峠の麓の寝息を借りる宿

雪夜の山宿と旅する灯り

寝息を借りる宿がある、と先輩は言った。

冗談だと思って、私は笑った。

先輩は笑わなかった。

湯呑みを置いて、「借りるのは向こうだ」とだけ付け足した。

先輩は私より二十年上のドライバーで、もう現役ではない。

退職の送別会の帰り、駅前の喫茶店で二人だけになった。

「借りる、というのは」と私は聞いた。

「そのままの意味だ」

「何を借りるんですか」

「寝ているあいだの息だよ」

先輩は窓の外の雨を見ていた。

「その宿の名前は」

「ない。看板がないからな」

「場所は」

「峠の麓だ。行けばわかる。行きたくなくても、行く羽目になる」

「泊まったら、どうなります」

「朝は、驚くほど体が軽い」

先輩は初めて、私の目を見た。

「軽いのは、いいことだと思うか」

私は答えられなかった。

その話を、私はそれきり忘れていた。

私は49歳で、冷凍食品を運ぶ長距離ドライバーをしている。

関東の配送センターから北陸の店舗へ、夜通し走る便が主だ。

私は毎朝、目覚めの最初に咳払いをする。

煙草をやめて十年たつのに、その癖だけが残った。

去年の11月、その便が大雪で止まった。

峠が通行止めになり、国道の手前で足止めを食った。

休息時間の規則がある。

無理に動かすわけにはいかない。

運行管理の担当者に電話をかけた。

「近くに泊まれる所を探してほしい」と私は頼んだ。

電話の向こうで、キーボードを叩く音がした。

「峠の麓に、運転手向けの宿があります」

「先輩が言っていた、あそこか」

「名前までは。ただ、うちの人間は昔から使っているそうです」

担当者の声は、少しだけ小さくなった。

「ひと晩だけですから」

何がひと晩だけなのか、私は聞き返さなかった。

電話を切ってから、ふいに先輩の言葉が戻ってきた。

寝息を借りる宿は、本当にあるのかもしれない。

そう思ってから、私は首を振った。

雪の夜に宿があるだけで、ありがたい話だ。

寝息を借りる宿の帳場

宿は、国道から一本入った雪の中にあった。

もとは湯治客のための木造二階建てらしい。

看板はなく、玄関の軒先に電球がひとつ下がっている。

引き戸を開けると、石油ストーブの匂いがした。

帳場に、七十代くらいの男が座っていた。

「お一人ですか」と男は聞いた。

「はい。運行の都合で、ひと晩だけ」

「ご予約は」

「会社が電話を入れたはずです」

男は帳面をめくり、鉛筆で私の名前の横に印をつけた。

「失礼ですが」

鉛筆を止めて、男は顔を上げた。

「寝息は、大きいほうですか」

思わず、私は聞き返した。

「寝息、ですか」

「ええ。大きい方には、手前の部屋をご案内しているんです」

「家内には、よく言われます」

「それなら結構です」

男はそれだけ言って、鍵を差し出した。

二階の手前から二つ目の部屋だった。

「廊下のいちばん奥の部屋は、使っていません。戸は開けないでくださいね」

私は鍵を受け取った。

理由を尋ねる気にはならなかった。

夕食は出ないと言われ、近くのコンビニで買った弁当を部屋で食べた。

壁は薄かった。

隣の部屋から、テレビの音と咳が漏れてくる。

同じような運転手が、ほかにもいるのだろう。

壁を、コンと軽く叩く音がした。

「雪、ひどいですね」

壁の向こうから、年配の男の声がした。

「ええ。峠は明日の昼までかかりそうです」

「そりゃあ、ゆっくり眠れるな」

「おやすみなさい」

「おやすみ。……息、深くな」

最後の一言が、妙に耳に残った。

風呂は貸切で、湯はぬるかった。

部屋に戻って、布団を敷いた。

私は去年の健診で、睡眠時の無呼吸を指摘されている。

それ以来、スマホの睡眠記録アプリを枕元に置いて眠る。

画面を伏せて、充電器につないだ。

枕は固く、そばがらの音がした。

天井の木目が、雪明かりの中でゆっくり泳いで見える。

私は目を閉じて、いつもの数を数えた。

羊ではなく、走ってきた国道のカーブの数だ。

三十まで数えたところで、意識が遠のいた。

録音の開始を確かめて、午後10時に電気を消した。

窓の外では、雪が音もなく降っていた。

廊下の突き当たり

目が覚めたのは、真夜中だった。

時計は見えない。

ただ、部屋の空気が冷えきっていた。

廊下のほうから、音がした。

ずり、ずり。

布を引きずるような、湿った音だった。

ずり、ずり。

音の合間に、細い息が混じる。

吸う。

吐く。

その間隔が、ひどく規則正しい。

人間の寝息にしては、整いすぎていた。

眠っている人間は、もう少し乱れる。

その息には、乱れがなかった。

手本を見ながら吐いているような息だった。

私は、体を動かそうとした。

指一本、動かなかった。

音は、二階の廊下を端から端へゆっくり進んでくる。

戸の前で、ふっと止まった。

隣の部屋のテレビは、いつの間にか消えていた。

咳も聞こえない。

静まり返った宿で、ずりずりという音だけが近づいてくる。

戸の下の隙間から、冷たいものが入ってきた。

古い綿の匂いと、湿った湯の匂いが混じっていた。

湯治客が何十年も使った布団の匂いだ、と私は思った。

そう思うことで、気を保とうとした。

畳の上を、ゆっくり這っている。

足元の布団が、少しだけ持ち上がった。

重みが、ふくらはぎから膝へ上がってくる。

重いのに、体温がない。

