
もう三十年以上も前の話になる。
私は若い頃、地方で測量の仕事をしていた。
土地を測り、境界を確かめ、図面に起こす。
道路を広げるにも、家を建てるにも、まずは土地の形をはっきりさせねばならない。
地味だが、町の土台を支える仕事だった。
昭和の五十年代、まだ衛星で位置を測る道具などなかった時代だ。
私たちは、巻尺と測量機と、自分の足だけが頼りだった。
そして、もう一つ、欠かせないものがあった。
公図である。
公図というのは、その土地の区割りを描いた、古い地図のことだ。
明治の頃に作られたものが、そのまま役所の台帳に綴じられていた。
墨で引かれた線が、田畑や宅地の境を、一筆ずつ区切っている。
私は、その公図を読むのが、何より好きだった。
古い線の一本一本に、昔の人の暮らしの形が、そのまま残っているからだ。
たとえば、不自然に折れ曲がった、一本の畦の線。
それを辿っていくと、今は埋もれた、古い水路の跡に行き当たる。
まっすぐ引けたはずの境が、なぜか大きく弧を描いている。
そこには、もう誰も覚えていない、昔の塚や祠があったりした。
線は、嘘をつかない。
土地が覚えていることを、線は、黙って書き残している。
私は、そう信じて、この仕事を選んだ。
私が勤めていたのは、城跡を中心に開けた、古い地方の町だった。
町の名は、伏せておく。
今もその役所はあり、迷惑をかけたくはない。
堀を埋めて作った道、武家屋敷の名残の区割り、寺ばかりが並ぶ一画。
古い町は、地図そのものが、一つの歴史書のようだった。
朝、役所の図面室に入ると、古い紙と墨の匂いがした。
台帳を開くたび、明治の役人の几帳面な筆跡が、私を迎えた。
昼は現地へ出て、杭を打ち、巻尺を張り、測量機を覗く。
夕方に役所へ戻り、その日測った数字を、図面に落とす。
同じことの繰り返しだったが、私は、その単調さが、嫌いではなかった。
町の形が、少しずつ、自分の手で、紙の上に立ち上がっていく。
地味だが、確かな手応えのある仕事だった。
私は、その町の区画整理を任された班に、配属されていた。
古い区割りを測り直し、新しい道路の計画に合わせて、図面を引き直す。
そういう仕事だった。
班には、梶さんという先輩がいた。
私より十ほど年上の、無口な人だった。
公図を読ませれば、町の誰よりも正確だと言われていた。
昔の測量士が、どこに杭を打ったか。
どの線が、後から書き足されたものか。
梶さんは、墨の濃淡だけで、それを言い当てた。
ある日、私が引いた図面を、梶さんが一目見て、首を振ったことがあった。
「この境は、おかしい。ここに、古い杭があるはずだ」
半信半疑で現地を掘ると、土の中から、苔むした石杭が出てきた。
「どうして、分かったんですか」
私が訊くと、梶さんは、公図の一点を、指でなぞった。
「線の墨が、ここだけ、少し濃い。古い杭の上から、後の世で引き直した証だ」
私は、舌を巻いた。
梶さんにとって、公図は、ただの紙ではなかった。
そこに描かれた線の一本一本が、土地の記憶そのものだったのだ。
私は、この人から、多くのことを教わった。
昼の休みには、二人で、城跡の石垣に腰かけて、握り飯を食べた。
梶さんは、町の古い話を、よく知っていた。
「この石垣もな、昔は、もっと北まで続いていた」
「北のはずれは、どんな所だったんですか」
私が何気なく訊くと、梶さんは、握り飯を食う手を、止めた。
「……あそこの話は、よそう」
それきり、梶さんは、遠くの山を、見ていた。
そのときは、ただ、昔の苦い思い出でもあるのだろうと、思っただけだった。
ただ、梶さんには、一つだけ、妙な癖があった。
公図を広げると、必ず、町の北のはずれの一画を、指でそっと隠すのだ。
無意識のようだった。
私が覗き込もうとすると、何気なく、別の図面を上に重ねた。
