水門の祠に張られた内向きの注連縄

夕暮れの水門と小さな祠

月に一度の樋門の点検は、河川課の仕事でいちばん何も起きない日だ。

ただ、祠の内向きの注連縄だけが、いつまでも頭に引っかかっていた。

私は市役所の河川課に勤めて三年目の、技術職員だ。

この樋門を受け持って、まだ一年足らずである。

河口から少し川をさかのぼった所にある、第二樋門という施設だ。

満潮のときに海水が川へ逆流しないよう、閉じて使う古いコンクリートの門だ。

朝は駅の売店で缶コーヒーを買い、公用車で現場へ向かう。

管理室は四畳ほどで、窓の外に川が見える。

壁の時計は、いつも二分遅れている。

電池を替えても、二分だけ遅れる。

村瀬さんは、そのままにしておけと言った。

川は茶色く、流れはほとんど止まっている。

満ち潮の日は、水面が静かに押し戻されて、川上へ向かう。

逆に走る川は、何度見ても落ち着かない。

窓を開け、ゲートの油の乗りを見て、水位計の数字を台帳に写す。

そこまでで四十分ほどだ。

先輩の村瀬さんは、六十二歳の再任用職員で、この門を二十年見てきた人だった。

口数は少ないが、道具の手入れは丁寧だった。

グリスの缶は、使うたびに蓋の縁まで拭いていた。

点検の最後に、堤防の肩にある小さな祠の戸を閉めて帰る。

祠は膝より少し高いだけの石造りで、前面は古い木の格子戸になっている。

前には、いつも掃き清められた砂利がある。

雑草も、供えの花もない。

誰かが毎朝、手をかけている砂利だった。

それが誰なのかを、私は半年知らなかった。

置かれているのは、小さな盃が一つだけだ。

近所の人は「戻り潮さん」と呼んでいた。

引き継ぎの日、村瀬さんは、鍵の束を私に渡して言った。

「戸を閉めたら、そのまま帰ること」

「どうしてですか」

「決まりだから。それだけだ」

村瀬さんは笑いもせず、それ以上は何も言わなかった。

格子の奥には、古い注連縄が張ってある。

縄は戸口には掛かっておらず、奥にある丸い石を、ぐるりと輪にして囲んでいる。

外から来るものを止めるなら、普通は戸口に張るはずだ。

これでは、中にあるものを外へ出さないための縄に見えた。

そう気づいたのは、三回目の点検のときだった。

私はスマホで写真を撮り、台帳の端に「縄は内向き」と書いた。

書いてすぐ、消しゴムで消した。

理由は、自分でもよくわからない。

ただ、台帳に残してはいけない気がした。

帰りの車で、窓を少し開けた。

川沿いの道には、潮の匂いはなかった。

匂いがあったのは、祠の前だけだった。

コンビニの駐車場で、缶コーヒーを飲み切った。

それでも、手の中の鍵束は、ずっと冷たいままだった。

夏の車内に置いていた鍵なのに、氷のように冷えていた。

戸を開けると潮の匂い

戸の閂は外から掛ける造りで、掛けるのは月に一度、点検のあとだけだ。

戸を開けると、必ず潮の匂いがした。

川の水は真水で、海は二キロ先にある。

満潮の時刻を避けて行っても、匂いは同じだった。

格子の手前の盃には、いつも水が縁ぎりぎりまで張っていた。

前の晩に雨が降った日でも、溢れた跡はない。

減っていた日も、一度もなかった。

私は盃の水を指先につけて、舐めてみた。

塩の味がした。

舌に残った味は、帰りの車の中でも消えなかった。

缶コーヒーを二本飲んでも、口の中だけが海だった。

誰かが毎月、海の水を汲んで足している。

そう考えるほうが、まだ楽だった。

六月の点検は、小雨の中だった。

傘をさしても、肩が濡れる細かい雨だった。

長靴の中まで、湿りが上がってきた。

堤防の下で、釣り人が一人、川に竿を出していた。

海から上がってくるスズキを狙っているのだという。

「ここは潮が上がってくるからね。戻り潮さんのおかげだよ」

「戻り潮さん、ですか」

「潮は戻ってくるが、それ以上は上がってこない。そういうことになってる」

そういうことになっている。

その言い方が、引き継ぎの日の村瀬さんと同じだった。

祠の前に戻ると、雨音の中に別の音が混じっていた。

縄を指でなぞるような、乾いた擦れる音だった。

格子の奥には、雨が一滴も入っていなかった。

風もないのに、音はしばらく続いた。

帰り際、近所の堀内さんと顔が合った。

八十を過ぎた女性で、祠の周りをいつも掃いている。

「あんた、ここのお役所の子かい」

「はい。点検で」

「戸はちゃんと閉めたかね」

「閉めました。閂も掛けました」

「そうかい。ならいい」

堀内さんは箒を持ったまま、祠のほうを見なかった。

見ないようにしている顔つきが、妙に残った。

翌月、祠の前の砂利が、一か所だけ掃かれていなかった。

堀内さんが来ない日だった。

砂利の上に、細かい砂の筋が、扇のように広がっていた。

海の砂だった。

貝殻の粉が混じって、白く光っている。

戸のほうから外へ向かって、掃き出されたように伸びていた。

私は手袋をして、砂を袋に取り、庁舎の机に置いた。

翌朝、袋の底は乾いていたのに、中の砂だけが湿っていた。

内向きの注連縄

内向きの注連縄の意味を、私は自分で調べ始めた。

調べ物は、昼休みに少しずつ進めた。

同僚には、台帳の整理だと言ってある。

嘘ではないのが、少しだけ救いだった。

三回目の点検の日、戸の内側を懐中電灯で照らした。

