娘の目

うちの沿線には、古い木の跨線橋が残っている駅がある。

去年の秋、その駅で体験した話を書く。

今でも、思い出すと指先が冷たくなる。

私と、小学四年の娘の話だ。

その日は土曜で、二駅先のショッピングモールへ、娘と二人で買い物に出ていた。

娘の上履きと、冬物の肌着と、私の台所用品。

帰りにフードコートでソフトクリームを半分こした。

どこにでもある、休日の夕方だった。

モールでは、娘はゲームコーナーの太鼓のゲームで二回遊んだ。

ソフトクリームは、娘がチョコで、私がバニラ。

半分こする約束が、いつも三分の一しか回ってこない。

「詐欺やわ」と言うと、娘はけらけら笑った。

あの笑い声を、私はその日の最後の「普通」として覚えている。

帰りの電車を待つために、私たちは駅のホームにいた。

この駅は古い。

大正の頃に開業したと、駅の看板に書いてある。

ホームの屋根は木の柱で、改札の上には、これも木造の跨線橋が架かっている。

緑色の鉄柵と、飴色にすり減った床板。

渡ると、足の下で、みしり、と音がする。

改札で切符を入れると、駅員さんが「橋、気ぃつけてな」と言う。

床板が古いから、という意味だと、ずっと思っていた。

実は私は、この町の生まれではない。

生まれは、もっと西の、母の在所のほうだ。

嫁いでこの沿線に越してきたとき、里の母に駅の写真を送ったら、妙な返事が来た。

「その橋、渡るときは、振り返らんことよ」

どういう意味かと訊いても、母は笑って、それ以上は言わなかった。

「年寄りの言うことよ。気にしんさんな」

気にしんさんな、と言うくらいなら、最初から言わなければいいのに。

そのときは、そう思っただけだった。

この駅で降りる人は、たいてい橋を使わない。

構内の端に新しい地下道ができていて、地元の人はみんなそっちを通る。

雨の日も、地下道のほうが濡れないのに、わざわざ遠回りになる地下道を使う。

「なんで誰も橋を渡らんのやろね」

引っ越してきた頃、夫に訊いたことがある。

「さあ。古いけん、揺れるんが嫌なんと違う?」

夫はこの町の生まれだが、そういえば夫も、橋を使ったところを見たことがない。

一度だけ、しつこく訊いたら、夫は困った顔で言った。

「子供の頃、ばあちゃんに言われとったんよ。橋の上で、知らん子と目ぇ合わせなさんなって」

「知らん子?」

「昔は子供が多かったけん、そういう意味やろ」

夫は笑って、それきりだった。

この町の年寄りは、みんな同じことを、違う言い方で子供に教えていたらしい。

ホームで電車を待ちながら、娘と今日の買い物の話をしていた。

新しい上履きを、月曜に下ろすかどうかという議題だった。

ふと、隣の娘が、頭の上に向かって小さく手を振った。

視線の先は、跨線橋だった。

夕方の逆光で、橋の窓は暗かった。

人影は、見えなかった。

「誰に振ったん?」

「こっちを見てる人がいたから、振り返しただけだよ」

「誰もおらんよ」

「いたよ」

娘は、こともなげに言った。

子供の言うことだ。

ガラスに映った誰かか、光の加減だろう。

私はそれ以上、考えなかった。

考えなかったことを、あとで何度も悔やむことになる。

十七時を過ぎて、ホームに人が増え始めた。

三十メートルほど離れたベンチの近くに、スーツ姿の男の人が立っているのに気づいた。

四十代くらいの、ごく普通の勤め人に見えた。

ただ、様子が、どこか変だった。

鞄を足元に置いたまま、じっと線路を見ている。

首の角度が、ずっと同じなのだ。

電車が来るほうではなく、ただ足元の線路を見下ろしている。

「あの人、なんか怖いね」

娘が小声で言った。

「見んの。こっち向いとき」

言いながら、私も横目で見てしまっていた。

アナウンスが入った。

まもなく三番線を、快速電車が通過します。

黄色い線の内側まで、お下がりください。

男の人が、す、と一歩前に出た。

黄色い線を、越えた。

風が先に来た。

快速の前照灯が、ホームの端を白く照らした。

男の人が、もう一歩、足を出しかけた。

そこからは、一瞬だった。

駆けてきた駅員さんが、男の人の腕を掴んで、力任せに後ろへ引いた。

二人分の体が、ベンチのほうへ倒れ込んだ。

快速が、轟音を立てて通過していった。

私は、その全部を見ていたわけではない。

男の人が線を越えた瞬間に、私は娘の目を、両手で塞いでいたからだ。

考えるより先に、手が動いていた。

見せてはいけない。

それだけだった。

手のひらの下で、娘のまつ毛が、ぱちぱちと動いていた。