はじめは、気にも留めなかった。
古い図面には、汚れや破れもある。
人に見せたくない箇所の一つや二つ、誰にでもあるものだと思っていた。
※
その北のはずれの一画に、私が気づいたのは、ある秋のことだった。
区画整理の図面を引いていて、現地の宅地の数と、公図の区画の数が、合わないのだ。
現地には、家が十二軒。
だが、公図の同じ場所には、区画が十三、描かれていた。
一区画、多い。
測り間違えたかと思って、私は三度、現地を歩いて数えた。
やはり、家は十二軒だった。
十三番目の区画は、現地のどこにも、なかった。
私は、公図を役所の台帳と突き合わせた。
台帳には、その十三番目の区画の地番が、確かに記されていた。
だが、所有者の欄は、空白だった。
地目の欄も、空白。
ただ、地番と、区画の形だけが、墨で残されていた。
不思議だったのは、その区画の、形だった。
周りの宅地は、どれも、いびつな四辺形をしている。
昔の畦や水路に沿って、自然に区切られた形だ。
だが、十三番目だけは、定規で引いたように、きれいな正方形だった。
まるで、後から、無理やり、地図に押し込まれたかのように。
その正方形は、ほかのどの区画とも、辺を接していなかった。
四方を、わずかな隙間で囲まれて、ぽつんと、浮いていた。
役所の古株に訊くと、その人は、首をかしげた。
「ああ、そこはね。昔から、台帳にだけある区画でね」
「現地には、ない。けど、消すこともできん。そういう、宙ぶらりんの土地が、どこの町にも、一つや二つはあるもんさ」
私は、その答えで、ひとまず納得した。
古い土地には、由来の知れぬ区画も、あるのだろうと。
それでも、気になって、私はもう一度、古株に食い下がった。
「その区画、いつ頃から、台帳にあるんでしょう」
「さあてね。私が来た時には、もう、あったよ」
「所有者が、空白のままというのは」
古株は、湯呑みに、茶を注ぎ足した。
「あんた、若いのに、妙なところに目をつけるねえ」
その口ぶりには、面倒を避けたがるような、かすかな硬さがあった。
「あの区画はね。触らんでおくのが、この役所の決まりみたいなもんでね」
「区画整理の図面からも、そっと、外しておきなさい。上にも、そう言ってある」
私は、それ以上、訊けなかった。
触れてはいけない。
役所という、最も無味乾燥な場所にすら、そういう聖域があるのだと、初めて知った。
だが、町の古老に話を聞くうちに、それだけではないと、分かってきた。
区画整理の聞き取りで、私は、その一画に長く住む老人を訪ねた。
八十を越えた、矍鑠とした老人だった。
私が、十三番目の区画のことを尋ねると、老人は、湯呑みを置く手を止めた。
「あんた、あれが見えるのかね」
見える、とは。
区画は、台帳に書かれている。
誰でも見える。
そう言うと、老人は、低く笑った。
「台帳の話じゃない。あの町のことだよ」
「この町には、もう一つ、町があるのさ。表の町の、ちょうど裏側にね」
私は、言葉の意味を測りかねた。
老人は、続けた。
「昔から、決まりがあった。北のはずれの、あの角だけは、日が暮れてから曲がるな、と」
「曲がると、表の町とそっくりの、もう一つの町に出る。けど、そこは、こっちじゃない」
老人は、煙管に火を入れ、ゆっくりと煙を吐いた。
「昔、城があった時分の話だ」
「北のはずれは、町の外と内を分ける、境の場所だった」
「疫病が出れば、そこで止めた。よそ者が来れば、そこで検めた」
「境というのはな。こちらとあちらが、いちばん薄くなる場所なのさ」
私は、黙って、聞いていた。
「だからね。あの角には、昔から、塞の神を祀ってあった」
「こちらと、あちらが、混じらんようにな」
「その祠が、戦の後の区画整理で、取り払われてしまった」
