
今でも、午前2時12分を過ぎるまで、私は腕時計を見ない。
介護施設の夜勤で、ナースコールが毎晩1分ずつ早く鳴った。
押しボタンのない壁で、ランプだけが灯る。
2025年の秋、私が初めて夜勤に入った夜から始まった話だ。
私は汐田という。当時36歳だった。
港町の特別養護老人ホームで働き始めたのは、その年の9月だ。
瀬戸内に面した小さな町で、母の生まれた土地でもある。
施設は埋め立て地に建っていた。
2階の廊下の突き当たりに、窓際の部屋がある。
そこに、99歳のハツエさんが暮らしていた。
目はほとんど見えない。
それでも、足音だけで誰が来たかを言い当てる人だった。
夜勤の初日、先輩の八木さんが引き継ぎ簿を開いた。
「窓際の部屋は、巡回のとき窓の鍵だけ見て。あとは寝かせといていいから」
八木さんは60代で、この施設の夜勤を20年続けている。
声が低くて、いつも詰所の端の席に座る人だった。
壁に残った差込口
その夜の2時42分、詰所の盤で橙のランプが灯った。
窓際の部屋のナースコールだった。
押しボタンは、先月の見直しで本体ごと外されていた。
ハツエさんが寝ぼけて引っ張る事故が続いたからだ。
壁には、コードの差込口だけが残っている。
誤作動だろうと思って、私は部屋に向かった。
廊下は常夜灯だけで薄暗い。
ドアを開けると、ハツエさんは眠っていた。
胸が規則正しく上下している。
カーテンの裾が、ほんの少し膨らんで見えた。
窓は閉まっていて、鍵も掛かっていた。
それなのに、海の匂いがした。
港の匂いとは違う。
乾いた塩の匂いだった。
私は壁のランプを消して、詰所に戻った。
八木さんは、モニターから目を離さずに言った。
「鳴った?」
「鳴りました。誤作動でした」
「そう」
八木さんは、それ以上何も聞かなかった。
翌朝、窓の内側の桟に、白い粒が散らばっていた。
指でつまんで舐めると、塩だった。
2階の窓の桟に、塩が降る理由はない。
私は雑巾で拭き取り、日勤の職員に引き継いだ。
帰りの自転車で、私は埋め立て地の端まで寄り道をした。
コンクリートの護岸の向こうに、満ち潮の海が広がっていた。
施設の窓から護岸までは、歩いて数分もかからない。
昔の波打ち際はもっと内側だったと、あとで知った。
次の出勤の朝、起床介助でハツエさんに声をかけた。
「おはようございます。夜勤に入っております、汐田です」
ハツエさんの手が伸びて、私の胸元を探った。
ハツエさんは、私の名札に指で触れて、しばらく動かなかった。
「……汐田さん」
「はい」
「そう。やっぱり、来たんだね」
「何がですか」
「ううん。お茶をちょうだい」
湯呑みを持つ手が、ほんの少し震えていた。
日中のハツエさんは、穏やかな人だった。
食事は半分残し、午後はラジオの浪曲を聞く。
「汐田さんは、海は好き?」
「母の生まれた町なので、子供の頃は毎夏、泳ぎました」
「そう。じゃあ、あの人も気に入るかもね」
面会の記録には、6年間、親族の名前がなかった。
ベッドの頭は、いつも窓のほうへ向けてある。
ハツエさん本人が、そう望んだからだ。
ナースコールの履歴
次の夜、ランプは2時41分に灯った。
その次の夜は、2時40分だった。
3日目で、私は偶然だと思えなくなった。
詰所のパソコンで、呼出履歴を開いた。
10月1日が2時42分、2日が2時41分、3日が2時40分。
毎晩ちょうど1分ずつ、早くなっていく。
種別の欄には、「ベッド押しボタン」とあった。
外されたはずのボタンが、押されている。
5日目の朝、私は八木さんに画面を見せた。
八木さんは少し黙って、詰所の戸を閉めた。
「始まったね」
「毎年なんですか」
「ハツエさんが入所した年からよ。10月1日の2時42分に始まって、1分ずつ早くなる」
「いつまで」
「11月12日の2時00分。そこで終わる」
「終わるって、何がです」
「分からない。私はその時間、窓際の部屋に近づかないことにしてる」
八木さんは、湯呑みを両手で包んだ。
「臆病でしょう」
「いえ」
私は過去の履歴を、日付をさかのぼって開いた。
6年分、10月1日の2時42分から、同じ形で並んでいた。
履歴の種別は、どの年も「ベッド押しボタン」だった。外された年も、外されていない年も。
日勤の看護師にも、それとなく聞いてみた。
「窓際の部屋? 秋になると、朝は潮の匂いがするのよね」
彼女は笑っただけで、理由は考えていないようだった。
10月14日の夜、私は2時の前から部屋に入った。
小さなライトを持ち、椅子に座って待った。
部屋にはハツエさんの寝息だけがあった。
2時28分、カーテンの裾がまた膨らんだ。
窓は閉まっている。
鍵も、私の目の前で掛かったままだ。
風はない。
それでも、塩の匂いが濃くなっていく。
ライトを窓の桟に向けると、白い粒が見えた。
さっきまで数粒だったのに、細い線に増えていた。
目を離した覚えは、なかった。
2時29分。
壁の差込口の上で、橙の光が灯った。
ボタンは、どこにもないのに。
