北町ポートの無人の乗車記録

月夜の校庭と自転車置き場

返却完了の通知は、いつも午前二時台に届く。

私はシェアサイクルの再配置を請け負う作業員で、去年の秋、無人の乗車記録というものを初めて見た。

ポートというのは、街のあちこちに置かれた貸し出し用の駐輪場のことだ。

朝の通勤客が使った自転車は駅前に溜まり、夕方の帰宅客が使うと住宅地に偏る。

その偏りを、夜のうちに均すのが私たちの仕事だった。

駅前ポートから住宅地ポートへ、十数か所を一晩で回る。

軽バンの荷台には、自転車が六台しか載らない。

積んで、運んで、降ろして、また積む。

腰はつらいが、夜明け前の街が好きだった。

新聞配達の原付とすれ違うだけの挨拶も、悪くない。

朝五時に軽バンへ乗り、偏った自転車を元のポートへ戻して回る。

荷台の台帳と、アプリの在庫数と、実際の台数。この三つを合わせるのがすべてだ。

時給は安いが、誰とも話さずに済む。私はこの仕事が気に入っていた。

相棒は相馬さんという四十代の先輩で、口癖は「台数さえ合えば世は事もなし」。

私はといえば、几帳面とは言いがたい。

私は昔から、靴を脱ぐと片方を裏返したまま放っておく。

去年の十月、その相馬さんが管理画面を見て首をかしげた。

「北町ポートに、ユーザー不明の記録が出てる」

北町ポートは、三年前に閉校した小学校の校庭を借りた駐輪場だ。

校舎は取り壊されず、窓ガラスだけが外されたまま残っている。

夜に通ると、黒い四角い窓がずらりと並んで見える。

その前を通るたび、私は少しだけ速度を落とした。

記録は毎晩、午前二時台に一件ずつ。

利用者の欄は空白で、走行距離は〇・〇キロ、時間は三十八秒。

最後には必ず「返却完了」の文字が付いていた。

無人の乗車記録、と呼ぶしかない代物だった。

「誰も乗っていないのに、返却だけは律儀に済ませるのか」

「うちの新人より仕事ができるな」と相馬さんは笑った。

その時は二人とも、アプリの不具合だろうと思っていた。

ただ、不具合にしては、記録の癖が妙だった。

エラーなら、時刻も距離もばらつくはずだ。

この記録だけが、毎晩ぴったり同じ三十八秒だった。

記録は、翌日も、その翌日も出た。

回収した台数は合っているのに、記録だけが増えていく。

台数さえ合えば、という相馬さんの口癖が、初めて空回りした。

惰力で回る車輪

十月の第二週、朝五時の北町ポートは霜の匂いがした。

校庭の端に、白線で区切られたラックが二十四台ぶん並んでいる。

前の日の夕方、そのうち三台は斜めに倒れかけていた。

利用者が雑に停めるのは、いつものことだ。

ところが、その朝の二十四台は、定規で引いたように揃っていた。

ハンドルの角度も、前輪の向きも、一ミリの狂いもない。

いちばん端の一台だけ、前輪がまだゆっくり回っていた。

たった今、誰かが手を離したように。

「回転寿司じゃないんだから」と、相馬さんは小声で言った。

冗談の語尾が、いつもより低かった。

サドルを見ると、霜の上に小さな手形が付いていた。

指を開いた手のひらが、二つずつ。

ペダルにも、地面にも、同じ形が点々と続いている。

足跡は、一つもなかった。

「ありがたいが、手当は出せないな」と相馬さんは言った。

私は笑えなかった。

手形は、白線の端から端まで、きちんと等間隔だった。

翌朝は、少しだけ様子が違った。

ラックの端に、見慣れない自転車が一台、紛れ込んでいた。

子ども用の小さな車体で、塗装は色あせた緑だった。

うちの会社に、子ども用の貸し出し車両はない。

台帳をめくり、在庫を数え直し、二人で首をひねった。

「迷子の自転車か。持ち主を探して預かっとこう」

荷台に積もうとして、私は泥よけに手をかけた。

霜の降りた鉄よりも、ずっと冷たかった。

結局、積まないまま昼まで置いておいた。

夕方に戻ると、その緑の自転車は消えていた。

盗まれたのなら、地面に、わずかな跡くらい残るはずだ。

そこには、何の跡もなかった。

柵の向こうの老人

三日目の朝、犬を連れた八十代の男性が、柵の向こうから声をかけてきた。

「その子は、まだ並べとるかね」

老人は校庭を見たまま、ゆっくり続けた。

閉校になる前、この校庭に、自転車置き場を毎日整える女の子がいた。

事故で両脚が動かなくなり、両手で体を持ち上げて進む子だった。

「乱れとると、気持ちが悪うてなあ」

子どもたちは彼女を、ならべさんと呼んだそうだ。

低学年用の緑の自転車を、いちばん大事にしていたという。

閉校の前の冬、彼女は学校に来なくなり、そのまま戻らなかった。

夜の校庭を手だけで歩く影を見た者は、一人や二人ではないという。

連れていた犬は、柵の中を一度も見ようとしなかった。

「揃った場所には、ならべさんは二度と来ない」

老人は、それだけ言って帰っていった。

帰りの車で、相馬さんは珍しく黙っていた。

信号待ちで、ぽつりと言った。

「手で歩く人が、あんなに几帳面に並べるかね」

「脚が動かないからこそ、地面の乱れが近いんじゃないですか」と私は答えた。

言ってから、自分でも妙に納得してしまった。

その夜、私は一人で北町ポートへ戻った。

相馬さんには言わなかった。確かめたいことがあったからだ。