老人の声が、少し、低くなった。
「境を守るものが、なくなった。だから、近頃は、迷い込む者が、また出るようになった」
「あんたらが、新しい道を通すたびに、境は、どんどん薄くなる」
区画整理。
古い境を消し、新しい線を引く、私の仕事のことだった。
私は、自分の足もとが、急に、心もとなくなった。
作り話だ、と私は思った。
どこの町にも、そういう言い伝えはある。
だが、老人の目は、笑っていなかった。
「あんたが、あの十三番目を数えられたんなら、もう、半分は向こうに足を入れとる。気をつけなされ」
役所からの帰り道、私は、その話を梶さんにした。
梶さんは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「あの角はな、おれも、図面の上では、何度も通った」
「だが、現地は、夕方には、近づかんことにしている」
梶さんらしくない言葉だった。
いつも、現地を自分の足で確かめねば気の済まない人だった。
その人が、近づかない場所がある。
私は、その晩から、北のはずれの一画が、頭から離れなくなった。
それからというもの、奇妙なことが、続いた。
その一画で測量をすると、決まって、測量機の示す距離が、合わなくなるのだ。
同じ道を、行きと帰りで測ると、帰りのほうが、わずかに長い。
巻尺で測り直しても、同じだった。
道が、伸び縮みしている。
杭にも、おかしなことが起きた。
昼間に打った測量の杭が、翌朝には、わずかに位置がずれているのだ。
誰かが抜いて、打ち直したような跡もない。
ただ、地面から生え直したように、少しだけ、北へ寄っている。
北。
あの、十三番目の区画の、方角だった。
そんな馬鹿なことがあるか、と思いながら、私は何度も測り直した。
そして、もう一つ。
その一画にいると、町の物音が、遠くなるのだ。
すぐ隣の通りを、車が走っているはずなのに、その音が、聞こえない。
まるで、厚い硝子の中に、自分だけが入ってしまったようだった。
私は、梶さんの言葉の意味を、少しずつ、肌で分かりはじめていた。
もう一つ、今でも忘れられないことがある。
その一画を、記録のために、写真に撮ったことがあった。
後で現像してみると、十二軒の家並みの、その端に。
もう一軒分の、屋根の影のようなものが、薄く写り込んでいた。
現地には、ないはずの家だった。
私は、その写真を、誰にも見せず、抽斗の奥に、しまい込んだ。
見なかったことに、したかったのだ。
だが、見なかったことには、できなかった。
※
その年の暮れ、私は、一人で、北のはずれの測量を任された。
年明けの工事に間に合わせるため、どうしても、その日のうちに片付けねばならなかった。
冬の日は、短い。
気がつくと、空はもう、茜から藍に変わりかけていた。
私は、最後の一画を測るため、例の角を曲がった。
ちょうど、日が暮れる、その境の時刻だった。
角を曲がった、その瞬間。
町の音が、ふつりと、消えた。
耳が痛くなるような、完全な静けさだった。
風の音も、虫の声も、何一つ、聞こえなかった。
ただ、自分の心の臓の音だけが、やけに大きく、耳の奥で鳴っていた。
足の裏に伝わる土の感触までが、どこか、よそよそしかった。
私は、見慣れた通りに立っていた。
いつもの、北のはずれの通りだ。
だが、何かが、違っていた。
家並みは、同じだった。
電柱の位置も、塀の高さも、私が昼間に測ったとおりだった。
だが、その通りには、十三軒、家が建っていた。
昼間は、十二軒だったはずの通りに。
一軒、増えていた。
増えた家は、ちょうど、公図の十三番目の区画の、あの場所にあった。
その家だけが、ほかの家より、わずかに、新しく見えた。
木の色が、まだ、白かった。
建てられたばかりの家が、なぜ、こんな夕暮れに、ぽつんと一軒。
