壁の厚みだけが毎回違う

夕暮れの和室と赤い光線

同じ壁は二度測るな。

先輩の水野さんにそう言われたのは、入社二年目の春だった。

私はリフォーム会社で、現場調査をしている。

部屋に入って図面と寸法を突き合わせ、壁の厚みや梁の位置を調べる仕事だ。

水野さんは、コンビニのおにぎりを食べながら続けた。

「最初の数字が一番正しい。二回目からは、部屋のほうが合わせてくる」

冗談だと思った。

レーザー距離計の赤い点を壁に当てれば、数字は何度でも同じに出る。

そういう道具だ。

だから私は、その言葉を職人の験担ぎのようなものだと受け取って、そのまま忘れていた。

去年の10月のことだ。

築38年の分譲マンション、青柳ハイツの404号室から、見積もりの依頼が入った。

持ち主の岸本さんは転勤で遠方にいて、立ち会えない。

鍵は管理人室に預けてあるという。

私は一人で行くことになった。

鞄に入れたのは、調査票を挟んだバインダーと、距離計と、巻尺と、養生テープ。

調査票は、日付と壁の厚みを一行ずつ書き足していく様式だ。

署名欄には、会社の判子と並べて、調べた人が鉛筆で名前を書く決まりだった。

午後2時に、青柳ハイツの前に着いた。

管理人の遠藤さんは、鍵の返却簿に時刻を書き込む人だった。

「404ね。お帰りのとき、ここに時間をお願いします」

「分かりました」

受け取った鍵には、色の抜けた樹脂の札が付いていた。

札の数字の4だけが、何度も指で撫でられたように白くなっていた。

エレベーターは点検中で、階段で4階まで上がった。

遠藤さんは下で、動かない箱に向かって文句を言っていた。

404号室は、廊下の突き当たりにあった。

扉を開けると、空気が止まっていた。

人が住まなくなった部屋の匂いだ。

洗剤と、畳んだ布団と、少しだけ湿った壁紙の匂いがした。

北側の洋室から測り始めた。

窓の外は、隣の棟の非常階段だった。

この洋室の東の壁の向こうは、405号室になる。

図面には、戸境壁、厚さ180ミリと書かれている。

クローゼットの天井際に、点検口があった。

蓋を外して巻尺を差し込むと、壁の断面が見える。

数字は180だった。

図面どおりだ。

私は調査票の1行目に、10月21日、180と書いた。

署名欄に、鉛筆で名前を入れた。

壁紙の継ぎ目が一本だけ、わずかに浮いていた。

指で押さえると、ひんやりして、少しだけ湿っていた。

窓の高さや、コンセントの位置を一通り測って、1時間半で終わった。

帰りに、一階の掲示板が目に入った。

清掃日と、エレベーター点検の貼り紙。

404の郵便受けだけ、チラシが1枚も入っていなかった。

ほかの部屋は、どこも溢れているのに。

返却簿には「16:10」と書いた。

遠藤さんが、眼鏡をずらして覗き込んだ。

「はい、確かに。お疲れさま」

それだけの、普通の1日だった。

壁の厚みが合わない

1週間後、水野さんから電話があった。

「岸本さんが、洋室の壁を抜いて繋げたいって言い出した。構造を見てきてくれ」

「戸境壁ですよね。抜けませんよ」

「抜けるかどうかは、お前が決めることじゃない。厚みだけ、もう一回頼む」

同じ壁は二度測るな、と言ったのは水野さんだった。

だがそのとき、本人はもう忘れているように見えた。

10月28日。同じ部屋に、同じ鍵で入った。

遠藤さんは、返却簿から顔を上げずに言った。

「先週もお二人でしたけど、今日はお一人?」

私は聞き返した。

「先週、お二人?」

「ええ。上で、ずっと床を歩く音がしてましたよ。4階の音は、階段室によく響くから」

「私は一人でした。連れはいません」

「そうですか。背の高さが同じくらいの方だったから、てっきり」

遠藤さんは、それ以上は何も言わなかった。

鍵の札を私の手に載せるときも、目を合わせなかった。

札の4は、先週よりも白く見えた。

洋室に入り、点検口の蓋を外した。

巻尺を差し込む。

数字は150だった。

目を疑って、もう一度当てた。

150。

距離計でも測った。

赤い点は、壁の手前で一度だけ震えて、150を示した。

30ミリ。壁が、先週より薄くなっている。

壁の厚みが変わる理由を、私は考えた。

下地の補修。増し張りの撤去。凍害。

どれも、1週間で30ミリは説明できない。

図面と実測が数ミリ違うことは、現場ではよくある。

けれど、同じ壁が、同じ場所で、1週間で30ミリ変わることはない。

私は巻尺を疑った。

鞄から予備の巻尺を出して、差し込む。

150。

クローゼットの中で、壁に耳をつけてみた。

コンクリートの冷たさが、頬に残った。

何も聞こえない。

405号室は、空き室のはずだった。

調査票の2行目に、10月28日、150と書いた。

数字は、見たまま書く。直さない。

それも、水野さんに教わったことだった。

帰りの電車から、水野さんに電話をかけた。

「厚みが150でした。先週は180です」

「そうか」

返事が、あまりに短かった。

「器械の癖かもしれません。来週、もう一度測ります」

「いや」

水野さんは、少し間を置いた。

「来週は、俺が行く。お前は行かなくていい」

「大丈夫です。私の担当ですから」

電話の向こうで、おにぎりの包みを開ける音がした。

「……数字は、そのまま書けよ」

通話は、そこで切れた。

翌日、水野さんは北海道の現場へ出張に出てしまった。

結局、次の週も、私が行くことになった。

