異世界に続いた閉架書庫

図書館の静かな夜

これは、私が大学院の修士一年だった年の、九月の終わり頃の話になる。

当時、私は県立図書館で司書補のアルバイトをしていた。

司書資格を取るための実習を兼ねていて、貸出窓口の手伝いと、書庫の整理が主な仕事だった。

その図書館は古い建物で、本館の二階より下に、利用者は入れない閉架書庫が三層続いている。

最下層が地下二階で、戦前の郷土資料や、長く誰も借りていない学術書がそこに収められていた。

書庫の中は、年中ほぼ一定の温度と湿度に保たれている。

夏でも肌寒く、冬でも乾きすぎず、ずっと薄い紙の匂いと糊の匂いが漂っていた。

その日は午後から雨で、利用者も少なく、私は地下二階で書誌情報の差し替え作業をしていた。

古い装丁の本を一冊ずつ取り出し、扉裏の貸出カードのポケットに新しい識別票を貼り直していく、地味な作業だった。

地下二階は、書架が南北に十二列、東西に二十四連並んでいた。

各書架の側面には小さな手回しのハンドルが付いていて、それを回すと書架同士が動く、いわゆる集密書架だった。

使わないときは書架同士がぴたりとくっついていて、必要な列だけハンドルを回して通路を作る。

その仕組みのせいで、書庫の中は普段、人が通る通路は一つしかない。

私が作業していたのは、北側から数えて七番目の列だった。

正午過ぎから入って、三時のチャイムを聞いた覚えがあるので、もう二時間以上は同じ列の前に座り込んでいたと思う。

書庫には小さな天窓が一つだけあって、雨の日はそこから灰色の光が落ちてくる。

その日の光も、最初は普通の雨天の灰色だった。

蛍光灯の白い光と混ざって、紙の背表紙がうっすら緑がかって見える、いつもの光景だった。

三時半を少し回った頃だったと思う。

差し替えの作業をしていた手元で、ふっと、識別票を貼る糊の臭いが消えた。

その瞬間まで確かにあった、刺激の少ない酢酸のような匂いが、急にどこかへ吸い込まれていった。

『湿度が変わったのかな』と最初は思った。

書庫の空調は時々短く止まることがあって、そういうときに匂いの感じ方が変わることがあった。

顔を上げて、天井近くにある空調の吹き出し口を見たが、フィルターの隙間に貼ってある紙片は、いつも通り風で揺れていた。

機械は動いている。

ただ、空気の方が止まっているような、そんな感じだった。

もう一冊、装丁の傷んだ郷土史を抜き出して、識別票を貼り終えたところで、私は手を止めた。

書庫の中の音が、何もない。

空調の低い唸りも、廊下に通じる扉の向こうから時々聞こえてくる利用者の足音も、上階のフロアの軋みも、全部消えていた。

耳が詰まったような感じはなく、ただ世界の側から音が引いていったような、不思議な感じだった。

少し気味が悪くなったので、台車のハンドルに片手をかけて、ゆっくり立ち上がった。

立ち上がった拍子に、台車のキャスターが床のリノリウムを擦って、キュ、と短く鳴った。

その音は普通に聞こえた。

自分が動かしている音だけは、ちゃんと届いてくる。

その対比が、かえって周囲の静けさを濃く感じさせた。

七番目の列から、ハンドルを回して書架の隙間を抜け、中央通路に出た。

通路の突き当たりに、地下二階から地下一階へ上がる狭い階段があって、その手前に職員用の電話が壁掛けで設置されている。

普段なら、その階段の上から、地下一階の作業灯の光が漏れてくるはずだった。

その日は、漏れていなかった。

階段の上は、ただ黒く、書庫の蛍光灯の光がそこで途切れていた。

『電気を落とされたのかな』とも考えたが、もしそうなら、私の書庫の蛍光灯にも何か連絡が入るはずだった。

少なくとも、書庫に人を残したまま地下一階の照明を全部落とすことは、職員のマニュアル上ありえない。

壁掛けの電話を取り上げて、内線で貸出窓口を呼んでみた。

呼び出し音は鳴った。

三回、四回、五回と鳴っても、誰も出ない。

貸出窓口には、その日たまたま私と同じ司書補の先輩が一人座っているはずだった。

三時半過ぎなら、一番利用者が増えてくる時間で、席を外すような時間帯ではない。

受話器を耳に当てたまま、私は天窓の方を見上げた。

そこで初めて、光のおかしさに気がついた。

