
測量で打つ杭は、頭が赤い。
二年前の十一月、私はその赤い頭を一本ずつ数えていた。
数えるたびに、余った境界杭が一本あった。
当時の私は二十六歳で、測量会社に入って三年目の補助員だった。
仕事は単純だ。先輩が器械を覗き、私がポールを立てる。
図面の点に杭を打つ。番号を書く。写真を撮る。
その現場は、郊外の物流倉庫の裏手にある細長い空き地だった。
昔は運河が通っていたという。
埋め立てられた今は、枯れた雑草しかない。
倉庫の外壁は灰色で、窓が一つもなかった。
空き地の中央は、運河の名残か、ゆるい窪みになっている。
図面の六点は、その窪みを囲むように並んでいた。
前の晩はアパートの洗濯機が壊れて、ろくに眠れていなかった。
朝のコンビニで、缶コーヒーを二本買った。
相葉さんは微糖で、私は無糖と決まっている。
依頼は隣地との境界確認で、打つ杭は六本。A1からA6までだ。
空き地の北半分は、背の高い金網フェンスで囲われていた。
フェンスの内側は、図面に「第七筆」とだけ書かれている。
所有者の欄は空白だった。
「そこは測らなくていい」
先輩の相葉さんは、缶コーヒーを啜りながら言った。
「測らなくていい、というより、測れない。昔からそういう土地だ」
私は頷いた。入って三年の補助員が、詳しく聞き返せる空気ではなかった。
道具を車から降ろす間、息が白かった。
倉庫の搬入口から、フォークリフトの警告音が遠く聞こえた。
鳥の声はなかった。靴の裏には、湿った土がまとわりついた。
着手前の写真を撮る段になって、相葉さんが私を呼んだ。
「フェンスの前に立って。人が入ると縮尺がわかる」
私は金網の前に立って、ピースもせずに写真に収まった。
相葉さんは写真を撮ったあと、野帳の端に何か書きつけた。
午前九時十分。霜が降りていて、杭の頭がどれも白く曇っていた。
余った境界杭が一本
初日の朝は、杭打ちから始まった。
杭は木槌で三回叩いて据える。相葉さんの教えだった。
一回目で頭を決め、二回目で沈め、三回目で止める。
A1は倉庫の壁際で、地面が固く、木槌が何度も跳ね返った。
A4のあたりは逆に柔らかく、杭が自分から沈んでいくようだった。
埋め立て地の土は、場所によって性格が違う。
打つたびに、湿った鉄のような匂いが立った。
初日は午後三時過ぎに杭打ちを終えた。
打った杭は六本。野帳にも、六本と書いた。
帰りの車で、相葉さんが言った。
「今日は早く上がれたな。明日で終わりだ」
私は「はい」と答えて、ダッシュボードの時計を見ていた。
翌朝、現場に着くと、赤い頭が七本あった。
六本は私が昨日打った位置にある。
七本目は、金網の内側にあった。フェンスの隙間から、四メートルほど奥だ。
六本の頭が霜で白くなっている中で、七本目だけが濡れて赤かった。
「相葉さん、あれ、うちの杭ですか」
「図面にない点だ。うちのじゃない」
相葉さんは、フェンスの隙間を見もせずに言った。
「誰かが勝手に打ったんだろ。測量屋のいたずらは、たまにある」
「抜いたほうがいいですか」
「触るな。抜くと、報告書が面倒になる」
そう言うと、相葉さんは缶コーヒーのプルタブを起こして、別の話を始めた。
私はスマホを取り出して、金網の隙間から七本目を撮った。
画面には、金網の格子しか写らなかった。
杭のある場所だけが、指で擦ったように白くぼやけていた。
念のため、七本目の位置を野帳にスケッチした。
金網の隙間から四メートル。窪みの縁の、ちょうど真北だ。
昼は、車の中でコンビニのおにぎりを食べた。
相葉さんは鮭で、私は昆布だった。
「七本って、縁起がいいですかね」
冗談のつもりだった。
「六本で足りる現場に七本あったら、一本は余りだ」
相葉さんは、真面目な顔で言った。
「余りは、余りだよ」
「ここ、前にも来たことがあるんですか」
「十年くらい前にな」
「そのときも、杭は六本でした?」
相葉さんは少し間を置いてから答えた。
「六本だった。毎回、六本だ」
その言い方は、数え慣れた人のものに聞こえた。
午後、器械の視準線が、何度かフェンスの内側を横切った。
そのたびに、モニターの隅に、小さな点が一つ映った。
点はいつも、七本目の杭の頭と同じ位置にあった。
私は何も言わず、野帳のA欄を六本分だけ埋めた。
七本目は、午前よりほんの少し、金網に近い気がした。
気のせいだと思うことにした。
その夜、アパートで、スマホのメモに「余った境界杭、一本」と打ち込んだ。
理由は、自分でもよくわからなかった。
報告書に書く言葉を、先に決めておきたかったのかもしれない。
三回で止まる音
二日目の午後、風が止んだ。
それなのに、金網が一度だけ軋んだ。
内側から、誰かが背中を預けたような音だった。
夕方、片づけを始めたのは四時半だった。
日が落ちるのが早い季節で、空はもう藍色に近かった。
三脚を畳んでいると、フェンスの内側から音がした。
コン、コン、コン。
木槌で杭の頭を叩くような、乾いた音だった。
三回鳴って、止まる。しばらくして、また三回。
私は手を止めて、相葉さんの顔を見た。
「聞こえますか」
