空白の名前欄を老人が探している

夕暮れの静かな港と青い作業車

今でも、木曜日の夕方だけは、配達の順路を変えている。

去年の冬の話だ。

今は10月で、灯油の車はまだ車庫で眠っている。

だから、記憶が薄れないうちに書いておく。

私は36歳で、港町の浜田燃料店に勤めている。

従業員は店主を入れて3人しかいない。

事務所の棚には、昭和の頃から続く顧客カードが残っている。

どの家のカードにも、空白の名前欄が一行だけある。

仕事は、灯油とLPガスの配達だ。

冬の間は、青い小型のタンクローリーに乗って、チャイムを鳴らしながら町を回る。

曲は「雪やこんこ」だ。

音が間延びするのは、スピーカーが古いからだと店主は言う。

石油ストーブの匂いが染みた作業着を、私は嫌いではない。

配達先のおばあさんから、みかんをもらうのも日課だった。

灯油のタンクは、たいてい家の裏手にある。

だから私は、玄関ではなく勝手口の側から、お客さんの家に入る。

勝手口の石段には、小皿が置いてある家が多かった。

白い小皿に、米がひとつまみ載っている。

「野良猫の分よ」と、どの家のおばあさんも、同じ顔で言った。

私の実家にも、同じ皿がある。

母が毎晩、夕飯の支度の最後に、勝手口の石段へ置くのだ。

猫の分だと母は言ったが、私は猫がその皿に寄るところを一度も見たことがない。

それでも、気にしたことはなかった。

気にしはじめたのは、ある老人が現れてからだ。

その老人が現れたのは、12月の最初の木曜日だった。

最後の配達を終えるのは、いつも17時半の前後だ。

港の突堤の手前に、車を停められる空き地がある。

そこで伝票をまとめるのが、私の習慣だった。

風の強い日で、タンクのホースがかじかんで固まっていた。

運転席でボールペンを走らせていると、コン、コン、と助手席の窓が鳴った。

老人が立っていた。

背は低く、灰色の上着の肩だけが、濡れたように黒かった。

12月なのに、足元はサンダルだった。

窓を下げると、老人は顔を近づけて言った。

「わしの名前、そっちの帳面にあるかのう」

帳面とは、私の膝の上の配達帳のことらしかった。

お客さんの名前と住所が、びっしり書いてある。

「どちらの方ですか」と私は聞いた。

老人は少し考えてから、首を横に振った。

「それが、わからんのよ」

「お名前が、ですか」

「ほうよ。帳面にあるか、見てくれんか」

断る理由も思いつかず、私は配達帳をめくった。

名前は、もちろんなかった。

「載っていませんね」

「ほうか」

老人は、怒りも落胆もしなかった。

「ほな、また来るわ」

サンダルの音は、聞こえなかった。

老人は突堤の方へ歩いていき、倉庫の影に入って見えなくなった。

翌朝、先輩の久保さんにその話をした。

「ああ、木曜さんか」

久保さんは、缶コーヒーを両手で包んで笑った。

「前から、この辺の木曜に出るんよ」

「名前を聞かれました」

「聞かれた聞かれた。無視したらええ」

「無視は、ちょっと」

「じゃあ、載ってないですって言うとき。それで帰るから」

店主の浜田さんは、事務所の奥で伝票をめくっていた。

「余計なことは言うなよ」

それだけ言って、こちらを見なかった。

濡れたシートと潮の匂い

木曜さんは、翌週も来た。

その次の週も来た。

私はそのたびに配達帳をめくり、「載っていません」と答えた。

老人は毎回、「ほうか。ほな、また来るわ」と言って帰った。

それが、いつのまにか儀式のようになっていた。

最初におかしいと思ったのは、4回目の木曜だった。

老人が去ったあと、助手席のシートが濡れていた。

私は窓越しにしか話していない。

ドアは一度も開けていない。

それでも座面には、人の形に沿って、冷たい水がしみていた。

手のひらを当てると、体温を吸われるような冷たさだった。

鼻を近づけると、潮の匂いがした。

浜の匂いではなく、水底の海藻のような匂いだ。

その日は快晴で、雨は一滴も降っていなかった。

私はタオルで拭き、窓を全開にして帰った。

その晩、母にその話をした。

「海の人かもね」

母はそれだけ言って、味噌汁をよそった。

翌朝、久保さんが運転席に乗り込んで言った。

「おい、助手席、また濡れてへんか」

「木曜に拭いたんですが」

