かんぬきは下りていなかった

かんぬきは下りていなかった

実家の押し入れから、古いカセットテープが出てきた。

ラベルには、母の字で曾祖母の名前だけが書いてある。

取り込んで波形にすると、三十分ほどの音声だった。

ほとんどは、天気と畑の話だ。

ただ最後の四分だけ、声の質が変わる。

そこで曾祖母は、八十年黙っていたことを一つだけ話している。

母に聞くと、録ったのは自分だという。

小学生のとき、学校の宿題で家族に昔の話を聞く、というのがあったらしい。

「けど、こわなって、途中で聞くのやめてん」

母はテープを最後まで聞いていない。

四十年、押し入れに入れたままだった。

※

庄屋の家に引き取られた子

曾祖母は、中部の山あいの集落の生まれだという。

幼いうちに両親を亡くし、兄は町へ奉公に出た。

残された曾祖母は、村の庄屋の家に引き取られた。

身寄りの少ない子を、家に置いてやる。

当時の山の村では、珍しいことではなかったらしい。

曾祖母には、その家の娘の遊び相手兼女中という役が与えられた。

朝は暗いうちに起きて、井戸から水を汲む。

釣瓶の縄が手に食い込んで、冬は指の節が割れたそうだ。

それが終わってから、お嬢さんの部屋の雨戸を開けに行く。

雨戸を開けるのは、曾祖母の役だった。

この話には、その一点だけを覚えておいてほしい。

娘は、曾祖母より二つ年上だった。

テープのなかで、曾祖母はその人のことを最後まで「お嬢さん」と呼んでいる。

名前は一度も出てこない。

※

お嬢さんは、曾祖母を妹のように扱ったそうだ。

礼儀作法も読み書きも、二人一緒に仕込まれた。

「わたしだけ知らんかったら、恥ずかしいやろ」

お嬢さんはそう言って、教える側の先生に頭を下げたという。

庄屋の娘が、女中の教育のために頭を下げる。

曾祖母はそのことを、テープのなかで二度繰り返している。

二人は、屋敷の裏の竹藪でよく遊んだ。

竹を細く割って、地面に文字を書く遊びだ。

お嬢さんは、曾祖母の名前を何度も書かせた。

「自分の名前だけは、上手に書けるようになっとき」

「そのうち、書く用ができるから」

その意味を、曾祖母は町へ出るまでわからなかったという。

町では、名前を書く用が次々にあった。

奉公先の帳面。

婚礼の書類。

子どもの就学の届け。

そのたびに、竹の先で地面に書いた字を思い出したそうだ。

※

山で人が亡くなった年

曾祖母が今でいう中学二年の齢になった頃、村に面倒が起きた。

初めは、村の鼻つまみ者が山で亡くなった。

神も仏も信じない男だった。

道端の地蔵に小便をかける。

供え物を蹴散らす。

祭りの晩に、太鼓の輪の外から石を投げる。

入るなと言われている場所へ、わざわざ入る。

そのうえ、天狗を見た、梢に化け物がおる、と言って歩いた。

夕方に木の枝の上から大声を出したり、山に向かって水をかけたりもした。

親も匙を投げていて、村八分に近い扱いだった。

男には、そうする理由があったのだと思う。

村八分の家の者が、村の神様を敬っても、誰も認めてくれない。

敬わないほうが、まだ格好がついた。

その男が、山の中の高い木の下で見つかった。

村では、神様の祟りだ、天狗の祟りだという話になった。

※

そのあとから、村人が立て続けに怪我をするようになった。

慣れた道で転ぶ。

登り慣れた木から落ちる。

一つ一つは小さな事故だ。

だが続くと、人は数え始める。

誰それが転んだのが何日、誰それが落ちたのが何日。

寄り合いの席で、指を折って数える者が出た。

数え上げると、確かに間隔が縮んでいるように聞こえた。

あとから考えれば、村には毎年それくらいの怪我がある。

数えなかった年は、数えていないだけだ。

数え始めると、止まらない。

初めのうちは宥めて回る者もいたそうだ。

村の顔役や、隣の集落から来た婿などだ。

だが宥めた者が転ぶと、宥めるほうが分が悪くなる。

実際、顔役の一人が用水の縁で足を滑らせた。

それで、宥める声はぱたりと止んだ。

そのうち、宥める側の人間がいなくなった。

祟りを恐れて、夜のうちに村を出る家も出てきた。

※

寄り合いでは、祟りを鎮める方法が話し合われた。

そこで、生贄という言葉を出した者がいた。

曾祖母は、その晩から眠れなくなったという。

生贄といえば、若い娘に決まっている。

山あいの村に、年頃の娘は多くない。

そして自分は、庇う身内のいない子だ。

選ばれるとしたら自分だと、曾祖母は思った。

「あれは、思うたんやない。決まっとると思うた」

テープのなかの声は、そこだけ少し高くなる。

※

迎えの一行が戻らない

寄り合いは、結局そこで割れた。

庄屋が、金は自分が出すと言って皆を説き伏せたのだ。

山をいくつか越えた先の集落に、拝み屋の婆さんがいる。

