点呼の数が合ってしまう

夕暮れの団地と引っ越し作業員

出発前の点呼は、班長の「3人、よし」で終わる。

俺が勤める引っ越し会社には、そういう決まりがある。

作業員の数を声に出して数える。

それから荷台の戸を閉め、エンジンをかける。

点呼の数が合わなければ、トラックは動かさない。

古い会社の、古いやり方だ。

去年の11月、最後の土曜に入った仕事から、俺はこの点呼が少し怖くなった。

今日はその話をする。

先に、うちの班のことを書いておく。

班長は久保田さん、52歳。

無口な人で、昼飯はいつもカツ丼を頼む。

後輩は岡本、22歳。

入社2年目で、声が大きい。

俺は27歳で、入社して5年になる。

担当は積み付けと、冷蔵庫やタンスといった重量物の搬出だ。

3人1組で、2トンのロングを回す。

1日に2件か3件。

作業日報はスマホのアプリで付ける。

積込開始、積込完了、到着、搬入完了。

ボタンを押すと、時刻が自動で入る。

久保田さんには、出発前にもうひとつ癖がある。

班長は出発前に、荷台の奥へ向かって小さく頭を下げる。

誰もいない荷台に、だ。

岡本が一度、「班長、それ何すか」と聞いたことがある。

「運送屋の癖だ」と久保田さんは言った。

「荷台は預かりもんだからな」

それ以上は、誰も聞かなかった。

事務所の壁には、創業当時の集合写真が掛かっている。

トラックの前に、作業員がずらりと並んで写っている。

俺は一度も、その人数を数えたことがない。

入社したての頃、俺は点呼の数を数え間違えて叱られたことがある。

「数は嘘をつかん」と久保田さんは言った。

「合わなければ、どこかで誰かが増えたか減ったかだ」

その言葉が、あとになって何度も耳に戻ってきた。

その日の朝も、営業所のホワイトボードには3件の予定が並んでいた。

最後の1件の欄に、見慣れない書き方があった。

「古川様 緑ヶ丘団地4号棟 → 新栄ハイツ」

その下に、赤いマーカーでこう添えてある。

「団地最後の一世帯。荷物は丁寧に」

「最後って何すか」と、岡本がおにぎりを食べながら言った。

「来月から解体だ」と久保田さんは答えた。

「他の部屋は、もう全部出てる」

「うわ、貸し切りじゃないすか」

岡本は笑った。

久保田さんは笑わなかった。

11月の朝は冷えていた。

点呼を終えて乗り込んだ運転席の窓に、白く息の跡が残った。

最後の一世帯

緑ヶ丘団地は、市の外れにある5階建ての集まりだ。

エレベーターはない。

昭和の終わりに建った階段室型で、コンクリートの壁に雨だれの筋が走っている。

4号棟の駐車場にトラックを停めると、周りの棟はどれも静かだった。

窓にはベニヤ板が打ってある。

洗濯物も、ベランダの自転車もない。

人の気配が抜けた建物は、思った以上に音を吸う。

岡本の足音だけが、やけに大きく響いた。

久保田さんは4号棟の入口に立って、建物を見上げた。

それから、誰にともなく小さく頭を下げた。

荷台の奥に下げるのと、同じ角度だった。

「ここもか」と、俺は思った。

口には出さなかった。

依頼主の古川ヨシさんは、81歳の小柄なおばあさんだった。

4階の端の部屋で、玄関を開けるなり「寒いのにすみませんねえ」と言った。

手には、みかんを入れた紙袋を提げていた。

「あとで皆さんで食べてください」

「ありがとうございます」と、俺は受け取った。

部屋の中は、きれいに片付いていた。

荷造りも、ほとんど済んでいた。

残っているのは大物ばかりだ。

冷蔵庫、洗濯機、整理ダンス、ダイニングテーブル。

ダイニングテーブルには椅子が4脚あった。

「ご家族は何人で住んでらしたんですか」

久保田さんが、段ボールに封をしながら聞いた。

「主人と、娘と、私です」

古川さんは、台所の窓を見ながら答えた。

「主人は先に逝きまして。娘は結婚して出ましたから、ここ10年は私ひとりで」

「長いこと、お世話になった部屋なんですねえ」

「ええ。最後まで居座っちゃって」

古川さんは笑った。

笑ったあとで、少しだけ声を落とした。

「みんな、出ていったんです。1軒ずつ」

「でも、寂しいと思ったことはなかったんですよ」

「賑やかでしたから」

俺はその意味を聞き返さなかった。

聞き返せない空気が、台所にあった。

久保田さんが、玄関から部屋の奥へ向かって、また頭を下げた。

「お預かりします」

