
これは、俺が三十一歳のときに体験した話だ。
信じてもらえなくて構わない。
実際、俺自身いまだに信じきれていない。
ただ、あの二日間を証明するものが、ひとつだけ手元にある。
天保七年の測量杭という、三十センチほどの木の杭だ。
表面には墨で、方位と距離が書いてある。
その意味がわかるまでに、俺は七年かかった。
杭は今、仕事机の引き出しに入れてある。
大学の研究室に持ち込んで、年輪の分析をしてもらったこともある。
結果は「一八二〇年代から一八三〇年代に伐採された木材と推定される」だった。
天保七年は一八三六年だ。
年代は、合っている。
方位磁針が回る霧
二〇一八年の十月、俺は測量技師として北関東のある町に出張していた。
新しいバイパス道路の建設に伴う用地測量だった。
町の北側に広がる丘陵地帯の境界を確認する仕事だ。
県道から外れた農道を車で二十分ほど走った先。
雑木林と畑が交互に続くような場所で、人家はほとんどない。
十月の半ば、朝から天気が不安定だった。
晴れたり曇ったりを繰り返して、午後になると急に霧が出始めた。
北関東の丘陵地帯では珍しくないことだ。
だが、その日の霧は異常だった。
三メートル先が見えない。
俺は測量機材を片付けて車に戻ろうとした。
測量端末がおかしな挙動をしていた。
座標が飛ぶ。
現在地が百メートル単位でずれる。
電波状況の問題だろうと思ったが、携帯も圏外になっていた。
車はどこだ。
農道沿いに停めたはずだが、霧が濃すぎて方向がわからない。
コンパスを出した。
方位磁針が、ぐるぐると回っている。
北を指さない。
そのとき、トンビが鳴いた。
「ピーヒョロロロ……」
妙に近くで鳴いた気がした。
頭のすぐ上で。
その声を聞いた瞬間、足元がぐらついた。
立ちくらみのような、でもそれとは明らかに違う感覚。
地面そのものが傾いたような。
視界が白くなった。
霧ではない。
もっと根源的な白だった。
俺は意識を失った。
倒れる直前、足の下の土が柔らかくなったのを覚えている。
アスファルトの上に立っていたはずだった。
それが、急に畑の土を踏んだときの感触に変わった。
靴底が沈む。
沈んだまま、戻らない。
耳の奥で、空気の抜けるような音がした。
それから、音がいっさい消えた。
霧の日は音が吸われる、とよく言う。
あれは、そういう静かさではなかった。
音そのものが、一度、無くなった。
下野国安蘇郡の田沼
目を開けると、空が青かった。
霧は消えていた。
仰向けに倒れている。
体の下に、稲の刈り株が当たる。
刈り取った後の田んぼに横たわっていた。
起き上がって周囲を見回した。
畑と田んぼが広がっている。
だが、俺が測量していた場所とは明らかに違う。
アスファルトの農道がない。
電柱がない。
コンクリートの用水路がない。
代わりに、土の畦道と木の水路。
遠くに藁葺屋根の家が点在している。
俺は最初、映画のセットに迷い込んだのだと思った。
でも、どこを見てもカメラもスタッフもいない。
携帯を確認した。
電源は入っているが、圏外。
時刻表示は十四時二十三分。
日付は二〇一八年十月十六日。
充電は六十二パーセント。
畦道を歩いた。
五分ほど歩くと、小さな集落が見えてきた。
五、六軒の藁葺きの家。
庭先で女性が洗濯をしている。
着物姿だ。
「すみません」
声をかけると、女性が顔を上げた。
そして俺の姿を見て、悲鳴を上げた。
無理もない。
俺は作業着にヘルメット、安全ベストという格好だった。
悲鳴を聞いて、家の中から男たちが出てきた。
三人。
一人は刀を腰に差している。
言葉が通じるか不安だったが、意外なことに話は通じた。
方言が強くて聞き取りにくいが、日本語だった。
「おめぇ、どこから来た。何もんだ」
「江戸から来ました」
咄嗟にそう答えた。
「江戸もんが何でそんな格好しとるんだ。その妙ちくりんな被りものは何だ」
ヘルメットのことだ。
