名札のクスノキが先に知る

黄昏の団地と札掛けの古木

引き継ぎメモの末尾には、前任者の字で一行だけ添えてあった。

札を数えること、とだけあった。

2025年の10月、私は市の公園緑地課で、団地の中庭に立つ一本のクスノキの伐採を引き継いだ。

築59年の団地は、来春に解体される。

中庭の木だけが、先に片づける順番になっていた。

住民はその木を「名札のクスノキ」と呼んでいた。

幹の低いところから枝の付け根まで、小さな木札が釘で打ちつけてあるからだ。

札には、名前と日付だけが書かれている。

そして日付の中には、まだ来ていない日を指すものが混じっていた。

私は30歳で、樹木医の資格を取って3年目だった。

公園緑地課の仕事は、地味だ。

剪定の見積もりを出し、倒れそうな木に印をつけ、苦情の電話に頭を下げる。

伐採の前に木の状態を調べるのも、その一部だった。

名札のクスノキの前

団地の中庭は、午後3時でもひっそりしていた。

3号棟と4号棟に挟まれた細長い空間に、クスノキが1本だけ立っている。

幹回りは3メートル近い。

葉をこすると、樟脳のつんとした匂いが指に残った。

見上げると、枝の隙間から誰かの洗濯物の青いシーツが透けていた。

私は脚立を立てて、札を一枚ずつ数えはじめた。

木札は杉の薄板で、どれも掌ほどの大きさだ。

表には墨で名前が書いてある。

ひろし、みよ、かずお。ほとんどが平仮名だった。

日付は和暦と西暦が入り混じっている。

古い札は樹皮に深く呑まれて、板の縁しか見えないものもあった。

高い位置の札ほど、板が白かった。

墨の匂いが、まだ残っているものもある。

一番上の段に、日付が「2026年1月」の札があった。

その日付は、私が脚立に立っている日から、3か月先だった。

名前の欄は、読み取れないほど細い字で、にじんでいる。

記録のために、スマートフォンで写真を撮った。

画面の中の札は、どれも白い板にしか見えず、文字がひとつも写っていなかった。

数え終えると、札は全部で113枚。

引き継ぎメモに書かれた札の数は113枚だった。

数は、ぴったり合っていた。

数え終えたところで、団地の管理人室を訪ねた。

管理人の老人は、鍵束を指で回しながら、窓口の小さな扉を開けた。

「ああ、名札のクスノキの件ね。取り壊しは来春なのに、あの木だけ先だって?」

「ええ。根が傾いて、3号棟に倒れる恐れがあるので」

「根は、元気ですよ。団地ができる前から、あそこにある木だからね」

「札のことを、聞かせてもらえますか」

老人は、鍵束を回す手を止めた。

「札はね、うちの管理じゃない。誰のものでもないんだ」

「住民の方が、掛けているわけでは」

「住民が供えるのは、お茶だけだよ」

窓口の扉は、それきり閉まった。

扉の向こうで、鍵束の音だけが、しばらく鳴っていた。

夕方、片づけをしていると、買い物袋を提げた老人が中庭に入ってきた。

老人は木の根元にしゃがみ、紙コップを置いた。

中身は、湯気の立つ緑茶だった。

手を合わせて、小さな声で言う。

「おかえり。今日も、まだだったね」

私に気づくと、老人は会釈をして去っていった。

翌朝来てみると、紙コップは空になっていた。

風で倒れた様子はなく、縁だけが少し濡れていた。

当時、妻は妊娠6か月で、夕食のあとに名前の候補をノートに書き出していた。

予定日は4月の中旬だった。

前任の先輩は、2年この団地を担当して、秋に異動になっていた。

電話をかけると、先輩は少し黙ってから言った。

「伐採のとき、札はなるべく外すな。倒すなら木ごと倒せ」

「どうしてですか」

「外したやつは、数が合わなくなる」

「先輩は、外したことがあるんですか」

「一度だけな。1枚だけ」

「それで、どうなりました」

「その月、俺の家の郵便受けに、見たことのない名前の宛名が一通届いた。札は戻した」

「名前は」

「言いたくない。俺の名前じゃなかった」

私は、了解しました、と答えた。

札の紛失の話だろうと、そのときは思っていた。

打診ハンマーの返事

その日は、幹の内部を調べる日だった。

樹木医は、打診ハンマーで幹を叩き、返ってくる音で空洞の有無を探る。

高い音なら中が詰まっていて、鈍い音なら空洞がある。

幹に掌を当てると、10月の日陰なのに、体温ほどの温かさがあった。

名札のクスノキの幹は、触れた場所だけが、わずかに脈打つように思えた。

気のせいだ、と自分に言って、地上1メートルから幹を一周しながら叩いていった。

トン、と叩く。

トン、と音が返る。

異常はなかった。

3周目に入って、おかしなことに気づいた。

私が叩いたあと、反対側から、もう1回だけ音がする。

トン。……トン。

幹の裏に回ってみたが、誰もいなかった。

風も吹いていない。

私はハンマーを持ち替えて、もう一度だけ叩いた。

トン。

……トン。

返ってくる音は、私が叩いた強さより少し弱かった。

掌で、軽く押し返されたような音だった。

そのとき、中庭の入り口から子どもの声がした。

近くの保育園の散歩だった。

先生と手をつないだ園児が、10人ほど、2列になって通りかかる。

一番後ろの男の子が、足を止めた。

3歳くらいだろう。

男の子は私の顔をじっと見て、言った。

