
俺が遠洋の船に乗っていたのは、昭和五十年代の終わりごろの話だ。
東北の、名を言ってもたぶん誰も知らない小さな漁港から、その船は出ていた。
甲板員といっても、まだ二十歳を過ぎたばかりの見習いだった。
親父も祖父も漁師で、海に出るのは当たり前のことだと思っていた。
港には、潮で黒くなった木造の番屋が、肩を寄せ合うように並んでいた。
夜明け前に起きて、凍るような甲板を洗い流すのが俺の仕事だった。
冬の朝は、ホースの水が手のひらで湯気を立てた。
船がいったん沖へ出れば、何日も陸を見ない暮らしになる。
水平線しかない世界に慣れてくると、人は妙に無口になっていく。
俺もそうだった。
その船には、年寄りから受け継がれた言い伝えが、いくつもあった。
そのひとつに、「凪の晩に羅針盤が西を忘れたら、舵を握るな」というのがあった。
年寄りの機関長が、酒を飲むたびにその話をした。
昔、霧の濃い晩に当番が舵を握ったまま、朝になっても戻らなかった船があるという。
戻らなかったのは船ではなく、当番の男のほうだったらしい。
身体だけは甲板に立っていて、夜が明けてもずっと水平線を見ていたそうだ。
声をかけても返事をせず、ただ西のほうを向いていた、と。
若い俺は、その手の話を半分笑って聞いていた。
海の上では、退屈を埋めるための作り話など、いくらでも転がっていた。
ただ、その話をするときだけ、機関長の目は笑っていなかった。
「お前も、凪の霧にだけは気をつけろ」
そう言って、彼はいつも俺の肩を一度だけ叩いた。
今思えば、あれは異世界への入り口の話だったのかもしれない。
祖父は、海を「貸してもらうもの」だと言っていた。
獲った分だけ、いつか海に返さねばならない、と。
だから祖父は、大漁の日ほど無口になった。
俺には、その意味が、よく分からなかった。
港の沖には、注連縄を張った小さな岩礁があった。
土地の者は、そこを「沖の宮」と呼んでいた。
時化の前には、その岩が低くうなるのだと、年寄りたちは言った。
俺も一度だけ、その音を聞いたことがある。
牛の鳴き声のような、腹に響く低い音だった。
機関長は、その岩のことも、よく口にした。
「海には、こっちが知らない決まりが、いくつもある」
「人は、その上を勝手に走らせてもらってるだけだ」
酒の入った夜、彼はそう言って、暗い海のほうを見た。
当時の俺は、そんなものを信じてはいなかったが。
※
問題の晩のことは、今でもはっきり覚えている。
あれは、漁場へ向かう途中の、凪の晩だった。
俺は深夜の見張り当番に立っていた。
海は油を流したように静かで、波の音さえしなかった。
そのうち、沖のほうから霧が来た。
最初は薄い帯のようだったのが、みるみるうちに船を包んだ。
甲板の灯りが、自分の手の先までしか届かなくなった。
俺は手すりを握って、ただ霧をやり過ごそうとした。
ふと、操舵室のほうへ目をやった。
羅針盤の針が、西をさしたまま、小さく震えていた。
凪の晩に、羅針盤が西を忘れる。
機関長の声が、頭の隅をよぎった。
その瞬間、当番でありながら、俺の足は舵の前から退いていた。
後頭部が、すっと冷たくなった。
貧血のような感覚だった。
膝から力が抜けて、俺はその場にしゃがみ込んだ。
おかしいのは、意識だけが、妙にはっきりしていたことだ。
身体の感覚はある。
なのに、指一本、自分の意思では動かせなかった。
霧の白さが、ゆっくりと目の前で渦を巻いた。
※
気がついたとき、俺は浜辺に立っていた。
船の甲板ではなかった。
足の裏に、濡れた砂の感触があった。
空は、夕暮れでもないのに、赤く染まっていた。
水平線の上に、見たこともない大きな星が浮いていた。
月にしては大きすぎたし、色も赤みがかって違っていた。
波打ち際には、白い貝殻が、数えきれないほど打ち上げられていた。
