水場の柄杓は伏せてなかった

水場の柄杓は伏せてなかった

渓流の解禁日だけは、いまもあの社へ行かないことにしている。

理由は、これから書くとおりだ。

私は宮大工で、奥秩父の谷にある小さな社の手入れを長く任されている。

狼を眷属とする山の神を祀った社で、地元ではオオカミ様と呼ばれている。

社殿は木造の一間で、脇に古い水場がある。

あの社の水場の柄杓は、いつも椀を上に向けて置いてあった。

伏せない、というのがこの谷の決まりだった。

私は若い頃に一度だけ、伏せて置いて叱られたことがある。

「上に向けとけ」

先代の棟梁は、それだけ言った。

理由は教えてもらえなかった。

聞き返すと、先代は口の端だけで笑った。

「知らんほうが、手が早いわ」

この谷の年寄りは、たいてい理由を言わない。

決まりだけを渡して、意味は渡さない。

意味を知るのは、たいてい、知らずに破ったあとだ。

私は三十を過ぎるまで、それを不便だと思っていた。

いまは、そういう渡し方にも理由があると思っている。

三月のはじめ、私は久しぶりに社へ参りに出かけた。

途中の酒屋で、一升瓶を一本買った。

解禁の直後で、林道には車が多い。

地元のもあれば、県外ナンバーの四駆もある。

路肩に収まりきらず、道にはみ出して停めている車もあった。

毎年のことだが、いい気持ちはしない。

この林道は、途中から幅が半分になる。

対向車が来れば、どちらかが数百メートル下がることになる。

地元の車は、その手前で必ず一度停まって様子を見る。

県外の車は、そのまま入ってくる。

悪気はないのだろう。

知らないだけだ。

知らないだけのことが、この谷では時々、取り返しがつかなくなる。

社へ上がる階段の前に、小さな駐車場がある。

そこにも数台が詰まっていて、私はなんとか隙間に車を入れた。

階段は六十段ほどある。

雪はまだ両端に残っていた。

階段の石は、四十年前に私の師匠が積み直したものだ。

四段目と十七段目だけ、色が違う。

その二枚は、私が入って最初の年に据えた石だった。

上がるたびに、その二枚を踏まないようにしている。

師匠は、石を据えるとき必ず一枚だけ向きを変えた。

「全部そろえたら、水が抜けん」

雨のとき、階段の水は目地を伝って左へ落ちる。

その落とし先が、下の水場になる。

だから、あの水場は雨のたびに山の水を受ける。

汲む者がいるという言い方も、そこから来たのかもしれない。

癖のようなものだ。

上がりきって、私は足を止めた。

境内の真ん中に、大きなテントが張ってあった。

それも、社殿の裏手にかかる位置だ。

周りには炊事の道具が広げられ、ゴミ袋が二つ転がっている。

当人たちは釣りに出ているらしく、姿はなかった。

文句の言いようもない。

私はしばらく立っていた。

それから、散らかっているものをまとめてテントの中へ入れた。

あの状態では、静かに手を合わせることもできない。

車に戻って、荷台から木の端材を一枚取った。

油性ペンで、二行だけ書いた。

「ゴミは持ち帰ってください」

「境内でのキャンプはご遠慮ください」

名前は書かなかった。

そのときは、書く必要を感じなかっただけだ。

いま思えば、手が勝手にそうしていた。

四十年、この谷で仕事をしてきた手だ。

書かなかったことに、意味があったと知るのは翌日になる。

板をテントの前に立てかけ、酒を供えて、私は手を合わせた。

帰りの階段で、一度だけ振り返った。

テントの白い布が、風で少しふくらんでいた。

折られた木の板

家に戻っても、どうも気持ちが収まらなかった。

夕方、私はもう一度、社へ行った。

階段の前の駐車場は、空になっていた。

車は一台もない。

引き上げたのだろうと思いながら、階段を上がった。

階段の途中で、焦げた匂いがした。

枯れ草を焼く匂いとは違う。

塗料の混じった、鼻の奥に残る匂いだった。

私は足を速めた。

上がりきって、私は言葉を失った。

私の立てた板は、二つに折られていた。

折った上で、ゴミと一緒に燃やされている。

焼け跡は、境内の真ん中ではなかった。

水場の、すぐ真上だった。

炭が水場の縁に落ち、黒い筋になっている。

缶と吸殻が、あちこちに散っていた。

供えた酒の瓶は、叩き割られていた。

割れ方が尋常ではなかった。

一度倒したのではなく、何度も打ちつけた割れ方だ。

破片は、社殿の階の下まで飛んでいた。

酒は、木の根元に黒く染みていた。

供えたものを割るのは、この谷ではいちばん重い。

怒っているというより、面白がってやったのだと分かった。

それが、いちばん悪い。

私は、割れた瓶の首の部分を手に取った。

封の紙が、まだ半分だけ残っていた。

その紙を見ているうちに、手の震えが少し収まった。

怒っていても、片づけは終わらない。

私は袋を広げた。