格子の裏の木肌に、細い筋が刻まれていた。

縦に四本、それを斜めの一本が貫いている。

五本一組の筋が、板の隅から隅まで並んでいた。

数えるつもりはなかったが、数えてしまった。

百二十組と、あと一本。

合計は六百一本になる。

樋門の台帳には、昭和五十一年の竣工とある。

五十年と少しなら、六百か月あまりだ。

数字が、合ってしまった。

筋は傷ではなく、勘定だった。

翌日、庁舎の書庫で、古い点検簿を引き出した。

昭和の簿冊は、手書きだった。

ページの余白に、鉛筆の走り書きがある。

日付の横に、「閉めた」とだけ書かれている。

どの年のどの月にも、同じ言葉が、違う筆跡で並んでいた。

平成の初めに、半年ぶんだけ空白があった。

空白のあとの欄には、「縄を中へ」とあった。

翌週、また堀内さんに会った。

「あそこの戸の裏に、筋がありますね」

堀内さんは箒を止めた。

「工事のとき、三人、戻らなかったんだよ」

「それで祠を建てたんですか」

「建てたのは、そのあと。縄を中に入れたのは、もっとあと」

「平成の初めの半年は、何があったんですか」

堀内さんは、箒の柄を握り直した。

「川がね、昼間でも逆に走ったんだよ。あの半年だけ」

「それで縄を中へ入れた」

「あたしは知らないよ」

その夜、村瀬さんに電話をかけた。

「戸の内側に、筋がありますよね」

受話器の向こうが、しばらく静かになった。

「見たのか」

「はい。数えました」

「内向きの注連縄になったのは、筋が付き始めてからだ」

「何の筋なんですか」

「知らん。ただ、満ちたことはない」

「満ちたら、どうなるんですか」

「俺の前の人は、満ちる前に異動を願い出た。俺も、今年で辞める」

電話は、そこで切れた。

電話を切ったあと、窓の外の川を長く眺めた。

その夜の満潮は、予報より四十分、早く来た。

川は、ゆっくり逆に走っていた。

その晩、地図を広げて、祠の位置を確かめた。

樋門ができる前、そこは川と海の境にあたっていた。

潮が上がり、下がる、まさにその線の上に、祠は立っている。

誰がその場所を選んだのかは、どの資料にも書かれていない。

ただ、閉める門と、閉める戸が、同じ線の上にあることだけはわかった。

二十分後の戸板

九回目の点検の日、私は初めて決まりを破った。

戸を閉める前に、裏の筋を確かめた。

最後の一組は、二本だった。

その二本は、前の月より深く彫れているように見えた。

戸を閉め、閂を掛けて、車に戻った。

水位計の写真を撮り忘れたと気づいたのは、堤防を降りてからだ。

管理室で写真を撮り、二十分ほどして祠の前を通った。

通るだけのつもりだった。

ブレーキを踏む前から、体が祠のほうを向いていた。

閂は、掛けたままだった。

格子の隙間から、懐中電灯を差し入れた。

最後の一組が、三本になっていた。

三本目の溝の縁には、白い木くずが残っていた。

戸を閉めたあとに、増えていた。

「戸を閉めたら、そのまま帰ること」

あの言葉の意味を、私はそこで初めて考えた。

風はなかった。

内向きの注連縄の奥で、縄が一度だけ、きし、と鳴った。

私は懐中電灯を消して、そのまま帰った。

翌月、台風が近づいた夜、私は管理室にいた。

満潮に合わせてゲートを降ろす、手順書どおりの夜だった。

モニターには、堤防の監視カメラの映像が出ている。

祠は画面の隅に、小さく映っていた。

映像は、二秒ごとに更新される。

二秒ごとの静止画の中で、祠は毎回、同じ場所に建っていた。

それが、かえって落ち着かなかった。

窓を叩く雨が、一定の間隔になっていた。

数えかけて、やめた。

ゲートが閉まりきると、水位計の針が一目盛り戻った。

そのとき、祠の戸の影が、画面の中でわずかに動いた。

風のせいだと思った。

風は、戸の向きとは逆から吹いていた。

閉鎖作業に追われて、点検は一週間遅れた。

十日ほど経って訪ねると、閂は掛かったままだった。

戸は誰も開けていない。

それなのに、外側の戸板に新しい筋が一本あった。

内側のものと、同じ高さだった。

その月の台帳に、私は何も書かなかった。

堀内さんは今も祠の周りを掃いている。

私のほうへは、顔を向けない。

村瀬さんは、春に辞めた。

村瀬さんの最後の出勤日には、課で小さな送別会があった。

唐揚げをつまみながら、課長が樋門の話を始めた。

「あそこの祠、毎月、誰が閉めてたんだっけ」

「担当です」と、私と村瀬さんが同時に言った。

課長は笑って、それきり話題を変えた。

村瀬さんは、一度も私の目を見なかった。

駐車場で、村瀬さんはもう一度、鍵束を私の手に押しつけた。

二度目の引き継ぎのようだった。

「閂は、お前が掛けろ。人に頼むな」

「頼める人、いませんよ」

「そうだな」

それが、私が聞いた最後の言葉になった。

来月から、課に新人が来る。

点検の同行を、私が頼まれている。

昨夜、夢の中で数を数えていた。

五本ずつ、指を折って。

目が覚めると、右手の指が、四本だけ折れていた。

「どうしてですか」と聞かれたら、私は何と答えるだろう。

戸を閉めたら、そのまま帰る。

それだけを守っている。

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