俺は慌ててヘルメットを脱いだ。
「旅の途中で道に迷いまして。ここは何という土地でしょうか」
「下野国安蘇郡の田沼じゃ」
下野国。
現在の栃木県。
田沼。
佐野市の旧田沼町あたりか。
俺が測量していた場所から、地理的にはそう遠くない。
「今は何年ですか」
「何を阿呆なことを聞く。天保七年に決まっとろう」
天保七年。
西暦一八三六年。
百八十二年前だった。
俺はその場にしゃがみ込んだ。
男たちは、刀の柄に手をかけたまま動かない。
逃げようとは思わなかった。
どこへ逃げればいいのかがわからなかったからだ。
風が吹いて、稲の刈り株の匂いがした。
乾いた藁の匂いだ。
映画のセットに、この匂いは作れない。
そう思った瞬間に、腹の底が冷えた。
村はずれの小屋の男
混乱する俺を、集落の庄屋が引き取ってくれた。
庄屋は五十がらみの穏やかな男で、名を伊兵衛と言った。
俺の奇妙な格好と持ち物に興味を示しつつも、追及はしなかった。
「訳ありのようじゃな。まあ、飯でも食え」
出されたのは、粟と麦の混じった飯と、味噌汁、漬物。
天保七年といえば天保の大飢饉のまっただ中だ。
この地域ではまだ深刻な飢えには至っていないようだったが、食事は質素だった。
俺は庄屋の好意に甘えながら、状況を整理しようとした。
携帯の写真機能で周囲を撮影した。
これが証拠になるかもしれない。
充電が切れたら終わりだが、今できることはやっておくべきだと思った。
翌日、伊兵衛に連れられて村を案内された。
そのとき、村はずれの小屋に一人の男が住んでいることを知った。
「あの小屋の男は、十年前にお前と同じように現れた」
伊兵衛がそう言った。
俺は小屋を訪ねた。
中にいたのは、四十代半ばに見える痩せた男だった。
髷を結い、百姓の着物を着ているが、顔立ちが現代人だった。
男は俺を見て、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「あんた……平成の人」
男の名は木下さんといった。
埼玉県に住んでいた会社員で、二〇〇八年にこの時代に来たという。
「ドライブで栃木に来てて、山道で霧に巻かれた」
「トンビが鳴いて、気がついたらここにいた」
俺と同じだ。
トンビの声。
霧。
そして気づいたら天保七年。
小屋の中は、土間と板の間だけだった。
隅に、木を削った道具が並べてある。
鉈、小刀、砥石。
どれも柄の部分が、手の形に黒く光っていた。
十年ぶんの手の跡だった。
壁には、細い木の板が何枚も立てかけてあった。
どれも同じ長さに切り揃えてある。
あとで思えば、あれは全部、杭になる前の材だった。
「十年もここにいるんですか」
木下さんは無表情で頷いた。
「最初の二年は毎日、元の場所に行った」
「霧が出るたびに立ってみた。トンビの声を聞くたびに目を閉じた」
「でも、何も起きなかった」
木下さんの目は、何かを諦めた人間の目だった。
絶望の先にある、静かな受容。
「帰れないってことですか」
「わからない。帰れるかもしれない」
「でも、法則がわからない。何がきっかけで来て、何がきっかけで帰れるのか」
木下さんは伊兵衛に助けられ、最初の数年は言葉や風習を覚えることに追われたという。
今では農作業もこなし、村の一員として暮らしている。
「家族は」
「妻と、娘がいた。娘は当時三歳で……今は十三歳か」
木下さんの声が掠れた。
「写真も持ってないんだ。財布の中の一枚だけ。もう擦り切れてほとんど見えない」
俺は携帯を取り出した。
「これ、カメラがついてるんです。木下さんの写真、撮りましょうか」
木下さんの目が、初めて揺れた。
「……撮ってくれるか」
俺は木下さんの写真を撮った。
小屋の前で、少しだけ笑った木下さんの写真を。
撮ったあと、木下さんは画面をのぞき込んだまま動かなかった。
「これ、消えないのか」
「消えません」
「そうか」
それだけ言って、木下さんは俺に携帯を返した。