「あ、でてきた人だ」

私が何か返す前に、先生が笑って手を引いた。

「すみません、この子、お昼寝の夢の話をするのが好きで」

男の子は何度も振り返りながら、列に戻っていった。

ハンマーを片づけていると、札が一枚、ことりと音を立てて揺れた。

風はなかった。

揺れたのは、同じ高さに並んだ3枚だけだった。

3号棟の1階の窓が開いた。

白髪の女性が、サッシに肘をついてこちらを見ている。

「あなた、札を数えていたでしょう」

「ええ。市の者です」

「何枚あった」

「113枚です」

女性は、ふうん、と鼻を鳴らした。

「去年は112枚だったのよ」

「誰かが、掛けているんですか」

「誰も掛けてない。朝に来ると、掛かってるの」

私は冗談だと思って笑った。

女性は笑わなかった。

「あなた、お名前は」

「渡会といいます」

女性は、少しだけ目を細めた。

「3号棟にも、渡会さんがいたわね。昔」

「よくある名字ですから」

「そうね。よくある」

女性はそれ以上、何も訊かなかった。

「札はね、先に掛かるの。親は、その名前を見て、子どもに付けるのよ」

「先に、ですか」

「戻ってくる子はね、生まれる前に、いったん木に預かってもらうの」

そう言って、窓は静かに閉まった。

樹皮に呑まれた釘

伐採の日は、10月最後の水曜日だった。

作業員が6人入り、中庭の周囲に規制線を張った。

先輩の言葉が引っかかって、私は班長に頼んだ。

「札は外さずに倒すのは、無理ですか」

班長は嫌な顔をした。

「釘にチェーンソーの歯が当たります。外せるところは外してください」

私は脚立に上がり、地上2メートルまでの札を外していった。

古い札ほど、低い位置にある。

一番下の2枚だけは、樹皮に呑まれて、どうしても抜けなかった。

そのまま、作業が始まった。

チェーンソーの歯が、幹に入った。

その瞬間、団地じゅうの音が止まった。

洗濯機の脱水も、遠い車の音も、チェーンソーの唸りまでも。

3秒ほどだったと思う。

それから、3号棟と4号棟の窓が、上の階から順にひとつずつ開いた。

誰も顔を出さない。

どの窓も、内側からそっと押されたように、開いただけだ。

名札のクスノキが倒れると、音が戻った。

班長が、青い顔で言った。

「いま、団地じゅうが息を吸いましたよね」

私は何も答えられなかった。

班長の手袋の指先が、小刻みに震えていた。

作業員の誰も、チェーンソーを持ち直そうとしなかった。

規制線の外に、住民が十数人、いつのまにか集まっていた。

誰も騒がない。

老人たちは、倒れた木に向かって、短く頭を下げた。

子どもを抱いた若い母親が、切り口にそっと掌を当てて、何かを囁いた。

切り口の年輪を数えてみた。

およそ200本。団地の築年より、ずっと古い。

芯に近い年輪の中に、錆びた釘の頭が一本だけ、埋まっていた。

札は掛かっていなかった。

釘は、芯の年輪と同じだけ古い錆び方をしていた。

この木がまだ若木のころから、誰かが何かを掛けようとしていたことになる。

株元に残った2枚は、ノミで樹皮を割って取り出した。

左の札には「悠真」とあった。

私の名前だ。

同じ字の人は珍しくない、と思おうとした。

日付は「昭和41年8月」。私が生まれる29年前だ。

右の札には名前がなく、日付だけが書いてある。

「1995年7月14日」。

私の誕生日だった。

どちらの釘も、同じ深さまで樹皮に呑まれていた。

1995年に打った釘が、昭和41年の釘と同じ深さになるはずがない。

裏を返した。

左の札の裏には、墨で「まだ」とあった。

右の札の裏には、「おかえり」とあった。

祖父の字だった。

年賀状の宛名と同じ、右へ流れる払いの癖をしていた。

その夜、母に電話をかけた。

「おじいちゃん、昔、あの団地に住んでた?」

「3号棟よ。昭和39年から平成5年まで。言ってなかった?」

「聞いてない。僕の名前は、おじいちゃんが付けたんだよね」

「そう。あなたが生まれた朝に、病院へ来て言ったのよ。札が掛かっていたから、悠真にするって」

「その前に、おじいちゃんに子どもは」

母は少し黙った。

「昭和41年の夏に、お兄さんがひとりいたの。3歳で先に逝ってね。悠真ちゃんといったの」

私は電話を持ったまま、机の上の二枚の札を見た。

祖父の字で「おかえり」と書かれた札は、私が生まれた日の日付をしていた。

箱の一番上の札

翌日、札を全部、事務所に持ち帰った。

先輩の言った「数が合わなくなる」が、頭から離れなかった。

同僚が帰った事務所で、蛍光灯の唸りを聞きながら、机に新聞紙を敷いた。

1枚ずつ、墨の匂いのする札を数えた。

指に、樟脳の匂いが移っていた。

札は全部で114枚あった。

メモの数より、1枚多い。

箱の一番上に載っていた札だけ、見覚えがなかった。

名前の欄は空白で、日付だけが書いてある。

来年の4月2日、と読めた。

娘が生まれたのは、予定日より二週間早い、その日の朝だった。

名前は、妻とふたりで決めた。

数え直しても、114枚だった。

空白の札は、いまも私の机の引き出しにある。

名前の欄は、まだ空いたままだ。

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