小さな声だった。

古川さんはそれを見て、ほんの少し目を細めた。

何も言わなかった。

郵便受けの順番

搬出を始めて間もなく、変な音に気づいた。

廊下の向こうで、郵便受けの蓋が鳴った。

かたん。

少し置いて、隣の部屋で、また鳴る。

かたん。

かたん、かたん、と、棟の端から端へ順番に伝わっていく。

「風っすかね」と岡本が言った。

「どの部屋も、ドアは閉まってる」

「じゃあ、野良猫とか」

「猫が、全部の郵便受けを順番に押すか」

岡本は黙って、段ボールを持ち直した。

音は、4階の廊下を端まで行って、階段のほうへ消えた。

そのとき、古川さんが台所で静かに言った。

「いつもの見回りですよ」

俺たちは、誰もその続きを聞かなかった。

最初の大物は冷蔵庫だった。

240リットルの2ドアで、中身はもう空だ。

それでも、本体だけで70キロはある。

階段を4階から下ろすのは、この仕事で一番きつい作業のひとつだ。

下側は俺、上側は岡本が持つ。

久保田さんは階段の下で、誘導と声かけをする。

「いくぞ」

「はい」

「せーの」

冷蔵庫が床から離れた。

軽い。

俺はそう思った。

下側は重みが全部かかるはずなのに、手のひらに来る力が半分もない。

腰を落とすまでもなく、すっと持ち上がった。

「先輩、今日ラクっすね」

岡本が、上から声をかけてきた。

「古い型だからだろ」

「いや、それにしても」

階段を1段ずつ降りた。

踊り場まで来たところで、俺は気づいた。

冷蔵庫の底の左側に、指の感触があった。

俺の手のすぐ隣だ。

小さな指が、底板を下から支えていた。

そういう感触だった。

冷たくも温かくもない。

ただ、確かに押し上げる力があった。

「止まれ」

自分でもびっくりするほど低い声が出た。

2人とも動きを止めた。

「どうしたんすか」

「……いや」

俺は手を引っ込めなかった。

引っ込めたら冷蔵庫が落ちる気がした。

「岡本、お前、下から押してないよな」

「え、俺は上っす」

「だよな」

岡本が黙った。

それから、小さな声で言った。

「先輩の側、俺も軽く感じてました」

踊り場の窓から、灰色の光が差していた。

下を見ると、久保田さんが階段の途中で、じっと冷蔵庫の底を見上げていた。

「そのまま降ろせ」

久保田さんは、それだけ言った。

「ゆっくりだ。急ぐな」

俺たちは黙って降りた。

指の感触は、1階の踊り場までついてきた。

トラックの昇降板に冷蔵庫を乗せた瞬間、ふっと消えた。

同じことが、洗濯機でも、整理ダンスでも起きた。

どれも、俺が持つ側だけが軽かった。

昼は、駐車場のトラックの運転席で食べた。

久保田さんはカツ丼、岡本はコンビニの弁当、俺は古川さんにもらったみかんだった。

「班長、あれ、何だったんすか」

岡本が、箸を止めて聞いた。

「何がだ」

「冷蔵庫っすよ。軽かったの」

「古い型だ」

「いやいや」

「古い型だ」

久保田さんは、それ以上、何も言わなかった。

カツ丼の蓋を閉める音だけが、運転席に響いた。

午後は、残りの段ボールと玄関まわりの養生を撤去する作業だった。

廊下に敷いたシートを剥がしているとき、俺は妙なものを見つけた。

シートの上に、靴下で歩いたような足跡が残っていた。

薄く濡れた、小さな足跡だ。

部屋の奥からではなく、玄関のほうから外へ向かっていた。

俺は4階の廊下から階段まで、その跡を目で追った。

跡は階段を降りて、1階の駐車場まで続いていた。

トラックの昇降板の前で、途切れていた。

俺は写真を撮らなかった。

撮ってはいけない気がした。

点呼の数が合う帰り道

積み込みが終わったのは、午後2時過ぎだった。

古川さんは、娘さんの車で先に新居へ向かうことになった。

「あの部屋、よろしくお願いしますね」

車の窓から、古川さんは言った。

荷物のことだと思ったが、そう言い切れない言い方だった。

久保田さんは、古川さんの車が見えなくなるまで、その場に立っていた。

それから、トラックの前で点呼を取った。

「岡本」

「はい」

「藤井」

「はい」

「久保田。3人、よし」

点呼の数は、合っていた。

3人。確かに3人だった。

荷台の戸が閉まり、鍵が回った。

俺はこのとき、あることに気づいた。

久保田さんが、荷台の奥へ頭を下げなかった。

古川さんの車を見送っていて、忘れたのだ。