自分の顔を、それ以上見ようとはしなかった。
木下さんは、帰れるかもしれない方法について、ひとつだけ仮説を持っていた。
「俺が来た場所と、あんたが来た場所。多分、同じ場所なんだ」
「村の北東、田んぼが終わって雑木林に入る手前あたり」
「あそこには昔から妙な言い伝えがある」
「言い伝え」
「この村の人間は、あの場所を隠り野と呼んでる」
「時々、霧が出ると景色がおかしくなるらしい」
「見たことのない建物が見えたり、聞いたことのない音が聞こえたり」
「村の人間は近づかない」
隠り野と呼ぶ場所
谷や野に名前をつけて人を寄せつけない土地の話を、俺は帰ってから調べるようになった。
花の終わらない谷の異世界のような話が、この国にはいくつも残っている。
「じゃあ、そこに行けば」
「霧が出たときだけだ。しかも、戻れる保証はない」
「俺は何度も試した。でもな、あんたは来たばかりだ」
「来たばかりのうちなら、まだ繋がりが残っているかもしれない」
木下さんは俺の目をまっすぐに見た。
「明日の朝、霧が出る。この時期は朝霧が多い。あんた、試してみろ」
その夜、俺は木下さんの小屋で過ごした。
囲炉裏の火を眺めながら、木下さんは十年間の話をしてくれた。
最初の絶望。
言葉の壁。
食べ物の違い。
病にかかったとき、医者もいない中で三日間熱が下がらなかったこと。
それでも、村の人間たちが粥を運んでくれたこと。
「この村は、飢饉のあいだも人を追い出さなかった」
木下さんはそう言った。
「どこの村もそうだと思うか」
「思いません」
「俺も思わない」
火が爆ぜて、天井の煤が少し落ちた。
「伊兵衛さんがいなかったら、俺はとっくに終わってた」
木下さんは火を見つめたまま言った。
「ここでの生活は、悪くない。仲間もいる。飯も食える」
「ただ」
木下さんは言葉を切った。
「娘の顔が思い出せなくなってきた」
俺は、何と返せばいいのかわからなかった。
励ます言葉は、全部この人には届かない。
「いくつになりましたか」
「十三だ」
「じゃあ、中学生ですね」
木下さんは、しばらく黙っていた。
「中学生か」
その二文字を、確かめるように繰り返した。
制服の色も、通う学校の名前も、この人は一生知らない。
囲炉裏の縁に、木の板が一枚置いてあった。
表に、細かい線が何本も引いてある。
「これは」
「背丈だ」
木下さんは指で一番下の線をなぞった。
「来た年の、三歳のときの線」
上のほうの線は、間隔がでたらめだった。
想像で引いた線だからだ。
一年に一本ずつ、この人は娘の背を想像で刻んでいた。
夜明け前、霧が出た。
「帰れたら、妻に伝えてくれ」
木下さんが言った。
「木下は生きている。帰る方法を探している、と」
「木下さんも一緒に行きましょう」
「いや。俺が行くとダメな気がする」
「でも、あんたは来たばかりだ。窓が開いてるうちに帰れ」
木下さんは、俺にもうひとつ渡した。
小さな木の杭だった。
長さ三十センチほどの、削りかけの杭。
表面に、墨で何か書いてある。
「測量技師なんだろ。これ、俺がこっちに来てから作った」
「元の時代のことを忘れないように、測量の真似事をしてたんだ」
「方位と距離を刻んでる」
杭の表面には「北三十七度東 百二十間」と墨書きされていた。
江戸時代の単位で書かれた測量記録。
「俺がいた証拠だ。持っていってくれ」
俺は木下さんに教えられた場所に立った。
村の北東、雑木林の手前。
濃い霧が足元から這い上がってくる。
木下さんは、二十メートルほど離れた場所に立っていた。
俺を見送るように。
「木下さん。必ず伝えます」
俺は叫んだ。
木下さんが何か答えた気がしたが、霧に吸い込まれて聞こえなかった。
トンビが鳴いた。
「ピーヒョロロロ……」
足元がぐらついた。
白。
白の中で、一度だけ、後ろから声が聞こえた気がした。
何を言ったのかは、わからない。
ただ、最後の音だけが「な」に近かった。
