
洲影の局の裏に、配らない葉書を入れる棚がある。
留め置き棚、と局の者は呼ぶ。
古い木のレターケースで、いちばん下の段だけが使われている。
わたしが集配を覚えた三年前から、その棚のことだけは、誰も説明してくれなかった。
入るのは、消印の日付が翌日になっている葉書だけだ。
最初に一枚見つけたとき、わたしは機械の不具合だと思った。
日付印が一日ぶん先に進んでしまったのだろう、と。
宇佐美さんに見せると、軍手のまま受け取って、そのまま棚の下段に入れた。
「そういうのは、こっちや」
説明はそれだけだった。
宇佐美さんだけは、その棚を留め置きとは言わない。
止め置き、と言う。
留めるんやない、止めるんや、と。
わたしは二十六歳で、この町に来て四年目になる。
前は県庁所在地の局で、窓口に立っていた。
外に出たくて、集配のある局へ異動を願い出た。
希望は、驚くほどすぐに通った。
洲影の局は、外を回る人間が二人しかいないからだ。
宇佐美さんと、わたしだ。
洲影は、外海と内海が細い水道でつながった町だ。
水道の幅は、狭いところで三十メートルもない。
潮が動くたび、そこだけ川のような音を立てる。
夜に窓を開けていると、その音でだいたいの時刻がわかるようになった。
湾の内側に、浜通りと呼ばれる家並みがある。
十一軒。
増えも減りもしない。
空き家になっても、表札は外されない。
わたしは毎朝、赤いバイクでそこを回る。
海沿いの道は、冬でも雪が積もらない。
そのかわり、風の日は砂が路面を走る。
ヘルメットの中に、細かい音が満ちる。
局の裏口は、いつも潮と糊の匂いがする。
四年たっても、その匂いには慣れない。
洲影の朝は、静かというより、音が一つしかない。
潮の音だ。
車の音も、人の声も、その下に沈んでいる。
配達の一時間は、その一つの音の中にいる時間だった。
わたしは、その時間が好きだった。
今でも、好きだと思っている。
初めて出勤した日のことを、よく覚えている。
宇佐美さんは、わたしの履歴書を見もせずに、あんたの字は知っとる、と言った。
わたしは笑って、まだ何も書いていませんけど、と答えた。
宇佐美さんも笑った。
それで終わりだった。
そのときは、人違いか、田舎の人の挨拶のようなものだと思っていた。
宇佐美さんは六十をいくつか過ぎている。
背は低く、腕だけが太い。
雨の日でも、合羽は上しか着ない。
下は濡れたままで平気だという。
配達の前に、必ず表札を声に出して読む癖がある。
野地さん。
沖さん。
二本柳さん。
読んでから、投函する。
最初は覚えるためだと思っていた。
四十年やっている人が、覚えるために読むはずがない。
そう気づいたのは、ずっとあとになってからだ。
浜通りの十一軒
浜通りの十一軒は、どの家も海に背を向けて建っている。
玄関は山側。
台所の小窓だけが、海を向いている。
理由を聞いたことがある。
「風が入るけん」
それが、いちばん多い答えだった。
十一軒のうち、人が住んでいるのは七軒。
残りの四軒は、盆と正月だけ灯りがつく。
それでも郵便物は来る。
公共料金の通知。
選挙の葉書。
どこかの寺からの案内。
空き家の受け箱は、月に一度、宇佐美さんが中身を局へ戻す。
「捨てたらいかん」
そう言って、段ボールにためている。
浜通りのいちばん端、水道にいちばん近い家が、野地さんの家だ。
野地さんは八十を越えた女性で、ひとりで住んでいる。
商店をやっていた名残で、玄関の横にガラスケースが残っている。
中身は空だ。
わたしが通ると、たいてい縁側に出てきて、手を振る。
「今日は風がないねえ」
そう言うことが多い。
洲影では、風のあるなしが挨拶になる。
雨よりも、気温よりも、まず風だ。
配達は七時半に局を出て、十時半に一度戻る。
午後はもう一度、集荷に出る。
浜通りの取集は、一日一回、十五時だ。
取集といっても、赤い箱があるわけではない。
それぞれの家の門柱に付いた、私設の受け箱を回る。
洲影では、出す葉書も同じ箱に入れる。
表を向けて、輪ゴムでとめておく。
そういう習わしが、局ができた頃から続いている。
わたしはそれを、のんびりした話だと思っていた。
けれど、宇佐美さんの手つきを見ていて、少し考えを変えた。
宇佐美さんは、受け箱から出すとき、必ず中を覗く。
