存在しない住所に親子丼を届けた

雨夜の配達人と灯籠の町

去年の十一月の話です。

僕はその夜、存在しない住所へ、親子丼を届けました。

当時の僕は二十四歳で、フードデリバリーの配達員をしていました。

夜の八時から日付が変わるまで、自転車で街を走る。

それが毎日の仕事でした。

昼間は専門学校の課題をして、夜に稼ぐ。

学費と家賃を払うには、それが一番早い方法でした。

スマホのアプリが、注文を知らせます。

店に寄って、袋を受け取る。

地図の指示どおりに走り、玄関の前に置く。

「配達完了」のボタンを押す。

一晩に十件ほど、同じことを繰り返します。

注文を受けるかどうかは、数秒で決めなければなりません。

画面には、店名と距離と報酬が出ます。

受取人の欄は、読まずに受諾するのが癖になっていました。

名前を見たところで、顔のない相手に届けるだけだからです。

その夜の最初の注文は、駅前の親子丼の店でした。

半年前から、ほとんど毎晩のように通っている店です。

注文のたびに、店主は袋の口を二回折ります。

それを見るのが、少しだけ好きでした。

雨上がりで、道路が黒く光っていました。

店の人が渡してくれた紙袋は、持ち手が片方ほつれていました。

「落とさないでね。まだ熱いから」

店主はそう言って、袋の口を二回折りました。

「いつもありがとう」

「いえ、行ってきます」

そんな言葉を交わして、僕は店を出ました。

存在しない住所の注文

届け先は、北浜町三丁目十一番地でした。

「青柳荘 一階奥」と書いてあります。

アプリの地図を開くと、ピンは川の真ん中に刺さっていました。

三年この街を走っていますが、北浜町という町名は初めて見ました。

僕は歩道の端で自転車を停め、住所を検索しました。

結果は、ゼロ件。

別の地図アプリでも、同じでした。

存在しない住所だ、と思いました。

けれど、受諾の画面に戻ると、制限時間の円はもう三分の一ほど欠けています。

期限を過ぎれば、評価が下がります。

熱いと言われた袋を、持ち帰るわけにもいきません。

僕はサポートのチャットに打ち込みました。

『届け先の住所が、地図上に存在しません』

返信は、すぐに来ました。

『届け先の住所は、正常に登録されています。そのまま配達を完了してください』

『ピンは川の中なんですが』

『そのまま配達を完了してください』

同じ文面が、もう一度届きました。

定型文だろう、と僕は思いました。

そう思わないと、先へ進めなかったのです。

ピンの方向へ、自転車を出しました。

川沿いの道で、ジョギング中の男性とすれ違いました。

思わず、声をかけました。

「すみません、北浜町って、この先ですか」

男性は走る足を止めずに、振り返りました。

「ほくはま? この先は川ですよ」

「ですよね」

「橋は二つあるけど、どっちも渡ったら戻ってきますから」

意味を聞き返す前に、男性の姿は暗がりに溶けていました。

街灯が少なくて、暗い道でした。

橋をひとつ渡り、ふたつめの橋にさしかかったときです。

チェーンが、ガチャ、と一度だけ鳴りました。

その瞬間、アプリの青い現在地の点が、すっと滑りました。

僕は、まだ橋の上にいたのに。

地図が、描き直されました。

川の中にあったはずのピンが、岸の上に立っています。

その横に、「北浜町」と町名が出ていました。

欄干には、反射材のシールが何枚も貼られていました。

僕のバッグに付いているものと、同じ種類です。

剥がれかけたものもあれば、新しいものもありました。

顔を上げると、橋の向こうに、低い屋根の並ぶ町が見えました。

灯りは、点いている。

でも、音がしない。

いつもなら夜の街には、遠い車の走る音や、室外機の唸りがあります。

それが、きれいに抜け落ちていました。

試しに、自転車のベルを鳴らしてみました。

チリン。

自分の音が、わずかに遅れて、もう一度返ってきました。

チリン。

反響とは違う、と思いました。

今鳴らしたよりも、少し低い音だったからです。

玄関に並ぶ紙袋

町に入りました。

道は乾いていました。

雨上がりのはずなのに、水たまりがひとつもありません。

道は細く、家はどれも同じ高さの二階建てで、玄関灯が白く点いています。

青柳荘は、すぐに見つかりました。

古い木造の長屋のような建物でした。

一階の奥の戸の前に、置き配用の折りたたみボックスが置いてあります。

戸の脇の郵便受けには、名札の差し込み口がありました。

中は空で、紙の端だけが、白く残っています。

誰かがつい最近まで、そこにいたような跡でした。

そこまでは、いつもの配達と変わりません。

壁際には、保温バッグが三つ、もたれかかっていました。

僕が背負っているのと、同じ型です。

どれも口が開いていて、中は空でした。

一つのストラップを、持ち上げてみました。

縫い目が、僕のものと同じ場所でほどけていました。

気になったのは、隣の家の玄関でした。

紙袋が、三つ並べて置いてあったのです。

どれも、僕が持っているのと同じ、店の紙袋でした。

一つ目の袋に、手を伸ばしました。

冷たい。

レシートが、袋の口にホチキスで留めてありました。

日付は、二年前の三月です。

二つ目は、五年前の十月でした。

