かんぬきは下りていなかった

かんぬきは下りていなかった

実家の押し入れから、古いカセットテープが出てきた。

ラベルには、母の字で曾祖母の名前だけが書いてある。

取り込んで波形にすると、三十分ほどの音声だった。

ほとんどは、天気と畑の話だ。

ただ最後の四分だけ、声の質が変わる。

そこで曾祖母は、八十年黙っていたことを一つだけ話している。

母に聞くと、録ったのは自分だという。

小学生のとき、学校の宿題で家族に昔の話を聞く、というのがあったらしい。

「けど、こわなって、途中で聞くのやめてん」

母はテープを最後まで聞いていない。

四十年、押し入れに入れたままだった。

庄屋の家に引き取られた子

曾祖母は、中部の山あいの集落の生まれだという。

幼いうちに両親を亡くし、兄は町へ奉公に出た。

残された曾祖母は、村の庄屋の家に引き取られた。

身寄りの少ない子を、家に置いてやる。

当時の山の村では、珍しいことではなかったらしい。

曾祖母には、その家の娘の遊び相手兼女中という役が与えられた。

朝は暗いうちに起きて、井戸から水を汲む。

釣瓶の縄が手に食い込んで、冬は指の節が割れたそうだ。

それが終わってから、お嬢さんの部屋の雨戸を開けに行く。

雨戸を開けるのは、曾祖母の役だった。

この話には、その一点だけを覚えておいてほしい。

娘は、曾祖母より二つ年上だった。

テープのなかで、曾祖母はその人のことを最後まで「お嬢さん」と呼んでいる。

名前は一度も出てこない。

お嬢さんは、曾祖母を妹のように扱ったそうだ。

礼儀作法も読み書きも、二人一緒に仕込まれた。

「わたしだけ知らんかったら、恥ずかしいやろ」

お嬢さんはそう言って、教える側の先生に頭を下げたという。

庄屋の娘が、女中の教育のために頭を下げる。

曾祖母はそのことを、テープのなかで二度繰り返している。

二人は、屋敷の裏の竹藪でよく遊んだ。

竹を細く割って、地面に文字を書く遊びだ。

お嬢さんは、曾祖母の名前を何度も書かせた。

「自分の名前だけは、上手に書けるようになっとき」

「そのうち、書く用ができるから」

その意味を、曾祖母は町へ出るまでわからなかったという。

町では、名前を書く用が次々にあった。

奉公先の帳面。

婚礼の書類。

子どもの就学の届け。

そのたびに、竹の先で地面に書いた字を思い出したそうだ。

山で人が亡くなった年

曾祖母が今でいう中学二年の齢になった頃、村に面倒が起きた。

初めは、村の鼻つまみ者が山で亡くなった。

神も仏も信じない男だった。

道端の地蔵に小便をかける。

供え物を蹴散らす。

祭りの晩に、太鼓の輪の外から石を投げる。

入るなと言われている場所へ、わざわざ入る。

そのうえ、天狗を見た、梢に化け物がおる、と言って歩いた。

夕方に木の枝の上から大声を出したり、山に向かって水をかけたりもした。

親も匙を投げていて、村八分に近い扱いだった。

男には、そうする理由があったのだと思う。

村八分の家の者が、村の神様を敬っても、誰も認めてくれない。

敬わないほうが、まだ格好がついた。

その男が、山の中の高い木の下で見つかった。

村では、神様の祟りだ、天狗の祟りだという話になった。

そのあとから、村人が立て続けに怪我をするようになった。

慣れた道で転ぶ。

登り慣れた木から落ちる。

一つ一つは小さな事故だ。

だが続くと、人は数え始める。

誰それが転んだのが何日、誰それが落ちたのが何日。

寄り合いの席で、指を折って数える者が出た。

数え上げると、確かに間隔が縮んでいるように聞こえた。

あとから考えれば、村には毎年それくらいの怪我がある。

数えなかった年は、数えていないだけだ。

数え始めると、止まらない。

初めのうちは宥めて回る者もいたそうだ。

村の顔役や、隣の集落から来た婿などだ。

だが宥めた者が転ぶと、宥めるほうが分が悪くなる。

実際、顔役の一人が用水の縁で足を滑らせた。

それで、宥める声はぱたりと止んだ。

そのうち、宥める側の人間がいなくなった。

祟りを恐れて、夜のうちに村を出る家も出てきた。

寄り合いでは、祟りを鎮める方法が話し合われた。

そこで、生贄という言葉を出した者がいた。

曾祖母は、その晩から眠れなくなったという。

生贄といえば、若い娘に決まっている。

山あいの村に、年頃の娘は多くない。

そして自分は、庇う身内のいない子だ。

選ばれるとしたら自分だと、曾祖母は思った。

「あれは、思うたんやない。決まっとると思うた」

テープのなかの声は、そこだけ少し高くなる。

迎えの一行が戻らない

寄り合いは、結局そこで割れた。

庄屋が、金は自分が出すと言って皆を説き伏せたのだ。

山をいくつか越えた先の集落に、拝み屋の婆さんがいる。