手を入れる前に、覗く。
そして、覗いてから手を入れるまでに、一呼吸ある。
一度、なぜ覗くのか聞いた。
「入っとらんもんが入っとることがある」
それだけ言って、バイクに戻った。
その日は、風のない日だった。
洲影に来て二度目の冬に、一度だけ、局が午後の集荷を止めたことがある。
朝から潮の音が変だった。
引いているのに、差しているような音がしていた。
局長が窓の外を見て、今日は逆さやな、と言った。
逆さ潮、と書くのだと思っていた。
あとで古い当直日誌を見たら、坂潮と書いてあった。
坂の潮。
局長に聞いたら、どっちでもええ、と言われた。
「昔の人が書き間違えたんやろ」
そうかもしれない。
ただ、日誌はどの年も、同じ字で書かれていた。
宇佐美さんは何も言わずに、午後の伝票を片づけた。
わたしが浜通りへ行きます、と言うと、首を横に振られた。
「今日はわしが行く」
その日、宇佐美さんは十六時過ぎに戻ってきた。
いつもより三十分遅かった。
手には、輪ゴムでとめた葉書の束があった。
数えているのを、わたしは後ろから見ていた。
十一枚。
一軒につき、一枚。
宇佐美さんは、それを全部、棚の下段に入れた。
配達には回さなかった。
留め置き棚の抜き方
留め置き棚の中身を、わたしは一度だけ、まとめて見たことがある。
去年の十月。
宇佐美さんが健康診断で午前中いなかった日だ。
下段を引くと、束が三つ入っていた。
どれも輪ゴムでとめてある。
枚数はばらばらだった。
共通していることが、二つあった。
ひとつは、宛名がすべて浜通りの十一軒だということ。
もうひとつは、切手だ。
留め置き棚の葉書には、どれも切手が貼られていない。
それなのに、日付印だけは押してある。
翌日の日付で。
消印というのは、切手を消すために押すものだ。
消すものがないのに、印だけがある。
わたしはしばらく、その一枚を蛍光灯にかざしていた。
文面は、どれも短かった。
風が止んだら行きます。
戸を開けておいてください。
こちらは変わりありません。
差出人の名前はない。
住所もない。
字は、丸くて、少し右上がりだった。
どこかで見た字だと思った。
そのときは、それだけだった。
宇佐美さんが昼前に戻ってきて、わたしが棚を開けたことに気づいた。
怒られると思った。
宇佐美さんは、束をひとつ手に取って、輪ゴムを外した。
そして、いちばん上の一枚だけを抜いた。
「毎朝、一枚だけ抜く」
「全部いっぺんに捨てたらいかん」
なぜですか、と聞いた。
「減らんようになる」
意味がわからなかった。
宇佐美さんは、抜いた一枚を持って、裏口から水道まで歩いていった。
わたしはついていった。
橋の上から、宇佐美さんは葉書を落とした。
紙は、潮に乗ってすぐに見えなくなった。
「これでええ」
戻る道で、宇佐美さんが一度だけ振り返った。
「あんた、浜通りで名前呼ばれたら、返事せんときな」
注意ではなく、お願いのような言い方だった。
局に戻ってから、わたしは配達記録の端末を開いた。
棚に入っていた葉書の宛名を、順番に検索した。
十一軒のうち、九軒までは、過去に同じ文面の葉書が届いていた。
風が止んだら行きます。
同じ言葉が、何年も前から、何度も。
残りの二軒には、記録がなかった。
野地さんの家と、もうひとつ。
わたしの下宿だった。
わたしの下宿は、浜通りではない。
空き家宛の郵便をためた段ボールも、その日に開けてみた。
宇佐美さんが何年もためているものだ。
いちばん上は、去年の選挙の葉書だった。
下へ行くほど、紙が黄色くなっていく。
底のほうに、切手のない葉書が何枚か混じっていた。
文面は、こちらは変わりありません、だった。
宛名は、もう誰も住んでいない家だ。
それでも、毎年届いている。
局の裏の、坂を上がったところにある。
それなのに、検索の結果に出てきた。
一件だけ。
去年の十月十四日、受取人不在。
その日、わたしは一日中、局にいた。
受け箱の内側の音
異変と呼ぶべきものが始まったのは、そのあとだ。
最初は、音だった。
十一月の、風のない朝。
浜通りの三軒目、沖さんの家の受け箱に葉書を入れようとした。
手を伸ばした。
箱の中で、紙の擦れる音がした。
わたしはまだ、何も入れていない。