私は、その家から、目を、逸らせなくなった。
その家々の窓には、灯がともっていた。
だが、どの灯も、奇妙に、青みを帯びていた。
私は、誰かに道を尋ねようと、近くの家を覗いた。
障子の向こうに、人の影があった。
家族で、夕餉の膳を囲んでいるらしかった。
だが、その影は、箸を動かしていなかった。
ただ、膳を前にして、じっと、こちらを向いて、座っているのだった。
私が一歩動くと、影も、首だけを、私のほうへ、ゆっくりと回した。
障子越しに、見られている。
私は、後ずさった。
別の家の前を通ると、玄関先に、女が立っていた。
こちらに背を向け、塀の花に、水をやっていた。
ごく当たり前の、夕方の風景だった。
だが、その女の足もとには、水の落ちた跡が、なかった。
柄杓を傾けても、水は、出ていなかった。
女は、ありもしない水を、ありもしない花に、いつまでも、やり続けていた。
通りには、人の気配が、満ちていた。
どこかの家から、子の笑い声が聞こえた。
味噌汁の匂いも、漂っていた。
すべてが、ごく当たり前の、夕暮れの町だった。
だが、その当たり前が、薄い膜を一枚隔てたように、私には届かなかった。
笑い声には、息継ぎがなかった。
味噌汁の匂いは、温かさを、伴っていなかった。
音も、匂いも、そこに確かに『ある』のに、命の温度だけが、抜け落ちていた。
私は、ようやく悟った。
この町は、表の町を、隅々まで写し取っている。
家の数も、灯の色も、人の暮らしの音までも。
ただ一つ、生きているという、その一点だけを、写し損ねたまま。
私は、来た道を、引き返そうとした。
だが、角が、なかった。
さっき曲がったはずの角は、通りの先まで歩いても、現れなかった。
通りは、まっすぐ、どこまでも続いていた。
そして、歩くほどに、家の数が、増えていく。
十三軒だった家並みが、二十軒になり、三十軒になった。
私は、自分が、どんどん町の奥へ、引き込まれているのを感じた。
そのときだった。
背後で、誰かが、私の名を呼んだ。
振り返ると、一軒の家の、開いた玄関に、人影が立っていた。
逆光で、顔は見えなかった。
だが、その背格好には、見覚えがあった。
「おい、こっちだ。早く入れ」
梶さんの、声だった。
私は、ほっとして、その家へ、駆け寄ろうとした。
梶さんが、なぜここにいるのかは、分からなかった。
だが、知った人の声に、私は、すがりたかった。
その家の、玄関の脇に、表札が、出ていた。
私は、何気なく、その表札を見た。
そこには、梶さんの名が、書かれていた。
墨も、新しかった。
まだ、ここに越してきたばかりの、真新しい表札のようだった。
私の背筋を、冷たいものが、走った。
梶さんは、まだ、表の町で、暮らしている。
今朝も、役所で、顔を合わせたばかりだ。
その梶さんの名が、なぜ、この町の、真新しい表札に、書かれているのか。
「どうした。早く、入らんか」
影が、もう一度、私を呼んだ。
私を呼ぶその声は、確かに梶さんのものだった。
だが、玄関の闇の中で、その顔は、いつまでも、こちらを向かなかった。
私は、答えなかった。
名を、呼ばれても。
ただ、口を、固く結んだ。
古老の言葉が、頭の中で、響いていた。
——気をつけなされ。
返事をしては、いけない。
そう、肌が、教えていた。
そのとき、私は、気づいてしまった。
並ぶ家々の、玄関の脇に、どれにも、表札が出ていることに。
近くの一枚に、目をやった。
そこにも、見覚えのある名が、書かれていた。
役所の、古株の名だった。
その隣の家には、別の同僚の名。
その隣には、町でよく見かける、商店の主人の名。
どれも、まだ、表の町で、暮らしている人たちだった。
この町は、表の名を、一枚ずつ、写し取っている。