「いや、水曜の朝にも、こうなっとる」

「木曜さんは、木曜しか来ないでしょう」

「ほうなんよ」

久保さんは、そこで笑うのをやめた。

「ほうなんやけどな」

念のため、私はドライブレコーダーの映像を見直した。

木曜の夕方、助手席の窓の外には、誰も映っていなかった。

映っていたのは、窓ガラスの内側についた、小さな濡れた手形だけだった。

指は、5本そろっていた。

大きさは、子供の手ほどだった。

指を数えて、その手形に自分の手のひらを重ねてみた。

自分の手の方が、ずっと大きかった。

それなのに、指の間隔だけは、不思議なほど同じだった。

どこかで見た手形のような気がしたが、どこで見たのかは思い出せなかった。

思い出そうとすると、決まって潮の匂いがした。

久保さんにその映像を見せると、黙って再生を止めた。

「見んかったことにしよ」

そう言う声は、ほんの少し震えていた。

私は、ある木曜日に、わざと別の道で戻ってみた。

突堤の空き地を避けて、山側の県道から店へ帰るのだ。

ところが店の駐車場に着くと、助手席の窓の外に、老人が立っていた。

「わしの名前、そっちの帳面にあるかのう」

私の口は、考えるより先に動いた。

「載っていません」

「ほうか。ほな、また来るわ」

老人は、店の看板の影に入って、そのまま見えなくなった。

看板の裏は、1メートルもない壁だ。

隠れる場所など、どこにもなかった。

私は、しばらくハンドルを握ったまま動けなかった。

手のひらの汗が、ハンドルの革に黒くしみた。

車庫で鳴るチャイム

1月に入り、もうひとつ、おかしなことが起きた。

夜の車庫で、チャイムが鳴るのだ。

青いタンクローリーのスピーカーから、「雪やこんこ」が流れる。

エンジンは切ってあり、キーは事務所の金庫に戻してある。

それでも、鳴る。

最初に気づいたのは、事務所に泊まり込んでいた店主だった。

石油の在庫確認で、年に数回は夜まで残るのだ。

「夜の9時過ぎやった」

浜田さんは、朝のお茶をすすりながら言った。

「車庫から、あの音がした」

「誰か、いたんですか」

「いや。見に行ったら、車は冷えとった」

「スピーカーの故障では」

「木曜の夜だけ、必ずな」

店主は湯呑みを置いた。

「それも、決まって9時7分や」

その週の木曜、私は事務所に残った。

久保さんは帰り、店主は奥の部屋で寝ていた。

壁の時計の針だけが、やけに大きな音で進んでいた。

廊下の蛍光灯が、一本だけ点いたり消えたりした。

ストーブの上のやかんが、湯気を立てなくなった。

寒いのではなく、部屋の温度が、ただ静かに抜けていった。

ただ、誰かに見られているという確信だけが、はっきりあった。

9時を回ると、車庫の方から冷たい風が通った。

シャッターは閉まっているのに。

9時6分に、車の方から小さな音がした。

ギイ、と助手席のドアが開く音だった。

9時7分。

チャイムが鳴りはじめた。

「雪やこんこ」の、間延びした、いつもの音だ。

けれど、そのテンポが少しずつ遅くなっていった。

テープが伸びるような音になり、最後は、低い唸りに変わった。

その唸りの下で、誰かがゆっくり話していた。

言葉は、聞き取れなかった。

ただ、同じ長さの息継ぎが、何度も何度も繰り返されていた。

「わしの名前……」

そう聞こえた気がして、私は事務所の椅子から立てなくなった。

声は、車庫の方からではなかった。

私のすぐ後ろ、ロッカーの隙間から聞こえていた。

「そっちの帳面に、あるかのう」

私は振り向かず、机に向かったまま答えた。

「載っていません」

自分の声が、他人の声のように聞こえた。

「ほうか」

息が、耳のすぐ後ろで揺れた。

湿った海藻の匂いが、背中を撫でていった。

「ほな、もうちょっと探してくれるか」

それは、初めて聞く台詞だった。

空白の名前欄の世帯

翌日、私は事務所の棚から、顧客カードの箱を下ろした。

厚い紙のカードで、家ごとに1枚ある。

住所、タンクの容量、家族の人数が、手書きで記されている。

その家族欄を、私はこれまで、ちゃんと読んだことがなかった。

1枚目を開いて、手が止まった。

世帯主の名前、妻の名前、子供の名前が並んでいる。

その一番下に、もう一行あった。