三つ目の日付は、読めませんでした。

インクが滲んで、紙の繊維に溶けていたのです。

どの家の前にも、袋はありました。

一軒に二つ三つ。

玄関の段まで積み上がっている家もありました。

それなのに、誰も持ち込もうとしない。

戸の向こうからは、テレビの音ひとつ聞こえません。

人の気配は、確かにあるのに。

空気には、出汁の匂いが混じっていました。

どの家からも、同じ匂いがします。

僕の袋から立つ湯気と、同じ匂いでした。

町の外れに、公園の時計塔が見えました。

針は、二十時五十分を指しています。

店を出たのが、二十時五十分でした。

走ってきた時間を思えば、そんなはずはありません。

スマホの時計を見ると、こちらも二十時五十分のままでした。

画面の数字は、動いていませんでした。

僕は自分の袋の持ち手を握り直しました。

ほつれた糸が、指に絡みます。

袋の底から、熱が掌に伝わってきました。

その熱だけが、この町で唯一、僕のものに思えました。

「早く置いて、帰ろう」

声に出してみると、自分の声が妙に近く聞こえました。

青柳荘の戸を叩く気にはなれませんでした。

ボックスの蓋を開け、親子丼を入れます。

そこで、手が止まりました。

蓋の裏に、紙が貼ってあったのです。

鉛筆の、細い字でした。

『ここに入れる人は、ここで受け取る人』

意味が、わかりませんでした。

戸の隙間の声

その紙を読み返していると、隣の戸が、指一本ぶんだけ開きました。

隙間から、白い髪の頭がのぞいています。

老女、のようでした。

顔は、暗くて見えません。

声だけが、しました。

「あんた、今月は十四人目だよ」

「十四人目、ですか」

「みんな、温かいうちに持ってくる。感心だねえ」

「僕は、注文を届けに来ただけです」

「そうだよ。みんな、そう言う」

老女は、喉の奥で笑ったようでした。

「ここはね、受け取る人がいなくなった注文が、着く町なんだよ」

「着く、というのは」

「届け先を失くした注文はね、いつか必ずここへ来る」

「じゃあ、この袋は」

「あんたの前の子も、その前の子も、きれいに置いて帰ったよ」

「帰れるんですよね」

老女は、少し間を置きました。

「帰れるよ。ただね、届けた分は、数に入る」

「何の数ですか」

返事は、ありませんでした。

戸が、音もなく閉まりました。

僕は、ボックスの蓋を閉めました。

閉める直前、親子丼の湯気が、まだ立っているのが見えました。

二年前の袋はあれほど冷たかったのに、僕の袋だけが熱い。

その差から、目をそらしました。

存在しない住所に置かれた袋が、どうやって誰かの手に渡るのか。

考える余裕は、ありませんでした。

自転車に戻る前に、もう一度だけ町を見回しました。

どの玄関灯も、同じ高さで、同じ白さで、点いていました。

まるで、僕が来るのを待っていたかのようでした。

ほつれた持ち手

気づくと、僕は橋の上に立っていました。

ベルを鳴らします。

チリン、と一度鳴って、音は返ってきませんでした。

遠くを走るバイクの音がしました。

室外機の唸りも戻っていました。

スマホの画面には、二十時五十一分と出ています。

店を出てから、一分しか経っていませんでした。

アプリには、「配達完了」の文字が出ていました。

僕は完了のボタンを押していません。

履歴を開きます。

北浜町三丁目十一番地。

その下に、小さく受取人の欄がありました。

いつも読まない欄です。

そこに、僕の名前が表示されていました。

水谷 蓮 様。

履歴を、上へたどってみました。

北浜町の行は、その一件だけでした。

ただ、画面の一番下に、日付のない行が一本、薄く続いていました。

僕は、その夜の残りの配達を、すべて断りました。

アパートに帰り、電気を点けたまま、何も食べずに横になりました。

眠る前に、アプリを消そうとしました。

アイコンを長押ししても、削除の表示が出ません。

再起動しても、同じでした。

画面の隅で、時刻だけが、二十時五十分で止まっているように見えました。

翌朝、駅前の親子丼の店へ行きました。

「昨日の夜、八時五十分ごろ、袋を渡しましたよね」

「ああ、あの受け渡しね。毎晩、ちょうどその時間に注文が入るんだよ」

「毎晩、ですか」

「あんたが取りに来たのは、昨日が初めてだったけどね」

「受取人は、いつも同じなんです」

店主は鍋を見たまま、少し黙りました。

「同じ住所の注文はね、ずっと前から、うちのレジに入るんだ」

「誰が頼んでいるんですか」

「さあ。名前は、読まないことにしてるよ」

その夜、僕は一件も注文を受けず、部屋にいました。

二十時五十分に、玄関のチャイムが鳴りました。

僕は、何も頼んでいません。

のぞき穴から見た廊下には、誰もいませんでした。

ドアを開けると、足元に紙袋がありました。

玄関の前に置かれていた紙袋の持ち手は、片方だけ、ほつれていました。

袋の口は、二回折ってありました。

中身は、まだ熱い親子丼でした。

それ以来、スマホの通知が鳴るたびに、僕は画面を見ます。

受取人の欄を、僕はもう、読まずに受諾することができません。

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