鍵の返却簿に残った時刻

11月4日。3回目の404号室だった。

その日は雨で、階段室が冷えていた。

遠藤さんは、今日は何も言わなかった。

返却簿を差し出す手だけが、少し遅かった。

洋室に入ると、床に水の跡が一筋あった。

傘の雫ではない。私の傘は、まだ私の手の中にある。

壁の前に立つと、点検口の蓋が、すでに外れていた。

先週、私が閉めたはずの蓋だ。

床には、養生テープが短く切って貼ってあった。

私は日付を書いたテープを、測った位置に貼る癖がある。

そのテープには、鉛筆で11/4と書かれていた。

私の字だった。

丸みのある4。縦棒を長く引く癖のある1。

私は、まだ何も測っていなかった。

喉が渇いて、鞄のペットボトルを開けた。

ぬるい水だった。

窓の外の非常階段に、人影はなかった。

それでも、背中のあたりに、誰かの視線の重さだけが残っていた。

息を整えて、巻尺を差し込んだ。

3回目の壁の厚みは、誤差で済ませられる数字ではなかった。

数字は90だった。

90ミリ。

RC造の戸境壁としては、ありえない薄さだ。

点検口の奥の断面は、確かに薄くなっていた。

手を伸ばせば、向こう側の面に指が届きそうだった。

私は手を引っ込めた。

距離計で、壁のあちこちを測った。

床から1メートルの高さで、120。

目の高さで、100。

天井際で、90。

同じ壁が、場所によって別の厚みをしていた。

まるで、向こう側から誰かが、同じ高さで同じ壁を測り返しているみたいだった。

そう思った瞬間、壁の向こうでピッと電子音がした。

聞き慣れた音だった。

自分の距離計が、測定を終えるときの音だ。

私の距離計は、手の中で黙っていた。

続けて、シュッ、と養生テープを引き出す音がした。

切る。

貼る。

私が毎回やっていることを、壁の向こうの誰かが、私と同じ順番でやっていた。

405号室は空き室のはずだ。

鍵は、遠藤さんが持っている。

私は調査票を開いた。

3行目に、11月4日、90と書こうとして、ペンが止まった。

4行目が、すでに埋まっていた。

11月11日の欄には、私の字で、0と書いてあった。

11月11日は、翌週の水曜日だった。

その日は、有休を取ってある。

私は調査票を閉じて、鞄に突っ込み、階段を駆け下りた。

管理人室の窓口に、鍵を置いた。

「ありがとう。時間、書いときます」

遠藤さんは、黙って返却簿を押し出した。

404の行には、時刻がすでに入っていた。

返却簿には、私が書く前に、私の字で15時40分と書かれていた。

今の時刻は、16時20分だった。

「私、まだ書いてません」

遠藤さんは、返却簿を覗き込んで、ゆっくり首を傾げた。

「あれ。お連れさんが、さっき降りてきて、書いていかれたんですけどね」

「連れはいません」

「そうでしたか」

それ以上は、何も言わなかった。

私は自分の時刻を下の行に書き足して、雨の中を走った。

11月11日の洗濯物

会社に戻る途中で、水野さんに電話をかけた。

今度は、すぐに出た。

「三回測りました。厚みは、180、150、90です」

「そうか」

「4行目の欄が、埋まっていました。私の字で」

水野さんは、長く黙った。

「俺も、昔、同じ壁を三回測った」

「どうなりましたか」

「四回目は、やめた。それだけだ」

「4行目の日付は、11月11日です」

「なら、行くな」

「理由を教えてください」

「理由は、俺にも分からん」

水野さんの声は、いつもより低かった。

「ただ、行かなかった俺は、今もこうして電話に出られてる」

私は何も言えなかった。

11月11日は、会社を休んだ。

水野さんが代わりに行くと言ったが、断った。

「水野さんが行く理由は、ありません」

「理由は、お前が行かない理由と同じだ」

結局、その日は、誰も行かなかった。

私は1日、部屋の掃除をした。

カーテンを洗い、冷蔵庫の中身を整理した。

ベランダで洗濯物をたたみながら、ふと時計を見た。

15時40分だった。

何でもない時間だ。

乾いた洗濯物から、日向の匂いがしていた。

その匂いが、ふっと、404号室の匂いに変わった気がした。

洗剤と、少し湿った壁紙の匂い。

私はたたみかけのタオルを抱えたまま、しばらく動けなかった。

翌朝、青柳ハイツへ行った。

遠藤さんは、私の顔を見ると、黙って返却簿を滑らせた。

返却簿には、11月11日の15時40分に、私の字で署名がしてあった。

「鍵は、ここに掛かったままですよ」

遠藤さんが、壁のフックを指した。

404の札は、フックにぶら下がっていた。

札の4は、白いというより、透けていた。

「405の中を、見せてもらえませんか」

「あそこは入居者が決まってないから。鍵は私が持ってますけど、ここ何年も開けてません」

「お願いします」

遠藤さんは、長いことためらってから、首を横に振った。

「それは、やめましょう。ね」

その言い方が、水野さんの電話口の声と、同じだった。

リフォームは、岸本さんの都合で中止になった。

404号室の壁は、いまも、あそこにある。

調査票の4行目は、私の手元にある。

厚みの欄は0のままで、署名欄の鉛筆の跡が、薄く沈んでいる。

その下に、5行目の枠が、まだ空いている。

同じ壁は二度測るな。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。