その人を呼んで祓ってもらおう、という話に落ち着いた。

迎えの男たちが、その日のうちに出発した。

ところが、半月経っても戻ってこない。

山をいくつか越えるといっても、往復で十日はかからない道だ。

迎えに出たのは、村でいちばん山に強い男たちだった。

その四人が揃って戻らない。

雪の季節でもない。

村の者は、これも祟りだと言い始めた。

言い出すたびに、生贄という言葉が近づいてくる。

村の空気が、日ごとに重くなった。

曾祖母は、屋敷の外に出られなくなった。

門の前を通る村人が、こちらをじっと見るようになったからだ。

睨むのでも、囃すのでもない。

ただ、値踏みをするように、足を止めて見る。

曾祖母はテープのなかで、その視線のことをこう言っている。

「品定めやなあ、と思うた」

十四の子が、そう思うところまで追い詰められていた。

年嵩の女中も、奉公人も、祟りの話をしなくなった。

話さないことのほうが、はっきりとした返事だった。

庄屋の顔色も、日に日に悪くなっていった。

ただ一人、お嬢さんだけが、いつもと同じだった。

朝は同じ時刻に起き、同じように髪を梳かせた。

「今日は、山がよう見えるね」

「見えますね」

「あんた、山、こわい」

「こわいです」

「そうか」

縁側でそう言って、長いこと外を見ていたそうだ。

曾祖母はそれを、肝の据わった人だと思って見ていた。

ただ、いま思えば妙なことが二つあった。

一つは、お嬢さんがその頃、曾祖母の着物の丈を直していたこと。

自分が着るものではない。

「あんた、また伸びたやろ」

そう言って、夜なべで縫っていた。

もう一つは、朝、井戸の釣瓶の縄が濡れていた日があったことだ。

曾祖母がその日いちばんに汲むはずの井戸だった。

前の晩に、誰かが使っている。

その朝、曾祖母は寝坊したのだと思って、何も言わなかった。

お嬢さんが消えた朝

そんなある朝、お嬢さんがいなくなった。

曾祖母が起こしに行くと、布団が空だった。

雨戸は閉まっていた。

布団には、まだ温もりが残っていた。

着物と草履だけがなく、ほかの物は全部そのままだった。

枕の上には、髪が一本も落ちていなかった。

櫛を通してから出た人の布団だ。

そして布団の上に、木の葉が一枚落ちていた。

山の中にしか生えていない木の葉だった。

屋敷は大騒ぎになった。

逃げたのだと言う者もいた。

だが、山あいの村の外に出る道は一本しかない。

その道の入口には、この時期、必ず誰かがいる。

草履履きで山を越えられるはずもない。

そのうち、天狗が浚ったのだという話になっていった。

誰も見ていない出来事に、人は必ず名前をつける。

名前がつくと、それ以上は誰も調べない。

山狩りは、形ばかりで一日で終わったそうだ。

庄屋も、それを止めなかった。

娘がいなくなった家の主が、捜索を一日で切り上げさせる。

曾祖母はそのことに、当時は何も感じなかったという。

雨戸の桟には、埃が均等に積もっていた。

誰かが外から触れば、そこだけ筋がつく。

筋はなかった。

だから村では、内側から掛かっていたという話になった。

掛け金の位置まで、皆が納得した。

納得すると、確かめる者はいなくなる。

迎えの一行が戻ったのは、その二日後だった。

連れてきた拝み屋の婆さんを一目見て、曾祖母は震え上がったという。

何がどう怖かったのかは、テープでも説明されていない。

「あれは、見たらわかる」

そう言うだけだ。

拝み屋の裁定

婆さんは、まず屋敷の中を一人で歩いた。

案内も断り、廊下を端から端まで、ゆっくり歩いたそうだ。

お嬢さんの部屋の前で、一度だけ立ち止まった。

そして、雨戸のほうを見た。

曾祖母は、その背中を廊下の隅から見ていた。

婆さんは屋敷の庭に祭壇を組み、村人を全員集めさせた。

そして、集まった村人を叱りつけた。

今度の騒ぎは、村の不信心から起きたことだという。

山で亡くなった男のことは、男自身の行いの結果だと言った。

神様に罰当たりなことばかりしていたから、守ってもらえなくなった。

それで木に登ろうとして足を滑らせた。

天狗はいた、とも言った。

元からいた天狗ではない。

大天狗の使いの帰りに立ち寄った天狗で、あの男に無礼をされて穢れた。

穢れを落とすまで帰れず、山にとどまっていたのだという。

その後の怪我も、全部、不信心の結果だと言われた。

男のことを神様のせいにして騒いだから、神様が守るのをやめた。

そして庄屋の娘のことを、婆さんは神隠しだと裁定した。

村人が娘に無体なことをしようとした。

それを神様が不憫がって連れて行った。

娘はもう神様の側に行ったから、戻らない。

だから神として祀れ、と言った。