その人を呼んで祓ってもらおう、という話に落ち着いた。

迎えの男たちが、その日のうちに出発した。

ところが、半月経っても戻ってこない。

山をいくつか越えるといっても、往復で十日はかからない道だ。

迎えに出たのは、村でいちばん山に強い男たちだった。

その四人が揃って戻らない。

雪の季節でもない。

村の者は、これも祟りだと言い始めた。

言い出すたびに、生贄という言葉が近づいてくる。

村の空気が、日ごとに重くなった。

曾祖母は、屋敷の外に出られなくなった。

門の前を通る村人が、こちらをじっと見るようになったからだ。

睨むのでも、囃すのでもない。

ただ、値踏みをするように、足を止めて見る。

曾祖母はテープのなかで、その視線のことをこう言っている。

「品定めやなあ、と思うた」

十四の子が、そう思うところまで追い詰められていた。

年嵩の女中も、奉公人も、祟りの話をしなくなった。

話さないことのほうが、はっきりとした返事だった。

庄屋の顔色も、日に日に悪くなっていった。

※

ただ一人、お嬢さんだけが、いつもと同じだった。

朝は同じ時刻に起き、同じように髪を梳かせた。

「今日は、山がよう見えるね」

「見えますね」

「あんた、山、こわい」

「こわいです」

「そうか」

縁側でそう言って、長いこと外を見ていたそうだ。

曾祖母はそれを、肝の据わった人だと思って見ていた。

ただ、いま思えば妙なことが二つあった。

一つは、お嬢さんがその頃、曾祖母の着物の丈を直していたこと。

自分が着るものではない。

「あんた、また伸びたやろ」

そう言って、夜なべで縫っていた。

もう一つは、朝、井戸の釣瓶の縄が濡れていた日があったことだ。

曾祖母がその日いちばんに汲むはずの井戸だった。

前の晩に、誰かが使っている。

その朝、曾祖母は寝坊したのだと思って、何も言わなかった。

※

お嬢さんが消えた朝

そんなある朝、お嬢さんがいなくなった。

曾祖母が起こしに行くと、布団が空だった。

雨戸は閉まっていた。

布団には、まだ温もりが残っていた。

着物と草履だけがなく、ほかの物は全部そのままだった。

枕の上には、髪が一本も落ちていなかった。

櫛を通してから出た人の布団だ。

そして布団の上に、木の葉が一枚落ちていた。

山の中にしか生えていない木の葉だった。

※

屋敷は大騒ぎになった。

逃げたのだと言う者もいた。

だが、山あいの村の外に出る道は一本しかない。

その道の入口には、この時期、必ず誰かがいる。

草履履きで山を越えられるはずもない。

そのうち、天狗が浚ったのだという話になっていった。

誰も見ていない出来事に、人は必ず名前をつける。

名前がつくと、それ以上は誰も調べない。

山狩りは、形ばかりで一日で終わったそうだ。

庄屋も、それを止めなかった。

娘がいなくなった家の主が、捜索を一日で切り上げさせる。

曾祖母はそのことに、当時は何も感じなかったという。

※

雨戸の桟には、埃が均等に積もっていた。

誰かが外から触れば、そこだけ筋がつく。

筋はなかった。

だから村では、内側から掛かっていたという話になった。

掛け金の位置まで、皆が納得した。

納得すると、確かめる者はいなくなる。

迎えの一行が戻ったのは、その二日後だった。

連れてきた拝み屋の婆さんを一目見て、曾祖母は震え上がったという。

何がどう怖かったのかは、テープでも説明されていない。

「あれは、見たらわかる」

そう言うだけだ。

※

拝み屋の裁定

婆さんは、まず屋敷の中を一人で歩いた。

案内も断り、廊下を端から端まで、ゆっくり歩いたそうだ。

お嬢さんの部屋の前で、一度だけ立ち止まった。

そして、雨戸のほうを見た。

曾祖母は、その背中を廊下の隅から見ていた。

婆さんは屋敷の庭に祭壇を組み、村人を全員集めさせた。

そして、集まった村人を叱りつけた。

今度の騒ぎは、村の不信心から起きたことだという。

山で亡くなった男のことは、男自身の行いの結果だと言った。

神様に罰当たりなことばかりしていたから、守ってもらえなくなった。

それで木に登ろうとして足を滑らせた。

天狗はいた、とも言った。

元からいた天狗ではない。

大天狗の使いの帰りに立ち寄った天狗で、あの男に無礼をされて穢れた。

穢れを落とすまで帰れず、山にとどまっていたのだという。

その後の怪我も、全部、不信心の結果だと言われた。

男のことを神様のせいにして騒いだから、神様が守るのをやめた。

※

そして庄屋の娘のことを、婆さんは神隠しだと裁定した。

村人が娘に無体なことをしようとした。

それを神様が不憫がって連れて行った。

娘はもう神様の側に行ったから、戻らない。

だから神として祀れ、と言った。