名前欄は空白で、続柄の欄にだけ「同居人」と書いてある。

人数の欄は、「1」だった。

次のカードを開いた。

同じ行があった。

その次も、そのまた次も。

子供のいる家のカードには、ほとんど例外なく、空白の名前欄の行があった。

しかも、その行が書き足された日付は、その家で最初の子が生まれた月と、同じだった。

私は箱の底まで、1枚ずつ確かめた。

同居人の行がある家は、300軒を超えていた。

どの行も、同じ筆跡の鉛筆書きに見えた。

先代の店主も、先々代も、この行を消さなかったのだ。

「見たんか」

後ろで、浜田さんの声がした。

店主は、事務所の入口に立っていた。

私は箱を抱えたまま、頭を下げた。

「すみません、勝手に」

「ええよ。いつかは見るもんや」

浜田さんは、石油ストーブの前の椅子に座った。

「これは、何ですか」

「見たとおりや」

「同居人、って」

「子が生まれたらな、その家は飯を1膳余分に炊いた。それを勝手口の石段に置いたんや」

私は、白い小皿を思い出した。

「野良猫の分じゃ、ないんですか」

「猫が、米だけ食うか」

浜田さんは、そこで少し笑った。

「うちの店はな、そういう家には灯油を1缶余分に回した。居るもんには、冬は寒いやろ」

「居るもの、って」

「それは、わしにも言えん」

店主は、ストーブの火を見つめた。

「名前がないんは、付けんかったんと違う。付けられんのよ」

「置かなかった家は、どうなるんですか」

「さあな」

店主は、しばらく黙ってから、浜田家のカードを抜いて私に渡した。

家族欄の2行目の名前が、消しゴムで擦ったように薄れていた。

長女、と読めた。

「わしは、置くんをやめた時期があってな」

「それから、その名前だけ薄うなった」

「娘さんは、今」

「それが、よう思い出せんのよ」

店主は、湯呑みを両手で包んだ。

「そういう家のことは、カードに書かん。書かんから、誰も知らん」

私は、カードの束をもう一度見た。

転出して空き家になった家の行にも、斜線は引かれていなかった。

引っ越した先の新しいカードにも、同じ行が増えている。

空白の名前欄だけが、家から家へ、静かに移っていた。

見え方が揃わない老人

次の木曜日、私は久保さんと店主を、突堤の空き地に連れて行った。

3人で車の外に立ち、17時半を待った。

風はなく、海は鏡のように静かだった。

倉庫の影から、老人が出てきた。

「あれが、木曜さんです」と私は言った。

久保さんが、首をかしげた。

「どれ。あのお婆ちゃんか」

「お婆ちゃん?」

「腰の曲がった、割烹着の人やろ」

「違います。小柄な、灰色の上着のお爺さんです」

店主は、2人の顔を順番に見て、小さく息を吐いた。

「わしには、背の高い男に見える」

「黒い羽織を着とる。頭は、わしより高い」

3人とも、見ているものが違った。

それなのに、全員が同じ場所を見て、同じ方向に顔を向けていた。

老人は、いつもどおり助手席の窓に近づいた。

久保さんが、先に口を開いた。

「載ってないですよ。ほら、帰って」

「ほうか」

老人は、久保さんの方を一度も見なかった。

「ほな、また来るわ」

その背中を見送ってから、店主が言った。

「なあ、3人とも、あの人の顔は思い出せるか」

私は目を閉じた。

灰色の上着は思い出せた。

サンダルも、濡れた肩も。

でも、顔だけが、どうしても像を結ばなかった。

「……思い出せません」

店主は、助手席のシートに手を当てた。

掌が、水で光った。

「わしの目には、いつも見覚えのある誰かに見える」

「誰ですか」

「それを言うたら、名前を付けることになる」

店主の声は、とても静かだった。

「付けたら、返事をされる」

久保さんが、ぼそりと言った。

「それ、あかんのですか」

「あかん」

店主は短く答えた。

「ほんで、わしらには、付ける資格がない」

「どうしてですか」

「わしらの家は、勝手口に皿を置かんかったからや」

その意味は、そのときの私には、まだわからなかった。

その夜、私は実家に帰った。

母と2人で暮らしている家だ。

父は、10年前に亡くなった。

玄関からは入らず、わざと勝手口の方へ回った。

石段には、いつもの白い小皿が置いてあった。

猫の分だと母が言い続けた皿の前で、私は初めて、足跡の向きを確かめた。

