
これは、私が長いあいだ他人の土地の話として人に喋ってきた話だ。
自分の身に起きたことだと認めるまでに、三十年ほどかかった。
昭和三十三年の秋のことになる。
当時の私は、映写の巡回をしていた。
十六ミリの映写機と発電機、それに缶入りのフィルムを二本。
小型のトラックに積んで、映画館のない土地を回る仕事だった。
公民館や小学校の講堂に白い布を張り、日が落ちてから上映する。
客は無料で、集落のほとんど全員が来た。
娯楽の少ない土地ほど、人はよく集まった。
私は二十七で、この仕事を四年やっていた。
機械の扱いは覚えたが、土地の作法はいつまでも覚えられなかった。
秋のはじめに、県の農政の部署から一枚の紙が回ってきた。
干拓の完工を祝って、入植地で一晩の映写会をやってほしいという依頼だった。
場所は、有明の海に面した洲埼という集落だった。
地図を開くと、海であったはずの場所に、四角い田が几帳面に並べて描かれていた。
その田の外側に、太い線で堤防が引かれている。
私はその線を指でなぞって、ずいぶん長い堤防だと思った。
洲埼へは、県道から外れて一時間ほど土の道を走る。
稲刈りの終わった田が、どこまでも同じ高さで続いていた。
山がない。
目の高さより高いものが、堤防のほかに何もない土地だった。
そのせいで、空だけが異様に広く見えた。
午後の光は白く、影が薄い。
道の両側の用水には、水がほとんど流れていなかった。
底に、白いものが薄く張りついている。
車を止めて指でこすると、塩だった。
集落は堤防の内側に、二十戸ほどが背中合わせに並んでいた。
屋根はどれも低く、板壁は潮でうっすら白い。
どの家も、堤防に背を向けて建っていた。
海を見て建てた家が、一軒もなかった。
私を迎えたのは、入植組合の書記をしているという中年の男だった。
男は自分を宮里と名乗った。
「よう来なさった。うちの衆は、みんな楽しみにしとります」
宮里さんは私のトラックの荷台を覗いて、フィルムの缶を数えた。
「二本ね。何のが来たとですか」
私は演目を告げた。
時代劇が一本と、農林省の啓発映画が一本。
宮里さんは啓発映画の題を聞いて、少し笑った。
「そっちは寝ますばい」
上映は公民館ではなく、集落の外れの広場でやることになっていた。
公民館は狭く、全戸が入らないのだという。
秋にしては、その日は妙に暖かかった。
広場は堤防のすぐ内側で、幕を張る杭が二本、あらかじめ打たれていた。
杭は新しく、掘った土がまだ黒いままそばに盛られていた。
私が杭に白布を掛けていると、日が傾いた。
そのとき、堤防の上のほうで、かん、かんと音がした。
夕方になると、堤防の水門が、かん、かんと鳴った。
「水門の錠ですたい」と宮里さんが言った。
「潮の高さで、内側の戸が振れるとです」
私は堤防を見上げた。
堤の向こうに海があるはずだが、ここからは見えない。
匂いだけがした。
泥と、貝と、生ぐさい草の混ざった匂いだった。
私はその匂いを、悪くないと思った。
宮里さんは、私を自分の家に連れていって、握り飯を出してくれた。
土間の隅に、真新しい鍬が三本立てかけてあった。
「去年の春に、みんなで買うたとです」
入植は昭和二十六年に始まったのだと、宮里さんは言った。
戦争で家を失った者や、次男三男が、県の募集に応じて集まった。
洲埼にもともと住んでいたのは、その半分ほどだという。
「元からの衆と、来た衆と。まあ、今はもう混ざっとります」
それでも、家の並びは分かれていた。
堤防に近い側が元からの家で、内陸側が入植の家だった。
私は、なぜ古い家のほうが堤防に近いのかと尋ねた。
宮里さんは、少し考えてから答えた。
「見張りよったとでしょうな。昔は」
何を見張っていたのかは、言わなかった。
日が沈むまでに、発電機を据え、映写機の水平を出す。
これは毎回同じ手順で、体が覚えている。
フィルムを掛け、ランプの光をひとまず幕に当てて、四隅を合わせる。
白い布が、暗くなった野原の中に四角く浮かび上がる。
広場のまわりには、灯りらしい灯りがなかった。
家々の窓は、どれも堤防と反対を向いている。