祓いは、夜通し続いたそうだ。

篝火を焚いて、婆さんは同じ調子で唱え続けた。

途中で節が変わることも、休むこともない。

曾祖母は、その単調さがいちばん怖かったと言っている。

祭壇の前で、村人は一人ずつ名乗らされた。

名乗ってから、詫びる。

生贄の話を出した男は、名乗る前に膝から崩れたそうだ。

村人は震え上がって、揃って詫びた。

お嬢さんを祀る社が、屋敷の中にも建てられた。

生贄の話は、二度と出なかった。

そのあたりの経緯は、神隠しに遭う子として語られてきた話の型と、驚くほどよく似ている。

※

曾祖母はその後しばらく庄屋の家で働き、やがて兄を頼って町へ出た。

町へ出る朝、庄屋は玄関に出てこなかった。

代わりに、奥から声だけが聞こえたという。

「達者でな」

顔を見せなかった理由を、曾祖母は考えないようにしていたそうだ。

出るとき、庄屋からは相当な額を持たされた。

所帯を持つときも、庄屋が世話をしてくれたそうだ。

金だけではない。

戸籍の手続きも、身元の引き受けも、全部あの家が済ませた。

身寄りのない女中に、そこまでする理由はない。

曾祖母は、それを恩だと思って生きた。

私は、詫びだったのではないかと思っている。

お嬢さんの櫛を一つもらって、曾祖母はそれを長く拝んでいた。

もらった、という言い方を、曾祖母はしていない。

「置いてあった」と言っている。

あの朝、曾祖母の枕元に置いてあったのだ。

だが、それだけならまだ、忘れ物で通る。

櫛は空襲で焼けた。

戦争で、故郷の村とも縁が切れた。

テープのその部分で、曾祖母は一度、鼻をすすっている。

※

八十年、言わずにいたこと

録音のなかで、幼い声が割り込んでくる。

母だ。

お嬢さんを連れて行くなんてひどい神様だ、という意味のことを言っている。

曾祖母は、そこで初めて声を荒らげる。

「そんなこと、言うもんやない」

それから長い間があって、曾祖母は一つだけ、と前置きをする。

「これは、誰にも言うたことないねんけどな」

録音のノイズのなかで、湯呑みを置く音がする。

母の相槌はもう入っていない。

ここで聞くのをやめた、というのは、そういうことだったのだろう。

※

あの朝、雨戸を開けたのは曾祖母だった。

閂は、下りていなかった。

内側から掛かっていたと、村では今も伝わっている。

だが、掛かってはいなかった。

お嬢さんは、自分で出て行ったのだ。

曾祖母はその朝、雨戸を開けながら、手が軽いと思ったという。

閂の掛かった雨戸は、最初の一枚が重い。

その重さがなかった。

気づいたのは、開けきってからだった。

曾祖母は、そのことを拝み屋の婆さんにだけ、こっそり話した。

婆さんは少しも驚かなかったそうだ。

そして、黙っているように言った。

「娘は神さんが連れて行った。それがいちばん大事なことや」

それを聞いて、曾祖母は声を上げて泣いたという。

※

波形で見ると、そのあとに十七秒の無音がある。

ノイズだけが続いて、何も言っていない。

三十分のテープのなかで、そこがいちばん長い沈黙だった。

ここから先は、テープの最後の一分だ。

曾祖母は、布団の上の葉のことをもう一度話し始める。

山の中にしかない木の葉。

それは本当だ、と念を押す。

そして、こう続ける。

山の木の葉は、お嬢さんの布団のほかに、もう一枚落ちていた。

曾祖母の枕元にだ。

※

お嬢さんは、前の晩のうちに一度、山へ入っている。

下見をして、戻ってきている。

そして出て行く前に、曾祖母の枕元に寄った。

起こさずに、葉を一枚置いていった。

連れて行こうとして、やめたのか。

置いていく詫びのつもりだったのか。

曾祖母は、どちらとも言っていない。

ただ、テープの最後でこう言っている。

「あの人は、わたしが選ばれんように、先に消えたんやと思う」

庄屋の娘が神隠しに遭った村で、女中の子を差し出せる者はいない。

それだけが、確かなことだった。

※

迎えの一行が半月も戻らなかった理由を、曾祖母は最後まで言わなかった。

庄屋が何か含めていたのかもしれない。

拝み屋の婆さんが、着くのを遅らせたのかもしれない。

あるいは、本当に道に迷っただけかもしれない。

私は集落の名前を調べようとして、途中でやめた。

調べれば、たぶん、社の記録くらいは出てくる。

だが、名前のない人を祀った社に、名前をつけて回るのは違う気がした。

山に入る作法を今も守っている土地の話は、禁足の神社と小さな神主のように、いくつも残っている。

テープは、そこで終わっている。

曾祖母は、お嬢さんのことを、とても優しくて綺麗な人だったと言っていた。

そして、ずっと泣いていた。

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