桐箱の髪が増える月曜

夜の木版画理髪店

月の最後の月曜だけは、店を早く閉める。

十八時には暖簾を下ろして、シャッターを半分だけ引く。

常連には「月末は定休日みたいなものです」と言ってある。

本当の理由は、桐箱の髪にある。

それを、誰にも話していない。

バーバー千歳は、東京の西のはずれにある小さな理容室だ。

私鉄の駅から続く商店街の、いちばん奥。

椅子は三脚。

祖父が昭和三十二年に開き、父が継ぎ、去年の春から私が立っている。

私は三十五歳まで、システム会社で働いていた。

父が腰を悪くして、店を畳む話が出た。

畳むと言われた途端、急に惜しくなった。

それだけの理由で、通信課程に通って免許を取った。

朝は九時に開ける。

熱いタオルの匂いと、シェービングクリームの甘い匂いが、最初の客を待っている。

常連の七割は、六十代以上だ。

「今日は短めで」

「どのくらいですか」

「いつものだよ。あんたの親父さんは、聞かなくても分かった」

私は笑って、鋏を握り直す。

会社員のころ、そうやって笑う癖がついた。

話すときは、語尾を少し落とす癖もある。

父にも客にも、よく真似をされる。

店には、一つだけ妙な決まりがある。

客の髪は、その日のうちに掃いて捨てない。

一人分ずつ白い紙に包み、奥の棚に置いた桐箱へ納める。

月末の月曜の夜までは、誰も触れない。

引き継ぎの日、父はそう言って私に鍵を渡した。

「理由は聞くな。聞かれても、うまく答えられない」

「月の最後の月曜の夜は、店に残るな。蓋は閉めたまま帰れ」

私は笑った。

理容室の験担ぎだろうと思った。

三脚ある椅子のうち、三番目だけは、祖父の代から客を座らせない決まりだった。

三番目の椅子の背の革だけが、他の二脚より擦れていた。

座らない椅子が擦れる理由を、私は考えなかった。

去年の四月二十八日が、最初の月末の月曜だった。

私は言われた通りに十八時で店を閉め、蓋を確かめて帰った。

翌朝、蓋は閉まったままだった。

開けると、紙包みはすべて口が開いていた。

髪が、紙の上に一方向へ揃えて並んでいる。

毛先も、根元も、そろっていた。

父が来て整理したのだろう、と思った。

その晩、父は腰の検査入院で、病院にいた。

三番目の椅子

五月二十六日、私は言いつけを破らなかった。

店は出た。

ただ、スマートフォンの録音を回して、棚の下に置いてきた。

翌朝六時に戻って、再生した。

十時間分の録音は、ほとんど何も入っていなかった。

冷蔵庫の唸りと、通りを走る新聞配達のバイク。

午前二時十一分に、音が変わった。

革の軋む音がした。

三番目の椅子に、誰かが体重を預けた音だった。

そのあと、櫛の音が始まった。

目の細かい櫛が、長い髪をゆっくり渡っていく。

一往復ごとに、間が空く。

その間は、いつも同じ長さだった。

櫛の音は、午前五時少し前まで、一度も乱れなかった。

私はイヤホンを外した。

外したあとも、耳の奥で櫛が往復していた。

その日の午前中、私は客の襟足を、三度も切りすぎた。

「店長、今日は調子悪いね」

「すみません。寝不足で」

「若いうちは、寝られるだけ寝ときな」

客はそう言って、財布を出した。

桐箱を開けた。

紙包みは、またすべて開いていた。

髪は、また揃えて並んでいた。

一つ、おかしいことがあった。

その日の客は十七人だった。

箱の中には、四十人分ほどの髪があった。

指でほぐすと、白髪、黒髪、細い猫毛、太い剛毛。

見覚えのない長い黒髪が、束で混じっていた。

うちの客に、そんな長さの人はいない。

翌週、薬局の主人に聞いてみた。

「この辺に、髪の長い方はいらっしゃいますか」

「髪の長い? 商店街にはいないねえ」

主人は首を傾げた。

「昔はいたかもしれんが、うちは知らん」

「昔、ですか」

「あんたの爺さんの店に、女の人が通ってた話は聞かんな」

そう言って、主人は雑誌をめくった。

キッチンスケールを買って、月ごとに量った。

四月は、二百六十グラム。

五月は、三百九十。

六月は、五百を超えた。

客の数は、ほとんど変わらない。

増えているのは、いつも長い黒髪の分だった。

六月の頭、梶さんが来た。

八十を過ぎた常連で、毎月一日に必ず来る。

開店のころからの客だと、父に聞いていた。

梶さんは二番目の椅子に座り、鏡の中の私を見て言った。

「兄ちゃん、今月も箱は仕舞ったか」

「はい。父の言いつけどおりに」

「で、聞いたか」

私は鋏を持つ手を止めた。

「何をですか」

「櫛の音だ」

鏡の梶さんは、笑っていなかった。

「聞いたなら、動かんことだ。音が止むまでな」

「梶さん、あれは何の音なんですか」

「わしに聞くな。わしは梳いてもらう側だ」

「梳いてもらう?」

「ひと月分の髪を、あの箱に預けとる。昭和三十二年からな」

私は笑いそうになって、笑えなかった。

昭和三十二年は、店が開いた年だ。

梶さんは顎で壁をしゃくった。

開店祝いの集合写真が、額に入って掛かっている。

祖父と近所の人たちが、三つの椅子の前に並んでいた。

三番目の椅子にだけ、人が座っていた。

後ろ姿だった。

鏡に映るはずの顔は、フラッシュの白い光で飛んでいる。

「あれは誰ですか」

「さあな。わしが見たときから、あそこに座っとった」

梶さんは目を閉じて、頭を背もたれに預けた。