沖さんの家は、その週から空き家になっていた。
息子さんの家に移ったと聞いていた。
中を覗いた。
何も入っていなかった。
わたしは自分の葉書を入れて、次の家へ行った。
その日は、それだけで終わった。
二度目は、三日後。
同じ家。
同じ時刻。
今度は、音が長かった。
一枚ではなく、束で擦れるような音だった。
わたしは手を引っ込めて、しばらく立っていた。
海のほうから、風はなかった。
砂も走っていなかった。
音だけが、箱の中で続いていた。
風で鳴っているのだろう、と思おうとした。
けれど、その朝は旗も揺れていなかった。
門柱の脇に立てた洗濯竿も、動いていなかった。
箱の口に顔を近づけると、潮の匂いがした。
沖さんの家の受け箱は、山側を向いている。
止まってから、覗いた。
やはり、何もなかった。
局に戻って、宇佐美さんに話した。
宇佐美さんは、伝票から目を上げなかった。
「覗いたか」
覗きました、と答えた。
「手を入れる前にか」
はい。
宇佐美さんは、そこで初めてわたしを見た。
「ええ子や」
それだけ言って、また伝票に戻った。
ほめられたのだと思った。
ほめられた理由が、まったくわからなかった。
三つ目は、十一月の終わりだった。
配達を終えて局に戻り、バイクの積載箱を開けた。
底に、葉書が一枚残っていた。
配り忘れかと思って、宛名を見た。
わたしの下宿の住所だった。
名前も、わたしの名前だった。
消印の日付は、翌日になっていた。
切手は、貼られていなかった。
裏を返した。
文面は一行だけだった。
戸を開けておいてください。
字は、丸くて、少し右上がりだった。
わたしはその葉書を、留め置き棚に入れた。
そうしろとは、誰にも教わっていない。
それなのに、手が先に動いた。
入れてから、指が冷たくなっていることに気づいた。
手袋は、外していなかった。
その晩、下宿の戸に鍵をかけたかどうかを、三度確かめた。
自分で書いて、自分で出して、忘れているのだろうと考えた。
そう考えれば、字が似ているのも説明がつく。
ただ、わたしは葉書を買った覚えがない。
局の売りさばきの記録にも、残っていなかった。
説明はそこで止まった。
止まったまま、年が明けた。
三度とも、かかっていた。
七分違いのスキャン
四つ目は、人の口から来た。
十二月の初めだ。
野地さんの家に速達を持っていった。
縁側から、野地さんが出てきた。
そして、こう言った。
「あんた、昨日ももう来たやろ」
来ていません、と答えた。
野地さんは、少し困った顔をした。
「そうかね」
「朝の、まだ暗いうちに」
「玄関の前に、じっと立っとったよ」
わたしは笑ってごまかした。
記録を確認します、と言って、その場を離れた。
局で端末を開いた。
前日、野地さんの家への配達はなかった。
そもそも郵便物がなかった。
わたしはその日、浜通りに入っていない。
記録にも残っていない。
けれど、野地さんは見たと言った。
朝の、まだ暗いうちに。
わたしはその日、野地さんの言い間違いということにした。
八十を越えているから、と思うことにした。
そう思おうとしている自分に、気づかないふりをした。
五つ目は、記録そのものだった。
十二月十四日。
その日も朝から、潮の音が変だった。
引いているのに、差しているような音だ。
局長が窓の外を見て、今日は逆さやな、と言った。
二度目に聞く言葉だった。
宇佐美さんは、午後の集荷に一人で出た。
わたしは局に残って、午前の配達ログを整理していた。
浜通りの区間に、同じ地点のスキャンが二回あった。
七軒目、二本柳さんの家の前。
一回目、九時〇二分。
二回目、九時〇九分。
七分違い。
わたしはその道を、一度しか通っていない。
バイクを停めたのも、一度だけだ。
ログには、端末の識別番号も残る。
二つとも、わたしの端末だった。
念のため、二本柳さんの家に電話をした。
出たのは、正月に帰省していた息子さんだった。
その日の朝、赤いバイクの音を二回聞いた、と言われた。
一回目は、まだ暗かったそうだ。
二回目は、明るくなってからだったという。
「姉ちゃん、ようけ回るなあ」
笑いながら、そう言われた。
わたしは、礼を言って電話を切った。
受話器を置いた手が、少し震えていた。
わたしは、宇佐美さんが戻るのを待った。
