ずぶ濡れの住人は晴れた朝に帰る

木版画風の幽玄な玄関と影の女

自動ドアは、人が来ると開く。

管理人室の窓から、私は毎朝それを眺めている。

7階建てのマンションに勤めて、1年になる。

前は配送の仕事をしていた。

だから人の顔と時刻は、わりとよく覚える。

荷物を抱えた手で、扉を押さえて待つ癖も、その頃についた。

自動ドアのセンサーは、少し鈍い。

人が来てから、半拍遅れて開く。

その半拍に、扉の前に立つ人の癖がよく出る。

7時10分。

夜勤明けの三浦さんが、4階の部屋に帰ってくる時刻だ。

市民病院の小児科で働く、20代後半の看護師さんである。

挨拶の丁寧な人で、私とは毎朝、同じ短い言葉を交わしてきた。

雨の日には、必ず傘を2本持って歩く。

妙な人だな、と最初は思っていた。

去年の9月の、よく晴れた朝のことだった。

その朝、ずぶ濡れの住人が、エントランスを通った。

三浦さんだった。

髪の先から、水が落ちていた。

毛先からは、水が糸のように垂れていた。

色の濃くなった襟元に、細い水草のようなものが一本、絡んでいた。

白いシャツは肌に貼りついて、袖口からも雫が垂れていた。

空には雲ひとつなかった。

傘も、雨具も持っていない。

私は窓のこちら側で、ペンを持ったまま固まった。

三浦さんは、自動ドアを抜けるとき、必ず一拍、立ち止まる。

その朝も同じだった。

立ち止まって、小さく頭を下げた。

「おはようございます」

いつもの声だった。

「おはようございます。……あの」

言いかけて、私は口を閉じた。

聞いてはいけない、という感じがした。

理由はない。

ただ、喉が先に動かなかった。

床を見た。

タイルは乾いていた。

水の跡は、どこにもなかった。

晴れの日の水音

翌朝も、よく晴れていた。

7時10分に、ずぶ濡れの住人は同じように帰ってきた。

前の日と違って、今度は音がした。

ぽた、ぽた、と。

水滴の落ちる音が、彼女の足の運びに合わせて続いた。

私はガラス戸の外の路面を確かめた。

アスファルトは白く乾いていた。

朝刊を取りに来た302号室の男性が、彼女とすれ違った。

「今日も暑くなりそうだね」

男性は私にそう言って、エレベーターへ向かった。

三浦さんの方は、見ていない。

濡れた人が横を歩いたのに、肩ひとつ避けなかった。

私は返事をしそびれた。

「……そうですね」

やっと言った時には、男性はもう背を向けていた。

三浦さんはエレベーターの前に立った。

乗り込むと、「開」のボタンを押した。

扉が閉まらないよう、指で押さえている。

ほんの数秒。

誰かを待つように。

親切な人なのだ、と私は思っていた。

扉が閉まったあと、エレベーターホールに出た。

「4」のボタンが、濡れていた。

指で触れると、冷たかった。

川底の石のような、湿った匂いがした。

ふき取った雑巾は、確かに重くなった。

それなのに、ボタンの下の床だけが、不自然なほど乾いていた。

10時頃、宅配の青年が荷物を持って入ってきた。

顔なじみの青年だ。

「管理人さん、ここ、いつも涼しいっすね」

「そうかな」

「はい。外は蒸すのに、このホールだけ川の近くみたいで」

冗談のつもりだったのだろう。

青年は笑って、台車を押していった。

私は笑えなかった。

川、という言葉が、耳の奥に残った。

昼になって、防犯カメラの録画を見返した。

7時10分の映像には、乾いた三浦さんが映っていた。

髪も、シャツも、いつも通りだった。

ただ、扉が閉まるまでの時間が、いつもより4秒長かった。

その4秒の間、画面の中の三浦さんは、誰もいない後ろを一度も振り返らなかった。

カメラの不具合だ、と私は思うことにした。

夕方の6時過ぎ、三浦さんは出勤のために降りてきた。

今度は、乾いていた。

紺のカーディガンを羽織って、鍵を握っていた。

「いってきます」

「いってらっしゃい。……今朝は、お疲れさまでした」

「今朝? ああ、いつも通りでしたよ」

彼女は首をひねった。

「ちょっと肌寒かったくらいで」

「肌寒い、ですか」

「9月なのに、帰り道だけ空気が冷たくて。変ですよね」

彼女はそう言って、自動ドアを抜けた。

やはり一拍、立ち止まってから。

私はそれを、礼儀正しい癖だと思っていた。

昼の弁当には、箸をつけられなかった。

その夜、自宅の台所で、蛇口から水滴の音がした。

締め直しても、ぽた、ぽた、と止まらなかった。

ちょうど彼女の足音と同じ間隔だった。

管理日誌を開いて、その日の天気と出来事を書き込んだ。

「異常なし」と書いて、手が止まった。

消しゴムで消して、書き直した。

「異常なし。ただし、水の匂いあり」

我ながら、おかしな日誌だと思った。

布団に入っても、音は耳から離れなかった。

翌朝の天気予報は、また快晴だった。

ずぶ濡れの住人

3日目の朝は、先に辻さんが来ていた。

80歳を過ぎた、古くからの住人だ。

管理人室の前の椅子で、新聞を広げていた。

「今朝は、水の匂いがするね」

「そうですか。晴れていますけど」

「晴れた日の、この時期だけなんだよ」

辻さんは、新聞から目を上げなかった。

「4階の三浦さんのお母さんはね、川沿いの道で流されたんだ」

「あの子が小学生の頃の、台風の後でね」

「今日みたいに、きれいに晴れ上がった朝だった」

私は黙って聞いていた。

「戻ってこなかったんだよ」

