
午前2時14分に、注文が一件入った。
配達専門の小さな店で、タブレットが鳴るのは日常のことだった。
けれど画面に出た品名を見て、私は菜箸を持ったまま手を止めた。
「鼠の天ぷら 1匹」
値段は0円。
備考欄には「出来たてを。皿は要りません」とある。
私の店のメニューに、そんな品はない。
去年の11月8日、夜の話だ。
私は36歳で、居酒屋の揚げ場に10年立っていた。
独立できるほどの資金はなかった。
それで去年の4月、商店街の裏手にある空き店舗を借りた。
間口が一間ほどの、元は豆腐屋だった店だ。
壁のタイルには、水に濡れ続けた跡が、薄い筋になって残っていた。
家賃は、相場の半分にも届かなかった。
不動産屋が出した条件は、紙一枚だけだった。
「毎月8日の晩は、日付が変わる前に油を新しくすること。」
「古い油は流さず、勝手口の缶へ空けること。」
理由は書かれていなかった。
私も、聞かなかった。
油を替えるだけなら、こちらに損はない。
缶は、翌朝にはいつも空になっていた。
回収業者でも来ているのだろう、くらいに思っていた。
勝手口の外には、防犯カメラを一台つけてある。
開業の日、私は注文が入らないことを覚悟していた。
看板も出していない、裏手の店だ。
それでも初日の閉店までに、注文は42件入った。
翌日も、その翌日も、数字はほとんど変わらなかった。
雨でも雪でも、同じだった。
増えもせず、減りもしない。
税理士をしている友人は、安定しすぎていると笑った。
私は、運がいいのだと思っていた。
受け取りに来るライダーは、毎晩ほとんど同じ人だった。
黒いヘルメットを深くかぶった、小柄な人だ。
口をきいたことは、一度もない。
勝手口の前には、いつも同じライダーが先に立っていた。
呼び出した覚えのない時間にも、そこにいた。
助かるので、深くは考えなかった。
最初の8日のことは、よく覚えている。
午前2時14分に、かき揚げの注文が入った。
いちばん小さいもの、と備考にあったので、親指ほどの大きさに揚げた。
海老は一尾、玉ねぎは薄く、衣は軽く。
居酒屋の癖で、同じものを自分の分にも一つ揚げた。
勝手口を開けると、ライダーは袋の口を広げて待っていた。
戻って皿を見ると、私の分のかき揚げが、一つ減っていた。
二つ揚げて、残っているのは一つだった。
自分で食べたのだろう、と思うことにした。
その注文の名前は「いな」だった。
以来、毎月8日の午前2時14分には、決まって同じアカウントから注文が入った。
品は「いちばん小さいかき揚げ」で、備考は「小さめで」。
チップ欄には毎回、十円と出た。
十円のチップは珍しくて、最初の月は少し笑った。
星は、いつも5だった。
11月の8日だけが、違った。
メニューにない一品
その晩の「いな」の注文は、かき揚げではなかった。
品名は、鼠の天ぷら。
私は笑って、画面のその品を長押しした。
店舗の編集画面を開き、メニューの一覧を上から順に見た。
どこにも、そんな品は載っていない。
競合店のいたずらだろう、と思った。
「キャンセルします」
独り言を言いながら、キャンセルを押した。
注文は消えた。
10秒後、同じ注文が、同じ時刻の表示のまま戻ってきた。
もう一度消すと、また戻った。
3回目で、私はタブレットを伏せた。
アプリのサポートにも、問い合わせた。
自動応答のあとに、人間らしい返信が来た。
「該当の注文は、こちらでは確認できません」
画面には、確かにその注文が出ている。
画面の写真を送ると、返信は止まった。
その直後、画面の上に「配達員が到着しました」と出た。
まだ、何も作っていない。
防犯カメラの映像を、携帯に出した。
勝手口の前に、あのライダーが立っている。
バッグの口を開けて、両手でこちらに差し出していた。
空のバッグだった。
手袋の指先が、ひどく細く見えた。
私は、ドアを開けずに声をかけた。
「すみません。これ、うちの品じゃないんです」
返事はなかった。
ヘルメットが、わずかに傾いただけだった。
そのとき、電源を切ったはずのフライヤーから、音がした。
ぱちぱち、ぱちぱち、と、油の弾ける細かい音だ。
近づいてみた。
油の面は、鏡のように静かだった。