潮の匂いだけが、いつもの海と同じだった。
俺はまだ夢を見ているのだと、思おうとした。
だが、足が勝手に動き出した。
俺の意思とは関わりなく、身体が浜を歩き始めた。
止めようとしても、止まらない。
自分の身体を、後ろの席から眺めているような感覚だった。
これが異世界というものなのか、と頭のどこかで考えた。
浜の先に、流木で組んだ小屋のようなものが見えた。
その前に、二人の人影があった。
年老いた男と、若い女だった。
二人とも、見た目は西洋の人のようでいて、髪だけが黒かった。
女は、平たい貝の内側に、細い棒の先で何かの文様を刻んでいた。
渦巻きのような、海藻のような、文字のような形だった。
老人が、ゆっくりと俺のほうへ顔を向けた。
そして、何か言った。
聞いたことのない言葉だった。
意味は、まるで分からない。
それなのに、俺の口が勝手に動いて、何かを答えていた。
俺の知らない言葉で。
頭の中の俺は、ただ慌てていた。
身体の俺は、落ち着いて老人と向き合っていた。
女が立ち上がって、俺に貝を一枚、差し出した。
内側に、さっきの文様が刻まれていた。
俺の手が、ためらいもせずそれを受け取った。
そして、なぜか俺は深く頭を下げた。
老人は、満足したようにうなずいた。
それから、握った拳をひらいて、小さな珠を見せた。
乳白色の、種のような珠だった。
俺の手が、それも受け取った。
老人は、浜のはずれにある一本の流木を指さした。
その流木には、文様を刻んだ貝が、すでに何枚も結びつけられていた。
風が吹くと、貝同士が触れ合って、乾いた音を立てた。
俺の身体は、ためらいなくそこへ歩いていった。
持っていた貝を、流木の枝に結びつけた。
まるで、ずっと前からそうしてきたかのように。
不思議と、空腹も、喉の渇きも感じなかった。
時間の感覚も、少しずつ溶けていった。
老人と女は、一日に何度も浜に出ては、貝に文様を刻んだ。
刻み終えると、それを流木に結びにいく。
まるで、毎日決まった祈りを、繰り返しているようだった。
俺の身体も、そのたびに手伝わされた。
貝を運び、流木に結び、頭を下げる。
その動作は、回を重ねるごとに、滑らかになっていった。
頭の中の俺だけが、いつまでも置いてけぼりだった。
女が刻む文様には、いくつかの決まった形があった。
渦巻き。
二つに分かれた枝。
波のような、横の線。
それが何を意味するのかは、最後まで分からなかった。
ただ、女がときどき俺のほうを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
その微笑みだけが、言葉のいらない優しさのように感じられた。
※
そのあと、三人で浜に座った。
老人と女は、打ち上げられた海藻のようなものを口に運んだ。
俺の身体も、同じものを食べた。
味は、しなかった。
不思議なことに、いつまで経っても夜が来なかった。
赤い空のまま、時間だけが流れていった。
やがて、老人と女は、流木の小屋で横になった。
俺は眠らず、ひとり浜を歩いた。
波打ち際に、見たことのない生き物がいた。
脚の長い、蜘蛛のような形をしていて、こちらを見ても逃げなかった。
俺の身体は、それに手を伸ばして、そっと触れた。
怖がっているのは頭の中の俺だけで、身体のほうは平気だった。
砂の上には、規則正しい渦巻きの模様が、いくつも描かれていた。
潮が引いたあとの砂紋にしては、整いすぎていた。
誰かが、毎日ここで描いているように見えた。
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、背後で老人の声がした。
俺の身体は、はじかれたように立ち上がった。
そして、来た道を、浜の入り口へ向かって走り出した。
浜の入り口まで戻って、俺は息をのんだ。