「何が」
相葉さんは、三脚を肩に担いだまま振り向いた。
「杭を打つ音です。あの中から」
「風だろ。倉庫のシャッターが鳴ってる」
そう言われると、そんな気もした。
だが、音は私が三脚の脚を一本畳むたびに鳴った。
一本目を畳む。コン、コン、コン。
二本目を畳む。コン、コン、コン。
三本目を畳み終えたとき、音は止んだ。
そのとき初めて、背中に汗をかいているのに気づいた。
帰りの車で、相葉さんはラジオの音量を上げた。
ふだんは野球中継しか聞かない人が、その夜は知らない女性歌手の曲を最後までかけていた。
私は窓の外を見ていた。
倉庫の白い照明が、金網の格子を細かく切り刻んでいた。
三日目の朝、七本目は金網のすぐ内側に来ていた。
野帳のスケッチと見比べると、前の日より三メートルほど手前だ。
隙間から手を伸ばせば、頭に触れる距離だった。
頭は、前の日と同じように濡れていた。
触れなかった。触れないほうがいい、と手のほうが先に判断した。
杭の周りの土には、小さな凹みが三つ、等間隔に並んでいた。
三脚を据えたあとの跡に、よく似ていた。
相葉さんが器械を覗いている隙に、メジャーの先を金網の隙間から差し入れた。
先端が内側に出た途端、メジャーが引っ張られるように重くなった。
慌てて手繰り寄せると、先端は濡れていた。
霜ではなかった。ぬるかった。
余った境界杭は、確かにそこにあった。
それなのに、図面のどこにも居場所がなかった。
作業は昼前に終わった。
帰り際、倉庫の警備員の老人に声をかけられた。
白い髭の、小柄な人だった。夜勤明けなのか、目が赤かった。
「ご苦労さん。今年も来たんだね」
「今年も、ですか」
「毎年この時期に来るだろう、測量屋さんは」
老人は金網のほうへ顎をしゃくった。
「去年も、その前も、オレンジのベストの子があの内側に立っとった」
「内側、ですか」
「うん。ずっと立っとるから、こっちの子かと思っとった」
私は着ているオレンジのベストを見下ろした。
会社の支給品で、背中に社名が入っている。
「去年の子は、どんな人でしたか」
老人は少し考えた。
「顔は見とらん。いつも向こうむきでな。声をかけても振り返らんのよ」
「そうですか」
それ以上は、何も聞けなかった。
「ありがとうございます」と言うのが、精一杯だった。
老人は笑って、手を振った。
「寒いから、風邪ひかんようにね」
書庫の古い写真
その週末は、ほとんど眠れなかった。
月曜、出社して、自分が写った着手前の写真をサーバーで開いた。
九時十分。霜の朝の、金網と杭の頭と曇り空。
写真の中の私は、フェンスの内側に立っていた。
撮った相葉さんは、金網の外にいたはずだ。
私の記憶では、カメラのほうを向いていた。
写真の私は、杭の列の端で、背中を向けていた。
画面を拡大した。
ベストの背中の社名の位置は、私のものと同じだった。
左の袖口には、二週間前につけたインクの染みまで写っていた。
帰宅して、仕事用の靴の裏を見た。
溝に、あの土が詰まっていた。
金網の外側の土のはずだった。
翌日、相葉さんの野帳を借りた。
野帳の端には、「A7 立会人」と書かれていた。
「ああ、それか」
相葉さんは覗き込んで、ちっとも驚かなかった。
「立会人ってのは、境界を認める人のことだ。うちの現場には、毎年必要でな」
「誰がなるんですか」
「その年の補助員だ」
「相葉さんは、なったことがありますか」
「ない。俺はいつも、撮るほうだ」
「去年の立会人は、誰だったんですか」
「去年は、あの現場自体がなかった」
「でも、警備員さんは」
「だから、忘れろ」
相葉さんは缶コーヒーを啜って、それ以上は答えなかった。
昼休み、私は書庫へ行き、あの空き地の過去の写真を日付順に並べた。
毎年十一月、同じ構図だった。金網と、霜と、杭の頭。
去年の分だけ、依頼書も見積書も社内になかった。
写真だけが、サーバーの奥に一枚残っていた。
棚には、十一月の現場だけを綴じた古いファイルもあった。
背表紙の裏に、年ごとの担当者の名前が並んでいる。
三年前の欄に、私の名前があった。
その年の私は、研修で内勤だけだったはずだ。
金網の内側には、毎年、後ろ姿が写っていた。
髪の長さは、年ごとに違った。
肩幅も違った。
それなのに、並べると全部が、同じ場所に、同じ向きで立っていた。
私が入社する前の年の写真にも、写っていた。
どの年の写真にも、オレンジのベストを着た後ろ姿が、杭の列の端に立っていた。
今年の十一月も、あの空き地の依頼書は会社に届いた。
担当者の欄には、私の名前が印字されていた。
私は断った。別の補助員が、現場に出た。
出発の朝、その子は私に缶コーヒーを差し出した。
「無糖でしたよね。先輩のぶんです」
私は受け取れなかった。
その子は笑って、オレンジのベストの裾を引っ張った。
「これ、ちょっと大きいんですよね」
私は、あの背中の幅を思い出さないようにした。
その子が撮った着手前の写真を、私はまだ見ていない。
測量で打つ杭は、頭が赤い。
七本目の頭だけは、今も、霜の朝に濡れているのだろう。