寄り物帳に増える鉛筆の行

月明かりの港を望む書庫

その朝、寄り物帳の赤い栞は、私が昨日挟んだ場所よりひとつ先のページにあった。

書庫の鍵を開けたのは、私だ。

その鍵を持っているのは、私と課長だけだった。

課長は、八時半まで庁舎から出てこない。

私は栞を元の場所に戻して、スキャナーの電源を入れた。

昨年の秋から、私は港町の市役所で臨時職員をしている。

二十九歳。前の勤め先が閉まり、この仕事を紹介された。

実家の母は、海のある町へ戻れと前から言っていた。

私は、泳げない。

港の匂いにも、最初は慣れなかった。

魚と油と、湿った縄の匂い。

けれど書庫だけは、紙と埃の乾いた匂いがした。

内容は、漁協の二階にある書庫の古い台帳を、一冊ずつ取り込むことだ。

窓の外には、十二年前に延びた防波堤が見える。

初日に、課長はこう言った。

「あの堤防ができてから、港の内側には何も流れ着かなくなったよ」

だから台帳は、歴史資料として残っているだけだという口ぶりだった。

一番古い帳面が、寄り物帳だった。

明治の頃から、浜に流れ着いた物を一つずつ書き留めたものだ。

下駄の片方。浮き玉。名前の入った湯呑み。

日付、潮の具合、拾った場所。

そして一番右に、受取の欄がある。

持ち主が現れたら、そこに本人が名前を書く決まりらしい。

前任の村瀬さんは、机の引き出しに付箋を一枚残していた。

「鉛筆の行には触れないこと」

それだけだった。

村瀬さんは、先月から来ていない。

課長に聞くと、「体調だろう」と目をそらした。

引き出しの奥には、村瀬さんの保温ボトルが置きっぱなしだった。

昼は、一階の事務室で西田さんと食べる。

西田さんは漁協の事務を三十年やっている、五十代の人だ。

「小屋のほうは、行かなくていいからね」

彼女は卵焼きを箸で割りながら言った。

「物置ですよね」

「物置よ。ただ、子供の頃から入るなって言われてたの」

「どうしてですか」

「さあ。理由を聞いた子は、いなかったな」

笑い話のように言ったが、卵焼きは口に運ばれなかった。

私は午後の作業に戻った。

スキャナーの光が古い紙の上を一往復するたびに、書庫は少しだけ明るくなる。

その規則正しさが、私は好きだった。

その日は雨で、私は白い折り畳み傘を窓際のフックに掛けた。

持ち手には、黄色い養生テープが巻いてある。

鉛筆の行には触れない

最後のページを開くと、確かに鉛筆の行があった。

インクの最後の行の下に、薄い字が三行だけ並んでいる。

「十月七日 赤い片方の手袋 一」

「十月九日 空の弁当箱 一」

「十月十一日 古い定期入れ 一」

どれも、受取の欄は空白だった。

万年筆を習った世代の、整った字だった。

私は前のページに戻って、インクの行を読み返した。

明治の行には、奇妙な物も並んでいる。

「提灯 火の入ったまま 一」

「櫛 濡れず 一」

昭和三十八年には、「子供用の草履 片方」。

受取の欄には、不揃いな字で「浜田正夫」とある。

子供の字だ。一画ずつ、力を込めて書いている。

浜田正夫。

漁協の玄関先に毎日座っている人の名前だった。

台帳の他のどこにも、今年の日付はない。

私は写真を撮り、触れずに次のページへ進んだ。

その夕方は締め切り前で、十九時過ぎまで書庫に残った。

階下から、音がした。

濡れた布を、板の上に置くような音。

間を置いて、もう一度。

さらに、もう一度。

一階は、寄り物小屋と呼ばれる物置だ。

課長に電話をかけると、鍵は玄関の鍵箱にあると言われた。

「見に行くのは構わない。ただ、棚の物には手を出さないように」

「何か置いてあるんですか」

「いや、何もない。何もないはずだ」

通話は、そこで終わった。

外は、雨も上がっていた。

小屋の錠を開けると、潮の匂いが先に出てきた。

スマートフォンの明かりで、奥の棚を照らす。

棚には、何も載っていなかった。

ただ、棚の下に渡された一枚の板だけが、黒く濡れていた。

床は乾いている。

天井にも、水の漏れた跡はない。

私は板に手を当てた。

海の水の冷たさだった。

私は手を拭いて、棚の前にしばらく立っていた。

誰かが後ろに立っているような気がして、振り返った。

入口の外に、自分の影だけがあった。

先に届く物の話

翌朝、鉛筆の行は四行になっていた。

「十月十五日 白い折り畳み傘 持ち手に黄色い養生テープ 一」

その日付は、明日だった。

窓際のフックを見る。

私の傘は、そこに掛かっていた。

持ち手の養生テープは、三年前に自分で巻いたものだ。

誰が、なぜ、これを知っているのか。

傘の持ち手のテープのことは、誰にも話していない。

西田さんにも、課長にも。

それなのに、行には「黄色い」と書いてある。

村瀬さんが書いたのかもしれない、と思った。

けれど鉛筆の字は、村瀬さんの付箋の字とは違っていた。

昼前に、一階の玄関先で浜田さんに会った。

漁協の元理事で、八十二歳。毎日十時に、同じ椅子で茶を飲んでいる。

「寄り物帳か。まだ読んどるのか」

「鉛筆の行は、誰が書いているんですか」

浜田さんは、湯呑みを置いた。

「書いとるんじゃない。先に届くんだ」

「届く?」

「普通は、持ち主が失くして、誰かが拾う。ここは逆でな。持ち主より先に、物が着く」