そのため、幕に当たる映写機の光だけが、この平らな土地でただ一つの明かりになっていた。
遠くからでも、よく見えたはずだ。
この瞬間が、私はこの仕事でいちばん好きだった。
人が集まってくる音は、いつもこの光のあとから始まる。
私は癖で、上映のあいだに客の頭を数えることにしていた。
理由は単純で、上映報告に人数を書く欄があったからだ。
だが正直に言えば、数えること自体が好きだった。
暗がりに並んだ頭は、数えているうちに、稲の株のように見えてくる。
その晩も、私は数えるつもりでいた。
六時を回るころ、人がぽつぽつと集まりはじめた。
筵を抱えた老人、赤ん坊を負ぶった女、走ってくる子供。
みな幕の前に座り、後ろから見ると、頭がきれいに並んだ。
宮里さんが私の横に立って、集落の組を一つずつ数え上げた。
「一番組が七人、二番組が九人、三番組が十一人……」
全部で四十四人だと、宮里さんは言った。
「洲埼は今、四十四人ですたい」
私は手帳の隅に、四十四と書いた。
※
上映の前に、一人の老人が私のところへ来た。
腰が曲がっていて、私の肘のあたりに顔があった。
老人は幕を指さして、私に聞いた。
「これは、こっち向きに張っとるとね」
意味がわからなかったので、私は聞き返した。
「絵の出る面は、こっち側です」と私は答えた。
老人は首を振った。
「そぎゃんことじゃなか。裏が、海のほうば向いとるかと聞いとる」
私は幕の裏を見た。
白布の裏は、堤防のほうを向いていた。
「向いています」と私が言うと、老人は少しのあいだ黙った。
「昔なら、そげん張らせんかった」
それだけ言って、老人は列のいちばん端に座った。
私は宮里さんに、今のはどういう意味かと尋ねた。
宮里さんは笑って、気にせんでよかと言った。
「あの人は、潮入れの世話役ばしよった人ですたい」
潮入れ、という言葉を、私はそのとき初めて聞いた。
宮里さんの説明はこうだった。
洲埼のあたりは、干拓の前は遠浅の干潟だった。
潮が引くと、沖まで泥の平野になる。
その泥の中に、澪筋と呼ばれる水の道が何本も走っている。
澪筋は潮が引くあいだだけ渡れて、満ちれば消える。
昔の洲埼には、年に一度、水門を一晩だけ開ける行事があった。
それを潮入れと呼んだ。
開けた水門から潮を入れ、内側の水路を海の水で満たす。
「土地ば洗うとです」と宮里さんは言った。
私は、塩を抜くための農事だろうと思って聞いていた。
実際には、まったく逆だった。
それを知るのは、もう少しあとになる。
「今年から、それはやらんとです」
宮里さんは堤防のほうを見た。
「完工しましたけんね。水門は、もう開けん」
それが記念すべきことなのだと、宮里さんの声は明るかった。
私は、暗くなっていく堤防をもう一度見た。
堤防は、集落を守るために立っているのだと、そのときまで思っていた。
広場に戻る途中、私は一人の老婆に呼び止められた。
筵を敷いて、まだ座っていた。
老婆は私に、幕を張ったのはあんたかと聞いた。
私はそうですと答えた。
「沖ん州の話は、聞きなさったね」
私は首を振った。
老婆は堤防のほうを顎で示した。
「昔はな、あすこの沖に、州のあったとよ」
潮が引くと、泥の平野の真ん中に、少しだけ高い場所が現れる。
そこを沖ん州と呼んだ。
「置いたとよ、いろいろと」
何を、と私は聞いた。
老婆は答えず、指を三本立てた。
「あすこに置いた者は、潮の満ちる前に戻らんばいかん」
戻れなかった者がどうなるかは、言わなかった。
「戻らんかった者の数を、村では毎年、数えよったと」
数えるんですか、と私は聞いた。
「数えんと、増えるけんね」
老婆はそう言って、自分の膝を二度叩いた。
「増えたぶんは、潮ば入れて流すと。それが潮入れたい」
私は、それは言い伝えでしょうと言った。
老婆は笑わなかった。
「今年は、流さんとよ」
それだけ言って、老婆は幕のほうへ向き直った。
私はその場を離れながら、老人が言ったことを思い出していた。
昔なら、幕の裏を海に向けて張らせなかった。
白い布は、暗い野原の中でよく目立つ。
どちらの側から見ても、よく目立つ。
上映が始まった。