祓いは、夜通し続いたそうだ。

篝火を焚いて、婆さんは同じ調子で唱え続けた。

途中で節が変わることも、休むこともない。

曾祖母は、その単調さがいちばん怖かったと言っている。

祭壇の前で、村人は一人ずつ名乗らされた。

名乗ってから、詫びる。

生贄の話を出した男は、名乗る前に膝から崩れたそうだ。

村人は震え上がって、揃って詫びた。

お嬢さんを祀る社が、屋敷の中にも建てられた。

生贄の話は、二度と出なかった。

そのあたりの経緯は、神隠しに遭う子として語られてきた話の型と、驚くほどよく似ている。

曾祖母はその後しばらく庄屋の家で働き、やがて兄を頼って町へ出た。

町へ出る朝、庄屋は玄関に出てこなかった。

代わりに、奥から声だけが聞こえたという。

「達者でな」

顔を見せなかった理由を、曾祖母は考えないようにしていたそうだ。

出るとき、庄屋からは相当な額を持たされた。

所帯を持つときも、庄屋が世話をしてくれたそうだ。

金だけではない。

戸籍の手続きも、身元の引き受けも、全部あの家が済ませた。

身寄りのない女中に、そこまでする理由はない。

曾祖母は、それを恩だと思って生きた。

私は、詫びだったのではないかと思っている。

お嬢さんの櫛を一つもらって、曾祖母はそれを長く拝んでいた。

もらった、という言い方を、曾祖母はしていない。

「置いてあった」と言っている。

あの朝、曾祖母の枕元に置いてあったのだ。

だが、それだけならまだ、忘れ物で通る。

櫛は空襲で焼けた。

戦争で、故郷の村とも縁が切れた。

テープのその部分で、曾祖母は一度、鼻をすすっている。

八十年、言わずにいたこと

録音のなかで、幼い声が割り込んでくる。

母だ。

お嬢さんを連れて行くなんてひどい神様だ、という意味のことを言っている。

曾祖母は、そこで初めて声を荒らげる。

「そんなこと、言うもんやない」

それから長い間があって、曾祖母は一つだけ、と前置きをする。

「これは、誰にも言うたことないねんけどな」

録音のノイズのなかで、湯呑みを置く音がする。

母の相槌はもう入っていない。

ここで聞くのをやめた、というのは、そういうことだったのだろう。

あの朝、雨戸を開けたのは曾祖母だった。

閂は、下りていなかった。

内側から掛かっていたと、村では今も伝わっている。

だが、掛かってはいなかった。

お嬢さんは、自分で出て行ったのだ。

曾祖母はその朝、雨戸を開けながら、手が軽いと思ったという。

閂の掛かった雨戸は、最初の一枚が重い。

その重さがなかった。

気づいたのは、開けきってからだった。

曾祖母は、そのことを拝み屋の婆さんにだけ、こっそり話した。

婆さんは少しも驚かなかったそうだ。

そして、黙っているように言った。

「娘は神さんが連れて行った。それがいちばん大事なことや」

それを聞いて、曾祖母は声を上げて泣いたという。

波形で見ると、そのあとに十七秒の無音がある。

ノイズだけが続いて、何も言っていない。

三十分のテープのなかで、そこがいちばん長い沈黙だった。

ここから先は、テープの最後の一分だ。

曾祖母は、布団の上の葉のことをもう一度話し始める。

山の中にしかない木の葉。

それは本当だ、と念を押す。

そして、こう続ける。

山の木の葉は、お嬢さんの布団のほかに、もう一枚落ちていた。

曾祖母の枕元にだ。

お嬢さんは、前の晩のうちに一度、山へ入っている。

下見をして、戻ってきている。

そして出て行く前に、曾祖母の枕元に寄った。

起こさずに、葉を一枚置いていった。

連れて行こうとして、やめたのか。

置いていく詫びのつもりだったのか。

曾祖母は、どちらとも言っていない。

ただ、テープの最後でこう言っている。

「あの人は、わたしが選ばれんように、先に消えたんやと思う」

庄屋の娘が神隠しに遭った村で、女中の子を差し出せる者はいない。

それだけが、確かなことだった。

迎えの一行が半月も戻らなかった理由を、曾祖母は最後まで言わなかった。

庄屋が何か含めていたのかもしれない。

拝み屋の婆さんが、着くのを遅らせたのかもしれない。

あるいは、本当に道に迷っただけかもしれない。

私は集落の名前を調べようとして、途中でやめた。

調べれば、たぶん、社の記録くらいは出てくる。

だが、名前のない人を祀った社に、名前をつけて回るのは違う気がした。

山に入る作法を今も守っている土地の話は、禁足の神社と小さな神主のように、いくつも残っている。

テープは、そこで終わっている。

曾祖母は、お嬢さんのことを、とても優しくて綺麗な人だったと言っていた。

そして、ずっと泣いていた。

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