「でも課長は、堤防ができてから何も流れ着かないと」

「内側にはな。堤防の外から来とるわけじゃない」

彼は窓の方を見た。

私も見た。防波堤の向こうは、凪いでいた。

「受取の欄に名前を書けば、その物は持ち主のところへ戻る。書かなければ、棚に残る」

「残ると、どうなるんですか」

「どうもならん。ただ、置かれたままだ」

「村瀬さんの付箋は」

「あの人はな、一度、鉛筆の行を消しゴムで消したんだ」

湯呑みの中で、茶が小さく揺れた。

「それで」

「次の日から来なくなった。棚には、名札だけ残っとった」

「課長は、体調だと言っていました」

「課長は、受取の欄を見とらんのだよ」

その夜、小屋の棚に向けて、スマートフォンを立てて録画した。

三脚がわりに、湯呑みを二つ重ねた。

朝になって、動画を早送りで確かめた。

午前四時四十分。

画面の中の板が、一瞬で黒くなった。

誰も映っていない。波の音も入っていない。

ただ、湿った布が板に置かれる音だけが、確かに録音されていた。

再生を止めたとき、湯呑みの口に、うっすらと塩が浮いていた。

その後も、何も流れ着かないはずの港で、棚の下の板だけが毎朝濡れていた。

傘が棚にあった朝

十月十五日、私は傘を持って出勤した。

バスの中で、座席の横に立てかけた。

降りる時に手に取った記憶が、どうしても出てこない。

気づいたのは、バスが走り去ったあとだった。

慌ててバス会社に電話をした。

「白い折り畳み傘ですね。届いておりません」

その返事を聞きながら、私はもう分かっていた。

昼休みに、小屋の鍵を借りた。

棚の真ん中に、白い折り畳み傘が置かれていた。

持ち手に、黄色い養生テープが巻いてある。

傘はびっしょりと濡れていた。

雫が、下の板に一つずつ落ちていた。

私は傘に触れなかった。

触れれば、受け取ったことになる気がした。

雫の音は、拍を数えるように規則正しかった。

一、二、三。

十まで数えたところで、数えるのをやめた。

私は、受取の欄を思い出した。

傘は取り戻したい。けれど名前を書くことは、何かを認めることのような気がした。

その夜、帰る前に書庫へ上がった。

鉛筆の行の隣に、書庫のボールペンを置いた覚えはない。

けれど机の上に、ペンが出ていた。

気づくと、手が伸びていた。

ペン先が、受取の欄の少し上で止まった。

自分の名前の一画目を、指が覚えていた。

私は手を引っ込め、ペンを引き出しの奥へ放った。

手のひらが、汗で濡れていた。

鉛筆の行は、六行になっていた。

最後の行を、声に出さずに読んだ。

「十月十七日 市の名札 一」

私は胸元を見た。

首から下げた名札が、急に重くなったように感じた。

明後日の私の名札が、もう棚にあるのだと分かった。

傘の受取欄には、名前を書かなかった。

そのかわり、課長に「十七日は休みます」と伝えた。

「体調か」

「そうです」

課長は、少しだけ笑った。

「それがいい」

その言い方は、「見とらん」人のものには聞こえなかった。

寄り物帳の受取欄

十七日は、一歩も家から出なかった。

窓を閉め、携帯を伏せ、夜までテレビをつけていた。

昼に、母から電話があった。

「元気にしてる?」

「うん。今日は家にいる」

「珍しいわね。ちゃんと食べなさいよ」

電話を切ってから、冷蔵庫を開けた。

卵が二つと、飲みかけの麦茶だけだった。

夕方、玄関のポストにチラシが一枚入った。

町内の防災訓練のお知らせだった。

読んでいると、紙の端がわずかに湿っているのに気づいた。

午前四時四十分に、目が覚めた。

理由はない。

台所のほうから、音がした。

濡れた布を、板の上に置くような音だった。

私は布団の中で、動かなかった。

音は、三回で止んだ。

そのあと、部屋に潮の匂いが薄く残った。

窓は閉めたままだった。

翌十八日の朝、八時前に書庫の鍵を開けた。

寄り物帳を開き、最後のページへ進む。

鉛筆の最後の行の、受取の欄に文字が入っていた。

受取の欄には、私の字で私の名前が書いてあった。

日付は、私が一歩も家から出なかった十七日だった。

止めも払いも、私の癖のままだった。

万年筆のように整った字ではない。

履歴書に書く、いつもの字だった。

念のため、手元のメモ帳に同じ名前を書いて並べた。

どちらが先に書かれたのか、もう区別がつかなかった。

階下の小屋へ降りた。

棚の奥に、名札が二つ並んでいる。

一つは、古びた「臨時職員 村瀬」の札。

もう一つは、私の名札だった。

私は自分の名札を取って、首に掛けた。

冷たくはなかった。体温と同じぬるさだった。

書庫へ戻ると、課長が戸口に立っていた。

「休みの日に、来たのか」

「いえ。今朝が初めてです」

課長は私の胸元を見て、小さく頷いた。

「似合ってるよ、その名札」

それ以来、私は鉛筆の行に触れていない。

消しゴムは、引き出しにしまってある。

今朝も、書庫の鍵を開けたのは私だ。

その鍵を持っているのは、私と課長だけだ。

栞は、私が昨日挟んだ場所よりひとつ先にあった。

毎朝、そうだ。

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