あるいは、見送りのほうに気を取られたのかもしれない。

いつもの癖が、その日だけ抜けた。

俺はそれを、少し気にしながらも、何も言わなかった。

新栄ハイツは、団地から車で25分のところにある、新しい7階建てのマンションだった。

古川さんの娘さんの部屋は3階だ。

エレベーターがあるので、搬入は楽だった。

荷物が軽いわけではない。

ただ、冷蔵庫のときの、あの感触はもう来なかった。

全部が普通の重さに戻っていた。

「ほっとしますね」と、岡本が小声で言った。

俺もうなずいた。

家具の設置が終わり、最後にダイニングテーブルを置いた。

古川さんの娘さんは、テーブルの周りに椅子を並べて首をかしげた。

「あれ。椅子、1脚多くない?」

古川さんがやってきて、椅子を数えた。

「うちの椅子は、3脚のはずなんです」

古川さんは、静かにそう言った。

「団地で、ずっと使ってきたのは3脚で」

「でも、運んでもらったのは4脚ですよねえ」

娘さんが笑った。

「お母さん、数え間違いよ」

「そうかしらねえ」

古川さんも笑った。

けれど、その目は椅子から離れなかった。

久保田さんが、4脚目の椅子を黙って持ち上げた。

それをテーブルから少し離れた壁際へ置いた。

「こちらは、ここでお預かりします」

誰も、その言い方を変だとは言わなかった。

作業の合間に、娘さんが俺に小声で言った。

「母、団地を出るのを嫌がらなかったんです」

「ずっと、あの部屋を離れないって言ってたのに」

「ある朝、急に、もう行きましょうって」

「何かあったんでしょうか」

俺は答えられなかった。

「寂しくなかったですか、って聞いたら、母、こう言ったんです」

「ひとりじゃないから、って」

作業完了の報告をしようとして、俺はスマホの日報アプリを開いた。

「搬入完了」のボタンを押す前に、画面を見て手が止まった。

すでに、押されていた。

時刻は14時52分。

俺たちがマンションに到着したのは15時03分だ。

到着より11分、搬入完了のほうが先になっていた。

「バグっすかね」と岡本が言った。

「そうだろ」

俺はそう答えた。

自分でも、ずいぶん薄い返事だと思った。

帰りのトラックは、夕方の国道を走った。

運転は久保田さん、助手席に俺、真ん中に岡本。

荷台はからっぽだった。

信号で止まったとき、岡本がふいに言った。

「今、後ろで誰か数えてません?」

「ラジオだろ」

「いや、ラジオ、消えてますよ」

言われて気づいた。

カーラジオは、行きから消えたままだった。

窓の外で、信号が青に変わった。

トラックが動き出す。

荷台の奥のほうから、かすかな声がした。

「いち、に、さん」

俺たちの人数だった。

そのあとで、少し遅れて、もうひとつ聞こえた。

「よん」

久保田さんは何も言わず、前を向いていた。

ハンドルを握る指の関節が、白かった。

営業所に着くまで、誰も口をきかなかった。

車庫に入れたあと、久保田さんは荷台の戸を開けた。

奥に向かって、何も言わずに立っていた。

10秒ほど、そうしていた。

それから、静かに戸を閉めた。

管理人の昔話

年が明けて、1月の半ば。

営業の村井さんが、事務所で俺を呼び止めた。

「藤井、新栄ハイツって覚えてる?」

「去年の秋に行きました。団地のおばあさんの」

「そこの3階から、引っ越しの見積もり依頼が入ってな」

「同じ階の別の部屋だ」

俺は、嫌な予感を覚えた。

担当は、また俺たちの班になった。

2月に1件、3月にもう1件。

4月に2件が重なった。

どれも新栄ハイツで、どれも3階から5階だった。

作業の日は、毎回、同じことが起きた。

俺が持つ側だけが、軽かった。

荷台の奥で、誰かが数えた。

「いち、に、さん、よん」

久保田さんは、毎回黙って聞いていた。

岡本は、いつの間にか冗談を言わなくなった。

4月の現場で、依頼主の若い女性が、玄関で俺にこう言った。

「夜中に、台所で椅子を引く音がするんです」

「見に行くと、椅子が1脚、テーブルから出ていて」

「座ってみたら、そこが誰かの席みたいな気がして」

「私のほうが、あとから来たみたいで」

彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「だから、引っ越すことにしたんです」

「見積もりは、自分で頼んだんでしたっけ」