音だけが、すぐそばで続いていた。
揚げ物を10年やっていると、音の聞き間違いはしない。
あれは、確かに何かが揚がっている音だった。
店の中には、ごま油の匂いが漂い始めた。
私が使っているのは、米油だ。
ごま油は、店に一本も置いていない。
匂いは揚げ場の奥から、床を這うように広がった。
揚げ場の前に立って、時計を見る。
2時20分。2時30分。
秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。
私は、近くにあった鍋蓋を握りしめた。
何かに使うつもりではなかった。
ただ、手に何かがほしかった。
それでも私は、ドアを開けなかった。
どれくらい経っただろう。
3時5分に、画面の表示が変わった。
「配達員が出発しました」
カメラの中のライダーは、バッグを開いたまま、闇の中へ歩いて行った。
何も受け取らずに。
朝になって画面を見ると、注文は「配達完了」になっていた。
品名の下に、レビューが付いている。
★2。
「本物ではありませんでした」
私は、何も作っていない。
何も、出していない。
それでもその品には、星が付いていた。
勝手口の足跡
朝の光の中で、勝手口を見に行った。
置きっぱなしにしていた小麦粉の袋が、少しだけ口を開けていた。
こぼれた粉の上に、足跡があった。
細く尖った、小さな足跡だ。
物差しを当てると、4センチもなかった。
足跡は二つずつ並んで、勝手口の敷居から、フライヤーの前まで続いている。
帰りの足跡は、どこにもなかった。
携帯で写真を撮った。
あとで見返すと、画像の粉は、ただ平らに広がっていた。
足跡は、どこにも写っていなかった。
掃除をしようと、箒を取った。
粉の足跡を掃くのは、なぜかためらわれた。
結局、そのままにして、開店の準備をした。
夜に確かめると、足跡は消えていた。
その代わりに、粉の上に、細い線が一本だけ引かれていた。
指でなぞったような、まっすぐな線だった。
缶を開けてみた。
前の晩に空けたはずの古い油は、また空になっていた。
内側まで、洗ったようにきれいだった。
底には、白い毛が一本だけ、貼りついていた。
缶が空なのは、7か月間ずっとそうだった。
でも足跡を見たあとでは、その空っぽの見え方が変わった。
防犯カメラの録画を、最初から確かめた。
深夜0時の最初のコマから、ライダーはもう、そこに立っていた。
注文が入る2時間以上も前だ。
背中を向けて、微動だにしない。
0時から2時14分までの、2時間14分。
画面の隅で、時刻の数字だけが進んでいく。
私は再生を止めた。
アプリのチャット欄から、「いな」に連絡を取ってみた。
「ご注文の品は、メニューにありません」
送信は、できた。
数秒後、既読の印が付いた。
返信は来なかった。
ただ、入力中を示す三つの点が、いつまでも点滅していた。
不動産屋に、電話をかけた。
「あの、8日の条件のことなんですが」
「ああ、はい」
担当者の声は、驚くほど落ち着いていた。
「今月、何かありましたか」
「注文が入りました。メニューにないものの」
「そうですか。もう、半年ですもんね」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「詳しいことは、うちでは分かりません。向かいの乾物屋の女将さんに、聞いてみてください」
それだけ言って、電話は切れた。
私は、携帯を持ったまましばらく立っていた。
半年。
店を借りてから、確かに半年が過ぎている。
でも私は、不動産屋に開業日を伝えた覚えがなかった。
乾物屋の女将の話
昼の仕込みの前に、向かいの乾物屋へ行った。
女将さんは70を過ぎていて、店先で干し椎茸の袋を並べていた。
「あら、揚げ物屋さん。どうしたの、そんな顔して」
「前の豆腐屋さんのことを、聞きたくて」
女将さんは手を止めて、私の顔をじっと見た。
「8日のこと?」
「はい」
「注文、来たのね。何て?」
「鼠の天ぷら、と」
「ああ」
女将さんは、短く息を吐いた。
「やっぱり、そう来たか」
「やっぱり、って何ですか」
「前の親父さんね、8日だけは店を閉めて、自分で何かを揚げてたの」
「何を」