雨の日の灰色の光ではなく、もう少し青みの強い、夜の入り口のような色になっていた。

三時半過ぎ、九月の終わり、雨。

その三つの条件で出るはずのない色だった。

あの色は、十一月の終わりに、夕方の早い時間にだけ短く見える、そういう種類の青に似ていた。

受話器を戻して、私は階段を上がってみることにした。

階段の途中で、壁を手で触りながら、一段ずつ確かめるように上った。

壁の塗装も、手すりの冷たさも、いつも通りだった。

地下一階に上がると、私は通路の真ん中で立ち止まった。

地下一階は、地下二階よりも書架の数が少なく、代わりに事務机が三つほど並んだ作業スペースがある。

普段、その机のうちのどれかに、必ず職員が座って何かしている。

誰もいなかった。

三つの机の上には、それぞれ作業中の本や付箋や、書きかけの伝票が広げられたままだった。

湯呑みも置いてあって、覗き込むと薄い茶色の液体がまだ底に残っていた。

椅子は引き出されたまま、人が立ち上がって少し経ったような、そのままの形で止まっていた。

『一斉避難でもあったのかな』と一瞬考えたが、避難なら警報が鳴るはずだし、私のいる地下二階まで誰かが声を掛けに来るはずだった。

誰も来なかった。

事務スペースの蛍光灯はついていた。

ただ、その白さがどこか弱く、机の上の付箋のオレンジがやけに薄く見えた。

地下一階から、地上の本館へつながる階段の手前に、職員用の出入り口がある。

そこの扉を開けて、廊下に出てみた。

廊下の窓は、本館の中庭に面している。

中庭は、灰色のタイル敷きで、真ん中に一本だけ低い木が植わっていた。

その木は知っていた。

葉の色も、枝の形も、毎日見ていたから覚えていた。

窓の外の中庭は、その木がなかった。

木が枯れていたとか、抜かれていたという話ではなかった。

木があったはずの場所が、ただ平らなタイルになっていて、根元に置いてあった金属の柵もなくなっていた。

中庭そのものの形は変わっていなかった。

ただ、そこにあるはずのものが一つだけ抜け落ちていた。

その代わりのように、中庭の隅に、見覚えのない金属の物置が一つ立っていた。

物置のドアは少し開いていて、中は真っ暗だった。

そこから物音は何も聞こえなかった。

急に、足の力が抜けるような感覚があった。

建物の壁に手を当てて、しばらく動けなかった。

怖いという気持ちよりも、自分が今いる場所と、いつもの図書館との繋がりが、ふっと弱くなっているような気持ちだった。

そのまま中庭の方の廊下を歩いて、貸出窓口まで戻ってみることにした。

本館の貸出ロビーは、いつも開館中は一定のざわめきがある。

新聞コーナーで紙をめくる音、児童室から漏れてくる小さな笑い声、自動貸出機の電子音、誰かの咳。

そのすべてが、何もなかった。

ロビーには、利用者の姿が一人もいなかった。

椅子だけが、誰かが座っていたままの角度で並んでいた。

新聞は一面が上を向いて広げられたまま、台の上に乗っていた。

自動貸出機の画面は、待機中の青い表示のままだった。

カウンターの内側にも、人は誰もいなかった。

カウンターの上に、先輩が使っていた赤いボールペンが、芯を出したまま転がっていた。

カウンターを回り込んで、職員の作業エリアに入った。

事務室の扉が少しだけ開いていて、その隙間から人の気配だけがした。

誰かいるのか、と一瞬希望のような気持ちになった。

扉を開けて中を覗くと、奥の窓際に、紺色の事務服を着た年配の女性が背中を向けて立っていた。

胸の高さに何かを抱えて、何かを書いているような動きだった。

その人は、私の知らない人だった。

私が司書補として通っていた半年の間、職員の名前と顔は全員覚えていた。

その女性は、その誰でもなかった。

「すみません」

と声を掛けると、その人はゆっくり振り返った。

白髪を後ろで一つに束ねていて、銀縁の眼鏡を掛けていた。

表情は穏やかで、少しだけ目を見開いて、私の顔を見た。

そして、なぜか少しだけ困ったような顔をした。

「あなた、何階から来たの」

と、低い声で訊かれた。

「地下の二階です。書庫で作業をしていました」

と答えると、その人は短く、ああ、と頷いた。