「軽い月だけは気をつけろ。足りんと、櫛は別の頭を探す」

「別の頭、ですか」

「早く切ってくれ。話が長くなった」

桐箱の髪が軽い朝

八月は、客が少なかった。

盆の前後は、商店街ごと静かになる。

二十五日の月曜までに来た客は、六人。

桐箱の髪は、二百グラムを切っていた。

軽い箱を、私は掌に載せた。

櫛は毎月、あれだけの髪を梳く。

足りなかったら、別の頭を探す。

梶さんの言葉が、頭から離れなかった。

その週、私は客の髪を、いつもより雑に包んだ。

包むほど、箱の中身の少なさが気になった。

閉店後の店で、ウィッグの黒い髪を眺めているうちに、手が動いた。

私は、通信課程で使った練習用のウィッグを持っていた。

人毛百パーセントの、マネキン用だ。

黒い髪が、肩の下まで伸びている。

その毛先を鋏で切り、紙に包んだ。

包みは、二十を超えた。

桐箱は、ちょうどいい重さになった。

これでいい、と思った。

理由は聞くな、と父は言った。

聞かなければ、足りない分を足しても、誰にも咎められない。

そう考えて、私は店を出た。

その晩の録音にも、午前二時十一分の軋みがあった。

櫛の音も、いつも通りに始まった。

十二分で、止まった。

止まった、というより、引っかかったように聞こえた。

櫛の歯が何かに当たって、動かなくなった音だった。

そのあと、長い間、何も入っていなかった。

朝、桐箱を開けた。

本物の客の分は、揃えて並べてあった。

ウィッグの毛を入れた紙だけが、閉じたまま残っていた。

手を付けられていない。

本物の客の包みは、どれも毛先まで揃っているのに。

作り物の毛だけが、そこで拒まれたように見えた。

私は、うまくいったとは思わなかった。

九月二日の朝、洗面所の鏡の前で気づいた。

私の髪が、整っていた。

寝癖がない。

分け目を作ったことのない頭に、左から右へ、一本の線ができている。

指で触ると、頭皮に細い筋が付いていた。

目の細かい櫛を、強く当てたときの筋だ。

濡らして直した。

乾くと、また同じ線に戻った。

その晩、父に電話をした。

「親父。桐箱のことで聞きたい」

「何かしたな」

父の声は、いつもより低かった。

「箱の中身が足りなくて。練習用のウィッグの毛を、混ぜた」

受話器の向こうが、長く黙った。

「混ぜ物は、通らん」

「通らない?」

「持ち主のおらん毛は、櫛が通らん。通らんと、櫛は持ち主を探す」

「持ち主って、誰が」

「それは、親父に聞かなかった」

父は小さく咳をした。

「いいか。次の月末は、店に残れ。一番目の椅子に座れ」

「座って、どうするの」

「音が止むまで、動くな。振り向くな」

電話は、そこで切れた。

かけ直したが、父は出なかった。

櫛の音が止むまで

九月二十九日、月曜。

十八時に暖簾を下ろし、シャッターを半分引いた。

桐箱から、ウィッグの包みを全部抜いた。

客の分だけの桐箱は、軽かった。

軽い理由を、私は知っていた。

一番目の椅子に座って、鏡と向き合った。

鏡には、背後の棚と、三番目の椅子が映っていた。

椅子は革張りで、座面に小さなひびが入っている。

祖父が開店の年に買った、国産の古い椅子だ。

手入れは欠かしていない。

三番目だけが、手入れの跡より、使われた跡のほうが目立った。

スマートフォンは、いつものように棚の下で録音していた。

蛍光灯を消し、鏡の前の小さな電球だけを残した。

零時が過ぎた。

店の外を、終電の客の足音が通っていった。

ひとり、ふたりと遠ざかって、商店街は静かになった。

私は膝の上で手を握っていた。

掌が湿っていた。

一時を過ぎて、商店街の自動販売機が、一度だけ唸った。

午前二時十一分だった。

鏡の中で、三番目の椅子が、ゆっくり沈んだ。

誰も座っていない。

革の座面だけが、人の重さを受けたように凹んだ。

革の軋む音がした。

私は、動かなかった。

櫛の歯が、私の頭に入った。

冷たくも、熱くもなかった。

痛みはなく、髪が一本ずつ起こされていく感触だけがあった。

ゆっくり、同じ間隔で、後ろから前へ。

鏡の中の私は、まっすぐ前を見ていた。

首筋のすぐ後ろで、息のような音がした。

それは、私の呼吸と、同じ間隔だった。

私は、父に言われた通りにした。

動かなかった。

振り向かなかった。

櫛は、午前四時五十分に止まった。

止まってから三十分、私は座っていた。

外が明るくなって、ようやく立ち上がった。

三番目の椅子を見た。

背の革の擦れが、いつもより深くなっていた。

私は、その擦れの高さを、初めて測った。

三番目の椅子の背の擦れは、私の肩甲骨の高さにあった。

棚の下から、スマートフォンを取った。

再生すると、櫛の音の最後に、短い声が入っていた。

「今月分、確かに預かりました」

その声は、語尾を少し落とした、私の声だった。

その月の桐箱の髪は、五百グラムを超えていた。

梶さんは、十月の一日に来た。

鏡の中の私を見て、小さく頷いた。

「今月は、通ったか」

「通りました」

「そうか。なら、いい」

梶さんは、それだけ言って目を閉じた。

鏡の中の梶さんの髪は、先月より少しだけ整って見えた。

月の最後の月曜だけは、店を早く閉める。

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