「鼠だって言ってた。私は見たことないけどね」
「それを、どうするんですか」
「小皿に載せて、勝手口の段に置くの。朝には、皿だけが残ってた」
「誰が食べたんですか」
「さあね。親父さんは、お向かいさんって呼んでたわ」
お向かい。
この店の向かいは、女将さんの乾物屋だ。
そう言うと、女将さんは首を振った。
「うちじゃないわよ。裏のほう。昔はね、あの裏に暗渠が通ってたの」
暗渠は今、月極駐車場の下になっているという。
「親父さんは、ご自分では食べなかったんですか」
「味見もしなかったわよ。毎月、手拭いで口を押さえて揚げてた」
「どうして」
「息がかかるといけないって」
女将さんは、そこだけ声を落とした。
「それでね、あの店は60年、売れない日が一日もなかったの。雨でも雪でも、夜中でも、お客さんが途切れなかった」
「誰が買いに来てたんですか」
「誰も見てないのよ。見ようとした人も、いなかった」
「お代は、ちゃんと払ってもらってたんでしょうか」
「それが不思議でね。8日の朝には、勝手口の皿に、十円玉が一枚載ってたんですって」
「十円」
「そう。親父さん、お守りみたいに、レジの横の缶に貯めてた」
私は、チップ欄の十円を思い出した。
画面の十円と、皿の十円が、頭の中でつながった。
「向こうはね、数えるのが好きな人たちなのよ」
女将さんは、干し椎茸の袋を一つ、私の手に持たせた。
「新しい人には、半年は猶予をやる。そのあとは本物だ。親父さん、そう言ってたわよ」
「本物って、本当に鼠ですか」
「それは、親父さんに聞かなきゃ分からないわね」
「親父さんは、今どこに」
「さあ。越して行くとき、鍋だけ置いてったでしょう」
そう言われて、思い出した。
この店には、大きな銅の揚げ鍋が一つ、壁に掛けてある。
前の持ち主の置き土産で、私は飾りにしていた。
「揚げ物屋さん。冗談で済ませないほうがいいわよ」
別れ際に、女将さんは言った。
「向こうは、ちゃんと払ってくれる人たちだから」
店に戻って、壁の銅鍋に触れてみた。
昼の店内は冷えているのに、鍋の内側だけが、わずかに温かかった。
底には、うっすらと油の筋が走っていた。
拭いた覚えは、一度もない。
私はその鍋を、壁に掛けたままにした。
外す気に、なれなかった。
その夜、私は注文の履歴を、地図に落としてみた。
7か月分の配達先を、ひとつずつ打っていく。
8割が、店から200メートルの内側に集まっていた。
月極駐車場。空き地。更地。
どれも、暗渠のあった筋に沿って、細い線になって並んだ。
誰の家でもない住所に、毎晩、揚げ物が届いていた。
そしてライダーは、いつも10分以内に戻ってきた。
芋で作った鼠の天ぷら
本物は、用意できない。
そもそも、鼠を揚げる気には、どうしてもなれなかった。
12月の8日までに、何か手を打つしかない。
私は、芋を相手にした。
紫芋は、八百屋の裏で見つけた。
「天ぷらにするの?」
「ええ。ちょっと、似せたいものがあって」
店のおじさんは、細長い芋を選んでくれた。
「鼠みたいな形のが、いいんだろう?」
手が、止まった。
「どうして分かったんですか」
「いや、冗談だよ。この時期の細いのは、みんなそう見えるから」
おじさんは笑った。
私は、笑えなかった。
里芋は、ぬめりで形が決まらなかった。
山芋は、揚げると膨らんで、ただの白い塊になった。
紫芋が、いちばん良かった。
皮の色が、鼠の背中に近いのだ。
ごぼうを細く削って、尻尾にした。
耳は、薄く切った蓮根。
目は、黒ごまを二粒。
居酒屋で10年揚げ続けた手が、初めてこんな細工に使われた。
最初の試作は、鼠というより、ただの黒豆大福だった。
2回目は、耳が大きすぎて、うさぎになった。
3回目で、尻尾が取れた。
取れた尻尾を、手の上で眺めた。
どこから見ても、ただのごぼうだった。
試作は、7回やった。
揚げ油の温度は、1度ずつ変えて試した。
衣は、薄いほど毛並みに見えた。
天つゆの代わりに、塩を添えることにした。
鼠にめんつゆは、似合わない気がしたのだ。
友人に試食してもらうと、箸を持ったまま首をかしげた。
「かわいいけど、食べにくいね」
「かわいくしたんじゃないの。似せたの」