さっきまで砂浜だったところが、港になっていた。
石とガラスでできた、見たこともない港湾都市だった。
高い建物が、赤い空の下に、いくつも並んでいた。
ほんの少し目を離した隙に、世界が入れ替わっていた。
※
老人は、その都市を指さして、何かを叫んだ。
ひどく怒っているようだった。
「あれはお前がやったのか」とでも言うような響きだった。
俺の身体は、それでも都市のほうへ歩き出した。
背中に、老人の怒鳴り声が浴びせられた。
追い出されたのだと、頭の中の俺は思った。
少し行くと、後ろから足音がした。
振り返ると、あの女だった。
女は、俺が流木に結んだはずの貝と、乳白色の珠を、もう一度俺の手に握らせた。
そして、静かに頭を下げて、浜のほうへ戻っていった。
俺はその二つを、濡れた服のかくしに押し込んだ。
都市の入り口には、制服を着た男が立っていた。
男は、筒のようなものを俺に向けた。
すると、けたたましい警告の音が鳴り響いた。
男の顔色が、さっと変わった。
俺のかくしから、貝と珠が取り出された。
それを見たとたん、男たちの数が増えた。
俺は両脇を抱えられ、都市の奥へと連れていかれた。
※
連れていかれたのは、地下の、やけに白い部屋だった。
服を脱がされ、ただ待たされた。
頭の中の俺は、ずっと混乱したままだった。
身体の俺は、椅子に座って、おとなしくしていた。
しばらくして、藍色の制服を着た男が入ってきた。
男は、俺の前に腰を下ろして、こう言った。
「私は日本人の担当だ。蕪木という」
日本語だった。
そこからのことは、はっきりと覚えている。
蕪木は、俺の持っていた貝と珠を、机の上に並べた。
「これを、どこで手に入れた」
「浜にいた、女の人にもらいました」
俺がそう答えると、蕪木はしばらく黙った。
それから、ひとつ息をついて言った。
「日本は、もう無い」
意味が、分からなかった。
「県も、国も、海の役所も、何も無い」
「でも、俺はついさっきまで、船に乗っていました」
「だから、奇跡だと言っているんだ」
蕪木は、俺の顔をのぞき込んだ。
「お前のいた年は、いつだ」
「昭和の、五十年代です」
「ならば、なぜ知らない。海が黙したことを」
「海が、黙した……?」
「意味が分からないという顔だな。なら、話してやろう」
蕪木の話を、頭の中で順番に並べてみた。
この世界の日本は、潮の文明の国だったという。
海そのものを力に変えて、栄えた国だった。
潮の満ち引きから、尽きることのない力を取り出す技を、世界で最初に手に入れたらしい。
その力で、船も、灯りも、都市も動かしていた。
海の底に、巨大な力の井戸を掘る計画もあった。
だが、ある年、その井戸の試しに失敗した。
海が、黙った。
潮が、満ちも引きもしなくなったのだ。
力の源を失った国は、ゆっくりと潰えていった。
生き残った人々は、わずかな都市に集められた。
今は、人の手で潮を取り戻そうとしている最中だという。
「お前の持っていた珠はな」と蕪木は言った。
「この世界では、もうどこにも残っていないものだ」
「海が黙す前の、生きた海の種だ」
俺には、その重さがまるで分からなかった。
「俺は、ただバイト……いえ、当番をしていただけです」
「それが、奇跡だと言っているんだ」
「昔の日本は」と蕪木は続けた。
「世界じゅうに、海の技を分けていた」
「どの国の港も、日本の潮の力で、灯りをともしていた」
「海を敵に回す国など、どこにもなかった」
俺は、黙って聞いていた。
「だが、人は力を欲張った」
「満ち引きだけでは足りず、海の底そのものを掘ろうとした」
「深いところに、もっと大きな力があると考えたのだ」
蕪木の声は、淡々としていた。
「井戸が一本、底まで届いた朝のことだ」
「潮が、すうっと引いて、それきり戻らなくなった」
「干潟が、どこまでも広がった」