まず啓発映画を回した。
干拓地の耕し方と、稲の品種の話。
予想どおり、二列目のあたりから舟を漕ぐ頭が出た。
私は映写機の横に立って、いつものように数えはじめた。
後ろから数えて、六列。
一列目が九つ、二列目が八つ。
三列目を数えているとき、幕のほうから音がした。
ぱたり、という布の音だった。
幕の裾が、風もないのに、下から二度ふくらんだ。
私は手を止めて、幕を見た。
風はなかった。
その晩は、はじめから一度も風が吹いていない。
秋にしては暖かいと思ったのは、風がなかったからだ。
私は数え直した。
三列目は七つ。
四列目、五列目、六列目。
全部で、四十七だった。
数え間違えたのだと思った。
暗いところで人の頭を数えれば、二つや三つは狂う。
そう思って、手帳には四十四と書いた。
啓発映画が終わり、フィルムを掛け替えるあいだ、私は明かりを点けた。
明かりが点いた瞬間、客が一斉にこちらを見た。
みな、目を細めていた。
そのとき私は、列のいちばん後ろに誰も座っていないことに気づいた。
数えたときには、六列あったはずだった。
「五列しかありませんね」と私は宮里さんに言った。
宮里さんは列を見て、そうですねと言った。
それだけだった。
掛け替えのあいだに、私は幕の裏へ回った。
布の裾に、砂がついていた。
湿った砂だった。
指でつまむと、貝の欠片が混ざっていた。
広場は乾いた土で、砂はどこにもない。
堤防を越えなければ、砂も貝も、この土地にはないはずだった。
私は布の裾を持ち上げて、地面を見た。
幕の下に、細い筋がついていた。
濡れた筋が、堤防のほうから、幕の裾まで一本だけ伸びていた。
幅は、私の手のひらほど。
まっすぐではなく、ゆるく曲がっている。
澪筋のようだと思った。
そう思った自分に、少し驚いた。
私はまだ、澪筋というものを見たことがなかった。
※
二本目の時代劇を掛けた。
客が沸いて、笑い声が上がった。
子供が幕のすぐ前まで出ていって、母親に引き戻された。
私は映写機の横で、また数えはじめた。
数えるのを、やめられなかった。
五列。
九、八、七、八、九。
四十一。
合わない。
もう一度。
九、八、七、八、九、そして。
六列目に、三つ。
私は顔を上げた。
明かりを点けたとき、六列目には誰もいなかった。
いま、そこに三つ、頭が並んでいる。
髪の形も、肩の線も、ほかの客と何も違わない。
ただ、三つとも、幕のほうを向いていなかった。
堤防のほうを向いていた。
あの晩、私が数えた頭は、洲埼にいる人の数より三つ多かった。
私はその三つを、もう一度だけ見た。
一つは大人の背丈で、二つは子供ほどの高さだった。
三つとも、じっと堤防のほうを見上げている。
その姿勢に見覚えがあった。
広場に集まった村の人たちが、暗くなる前に、一度ずつ同じ方向を見ていた。
私はそのとき、それを海を気にしているのだろうと思った。
気にしていたのは、海ではなかったのだと思う。
私は、映写機を止めなかった。
止めれば、明かりを点けることになる。
明かりを点けたら、そこに何が座っているのかを見なければならない。
私は手を動かさずに、フィルムの残りを見た。
二十分もののリールだった。
掛けてから、私の腕時計では四十分が経っていた。
まだ、侍は橋の上にいた。
客は笑っていた。
同じ場面を、私は三度見ていた。
それでも客は、初めて見るように笑った。
幕の裾が、また下からふくらんだ。
今度は二度ではなかった。
布の下が、絶えず、ゆっくりと押し上げられていた。
何かが幕の裏側で、こちら側へ出る場所を探しているようだった。
私は宮里さんを探した。
宮里さんは一列目に座って、笑っていた。
私は堤防のほうへ歩いた。
走らなかったのは、走れば客が振り向くと思ったからだ。
堤防の斜面を登った。
土は柔らかく、靴が沈んだ。
上がりきって、私は海を見た。
海はなかった。
堤の向こうは、地平まで泥だった。
月の光で、泥が薄く光っていた。
その泥の上に、細い筋が何本も走っている。
澪筋だと、見た瞬間にわかった。
どの筋にも、水は一滴もなかった。
潮が引いたのではない。
