寄り物帳に増える鉛筆の行
市役所の臨時職員として、港町の漁協で古い台帳を取り込んでいた。寄り物帳の赤い栞は毎朝ひとつ先へ進み、最後の鉛筆の行には、まだ失くしていない私の持ち物が書かれてい…
市役所の臨時職員として、港町の漁協で古い台帳を取り込んでいた。寄り物帳の赤い栞は毎朝ひとつ先へ進み、最後の鉛筆の行には、まだ失くしていない私の持ち物が書かれてい…
夕暮れの突堤に、毎週木曜の17時半だけ現れる名前のない老人がいた。灯油配達の私に、彼は決まって同じことを尋ねる。古い顧客カードを開いた夜、私は自分の家にも空白の…
引っ越し作業員の俺たちは、出発前に必ず点呼の数を確かめる。取り壊し前の団地で最後の一世帯を運んだ日から、荷台の奥で誰かが一拍遅れて数えはじめた。同じマンションか…
信用金庫で働く私の自宅に、席替えアンケートと書かれた切手のない封書が届いた。隣席の主任の名前を書いて返送した後、札を神社の杉に打つよう指示される。その夜の録音に…
空き家の庭木整理で、私は依頼書どおり木守りの柿を最後の一つまで取った。幹に掛かった古い木製の梯子、乾いた土に残る濡れた足跡、隣家の老婆の礼。夕方の写真には、梯子…
閉館後のスポーツクラブで夜間清掃を始めた私は、三番のシャワー室の排水口に、いつも同じ長さの髪が溜まっていることに気づいた。毛先は鋏で切ったように揃い、量は毎晩少…
深夜2時14分、メニューにない鼠の天ぷらの注文が入った。電源を切ったフライヤーからは、油の弾ける音がしていた。作ってもいない品に、星のレビューだけが先に付いた。…
国道沿いの中古スマホ買取店には、触ってはいけない預かり棚があった。一番端の端末だけが、いつも少し温かい。ある夜、防犯カメラの映像に、とっくに退勤したはずの私が映…
病院の売店で、月末の17時40分に台へ出される代わりの湯呑みは、閉店までに熱湯が冷え、翌朝きまって割れていた。入社初日に搬入口で返事をしてしまった私は、店長が去…
去年の六月、雨が上がった晩に入った注文の住所は、地図にない六丁目だった。更地の先に細い道が伸びていて、下りきったところに坂の下の灯りが並んでいた。受け取った人は…
去年の12月、雪の深い小板という町に一人で行きました。宿のおかみは外湯が七つあると言いました。けれど三日目の晩、案内図にない灯りが坂の下に見えたのです。八つ目の…
去年の11月、県の北端にある神無の谷へ古書の出張買取に入った。奥座敷へ通される前に、この部屋では人の名を呼ばないでくださいと言われた。祠の土台にあった桐の名箱は…
去年の4月から、5歳まで暮らした旧道沿いの町が担当になった。夕方5時の音楽が折り返すと、右手の指の間だけが濡れる。玄関の右端はいつも湿っていて、そこだけ乾かない…
六月の第三金曜だけ、給食のトレーに献立表にない緑の団子がのります。この土地ではあそび団子と呼ばれ、奥の小部屋で二人だけが作り、職員には一つも配られません。翌日、…
湾岸の物流倉庫の四階、E通路の突き当たりに、床を四角く抜いて据えられた丸い石がある。動かせなかったのだと先輩は言い、その前では決して口をきかなかった。ある晩、私…
県境の湯の町の小さなラジオ局で、同僚が録ってきた音に、彼が言った覚えのない一言が入っていた。町の人は誰も驚かず、財布から薄い紙を出して見せる。ヨマセ様に代わりに…
深夜のコインランドリーを回る仕事で、あの店の奥の乾燥機にだけ、月に一度、手書きの札が貼られた。札のある台は開けない、日付が変わる前に出ない、忘れ物カゴには手を入…
売りに出る前の空き家で寸法を測っていると、廊下の長さと各部屋の内寸が、どうしても畳一枚半ぶん合わなかった。畳の上を白く細いものが這い、私の問いかけに頷くように曲…
昭和四十八年の夏、巡回映画の助手だった私は水没が決まった紀伊の山村へ入った。上映の夜、村人は全員が白い布に背を向けて座っていた。窓は新聞紙で塞がれ、子どもは名を…
宿を出るとき三和土で履物を一度脱ぎ揃え直してから履く——若狭の入り江に残るその作法を忘れた朝から始まった不思議な話です。平成十年の夏、隣家の絹さんを六十年ぶりの…
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