「あの子は、傘を握って、道の端に立っていた」

「だから今でも、雨の日は傘を2本持って歩くんだよ」

辻さんは、そこで口を閉じた。

7時10分。

自動ドアが開いた。

ずぶ濡れの住人が、いつものように入ってきた。

水滴の音が、その朝は一段と大きかった。

辻さんは新聞を畳んだ。

その視線は、三浦さんの背中ではなく、彼女のすぐ後ろに向いていた。

何も言わずに、辻さんは奥へ消えた。

私はエレベーターホールまで歩いた。

他の住人はいなかった。

三浦さんが「開」のボタンを押して、指で扉を押さえていた。

「三浦さん」

呼ぶと、彼女は振り向いた。

「今日はどうして、濡れて……」

言いきる前に、私は気づいた。

三浦さんは、乾いていた。

髪も、シャツも、朝日を受けて乾いていた。

濡れていたのは、その半歩後ろに立つ、別の誰かだった。

背の高い女性だった。

長い髪が顔に貼りつき、袖の先から水が落ちていた。

足元には、水の跡がなかった。

肌は蝋のように白く、爪の先だけが青かった。

彼女は三浦さんの袖を、指先でつまんでいた。

離すまいとするような、指だった。

その人の髪から、水が一筋、頬を伝って落ちた。

けれど床には、やはり何も落ちなかった。

どこにも落ちない水。

私は初めて、これが「今ここの水」ではないのだと思った。

毎朝、二人はぴったり重なって歩いていたのだ。

私はそれを、ひとりだと思い込んでいた。

濡れた女性が、こちらを見た。

唇が動いた。

声は、三浦さんの口からは出なかった。

「モウ、キカナイデ」

抑揚のない声だった。

録音を再生したような声だった。

「コノコガ、ナクカラ」

三浦さんは、きょとんとした顔で首をかしげた。

「どうかしましたか?」

聞こえていない。

何ひとつ、聞こえていない。

私は首を振った。

「いえ。なんでもないです」

「そうですか。お疲れさまです」

彼女の声は、少し掠れていた。

夜勤の疲れだけではない気がした。

彼女はもう一度、扉を押さえた。

半歩後ろが乗り込むのを、待つように。

扉が閉まると、ホールには静けさだけが残った。

床の上に、雫は一滴も落ちていなかった。

私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

膝の力が抜けて、壁に手をついた。

掌が、濡れていた。

壁の、その位置だけが。

壁紙の継ぎ目から、細い筋になって、水が伝っていた。

私はハンカチで拭いた。

布は、冷たい水を吸って重くなった。

川の匂いは、ゆっくりと薄れていった。

手の震えが止まるまで、5分ほどかかった。

乾いたままの床

翌朝、ずぶ濡れの住人は来なかった。

7時10分に、三浦さんはひとりで帰ってきた。

髪は乾いていて、少し眠そうな顔をしていた。

安堵した途端、目の奥が熱くなった。

「管理人さん、泣いてます?」

「いえ。花粉です」

「9月に花粉ですか」

三浦さんは笑った。

自動ドアを抜けるとき、また一拍、立ち止まった。

あの一拍は、後ろの人が通るのを待つ間だった。

エレベーターの「開」を押していた指は、二人分の時間を稼いでいた。

その日の夕方、三浦さんが管理人室の窓を叩いた。

手には、小さな紙袋があった。

「これ、いつものお礼です」

「お礼をされるようなことは、していませんよ」

「毎朝、挨拶してくれるじゃないですか」

彼女は少し照れたように笑った。

紙袋の中身は、白いハンドタオルだった。

「雨の日に使ってください」

彼女は、それだけ言った。

タオルは今も、管理人室の引き出しにしまってある。

使ったことは、一度もない。

けれど毎年9月になると、私は朝いちばんに、それを一番上に出しておく。

濡れた誰かが、通るかもしれないからだ。

「この時期の帰り道だけ、不思議なんです」

「何がですか」

「ひとりなのに、誰かと一緒に歩いているみたいで」

「寂しくない。というより、ちょっと、安心するんです」

彼女はそう言って、自分の右袖を、指で軽く撫でた。

私は紙袋を受け取って、うなずくことしかできなかった。

数日後、辻さんが管理人室に来て、一言だけ言った。

「見えたのかい」

「半分だけ、見えました」

「そうか。あの子には、言わないでやってくれ」

「言いません」

「母親も、それを望んでいると思うよ」

辻さんは、少し笑ったように見えた。

その笑いは、安心にも、さみしさにも見えた。

彼女には、見えていないのだと思う。

見えないまま、何年も、そうして待ち続けてきたのだ。

以来、あの朝のことは誰にも尋ねていない。

辻さんにも、三浦さん本人にも。

今年も、9月の晴れた週が来た。

朝になると、管理人室にも水の匂いがした。

雨上がりの土と、洗いたての髪の匂いに近かった。

配送の仕事で、私は何度も扉を押さえて待った。

待たれる側の気持ちは、あまり考えたことがなかった。

待たれた人は、たぶん、何も言わずに通り過ぎる。

それでいいのだと、今は思う。

私は扉の前で、いつもより少しだけ多く待つことにしている。

7時10分。

ガラス戸の向こうに、二つの影が見えた。

三浦さんは、見えていないはずの半歩後ろへ、小さく会釈をした。

自動ドアは、今朝も二人分の間、開いたままだった。

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