十六時を過ぎても戻らなかった。
十七時に、裏口から入ってきた。
合羽の上だけを着ていた。
その日は、雨は降っていない。
手には、輪ゴムでとめた束があった。
数えるのを、わたしは見ていた。
十二枚。
一軒につき一枚なら、十一枚のはずだった。
宇佐美さんは、二度数えた。
それから、束の中から一枚だけを抜いて、別にした。
抜いた一枚に、切手が貼ってあった。
留め置き棚の葉書には、どれも切手が貼られていない。
それを知っているのは、わたしだけではなかった。
宇佐美さんは、その一枚を裏返して、長いこと見ていた。
そして、わたしに差し出した。
宛名は、わたしの下宿だった。
文面は、やはり一行。
もう開いています。
わたしは、宇佐美さんの顔を見た。
宇佐美さんは、棚の下段を引いた。
束を三つ、机の上に出した。
輪ゴムを外して、全部を広げた。
何十枚もあった。
何年ぶんなのか、見当もつかなかった。
宇佐美さんは、それを日付の順に並べ直した。
指が紙を送る音が、局の中でいちばん大きな音だった。
外では、砂が窓を叩いていた。
四十年前の一枚
宇佐美さんは、いちばん古い束の、いちばん下の一枚を抜いて、わたしに見せた。
日付印は、四十年近く前のものだった。
文面は、風が止んだら行きます、だった。
棚に入っているものと、同じ言葉だ。
けれど、字が違った。
角ばって、少し左に倒れている。
「わしの字や」
宇佐美さんは、そう言った。
わたしは、いつからですか、と聞いた。
宇佐美さんは、指で棚の段を叩いた。
「字が変わったんは、三年前や」
わたしが洲影に来た年だ。
「わしのぶんは、もう来ん」
「来んようになって、あんたが来た」
それ以上は、言わなかった。
聞いても、たぶん答えなかったと思う。
「読んでみ」
わたしは、新しいほうの束を、一枚ずつ見ていった。
風が止んだら行きます。
戸を開けておいてください。
こちらは変わりありません。
まだ、そこにおります。
どれも短い。
どれも差出人がない。
どれも、丸くて少し右上がりの字だ。
留め置き棚の葉書は、どれもわたしの字だった。
自分の字を、他人の字として、何か月も見ていたことになる。
わたしは、机に手をついた。
宇佐美さんは、何も言わなかった。
急かしもしなかった。
その晩、わたしは自分の手帳を開いて、自分の字を見た。
丸くて、少し右上がりだった。
見慣れているはずの字が、しばらく読めなかった。
次の朝、留め置き棚の束は、一枚多くなっていた。
前の晩に、わたしも宇佐美さんも、何も入れていない。
宇佐美さんは、今年の三月で局を辞めた。
定年は、本当はもっと前に来ていたらしい。
局長も、詳しいことは言わなかった。
最後の日、わたしは水道の橋まで一緒に歩いた。
宇佐美さんは、合羽の上だけを着ていた。
その日も、雨は降っていなかった。
「毎朝、一枚だけ抜きな」
「全部いっぺんに捨てたらいかん」
減らんようになる、とまた言った。
わたしは頷いた。
「浜通りで名前呼ばれたら」
返事をしません、と答えた。
宇佐美さんは笑った。
「ええ子や」
最初に会った日と、同じ言い方だった。
橋の上で、宇佐美さんは海を見なかった。
わたしも見なかった。
潮の音だけが、足の下で鳴っていた。
四月から、浜通りの取集はわたし一人になった。
潮が逆さになる日は、年に何度かある。
その日は、午後の集荷に一人で出る。
受け箱の中は、手を入れる前に覗く。
覗いてから、一呼吸置く。
戻ってきた束は、留め置き棚に入れる。
配達には回さない。
そして、毎朝一枚だけ抜いて、水道の橋から落とす。
紙は、潮に乗ってすぐに見えなくなる。
野地さんは、今も縁側に出てきて手を振る。
今日は風がないねえ、と言う。
わたしは、そうですね、とだけ答える。
名前は呼ばれていない。
今のところは。
洲影の局の裏の棚から葉書を抜くのは、今はわたしの仕事だ。
抜いた一枚を、わたしはもう読まないようにしている。
一度だけ、読んでしまった。
文面は、風が止んだら行きます、だった。
字は、丸くも、右上がりでもなかった。
細くて、まっすぐな字だった。
わたしの知らない字だった。
今年の春、局に新しい外務が一人入った。
わたしは、まだその子の履歴書を見ていない。