彼女は、最後に小さくつぶやいた。

俺は、答えなかった。

5月の終わり、搬出の合間に、マンションの管理人と話す機会があった。

70代の、よく喋る男の人だった。

「また出るのかい、あの階の人」

「そうです」

「半年で、もう7世帯だ」

管理人はため息をついた。

「おかしな話でね。出ていく人が、みんな同じこと言うんだよ」

「何て言うんですか」

「引っ越しの見積もりなんて、頼んだ覚えがないって」

俺は黙った。

「でもフォームから申し込みが入ってて、確認のメールも届いてる」

「本人のスマホには、送信した記録もちゃんとある」

「それで、みんな、出ていくんだ」

「どうして出ていくんですか」

「さあね」

管理人は首を振った。

「ただ、決まって言うんだよ。朝になると、椅子が1脚多いって」

俺の背中を、冷たいものが滑った。

「3階のあの婆さん、団地から来た人だろう」

「そうです」

「団地にいた頃は、一度も引っ越したいなんて言わなかったらしい」

「そりゃそうだ。あそこは、最後まで残る人がいたんだから」

その言葉の意味を、俺は聞き返せなかった。

聞いても、答えは出ない気がした。

管理人は、俺の顔をじっと見た。

「あんた、顔色悪いよ」

「寒い日ですから」

そう答えたものの、5月だった。

帰りのトラックで、久保田さんに聞いた。

「班長。あの日、荷台に頭を下げ忘れましたよね」

久保田さんは、少し黙った。

「ああ」

「古川さんの車を見ていてな」

「それで、どうなるんですか」

「どうもならん」

久保田さんは、前を向いたまま答えた。

「預かったもんは、預かった先で降ろす。それだけだ」

「降ろしそびれたら」

「そのときは、もう一度預かる」

意味がわからなかった。

わからないまま、俺はうなずいた。

空欄の依頼主

先月の話だ。

その前に、岡本のことを書いておく。

岡本は、6月に辞めた。

理由は、聞かなかった。

最後の日に、岡本は荷台の戸を閉めながら言った。

「俺、あそこで手を振られたんすよ」

「先輩の側じゃなくて、俺の側で」

そのとき、岡本は笑っていた。

笑い方が、前と違っていた。

新しい後輩が入ったのは、7月だ。

点呼の数は、また3人に戻った。

営業所に着くと、村井さんが俺を手招きした。

「藤井。これ、お前んちじゃないか」

差し出されたのは、見積もり依頼のプリントだった。

依頼住所の欄を見て、息が止まった。

俺のアパートの住所だった。

部屋番号まで、合っていた。

依頼主の欄は、空欄だった。

連絡先も、メールアドレスも、何も入っていない。

受付の時刻は、昨夜の23時48分。

俺はその時間、部屋で寝ていた。

備考欄には、「4人で来てください」とだけ書かれていた。

「いたずらですかね」と、村井さんが言った。

「そうだと思います」

俺はそう答えて、プリントを折りたたんだ。

折った紙が、やけに重かった。

久保田さんは、その日の午後に営業所へ戻ってきた。

俺が黙ってプリントを渡すと、久保田さんは、長いこと眺めていた。

「断る理由が、ないな」

久保田さんは、そう言った。

「班長」

「お前の部屋から、先に出してやらんといけない」

「何をですか」

久保田さんは、答えなかった。

その晩、俺は部屋に帰った。

玄関の灯りをつけて、台所へ進んだ。

ダイニングテーブルに、椅子が2脚あった。

1人暮らしの俺は、1脚しか持っていない。

俺はしばらく、その2脚目を眺めていた。

腰を下ろす気には、とてもなれなかった。

窓の外では、隣の棟の灯りがひとつ消えるところだった。

スマホを見ると、日報アプリに通知が来ていた。

明日の予定表だ。

積込開始の欄には、もう時刻が入っていた。

昨夜と同じ、23時48分。

今は、まだ21時だった。

翌朝、営業所のホワイトボードには、俺の住所が書かれていた。

今度の仕事は、俺の部屋だ。

点呼の数は、毎朝合っている。

合っていることが、問題だった。

点呼のとき、俺は荷台の奥のほうを見ないようにした。

久保田さんが、いつもの声で言った。

「岡本」

「はい」

「藤井」

「はい」

「久保田。3人、よし」

そのすぐ後ろで、誰かがひとつ、小さく息を吸う音がした。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。