーターがもう一度鳴り、ランプは青に戻った。

帰りのエレベーターで、私は自分のスマホを確かめた。

アプリの操作履歴は、その晩、一度も開かれていなかった。

それでも、鍵は私の知らない手で開いていた。

自宅に着いて、洗面所で髪を乾かした。

温風の匂いが、その晩だけはいやに近かった。

翌朝、会社で管理画面を開いた。

今度は一覧ではなく、空室の解錠ログを一行ずつ詳細表示にした。

隣の席の久保田さんが、のぞき込んで言った。

「石渡、顔色が悪いぞ。徹夜でもしたのか」

「いえ。ちょっと、金曜が長くて」

最古の記録は、私が入社する一年半前の金曜で、端末名の欄には「石渡のiPhone」とあった。

吉村さんの言った肩までの髪は、あの夏より前の私の髪だ。

角部屋は、今も空室のままだ。

先月、課長が内見を入れようとしたので、日程を金曜以外にずらした。

二十三時十四分という数字だけが、今も金曜の私に先に届く。

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