拾いながら、手のひらを二度切った。

血は、境内では拭かないことにしている。

これも、教わった決まりのひとつだ。

そして水場には、渓流の魚を洗ったあとが残っていた。

洗ってはいけないものが、そこにあった。

この谷では、山からいただいたものを境内の水で扱わない。

扱うときは、必ず下の谷まで下りる。

子どもでも知っている決まりだ。

小学校の遠足でも、そう教わる。

「山の水は、山のもんが使うけん」

先生ではなく、地元の年寄りが引率について来て言うのだ。

私も、そう教わった側だった。

私は頭が真っ白になった。

怒りをぶつける相手は、もういない。

手が震えて、袋の口がうまく開かなかった。

それでも、片づけないわけにはいかない。

缶を拾い、炭を集め、瓶の破片を一枚ずつ拾った。

水場は、二度水を流しても匂いが取れなかった。

三度目に流したとき、水の出が急に細くなった。

元栓は谷の上にあり、誰も触れない。

しばらく待つと、また元に戻った。

そのときは、雪解けの詰まりだろうと思った。

あとで水道の担当に聞くと、その日は誰も元栓に触っていないという。

谷の上の取水口も、点検したばかりだった。

「細くなるはずがないんですよ」

受話器の向こうで、彼はしばらく黙っていた。

そう言われて、私は話を切り上げた。

最後に柄杓を洗い、いつものように椀を上に向けて置いた。

上に向けておくのが決まりだからだ。

意味を知らないまま、私は四十年そうしてきた。

決まりを守るのに、意味はいらない。

そう思ってきたし、いまもそう思っている。

ただ、あの晩だけは、置いた手が少し長く止まった。

雪が溶けた一筋

片づけが終わる頃には、日はすっかり落ちていた。

境内の灯りは、社殿の前の一つだけだ。

私はゴミ袋を抱えて立ち上がった。

社に向かって、一礼する。

頭を上げたとき、そこに少年が立っていた。

この社で、私は何度かその子を見ている。

いつもは階段の途中に座って、こちらを見て笑っている子だ。

穏やかな、人のよさそうな顔をしている。

十を少し越えたくらいの背丈だ。

この谷に、その年頃の子はもう三人しかいない。

三人とも、私は名前を知っている。

あの子だけ、名前を知らない。

誰の子かと弟子に聞いたことがあるが、見たことがないと言われた。

そのときは、背を向けていた。

いつもの気配は、微塵もなかった。

体の輪郭から、蒼い炎のようなものが立ちのぼって見えた。

境内の空気が、急に薄くなった気がした。

音が消えていた。

谷の下を流れる川の音まで、聞こえなくなっていた。

自分の呼吸の音だけが、耳の内側で鳴っている。

私は、目だけを動かして周りを見た。

社殿の前の灯りが、少しずつ暗くなっていくのが分かった。

切れる前の点滅ではない。

光そのものが、吸われるように弱くなっていた。

灯りは、少年が向きを変えかけたところで一度だけ強く戻った。

戻って、それきり普通の明るさになった。

自分の口から、カチカチと音が出ている。

歯の根が合っていないのだと気づくのに、しばらくかかった。

少年が、ゆっくりとこちらを向こうとした。

見てはいけない。

そう思うより先に、体が動いた。

私は袋を落として、その場にひれ伏した。

額を地面につけ、目を固く閉じた。

冷たいはずの地面が、少しも冷たくなかった。

次の瞬間、横を熱い風が通り抜けた。

風というより、大きなものが通った気配だった。

どれくらいそうしていたか分からない。

体を起こすと、境内は元の暗さに戻っていた。

そして、私の横に一筋、雪の溶けた道ができていた。

幅は、人の肩ほどだ。

石畳の目地に沿って、階段のほうへまっすぐ伸びている。

雪だけが溶けて、水にはなっていなかった。

地面は乾いていた。

石畳の目地に、湯気のようなものが薄く立っている。

手をかざすと、確かに温かかった。

私は、かざした手をすぐに引いた。

私は、その道を踏まないように階段を下りた。

車に乗って、しばらくエンジンをかけられなかった。

袋を置いてきたことに気づいたのは、家に着いてからだ。

水場の柄杓の椀

翌朝、私はもう一度社へ上がった。

落とした袋を、そのままにしていたからだ。

境内は、何ごともなかったように静かだった。

雪の道は消えていた。

袋は、私が落とした場所にきちんと立ててあった。

そして、水場を見て、私は足を止めた。

翌朝、水場の柄杓は、伏せて置かれていた。

前の晩に、私が椀を上に向けて置いたものだ。

境内には、私のほかに誰も上がっていない。

階段には、前夜からの雪が薄く積もったままだった。

足跡は、私のものしかなかった。

私は、柄杓に手を伸ばしかけて、やめた。

戻していいものかどうか、判断がつかなかったからだ。

四十年やってきて、初めて手が止まった。

袋を持って、私はそのまま階段を下りた。