ホームは、しばらく騒然としていた。

男の人は、ベンチに座らされて、うつむいていた。

怪我は、なかったようだった。

駅員さんに何か訊かれて、男の人は首を振りながら、切れ切れに答えていた。

近くにいたから、その声は聞こえてしまった。

「後ろから、呼ばれた気がして」

「気がついたら、線の内側におって」

「呼ばれたって、誰にです」

「分からんのです。子供の声やった気がするけど」

駅員さんの手が、一瞬だけ止まったのを、私は見た。

それから駅員さんは、何も言わずに、メモの続きを書いた。

駅員さんは、疲れた顔で何かをメモしていた。

よくあることなのか、初めてのことなのか、その顔からは読めなかった。

私は娘の手を引いて、ホームの反対側の端へ移動した。

娘は、意外なほど落ち着いていた。

怖がって泣くかと思ったのに、静かだった。

その静かさが、あとから思えば、最初の違和感だった。

ベンチのほうを、もう一度だけ見た。

男の人は、膝の上で自分の左手首を、さすり続けていた。

寒さをこらえる仕草には、見えなかった。

何かを、拭い落とそうとしているように見えた。

娘も、同じところを見ていた。

「あのおじさんの腕、まだ痕がついとるね」

三十メートル先の手首の痕なんて、見えるはずがなかった。

私は聞こえなかったふりをして、娘の手を引いた。

事故にならなかったので、電車はすぐに動いた。

次の各駅停車に乗った。

夕方の車内は、ほどよく混んでいた。

吊り革の下で、私は娘の頭を撫でた。

「怖かったね」

「うん」

「もう大丈夫やけんね」

娘は、しばらく黙っていた。

それから、窓の外を見たまま、言った。

「あの人、引っぱられよったね」

手が、止まった。

「……何が?」

「腕のところ。こう、ぎゅって」

娘は、自分の左手首を、右手で掴んでみせた。

「駅員さんが引っぱってくれたけんね」

「ちがうよ」

娘は、首を振った。

「駅員さんの前。線路のほうから、引っぱられよった」

車内の暖房が、急に効かなくなった気がした。

「見えたん? お母さん、目ぇ塞いどったよ」

「見えたよ」

娘は、やっと私のほうを向いた。

「上からだと、ぜんぶ見えたもん」

「上から?」

「うん。あのおじさんの帽子のつむじも見えた」

男の人は、帽子なんて被っていなかった。

そう言いかけて、思い出した。

倒れ込んだとき、駅員さんの制帽が、ホームに転がったのを。

つむじが見えるとしたら、真上からだけだ。

ホームに立っていた私にも、娘にも、見えるはずのない角度だった。

「上からって、どこから」

娘は、なんでそんなこと訊くの、という顔をした。

「だってわたし、あのとき、橋の上にいたもん」

娘は、ずっと私の隣にいた。

それは、絶対に間違いない。

私の右手は娘の目を塞ぎ、左手は娘の肩を抱いていた。

あの騒ぎの間、娘の体は一度も、私から離れていない。

なのに娘は、跨線橋の上から見た景色を話している。

私は、それ以上訊けなかった。

代わりに、別のことを訊いた。

「橋の上に、誰かおった?」

娘は、こくんと頷いた。

「見してくれた子がおった」

「どんな子」

「着物の子。ちっちゃい子」

「その子と、お話したん?」

「ううん」

娘は、窓の外に目を戻した。

「手ぇ振ったら、覚えててくれたみたい」

帰り道に振った、あの小さな手。

あれが、始まりだったのだ。

訊いたら、何かが決まってしまう気がした。

家に着くまで、娘はいつもの娘だった。

晩ごはんのから揚げを喜び、お風呂で歌をうたい、九時に寝た。

寝顔は、どこにでもある九歳の顔だった。

夫には、その夜のうちに話した。

男の人が助けられたところまでは、深刻な顔で聞いていた。

娘の「上から見えた」のくだりで、夫は少し笑った。

「子供の言うことやろ。テレビの見すぎと違うか」

そうやね、と私も笑った。

笑いながら、夫が一度も橋を渡らない人だということを、考えていた。

私だけが、眠れなかった。

夜中に一度、娘の部屋を覗いた。

娘は、仰向けで眠っていた。

常夜灯の下で、その顔は間違いなく私の娘で、間違いなく九歳で、それなのに私は、布団の膨らみをしばらく数えてしまった。

何を確かめたかったのか、自分でも分からない。

ただ、天井と娘の顔の間の、何もない空間が、その晩はやけに広く見えた。

次の日、里の母に電話をした。

買い物の話のふりをして、それとなく、駅でのことを話した。

男の人が助けられたこと。

娘の目を塞いだこと。

娘が「上から見えた」と言ったこと。

母は、長いこと黙っていた。