そして、墨の新しい表札から順に、こちらの誰かが、いなくなる順番を、待っているのだ。
私は、踵を返して、走った。
名を呼ぶ声が、背中を追ってきた。
一つではなかった。
通りじゅうの家の戸が、次々と開き、いくつもの声が、私の名を呼んだ。
どの声も、私の知っている人の声だった。
母の声。
遠くへ越していった、友の声。
そして、まだ表の町にいるはずの、梶さんの声。
私は、耳を塞ぎ、ただ、灯の青い町を、駆け抜けた。
どこをどう走ったのか、覚えていない。
気がつくと、私は、見慣れた表の通りに、膝をついていた。
背後を振り返ると、そこには、ただ、十二軒の、暗い家並みがあるだけだった。
青い灯も、増えた家も、どこにもなかった。
町の音が、戻っていた。
隣の通りを走る車の音が、夜気の中に、はっきりと聞こえた。
※
その晩のことを、私は、誰にも話さなかった。
話したところで、信じてもらえるはずもなかった。
翌朝、私は、いつもどおり、役所へ出た。
梶さんは、いつもの机に、座っていた。
何ごともなかったように、公図を広げていた。
私は、思い切って、訊いてみた。
昨夜、北のはずれで、私を呼びませんでしたか、と。
梶さんは、顔を上げ、しばらく、私を見た。
それから、静かに、言った。
「お前も、見たか」
私は、答えられなかった。
梶さんは、公図の、あの北の一画を、指でそっと隠した。
いつもの、あの癖だった。
「おれも、若い頃に、一度だけ、あの町へ、入った」
「そのとき、向こうの表札に、おれの名が、書いてあった」
「だから、おれは、夕方のあの角には、二度と、近づかんことにしている」
梶さんは、それきり、その話を、しなかった。
私は、その後、転勤になり、その町を離れた。
測量の仕事も、やがて、退いた。
時代は変わり、今では、衛星が、町の形を、寸分の狂いもなく測るという。
紙の公図も、もう、ほとんどが、電子に置き換わったと聞く。
だが、と、私は思う。
あの十三番目の区画は、今も、電子の地図の、どこかに、残っているのだろうか。
所有者もなく、地目もなく、ただ、形だけが。
あれから、私は、新しい土地に移り住むたびに、まず、古い地図を取り寄せる癖がついた。
自分の住む通りに、数の合わない区画がないかを、確かめずにはいられないのだ。
今のところ、どの町でも、家の数と、区画の数は、合っている。
だが、それは、私がまだ、その町の、境の薄い場所に、気づいていないだけなのかもしれない。
梶さんは、私が町を離れて、数年して、姿が見えなくなった、と聞いた。
役所を辞めた、その日から、誰も、その姿を見ていないという。
里へ帰った様子もない。
ただ、机の上に、一枚の公図だけが、広げたまま、残されていたそうだ。
それは、あの、北のはずれの一画の、公図だった。
そして、その十三番目の区画には、新しく、一本の線が、書き足されていたという。
墨も、まだ、新しかった、と。
今で言えば、あれは、異世界に迷い込んだ、ということになるのだろう。
だが、私には、そういう言葉は、しっくりこない。
あの町は、遠い異世界などではなく、私たちの町の、ちょうど裏側に、いつも、貼りついていた。
表の町が、一軒、家を建てるたびに。
裏の町もまた、一軒、青い灯を、ともすのだ。
そして、その新しい家の、新しい表札には。
いつか、こちらの誰かの名が、墨も新しく、書き込まれるのを、待っている。
私は、自分の名が、まだ、こちらの表札にあることを、毎朝、確かめる。
郵便受けの、私の名を。
それが、墨ではなく、ちゃんと印字された、こちらの文字であることを。
あなたの町にも、きっと、あるはずだ。
昼は十二軒、夜は十三軒の、通りが。
日の暮れる、その境の時刻に。
どうか、北のはずれの、最後の角を。
振り返らずに、まっすぐ、帰ってほしい。