赤い誘導棒は右を指す

月夜の港を導く赤い灯

去年の十月の第三金曜、夜十一時を過ぎた頃の話です。

同じ交差点を、私たちは五周しました。

分岐に立っていた人が手にしていたのは、赤い誘導棒でした。

臨海の物流団地で、地図アプリ用の路面撮影をしていた夜のことです。

私は二十七歳で、道路撮影会社の下請けに入っています。

屋根に全周カメラを載せた白いワンボックスで、決められた区画を走ります。

昼は大型トレーラーが列をなす道も、夜はがらんとしています。

だから撮影は、夜十一時から明け方までと決まっていました。

走行中の車内には、カメラの小さな駆動音だけが響きます。

私は缶コーヒーを、カップホルダーに差していました。

撮ったデータは、翌朝に自動で処理されます。

顔とナンバーには、ぼかしが入ります。

ぼかしは、顔を見つけた場所にしか入りません。

帽子の影や、背中を向けた人には何も掛かりません。

その夜の助手席には、後輩の悠斗が座っていました。

二十二歳で、よく喋る子です。

蛍光グリーンのスニーカーを、いつも履いていました。

「先輩、この団地、夜は本当に何もないっすね」

シャッターの閉まった倉庫を眺めて、悠斗は笑っていました。

たしかに、何もありませんでした。

街灯は等間隔で、路面の白線は一本につながっています。

その白線は、海のほうへまっすぐ伸びていました。

窓を少し開けると、潮の匂いが入ってきます。

遠くで、コンテナを積むクレーンの影が、ゆっくり傾いていました。

動いているものは、それだけでした。

悠斗は研修で習った豆知識を、一つずつ披露してくれました。

「ストリートビューの路面って、細切れの写真をつないでるんすよ」

「へえ」

「だから、つなぎ目にたまに変なものが写るんす」

「変なもの?」

「電柱が二本に増えたりとか」

私は聞き流して、ハンドルを握っていました。

路肩には、トラックの待機場所を示す白い枠が並んでいます。

枠の中は、どれも空でした。

夜の物流団地は、荷物の気配だけが残っている場所です。

フォークリフトの警告灯も、今夜はどれも消えていました。

ドアは、走り出すと自動でロックがかかる設定です。

ナビは落ち着いた女性の声で、こう言いました。

「この先、道なりです。」

この声を、私はその夜、五回聞くことになります。

区画を引き継いで、まだ二週目でした。

前任の先輩は、先月から連絡がつきません。

会社は「急に辞めたんだろう」と言っていました。

引き継ぎ資料は、サンバイザーに貼られた付箋だけでした。

付箋の三行目

付箋は黄色で、三行ありました。

先輩の字は、定規で引いたように揃っています。

一行目は「区画Bは時計回り」。

二行目は「白線の上だけ走ること」。

三行目は、インクが濃くて、少しにじんでいました。

「赤い棒の人には会釈しない」

出発前に読んで、私は鼻で笑いました。

夜間の道路には、誘導員がいて当たり前です。

会釈をするなという意味が、わからなかったのです。

最初の違和感は、ナビでした。

一周目の終わり、分岐の手前でナビが言いました。

「この先、道なりです。」

二周目の同じ場所でも、同じ声が、同じ言葉を言いました。

「ナビ、バグってません?」

「再起動してみる」

私は電源を入れ直しました。

画面が暗くなり、起動の音が鳴り、また同じ声が戻ってきます。

三周目も、分岐の手前で、ナビは言いました。

「この先、道なりです。」

地図の青い三角は、確かに前へ進んでいます。

それなのに景色は、最初に見た倉庫の列に戻っていました。

「先輩、さっきの青いコンテナ、また出てきましたよ」

「見たよ」

「怖い話、しましょうか」

「やめて」

「じゃあ、コンビニの新作おにぎりの話にします」

そう言って笑う悠斗の声が、少し上ずっていました。

私はスマホで、自分の現在地を確認しました。

電波は三本立っています。

地図の青い点は、団地の外を走る国道の上にありました。

画面を閉じて、もう一度開きました。

青い点は、やはり国道の上でした。

私は電柱に目印をつけることにしました。

車を停めて、懐中電灯を持って降ります。

風が冷たくて、潮の匂いに鉄錆の匂いが混ざっていました。

足元のアスファルトは、昼の熱をすっかり手放しています。

撮影用の赤いリボンを、電柱の腰の高さに一本結びます。

四周目、その電柱にはリボンが二本ありました。

結んだ覚えのない一本は、結び目の形が私と違っていました。

「先輩、帰りたいっす」

「あと一周だけ見て、決めよう」

そう答えた自分の声が、思ったより落ち着いていて、嫌でした。

運転席の窓に映る自分の顔が、少し他人に見えました。

私は慌てて、視線を前に戻しました。

私は会社の運行管理に電話しました。

「今どこですか」と男性の声が聞きます。

「臨海の団地です。同じ所をぐるぐる回っています」

少し間があって、返事が来ました。

「おかしいな。そちらの車両、いまは団地の外の国道にいますよ」

「GPSでは、ずっと国道を走っています」

私は黙って電話を切りました。

ダッシュボードの時計は、二十三時四十七分を示していました。

その数字が、三周目からずっと変わっていないことに、そのとき気づきました。

赤い誘導棒の夜

五周目、分岐の手前に人が立っていました。