校門をくぐると、気温が二度ほど下がった気がした。

昼間の校庭とは、空気の重さが違う。

ラックの二十四台は、夕方のうちに私が揃えておいたものだ。

その中の一台だけ、ハンドルを四十五度に曲げ、斜めに押し込んだ。

幽霊の整頓能力を採点しているようで、自分でも何をしているのかと思った。

翌朝五時、その一台だけが、まっすぐに直っていた。

揃えておいた二十三台には、手形ひとつ付いていない。

乱れた一台にだけ、霜の上の手形が真新しく残っていた。

管理画面の記録も、その一件だけだった。

乱れのある所にだけ、来る。

そう考えるのが、いちばん筋が通っていた。

「勝手にやったな」と、相馬さんは怒ったふりをした。

「でも、実験としては悪くない」と言って、缶コーヒーをおごってくれた。

無人の乗車記録の夜

五日目の夜、私たちは軽バンを校門の前に停めた。

タブレットで、北町ポートのカメラ映像を見張るためだ。

「張り込みの定番は、あんぱんと牛乳だ」と相馬さんは言った。

「今どきの定番は、おにぎりと眠気です」と私は返した。

二人でコンビニの夜食を分け合い、ヒーターを弱くつけた。

相馬さんは、昔この近くの小学校に通っていたという。

「俺の頃の校庭にも、自転車を並べる係がいた」

「当番だよ。誰もやりたがらなかったけどな」

「並べたくて残る子は、いなかったんですか」

「いたとしても、夜まで残るほどの子はな」

ひとしきり笑って、笑い声が途切れた。

午前二時を回ると、校庭は音を忘れたように静かになった。

窓の内側が、二人の息で白く曇った。

午前二時十四分、画面の隅で、最初の一台がわずかに動いた。

ハンドルが、誰も触れていないのにゆっくり回る。

次に後輪が三センチ、横へずれた。

人影は、どこにも映っていない。

それでも一台ずつ、確かな手順で、ラックの線に収まっていく。

タブレットの小さなスピーカーから、ぺた、ぺた、という濡れた音が聞こえた。

一歩ごとに、二つ。

間隔は、人が歩くのとまったく同じだった。

「手で歩く人にしては、歩幅が几帳面すぎる」と相馬さんが言った。

画面の中の二十四台目が、きれいに線へ収まった。

その瞬間、少し傾いていたカメラの映像が、すっと水平になった。

相馬さんが、画面から目を離さずに言った。

「今のカメラ、誰が直した」

私は答えなかった。

車を降りて確かめる勇気は、どちらにもなかった。

管理画面には、いつもの文字が一行増えた。

翌日から、私たちは北町ポートの二十四台を、自分たちの手で揃えて帰った。

ハンドルの向きを合わせ、倒れた一台を起こし、白線を踏んで確かめる。

人生で初めて、整理整頓を仕事だと思った気がする。

三週間後、北町ポートの無人の乗車記録は、ぴたりと止んだ。

北町ポートは揃っている。だから、ならべさんは来ない。

「掃除当番の勝ちだな」と、相馬さんは缶コーヒーを掲げた。

その帰りに、私は校庭の端へ寄り道した。

ラックの横に、缶コーヒーを一本だけ置いた。

供えるつもりではなく、礼のつもりに近かった。

翌朝、缶は同じ場所に、同じ向きで立っていた。

誰にも触れられていない缶というものを、私は初めて安心して眺めた。

玄関の靴の向き

その週の金曜、朝四時に目を覚ますと、玄関の靴がやけに目に入った。

私の靴は、かかとを壁に揃えて並んでいた。

昨夜、私は確かに、片方を裏返したまま上がったはずだった。

揃えた覚えは、ない。

水に濡れたような小さな手形が、二つずつ、ドアの下から靴の前まで続いていた。

手形は、私の手のひらより、ひと回り小さかった。

ドアのチェーンは掛かったままで、鍵に傷もない。

誰に、どう説明していいのかわからなかった。

説明できる言葉が、私の中に見つからなかった。

相馬さんに話すと、「モデルルームみたいな部屋になるぞ」と笑われた。

笑い声が、乾いていた。

私はその夜から、部屋中を揃えた。

本棚、机の上、洗面所のコップ、ゴミ袋の結び目まで。

冷蔵庫の調味料は、背の高い順に並べ替えた。

訪ねてきた友人が、「引っ越したの?」と聞いた。

四日もすると、部屋は夜の校庭のように静まりかえった。

雑だったはずの私が、誰かの目を気にして暮らしている。

そう思うと、少し可笑しかった。

揃った場所には来ない。そう聞いたからだ。

それでも靴だけは、毎晩、かかとを壁に揃えて眠った。

一週間、何も起きなかった。

休みの日に、相馬さんが約束の缶コーヒーを持って訪ねてきた。

玄関で靴を脱いだ彼は、部屋を見渡して絶句した。

「お前、北町ポートになってるぞ」

「揃えた方が、気持ちがいいんです」と私は言った。

自分の口から出た言葉が、他人の台詞のようだった。

仕事場では、相馬さんが台帳の整頓を私に任せるようになった。

八日目の夜、私は洗濯物を畳み、靴を揃えて、安心して眠った。

返却完了の通知が届いたのは、午前二時十四分だった。

管理アプリの通知だった。

北町ポートでも、ほかのどこのポートでもない。

ポート名の欄には、私の部屋の番号が入っていた。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。