名前を呼ばれたのかもしれない。
俺は、あの人に自分の名前を言っただろうか。
いまだに思い出せない。
目を開けると、アスファルトの上に倒れていた。
農道だった。
二十メートル先に、俺の車が停まっているのが見えた。
携帯の日付は二〇一八年十月十八日。
二日が経過していた。
右手に、天保七年の測量杭を握りしめていた。
天保七年の測量杭の行方
会社には「測量中に転倒して意識を失っていた」と説明した。
病院で検査を受けたが、異常は見つからなかった。
携帯で撮った写真はちゃんと残っていた。
藁葺きの家。
畦道。
そして木下さんの顔。
ただ、風景写真は全体的にセピアがかっていた。
まるでフィルム写真のように。
木下さんの名前と失踪時期を手がかりに調べた。
木下拓也。
当時三十五歳。
二〇〇八年十月十四日、栃木方面へドライブに出かけたまま行方不明。
車は佐野市内の山道脇で発見。
本人は発見されず。
妻の名前も、娘の名前も、木下さんが話してくれた通りだった。
記事は短かった。
行方不明のまま七日で打ち切られている。
車の中に財布と免許証が残っていたとあった。
財布の中の一枚、というのは、あの写真のことだ。
持って行けたのは、それだけだったのだろう。
奥さんに会いに行こうかと、何度か考えた。
結局、行かなかった。
会って話せば、こちらの言葉は必ずどこかで嘘になる。
手紙なら、書いた文字のぶんだけで済む。
奥さんには手紙を書いた。
曖昧で無責任な手紙だと思ったが、約束を果たすにはそれしかなかった。
写真をプリントして同封した。
二週間後、返事が来た。
「写真の男性は、間違いなく夫です。十年分老けていますが、夫です」
三通目の便箋は、涙で波打っていた。
「信じます。主人は、測量が好きでした」
「脱サラして測量の仕事をしたいと言っていました」
あれから七年が経った。
去年の秋、あの場所をもう一度訪れた。
バイパス道路は完成していて、丘陵地帯の景色は一変していた。
雑木林は伐採され、畑の一部は造成地になっている。
木下さんが隠り野と呼んだ場所は、ちょうどインターチェンジになっていた。
工事現場を遠くから眺めていたとき、作業員の一人が何かを掘り出しているのが見えた。
土の中から出てきたのは、古い木の杭だった。
泥を拭うと、かすかに文字が読めた。
「南三十七度西 百二十間」
俺が持っている杭と、対になる方位。
同じ距離。
木下さんは、もう一本の杭を埋めていたのだ。
百八十二年前に。
俺は測量技師だ。
方位と距離が書いてあれば、その先に何があるか調べるのが仕事になる。
掘り出された地点の座標を取り、南三十七度西に二百十八メートル。
江戸時代の百二十間を、そのまま現代の距離に直した。
出た地点を地図上で確かめて、俺は椅子から立ち上がれなくなった。
その場所は、二〇〇八年に木下さんの車が見つかった山道脇だった。
木下さんは天保七年の測量杭で、百八十二年後に自分の車が見つかる場所を指していた。
あの人は測量の真似事をしていたのではない。
帰れないと悟ったあとで、自分がどこから来たのかを、土に書き残していたのだ。
見つけられるとも思わずに。
木下さんの娘さんは、今年で二十歳になった。
奥さんとは今でも年に一度、手紙のやり取りをしている。
娘さんは大学で歴史学を専攻しているそうだ。
江戸時代の村方文書を読んでいると聞いた。
偶然なのか、それとも。
宿や集落に伝わる作法の話を集めた潮首の宿を出るときの作法という話がある。
土地には、人を通す場所と、通さない場所があるらしい。
俺は時々、あの丘陵地帯に出かける。
今はもうバイパスが通って、かつての田んぼの面影はない。
でも、霧の出る朝に行くと、アスファルトの下から、かすかに稲の匂いがする気がする。
トンビは、まだあの辺りを飛んでいる。
「ピーヒョロロロ……」
その声を聞くたびに、俺は空を見上げる。
手のひらの杭は、いつまでも乾いたままだ。