石段の上に、濡れた足跡が点々と残っていた。

素足の、小さな足だ。

どれも、勝手口の戸の内側から、外の皿に向かっていた。

外から家に入る跡は、ひとつもなかった。

つまりその誰かは、家の中から出てきて、皿の米を食べていたのだ。

私は戸を開けた。

台所には、母が立っていた。

「おかえり。今日は早いやないの」

「母さん、あの皿、誰の分」

母は包丁を持つ手を止めなかった。

「猫よ」

「猫の足跡じゃないよ」

「そう」

母は、まな板に目を落としたまま言った。

「あんたも、見たんやね」

「見たって、何を」

「見えるようになるんよ。裏口から人の家に入る仕事の人は」

意味がわからなかった。

でも母は、それ以上、何も言わなかった。

夕飯の席についた。

母は、茶碗を2つだけ並べた。

食卓は4人掛けで、同じ場所に、同じ椅子が4脚ある。

私は子供のころから、うちの食卓には席がひとつ余っていると思っていた。

父がいたころも、座るのは3人だけだった。

いちばん玄関に近い席は、いつも空いていた。

でもその席の椅子は、毎晩、少しだけ引かれていた。

誰も座っていないのに、人が立ったあとのように。

私はふと、母に尋ねた。

「あの席、なんで毎晩、引いてあるの」

「あんたが生まれた晩から、引いてあるよ」

母は味噌汁を注ぎながら、さらりと言った。

その瞬間、顧客カードの一行が、頭に浮かんだ。

続柄、同居人。名前欄、空白。人数、1。

余っていたのではない。最初から、埋まっていたのだ。

私は箸を持ったまま、その席を見ることができなかった。

椅子の座面が、うっすらと光っていた。

海藻の匂いが、味噌汁の湯気に混ざっていた。

木曜日の返事

次の木曜日、私はいつもの空き地に車を停めた。

17時半になっても、手は震えなかった。

震えるより先に、決めていたことがあった。

その日の配達で、私はすべての勝手口の皿を、ひとつずつ見て回った。

米が減っている家もあれば、手つかずの家もあった。

手つかずの皿の家では、おばあさんの顔が、少しだけ曇っていた。

倉庫の影から、老人が出てきた。

今日は、顔が見えた気がした。

見たことのある顔だった。

子供のころ、食卓の端で、箸を持つ私を見ていた顔だ。

その記憶が本物かどうかは、わからない。

コン、コン、と助手席の窓が鳴った。

窓を下げると、老人は言った。

「わしの名前、そっちの帳面にあるかのう」

私は、配達帳を閉じた。

「帳面には、ありません」

「ほうか」

「でも、憶えています」

老人の口が、ほんの少し開いた。

「子供のころから、同じ席にいたでしょう」

「……ほうよ」

「顔は、ずっと見えませんでしたけど」

「見んようにしとったんは、そっちや」

老人は、責めるでもなく言った。

「ほな、今晩から、世話になる」

窓の外には、もう誰もいなかった。

助手席のシートは、濡れていなかった。

かわりに、ほんの少しだけ、深く沈んでいた。

帰りの道で、私はふたたび突堤の空き地に車を停めてみた。

倉庫の影は、ただの影だった。

それでも、助手席の窓を、1度だけ下げておいた。

その晩、実家に帰ると、台所は明るかった。

母は、茶碗を並べていた。

「今日はな、皿の音が違うたんよ」

母は、私の顔を見て静かに笑った。

「あんた、ちゃんと返事したんやね」

母は茶碗を3つ並べ、いちばん玄関に近い席に、古い箸を置いた。

箸は、父のものでも、私のものでもなかった。

勝手口の石段の皿は、空になっていた。

縁だけが、濡れていた。

その晩は、いつもより、よく眠れた。

夢の中で、誰かが私の隣で、静かに箸を動かしていた。

目が覚めると、枕元に潮の匂いがした。

嫌な匂いではなかった。

これからは毎晩そうなのだろうと、思った。

翌朝、顧客カードの箱を開けると、うちの家のカードの空白の名前欄に、鉛筆で薄く、短い線が引かれていた。

それが斜線なのか、文字の最初の一画なのかは、わからない。

聞かないことにした。

聞けば、呼べるようになる。

呼べば、返事をされる。

今でも、木曜日の夕方は、順路を変えていない。

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