「魚は、行き場を失った」
「船は、砂の上に取り残された」
俺は、干上がった港を思い浮かべて、寒気がした。
「人は、海を貸してもらっていただけだ」
祖父と同じことを、蕪木も言った。
「返すことを忘れた国は、こうなる」
俺は、何も言えなかった。
「お前の珠は、その海が黙す前の、最後の生きた種だ」
「だから誰もがあれを見て、息をのんだのだ」
蕪木は、三度同じ言葉を繰り返した。
※
それから二週間ほど、検査ばかりの日が続いた。
寝る間も、ろくになかった。
胃の中に残った海藻を、吐き出させられた。
頭の機械にかけられ、血を採られ、同じ問いを何度も繰り返された。
「海の種を、どこで手に入れた」
「お前の頭は、なぜ二つに分かれている」
俺は、そのたびに同じことを答えた。
答えているのは、やはり俺ではなかった。
猿がやるような、簡単な芸もさせられた。
俺の世界で学んだことは、この世界では、ひどく古い知恵らしかった。
ただ一度だけ、蕪木がふと、こう聞いた。
「お前の世界の海は、まだ生きているのか」
俺は、毎晩聞いた波の音を思い出して、「はい」と答えた。
蕪木は、長いあいだ、その紙を見つめていた。
それから、小さくこう言った。
「うらやましいな」
藍色の制服の男が、はじめて見せた、人間らしい顔だった。
そのあと、俺は別の部屋へ連れていかれた。
大きな機械で、頭の中を調べられた。
血も採られた。
しばらくして、また白い部屋に戻された。
蕪木は、検査の紙を見ながら言った。
「妙なことが分かった」
「お前の頭は、考えることと、動くことが、別々に働いている」
俺は、思わず頭の中で「その通りだ」と叫んだ。
だが、口から出たのは、違う言葉だった。
「そんなこと、あるんですか」
「あるも何も、こうして紙の上に出てしまっている」
蕪木は、紙の上を指でなぞった。
「頭の中に、人がふたりいるようなものだ」
「ひとりが考え、もうひとりが動いている」
「お前は、どちらだ」
俺は、答えられなかった。
答えているのは、俺ではなかったからだ。
※
俺は、それから「庭」と呼ばれる区画で暮らすことになった。
身元の分からない者を、最低限だけ生かしておく場所だった。
そこには、いろいろな国の人間がいた。
日本人も、何人かいた。
俺は、そのうちの一人と仲良くなった。
遠藤と名乗る、俺より少し年上の男だった。
遠藤から、いろいろなことを聞いた。
赤い空に浮かぶ大きな星は、別の星なのだという。
本物の月は、ちゃんと別の場所にあった。
海が黙したあと、人々は海ではなく、空を見るようになったらしい。
俺は、庭で半年近く暮らした。
三日に一度、検査を受けた。
そのたびに、この都市だけで使える、貝のかたちの貨幣をもらった。
その金で、造りものの魚や野菜を買った。
味はするのに、どこか芯のところが物足りなかった。
「ここの魚は、海の記憶を真似ているだけだ」と遠藤は言った。
遠藤は、この世界に来て三年になると言った。
「最初の一年は、毎晩、帰る方法ばかり考えていた」
「二年目で、考えるのをやめた」
「三年目の今は、たまにしか思い出さない」
そう言って、彼は乾いた笑い方をした。
「お前も、そのうちこうなる」
俺は、そうはなりたくない、と思った。
だが、口には出さなかった。
庭の暮らしには、これといった楽しみもなかった。
検査を受け、貨幣をもらい、造りものの飯を食う。
夜になると、三つしかない放送が、同じような番組を流した。
俺は、言葉も分からないまま、ただそれを眺めた。
笑い声だけは、どこの世界でも同じ響きだった。
その響きが、かえって俺を、寂しくさせた。
あるとき、俺と同じように迷い込んだという女と、引き合わされた。
通訳を通して話した。
「あなたは、どうやってここへ」と俺は聞いた。
「嵐の海に投げ出されて、岩に頭を打った瞬間に、ここに」と彼女は答えた。