そして、抱えていた古い帳面のようなものを机に置いて、私の方へ二歩、近づいてきた。

「ちょっと、そこに座っててもらえる」

と、その人は壁際の長椅子を指した。

「すぐに済むようにするから、動かないでね」

言われるまま、私は長椅子に腰を下ろした。

長椅子の革張りは、いつもの事務室にあったものより、もう少し色が濃く、もう少し古い感じだった。

その人は事務室の壁に掛かった黒い電話の受話器を取り上げて、ダイヤルを回し始めた。

プッシュ式ではなかった。

指を入れて回す、円盤式のダイヤルだった。

私が司書補を始めてから、その電話を使っているところを見たことは一度もなかった。

むしろ、その電話が現役で使えるとは思っていなかった。

その人は受話器に向かって、低い声で短く話した。

「迷い込みです、地下二階から。今年、四人目」

「司書補の腕章、付けているので、すぐ戻してあげてください」

「はい、はい。お願いします」

会話の中身はそれだけだった。

その人は受話器を置いて、少し笑って、私の方を見た。

「驚かせてごめんね」

「あの中庭の木、まだあった頃に見ていた人なのね、あなた」

と言った。

意味がよく分からなかったので、何も答えられずにいた。

その人は、長椅子の隣に腰を下ろして、私の左腕の腕章にそっと指を当てた。

腕章は、司書補の証として実習中だけ付ける黄色の細い布だった。

その人は、その布の端を二度、軽くつまむような動きをした。

「もうすぐ戻れるから、少しだけ目を閉じてて」

と言われた。

目を閉じると、頭の奥の方で、紙のページをまとめて指で弾くような、低い音がした。

その音と一緒に、頬のあたりで何かが小さく弾けた感じがあった。

気がつくと、私は地下二階の七番目の列の前で、識別票を貼っている途中の郷土史を膝に乗せて座っていた。

糊の臭いは戻っていた。

空調の低い唸りもあった。

天窓からは、いつもの灰色の雨の光が落ちていた。

時計を見ると、三時三十二分だった。

三時半過ぎに少しおかしいと感じてから、内線をかけ、地下一階に上がり、廊下から中庭を見て、貸出ロビーまで歩いて、事務室の女性と話して、目を閉じるまで、私の体感では二十分近くあった。

その間、時計の針は二分しか動いていなかった。

その日の終業後、いつものように先輩と一緒に貸出ロビーで戸締まりの確認をした。

カウンターを回り込んで事務室を覗いたとき、私はそっと壁を確認した。

黒い電話は、なかった。

そこには、白いプッシュ式の内線電話が一つ掛かっているだけだった。

事務室の長椅子も、革張りの黒ではなく、布張りの灰色のものだった。

記憶のずれかもしれないと思って、念のため副館長に「昔、ここに黒い電話があったか」と訊いてみた。

副館長は少し考えてから、「あなたが入る何年も前の話だけど、確かに事務室の壁には円盤式の黒い電話があったね」と言った。

「もう十五年以上は前の話だけど、それがどうかしたの」

と訊かれたので、私は「いえ、何となく気になったので」とだけ答えた。

その後しばらく、私は閉架書庫の最下層に一人で入るのが少しだけ怖かった。

怖さの種類が、幽霊のような怖さではなく、自分のいる場所がもう一度ずれてしまうかもしれない、という種類の怖さだった。

司書補の実習が終わるまでの間、もう一度同じことが起きるのではないかと身構えていたが、結局そういうことは起きなかった。

ただ、後から思い返すたびに、一つだけ気になっていることがある。

事務室で会ったあの紺色の事務服の女性は、私が地下二階から来たと告げた瞬間、ほんの一瞬、ああまた、というような顔をしたのだった。

電話で「今年、四人目」と告げたとき、その人の声には驚きが少しもなかった。

その口調は、年に何度か起きる事務手続きを、淡々と片付けている人の口調だった。

あの方は、もう何十年もこの書庫を見ている人なのかもしれません。

今もときどき、私はその図書館の前を通る。

本館の二階の窓を見上げて、中庭の方に視線を移すと、低い木は今もそこに立っている。

ただ、雨の日にあの天窓の青を思い出すと、まだ少しだけ、足元の床が遠くなる感じがする。

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