引いたままで、二度と満ちない場所になっていた。
私は振り返って、広場を見下ろした。
白い幕が、下から見たときよりずっと小さく見えた。
その幕に向かって、泥の上から、筋がまっすぐ伸びていた。
堤防を横切って、広場まで。
風は海から来るものだと思っていたが、あの晩、海はもう、そこにはなかった。
幕をふくらませていたのは、風ではない。
私は堤防を下りた。
下りる途中で、水門が鳴った。
かん、かん。
水門は閉じているはずだった。
完工した、と宮里さんは言った。
もう開けない、と。
だが音は、内側から戸を叩く音に聞こえた。
私は広場に戻り、映写機の前に立った。
フィルムは、まだ橋の場面だった。
私はランプを消した。
幕が暗くなり、客が声を上げた。
「故障です」と私は言った。
声が震えていなかったことを、今でも不思議に思う。
それから、明かりを点けた。
五列だった。
六列目には、誰もいなかった。
客は不平を言いながら、少しずつ立って帰っていった。
帰るとき、みな堤防のほうへ一度、顔を向けた。
全員がそうした。
誰も、そのことに触れなかった。
※
その晩、私は片付けをせず、宮里さんの家に泊めてもらった。
布と映写機は、朝になってから取りに行った。
幕は、私が張ったときのまま、杭に掛かっていた。
裾は乾いていた。
砂もなかった。
地面の筋も消えていた。
ただ、白布の下から三分の一ほどが、うっすらと黄ばんでいた。
潮に焼けた色だった。
一晩で、そんな色になるものではない。
帰り際、あの腰の曲がった老人が、道端に立っていた。
私を待っていたように見えた。
老人は幕のことを聞かなかった。
「潮入れば、やめたけんね」とだけ言った。
私は、潮入れは何のためにやっていたのかと尋ねた。
老人は少し考えて、こう答えた。
「渡れんごとするためたい」
誰が渡るのかとは、聞けなかった。
老人は堤防を見て、それから私を見た。
「潮が動いとるあいだは、道が消えるとよ」
道、というのは澪筋のことだろうと思った。
「あんた、数えなさったろ」
私は答えなかった。
「数えたら、覚えられるとよ」
老人はそれだけ言って、背を向けた。
私はトラックに乗って、洲埼を出た。
バックミラーに、長い堤防が映っていた。
その堤防の上を、三つの影が、私と同じ方向へ歩いていた。
私は速度を上げなかった。
上げれば、追いつかれる気がした。
私は映写機と発電機を積み終えて、堤防沿いの道を走った。
来たときと同じ道のはずだった。
だが、堤防が終わらなかった。
来たときは、堤防の切れ目まで十分ほどだったと記憶している。
その日は、二十分走っても、右手にずっと土の斜面が続いていた。
私は速度計を見た。
針は動いている。
窓を開けると、泥の匂いがした。
やがて堤防が切れ、県道の白い標識が見えた。
時計を見ると、洲埼を出てから四十分が経っていた。
帰り道だけが、行きの倍かかっていた。
洲埼の映写会の報告書には、観客四十四名と書いた。
嘘は書いていない。
洲埼にいた人は、四十四人だった。
その後の洲埼のことは、人づてに聞いただけだ。
干拓地の土は、思ったように塩が抜けなかったという。
稲は三年で作れなくなり、入植した家は一軒ずつ出ていった。
昭和四十年代の終わりには、集落はなくなっていた。
宮里さんは内陸の町へ移って、そこで長く暮らしたと聞いた。
腰の曲がった老人がどうなったかは、誰も知らなかった。
私は一度も、洲埼へ戻っていない。
映写の仕事は、それから十二年続けた。
やめたのは、数えるのをやめられなかったからだ。
どの土地の、どの上映でも、私は客の頭を数えた。
たいていは、名簿の数と合った。
だが、年に一度か二度、合わないことがあった。
いつも、三つ多かった。
多い三つは、決まっていちばん後ろの列にいて、幕を見ていなかった。
私は今、海から遠い町に住んでいる。
私の住むこの町には、堤防も水門もない。
それでも夕方になると、どこかで、かん、かんと鳴る。
その音がするたび、私は窓の外を見て、頭の数を確かめる癖がついた。
この家にいるのは、妻と私の二人だ。
数えると、たいてい二つだ。