20日の夜は、新人の村瀬くんが巡回に付いた。
窓際の部屋の前で、彼は足を止めた。
「汐田さん、この部屋、ちょっと涼しくないですか」
「涼しい?」
「涼しいっていうか、夏の海から上がったあとみたいな、ひんやりした温さで」
言い方が変で、私たちは小さく笑った。
笑ったあとで、私は自分が腕を組んでいることに気づいた。
塩の線は、桟の内側で必ず止まっていた。
床には一粒も落ちていない。
海のほうから、何かが一歩ずつ近づいてくる。
そんな言い方は、したくなかった。
しょうゆ豆の小鉢
10月31日の夜、ランプは2時12分に灯った。
部屋に入ると、ハツエさんは目を開けていた。
暗がりの中で、窓のほうへ顔を向けている。
「あと、12日だね」
「起きていらしたんですか」
「毎年この頃は眠れないの。足音がするから」
「足音?」
「砂利を踏む音。浜の砂利。昔はね、戸口から波打ち際まで42歩だったの」
私は耳を澄ませた。
聞こえるのは、換気の低い音だけだった。
「怖くないんですか」
「怖いのは、来なくなることだよ」
私は返事ができなかった。
「久雄さんはね、汐田の家の人。海軍に取られて、船ごと沈んで、帰らなかった」
「汐田……」
「あんたと同じ名字。浜の汐田は、あの人の家だけだった」
私の父は内陸の出身で、汐田の姓も山側の分家だと聞いて育った。
浜の汐田とのつながりは、調べても出てこなかった。
「しょうゆ豆を炊いて待ってる、って約束したの」
「しょうゆ豆」
「そら豆を醤油で煮たの。あの人は、私のが好きだった。でも私はもう炊けないし、塩も止められてる」
ハツエさんは、小さく笑った。
「毎年、戸口まで来るのよ。でも、家の戸は中にいる家の者が開けるものでしょう」
「今まで、頼まなかったんですか」
「頼んだよ。夢の話だって、みんな笑って。八木さんは優しいけど、怖がりだからね」
ハツエさんは、私のほうへ顔を向けた。
「あんたは、汐田さんだから」
11月5日の夜は、ナースコールの電子音が、いつもより長く鳴った。
ピ、ピ、ピと続く音は、私の耳には足音の間隔に聞こえた。
部屋に入ると、ハツエさんが寝言を言っていた。
「まだ、まだだよ。ちゃんと炊いてからね」
誰に向けた言葉なのか、すぐに分かった。
私は枕元にしゃがんで、ハツエさんの手を握った。
乾いた小さな手が、握り返してきた。
その手は、塩の匂いがした。
11月に入ってすぐ、私は母に電話をかけた。
「しょうゆ豆の炊き方を教えて」
母は理由を聞かず、乾燥そら豆を1キロ送ってきた。
11月11日の休みに、私は一晩かけて炊いた。
小さな保存容器に入れて、翌日の夜勤に持って行った。
塩分の制限があるハツエさんには、食べさせられない。
だから、食べるのは別の人だ。
そう考えている自分に、私は驚かなかった。
11月12日、午前1時55分。
私は小鉢にしょうゆ豆を移し、ベッド脇の台に置いた。
ハツエさんは起きていて、背筋を伸ばして座っていた。
2時00分、ナースコールのランプが灯った。
ボタンのない壁の差込口の上で、橙の光だけが静かに灯っていた。
窓の外で、砂利を踏む音がした。
2階の窓の外で。
「汐田さん」
「はい」
「開けて」
窓の鍵は、私の指で簡単に外れた。
窓を開けると、塩の匂いが部屋に流れ込んだ。
冷たい風ではなかった。
夏の浜のような、温い風だった。
カーテンが、内側へ大きく膨らんだ。
ハツエさんが、窓のほうへ顔を向けた。
「お帰りなさい」
声は、少女のように弾んでいた。
「ここからは、お客さんと二人にして」
私は頭を下げて、廊下に出た。
ドアを閉める直前、ベッド脇の椅子がきしんだ。
誰も座っていないはずの椅子が、ゆっくりと沈んでいた。
廊下の常夜灯の下で、私は30分待った。
壁にもたれて、窓の向こうの音を聞かないようにした。
戻ると、窓は開いたままだった。
小鉢は空で、煮汁だけが底に薄く光っていた。
ハツエさんは、ベッドに横たわっていた。
両手を胸の上で組んで、口元に笑みを残して。
胸は、もう動いていなかった。
6年分の10月
翌年の3月、八木さんは定年で施設を辞めた。
最後の夜勤の明け方、八木さんは引き継ぎ簿を私に渡した。
「窓際の部屋の、鍵番の欄を見て」
欄には、毎年10月の行にだけ、書き込みがあった。
6年分、すべて「汐田が預かる」とあった。
筆跡は、どの年も違っていた。
「2022年の行は、私の字なの。書いた覚えは、ないんだけどね」
八木さんは、紙の端を指でなぞった。
「この辺りに、浜の汐田という家は、もうないのよ」
「でも、ハツエさんは」
「ええ。だから私は、初日にあなたの名札を見て、息が止まった」
八木さんは、私の名札を初日に見て、息を止めたのだという。
ナースコールの履歴は、今も施設のパソコンに残っている。
書いた6人は、誰も汐田という名字を知らなかった。
来年の10月1日にも、あのランプは灯るのだろう。
窓際の部屋には、新しい人が入った。
窓の鍵は、いま私が預かっている。
午前2時12分は、あと12日と言われた夜の時刻だ。