「身体が、勝手に動いたりはしましたか」
「いいえ。私の身体は、ずっと私のものでした」
「何か、持っていませんでしたか。貝とか、珠とか」
「何も。服のほかは、何も持っていませんでした」
「そうですか」
俺たちに同じところは、ほとんど無かった。
ただ一つ、戻れた者はいない、ということだけが同じだった。
「ここでの暮らしは、どうですか」と俺は聞いた。
「悪くは、ありません」と彼女は答えた。
「ただ、海の音がしないのが、つらい」
俺は、その言葉に胸を突かれた。
この都市には、波の音が、どこにもなかった。
あれほど静かな海辺を、俺はそれまで知らなかった。
「あなたは、海の音を覚えていますか」と彼女は聞いた。
「ええ。船で、毎晩聞いていました」
「うらやましい」
彼女は、それきり窓の外を見た。
赤い空の下に、造りものの街路樹が並んでいた。
葉は、風が吹いても、かさりとも鳴らなかった。
「あなたも、たぶん戻れない」と彼女は静かに言った。
俺は、その言葉に、うなずくしかなかった。
※
一度、検査の帰りに、港のほうまで歩いたことがある。
石とガラスの埠頭が、どこまでも続いていた。
だが、そこに船は、一隻もいなかった。
海のあるべき場所には、白い干潟が広がっているだけだった。
潮の匂いは、もうしなかった。
埠頭の先で、年寄りが一人、海のほうを向いて座っていた。
俺の身体は、その隣に、しばらく立っていた。
年寄りは、何も言わなかった。
ただ、干潟の向こうを、じっと見ていた。
そこに、いつか潮が戻ると、信じているようだった。
俺は、その横顔を、今でも覚えている。
そのころ、俺は一度だけ、庭の洗面所の鏡の前に立った。
そこには、いつもの俺の顔があった。
日に焼けた、間の抜けた、見慣れた顔だ。
だが、ひとつだけ、おかしなことがあった。
鏡に映る俺の顔を動かしているのは、俺ではなかった。
鏡の中の俺が、俺の知らない静かな表情で、こちらを見ていた。
俺は、声にならない悲鳴をあげた。
頭の中だけで。
それから、俺は二度と鏡を見なかった。
※
庭で半年が過ぎたころ、俺の身体に、変化が起きはじめた。
ときどき、自分の意思で、指が動くようになったのだ。
最初は、ほんの数分だった。
それが、日に日に延びていった。
ようやく自分の手で湯呑みを持てたとき、俺は子供のように泣いた。
身体が戻ってくるたびに、元の世界の記憶が、少しずつよみがえった。
船の油の匂い。
機関の震え。
凪の晩の、あの霧。
俺は、帰りたいと、はじめて強く思った。
そして、ある朝のことだ。
目を覚ますと、俺は船の寝床にいた。
潮の匂いと、機関の震えが、確かに戻っていた。
甲板に出ると、いつもの灰色の海が広がっていた。
赤い空も、大きな星も、どこにもなかった。
仲間に聞くと、俺はあの晩、朝まで見張りに立っていたという。
ちゃんと当番をこなして、交代して、眠ったらしい。
霧のことも、羅針盤のことも、誰も覚えていなかった。
俺だけが、半年以上の暮らしを覚えていた。
かくしを探ったが、貝も珠も、もう無かった。
ただ、手のひらに、貝を握りしめていたような、薄いあとが残っていた。
※
あれから、何十年も経った。
俺はとうに船を下りて、陸の暮らしのほうが長くなった。
それでも、凪の晩に霧が出ると、今でも西を確かめてしまう。
羅針盤など、もう手元にないのに。
そして、ときどき思うのだ。
あの半年のあいだ、俺の身体を動かしていたのは、誰だったのか。
いや、それより、こちらの世界で当番をこなしていたのは、本当に俺だったのか。
異世界の浜で、赤い空の下に立っていたほうが、本当の俺だったのではないか。
今も、答えは出ない。
ただ、海が凪いだ晩には、潮の匂いの奥に、あの黙した海の気配を、かすかに感じることがある。