蛍光色のベストを着て、つばのある帽子をかぶっています。

右手には、赤い誘導棒。

赤い誘導棒は、ゆっくり円を描いて、右の側道を指しました。

側道には街灯がなく、舗装も白線も見えません。

帽子のつばの下は暗く、何も見えませんでした。

車内の空気が、急に冷えました。

「あ、誘導員さんだ」と悠斗が言いました。

「助かった。あっちに行けってことっすよね」

私は付箋の三行目を思い出しました。

意味のわからない、あの一行です。

先輩は、何を見たのでしょうか。

あの付箋は、見た人にしか書けない文面でした。

私は目を合わせないように、前だけを見ました。

窓の外で、赤い誘導棒がもう一度、円を描きます。

赤い光が、悠斗の横顔をゆっくり染めました。

速度を落とすと、彼の手がハンドルに伸びてきました。

「先輩、右です。右に行かなきゃ」

声が、さっきまでの彼の声ではありませんでした。

低くて、平たい声でした。

「右だって。右の道のほうが近い」

彼の目は、赤い棒の先だけを追っていました。

瞬きをしていません。

私は白線の上に車を乗せたまま、アクセルを緩めませんでした。

悠斗がシートベルトを外しました。

彼の手が、ドアのレバーにかかります。

指の関節が、白く浮いていました。

力を入れているというより、何かに引かれているようでした。

ドアは、走り出すと自動でロックがかかるはずでした。

それなのに、レバーを引くと、カチ、と音がしました。

外から誰かがボタンを押したような音でした。

ドアが、指一本ぶん開きます。

冷たい風と一緒に、潮と鉄の匂いが流れ込みました。

「やめて!」

私は片手でハンドルを握ったまま、悠斗の腕を掴みました。

彼は私の手を振りほどこうとしました。

力が、強すぎました。

「赤い棒のほうに行かせろ。あっちが近道なんだ」

「近道じゃない」と私は叫びました。

「白線から外れたら、戻ってこられない」

なぜそう言い切れたのか、今もわかりません。

ただ、白線の外の道は、カメラに何も写らない気がしたのです。

私はブレーキを踏み、肘で悠斗の腕を押さえ込みました。

左手でドアを引き寄せて、閉めます。

赤い誘導棒は、窓のすぐ外にありました。

近すぎて、先端の反射材の傷まで見えました。

ロックをかけ直し、私は白線の上へ、そろそろとアクセルを踏みました。

棒がガラスをこする音は、しませんでした。

ただ、車の横を、ベストの蛍光色が並んで滑っていきました。

歩く速さではありませんでした。

分岐を越えたところで、並んでいた影がふっと消えました。

白線だけの道

白線は、そこから先も途切れませんでした。

三分ほど走ると、倉庫の列が終わりました。

広い国道に出ます。

ヘッドライトの先に、深夜営業のガソリンスタンドの看板が見えました。

さっきまでの暗さが、嘘のようでした。

時計が、二十三時四十八分に動きました。

ナビが、静かに言いました。

「ルートに復帰しました。」

悠斗は助手席で、前を向いたまま黙っていました。

国道沿いのコンビニに車を停めます。

彼はおにぎりを三つ買って、無言で食べました。

何を聞いても、「うるさいっす」としか言いません。

彼の蛍光グリーンのスニーカーは、片方だけ泥で汚れていました。

団地の路面は、一滴も濡れていなかったのに。

私は店の外で、先輩の番号に電話をかけました。

呼び出し音が、七回鳴りました。

八回目の前に、切れました。

明け方、会社に戻って、私は先輩の付箋を剥がしました。

裏に、鉛筆で小さく書き足しがありました。

「顔は見ない。見えても見ない」

その意味は、やはりわかりませんでした。

先輩の机は、会社のロッカー室の隅にありました。

鍵付きの引き出しには、撮影メディアが一枚だけ残っていたそうです。

それを確かめる前に、担当者が総務に回収していきました。

悠斗は一週間休んで、何事もなかったように出社しました。

休みの理由は、体調不良とだけ聞いています。

出社した朝、彼は新しいスニーカーを履いていました。

あの夜のことは、お互い口にしていません。

ただ、悠斗は夜の車内で、窓の外を見なくなりました。

信号待ちでも、前を向いたまま動きません。

私が話しかけると、短く答えるだけです。

二か月後、あの区画の画像が公開されました。

知らせは、社内チャットに短く流れました。

「B区画、公開済み」。

それだけの連絡でした。

私は帰宅してから、そのストリートビューを開きました。

側道の入口の路面に、人影が立っていました。

蛍光色のベストと、つばのある帽子。

手には、赤い誘導棒。

ぼかしは、帽子のつばの下に、ぴたりと掛かっていました。

あの夜、つばの下には何も見えませんでした。

自動処理は、そこに顔があると判断したのです。

その人影の隣に、もう一つ、背を向けた人影がありました。

足元に、蛍光グリーンのスニーカーが写っていました。

悠斗は今も、夜の撮影に出ています。

先日、別の区画を、彼と走りました。

ナビは、前と同じ声で言いました。

「この先、道なりです。」

後部座席で、小さく「はい」と答える声がしました。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

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