「何に」
「いや、いい」
友人は帰り際に、玄関で振り返った。
「その鼠、誰に出すの」
「お客さん」
「ふうん。じゃあ、残さず食べてくれるといいね」
そう言って、友人は帰って行った。
12月8日。
午前0時前に、油を新しくした。
古い油を、勝手口の缶へ空ける。
1時20分から、仕込みを始めた。
芋を切り、衣にくぐらせたのは、1時58分だった。
その12分前の1時46分に、タブレットが一度だけ鳴った。
レビューの通知だった。
★3。
「芋でしたね。ずいぶん上手です。でも、鼠ではありません。猶予は、今日で終わりです」
私が芋を切る前に、感想が届いていた。
手の中の菜箸が、少し重くなった。
それでも、手は止めなかった。
揚げ上がりは、驚くほど鼠に似ていた。
2時14分に、注文が入った。
同じ品名で、同じ備考だった。
私はそれを木の小皿に載せて、勝手口を開けた。
ライダーは、そこにいた。
ヘルメットのまま、バッグの口を開いて待っている。
小皿をバッグの上に置くと、ライダーは初めて、軽く頭を下げた。
そして、音を一つも立てずに、闇の向こうへ歩いて行った。
朝、勝手口の段に小皿が戻っていた。
きれいに洗われて、水気まで拭いてあった。
皿の上には、ごぼうの尻尾だけが、一本、真っすぐに残されていた。
笑うところなのだと思う。
でも私は、しばらく笑えなかった。
管理画面の青い丸
1月8日、午前0時前。
油を新しくしながら、私はふと、ライダーのことを考えた。
半年以上、毎晩来てくれている人だ。
それなのに、名前も顔も知らない。
店をたたむことも、何度か考えた。
けれど断る相手が誰なのか、分からなかった。
壁の銅鍋も、見に行った。
油の筋は、前より少しだけ増えていた。
指でなぞると、まだ乾いていなかった。
油を空けたあと、缶の蓋を閉めずに置いてみた。
携帯を立てかけて、缶の口を録画した。
0時40分。
缶の油が、静かに揺れた。
風は、ない。
表面が、細かく波打っている。
誰かが上から息をかけているような、揺れ方だった。
1時を過ぎる頃、揺れは止まった。
朝になって録画を見返すと、缶の油は、少しだけ減っていた。
店舗管理画面の、レビューの一覧を遡ってみた。
半年分の星が、ずらりと並んでいる。
最初の月から、同じ人の書き込みが、毎週のように付いていた。
いつも短い。「ごちそうさま」とだけ。
日付をたどって、最初の一件を開いた。
開業日の、前日だった。
そのまま、配達員の欄を開いた。
見慣れない英数字のIDが、一つ並んでいるだけだった。
その横の、地図のマークを押した。
青い丸が、ぽつんと一つ出た。
私の店の、勝手口の位置だった。
今夜は、まだ注文も入っていないのに。
画面の端に、小さく最終更新が出ていた。
12月8日、2時15分。
配達員の現在地は、先月の8日から、一歩も動いていなかった。
その1か月、私は毎日、あの勝手口から出入りしていた。
ごみを出し、缶を確かめ、洗い物のバケツを空けた。
誰とも、すれ違っていない。
念のため、勝手口を開けた。
外には、冷たい空気と、雪の前のような匂いがあるだけだった。
誰もいない。
けれど足もとの粉の上には、小さな足跡が、二つずつ並んでいた。
私は店の中へ戻り、鍵をかけた。
芋を切った。
ごぼうの尻尾を、短くした。
食べにくいと言われたからだ。
2時14分に、注文が入った。
品名は、同じだった。
備考欄だけが変わっていた。
「今月も、あなたの手で」
私は小皿に天ぷらを載せ、その下に、紙を一枚敷いた。
「鼠は、できません。これが、私の精一杯です」
ボールペンで、それだけ書いた。
勝手口を開けると、誰もいなかった。
小皿を置いた瞬間、耳のすぐ横で、自転車のベルが一度だけ鳴った。
私は振り返らずに、ドアを閉めた。
朝、小皿は洗われて、段の上に戻っていた。
皿の真ん中に、十円玉が一枚置かれていた。
タブレットには、レビューが一件。
★5。
「ごちそうさまでした。来月も、先に立っています」
店の売上は、その月も、一度も落ちなかった。
いまも、毎月8日は来る。
勝手口の前には、たぶん誰かが、先に立っている。
午前2時14分に、また注文が一件入った。