私はその日、弟子の一人を連れて谷の下の集落へ下りた。

社のことを長く見てきた古老に、柄杓の話を聞くためだ。

古老は、湯呑みを置いてから答えた。

「上に向けとくのはな、汲む者がおるからや」

「山のもんが、夜に水を使うんよ」

「伏せるのは、もう汲まんときや」

私は、それ以上を聞けなかった。

古老は、私の顔を見なかった。

湯呑みの中を見たまま話していた。

「昨日の晩、上に行ったんか」

「行きました」

「そうか」

それきり、少年のことは何も聞かれなかった。

私も、話さなかった。

帰りぎわ、古老は玄関まで出てきた。

そして、私の靴の先を見て言った。

「雪、踏まんかったな」

私は、返事の仕方が分からなかった。

「はい」とだけ答えて、頭を下げた。

外に出ると、風がまっすぐ谷の上へ向かっていた。

私は、その風の来た方角を見ないようにして車に乗った。

古老は、もう一つだけ言った。

「板に名前を書かんかったんは、よかったな」

名前を書けば、その板は書いた者のものになる。

この谷では、山に向けて名前を出さない。

名を出した者は、山に覚えられる。

覚えられた者は、その一件に数えられる。

「あんたは、数に入っとらん」

古老はそう言って、話を終わりにした。

帰り道、弟子が黙ってついてきた。

「棟梁、あの水場、もともと二本あったんですよね」

言われて、私は思い出した。

確かに、若い頃は柄杓が二本あった。

いつからか、一本になっていた。

減った理由を、私は聞いたことがない。

弟子は、それ以上は言わなかった。

帰りの車で、彼は一度だけ窓を開けた。

「棟梁、今日は川の音が高いですね」

私は、返事をしなかった。

前の晩、あの境内でだけ川の音が消えていたことを思い出していた。

一か月あとの夢

それから一か月ほど経って、私はいやな夢を見た。

雪解け直後の、大きな滝壺だ。

水は白く濁って、渦を巻いている。

そこに、釣り人の格好をした男が四人いた。

顔は知らない。

四人とも、懸命に同じ場所を泳いでいた。

泳いでも泳いでも、同じ場所から動かない。

岸まではほんの数間しかないのに、近づけない。

そのうち一人が力尽きて、水に飲まれた。

すると、また滝の上から落ちてくる。

落ちてきた男は、何ごともなかったように泳ぎはじめる。

それが、四人分、順番に繰り返された。

声は聞こえなかった。

水の音だけが、ずっと鳴っていた。

四人は、こちらに気づいていないようだった。

助けを求める仕草もない。

ただ、泳ぐことだけを繰り返している。

顔だけが、はっきりと見えた。

四人とも、同じ表情をしていた。

困っている、という表情に近かった。

怖がっている顔ではなかった。

何かを間違えたことに気づいた人の顔だった。

私は、その顔をどこかで見たことがある気がした。

思い出したのは、目が覚めてからだ。

板を折った者が、もし振り返っていたら、あの顔だ。

振り返れば、たいていの人は分かる。

分からないまま帰った者だけが、あとで困ることになる。

見ていられなくなって、私は目をそらした。

そらした先の、滝の上に人が立っていた。

あの少年だった。

表情までは見えない。

それでも、いつもの穏やかな笑みを浮かべているのが分かった。

その穏やかさが、いちばん怖かった。

怒っている顔なら、まだ分かる。

あれは、仕事をしている人の顔だった。

決めたことを、順番にこなしている顔だ。

目が覚めると、夜中の三時だった。

手の甲に、水を浴びたような冷たさが残っていた。

後日、弟子の一人がこんな話をした。

県外から来た釣り人が四人、山から下りていないという。

車だけが林道に残されていたそうだ。

捜索は三日で打ち切られた。

雪解けの時期は、谷に入れる場所が限られる。

私は、その話を聞いたときに水場のことを考えた。

考えて、誰にも言わなかった。

言えば、私がその一件に名前を出すことになる。

古老の言葉が、頭に残っていた。

数に入っていない、というのは、そういう意味だと思った。

この谷では、山に向けて名を出さない。

出さなければ、覚えられない。

あの四人かどうかは、確かめる術がない。

確かめる必要も、ないと思った。

この谷には、こういう話がいくつも残っている。

鳥居の前で人数を数えてはいけないという集落の話を、私は別の土地で聞いた。

山の木の葉が一枚だけ落ちていたという古い話もある。

どれも、最後まで説明されない。

あれから十年、あの水場の柄杓は、一度も椀を上に向けていない。

私も、直していない。

直すのは、汲む者が戻ったときだと思っている。

解禁日には、階段の下に酒だけを置いて帰る。

上までは、上がらない。

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