そして息が、私の顔の横まで来た。

吸う。

吐く。

私の呼吸と、同じ間隔だった。

私が吸うと、向こうも吸う。

私が吐くと、向こうも吐く。

試しに、息を止めてみた。

胸は、止まらなかった。

私が止めたはずの息が、私の胸の上で続いていた。

吸う。

吐く。

それは、もう私の寝息の音だった。

そこから先は、覚えていない。

気づくと、私は廊下に立っていた。

戸を開けた記憶はない。

足の裏が冷たい。

廊下の電球は消えていて、雪明かりだけが床を青くしていた。

手前の部屋の戸の前を、私は通り過ぎた。

三島さんの部屋のはずだった。

戸の向こうは、物音ひとつしない。

眠っている人の気配すら、そこにはなかった。

そのとき、聞こえた。

いちばん奥の部屋から、私の寝息が聞こえていた。

戸の下から、薄い灯りが漏れている。

灯りの中で、寝息は深く、ゆっくりと続いていた。

使っていないはずの部屋だった。

戸は開けないでください、と男は言った。

私は、戸に手をかけなかった。

後ずさって、自分の部屋に戻った。

布団はまだ温かく、人の形にへこんでいた。

食堂の湯呑み

朝は、階下の食堂に呼ばれた。

長い座卓に、味噌汁と焼き魚が並んでいる。

六十歳くらいの運転手が、先に座っていた。

隣の部屋の人だった。

「おはようございます」と私は言った。

「ああ、手前の二つ目の人か」

男は、箸を持ったまま私を見た。

「三島といいます。ここは長いんですか」

「いえ、昨日が初めてで」

「初めてで、手前の二つ目を引いたのか」

「引いたというか、案内されたんです」

「寝息が大きいからだな」

図星だったが、私は何も言わなかった。

「ここは、寝息を借りる宿と呼ばれている」

「先輩から聞いたことがあります」

「先輩?」

私は先輩の名前を出した。

三島さんは目を細めた。

「ああ、あの人か。あの人は、三晩続けて泊まったんだよ」

「三晩も」

「軽くなりすぎたんだと、あとで言っていた」

「そうか」

三島さんは、少し黙った。

「あんた、昨日は静かだったな」

「静かでしたか」

「壁が薄いから、普通は聞こえるんだ。寝返りも、息も」

湯呑みを持つ手が、わずかに震えていた。

「あんたの部屋からは、何も聞こえなかった」

「私は、いびきをかく方ですが」

「だから言ってるんだ」

三島さんは声を落とした。

「息の音が、まるでなかった」

ちょうどそこへ、帳場の男が味噌汁のおかわりを運んできた。

「よくお休みでしたね」

男は私の前に、静かに椀を置いた。

「廊下まで、寝息が聞こえていましたよ」

「廊下の奥まで、ですか」

「ええ。奥までです」

男は穏やかに笑っていた。

その笑顔の意味を、私は考えないことにした。

三島さんは食事を残して、先に席を立った。

座卓には、三島さんの湯呑みが残っていた。

茶はほとんど減っておらず、湯気も立っていなかった。

縁に、薄く白い息の跡がついていた。

去り際に、私の肩へ手を置いた。

「朝、体が軽いだろう」

「はい。久しぶりに、よく眠れた気がします」

「それが、借り賃だ」

三島さんはそれきり、振り返らなかった。

枕元のスマホ

雪はやんでいた。

峠の通行止めは、昼前に解けるという。

私は支度をして、宿を出た。

玄関で振り返ると、二階の廊下の突き当たりの窓に、灯りはなかった。

トラックの運転席に乗り込んで、エンジンを温めた。

フロントガラスの霜が、ワイパーの下でゆっくり溶けていく。

ダッシュボードの上には、いつもの缶コーヒーが冷えていた。

ふと、自分の喉が少しも渇いていないことに気づいた。

そこで、スマホの録音を思い出した。

再生してみた。

波形は、午後10時40分ごろから穏やかに続いている。

途中で、一度だけ小さな声が入っていた。

壁越しの、三島さんの声だった。

おやすみ。息、深くな。

それ以外の声は、どこにもなかった。

私のいびきだった。

聞き慣れた、少しだけ詰まるような音。

午前2時過ぎ、その波形が二つに分かれた。

私の寝息の上に、もうひとつの寝息が重なっている。

間隔は、最初はずれていた。

それが数分かけて、ぴたりと合っていく。

午前2時の少し先で、私の寝息だけが途切れた。

残った寝息は、朝まで規則正しく続いていた。

音の高さも、詰まり方も、私のものだった。

私は録音を早送りした。

早送りの音の中でも、二つ目の寝息は一定だった。

途切れも、乱れも、一度もなかった。

午前4時56分。

画面の波形が、ひとつだけ大きく跳ねた。

咳払いの音だった。

毎朝、私が目覚めの最初にする、あの咳払いだった。

アラームが鳴ったのは、午前5時。

朝の咳払いは、私より先に済んでいた。

私は、その朝に咳をしなかった。

今もしていない。

それなのに、体は軽く、眠りは以前より深い。

宿の名前は、結局わからなかった。

地図アプリで探しても、あの場所には何も表示されない。

先日、新人の後輩が雪の便に当たった。

湯呑みを置いて、私は笑わずに言った。

寝息を借りる宿がある、と私は今、後輩に話している。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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