電話の向こうで、テレビの音が消えた。

「お母さん?」

「……その橋、まだあったんね」

母の声は、低かった。

「昔からね、あの手の古い橋には、言われがあるんよ」

「渡るときに振り返っちゃいけん、いうやつ?」

「そう」

「なんで振り返っちゃいけんの」

母は、また少し黙った。

それから、諦めたように言った。

「上から見とる子と、目が合うけんね」

背中が、すっと冷えた。

「目が合うたら、どうなるん」

「どうもならん。どうもならんけど」

母は、そこで言葉を選んだ。

「たまに、貸してくれ言うてくる子がおるんと」

「……何を」

「目ぇよ」

それきり、母はこの話をしなくなった。

電話を切ったあと、受話器を持ったまま、しばらく動けなかった。

貸してくれ、と言ってくる子。

娘が跨線橋に振った、小さな手を思い出した。

あれは、挨拶ではなくて、返事だったのかもしれない。

それから何日かして、私は市の図書館へ行った。

郷土資料の棚に、沿線の歴史をまとめた薄い本があった。

あの駅のページも、あった。

跨線橋の竣工は、大正の終わり。

それまでは、線路をじかに渡る構内踏切だったらしい。

「児童の横断が危険視され、地元の寄付により跨線橋が架けられた」

つまりあの橋は、もともと、子供を線路から遠ざけるために架けられた橋だった。

ページの隅に、白黒の写真が載っていた。

渡り初めの日の記念写真だという。

欄干にずらりと並んだ、着物姿の子供たち。

みんな下の線路を覗き込んで、笑っている。

その中で、一人だけ。

端の小さな子が、線路ではなく、カメラのほうを、まっすぐ見ていた。

百年前のレンズを、まっすぐに。

説明書きには、こうあった。

「以後、この駅では線路への立ち入りが絶えたと伝わる」

絶えた理由までは、書いていなかった。

橋が危険を防いだのか。

それとも、橋の上から、誰かが見張るようになったのか。

本を閉じて、私は静かに棚へ戻した。

母の言う「上から見とる子」が、どこの子なのか。

それ以上調べるのは、やめにした。

帰りに駅を通ると、ちょうど夕方で、跨線橋が逆光になっていた。

あの日と、同じ光だった。

窓の暗がりに向かって、私は生まれて初めて、小さく頭を下げた。

守ってくれたのか、借りていっただけなのか、まだ分からない相手に。

どちらであっても、娘は今、隣で笑っている。

それだけを、お礼の理由にした。

代わりに、正月に帰ったとき、娘に古いお守りをひとつ持たせた。

「ばあばの町の神社のよ」と言って。

お守りを渡すとき、母は娘の目をじっと見た。

「ええ子やね」と言って、頭を撫でた。

撫でながら、母の目は、娘の顔のもう少し上を見ている気がした。

娘はそれを、今もランドセルに付けている。

年が明けて、気になることが、ひとつだけ増えた。

三学期の授業参観で、廊下に子供たちの絵が貼り出されていた。

写生会で校庭を描いたのだという。

娘の絵は、すぐに見つかった。

上手だった。

鉄棒も、桜の木も、白い体操帽の子供たちも、ちゃんと描けていた。

ただ、全部、真上から見た構図だった。

校庭にいたはずの娘の絵だけが、鳥の目で描かれていた。

帽子の白い丸が、点々と並んでいた。

つむじの位置まで、丁寧に塗り分けてあった。

担任の先生は「発想が自由で素敵です」と笑っていた。

私は、うまく笑えなかった。

帰り道に、それとなく訊いた。

「あの絵、どうやって描いたん?」

「思い出して描いた」

「校庭、あんなふうに見えた?」

「見えたよ」

娘は、少し考えてから、付け足した。

「見せてもろたけん」

誰に、とは、訊けなかった。

あれから一年近く経つ。

娘は元気で、学校でも変わったことはない。

ただ、ひとつだけ。

あの駅を使うとき、娘は改札を出ると、必ず一度だけ、跨線橋を見上げる。

逆に、見上げない日も、たまにある。

「今日は、おらんの?」

「うん。どっか行っとる」

どっか、がどこなのか、私は考えないようにしている。

いない日のほうが、なぜか少しだけ、怖い。

挨拶みたいに、ちょこんと頭を下げることもある。

一度だけ、訊いたことがある。

「誰かおるん?」

娘は、こともなげに答えた。

「知っとる子がおるけん」

「……そう」

「まだ、こっち見よるよ」

娘の声に、怖がっている色は、少しもない。

友達の話をするのと、同じ声だった。

それが救いなのか、そうでないのか、私にはまだ判断がつかない。

私は、振り返らなかった。

母の言いつけを、今は守っている。

先日、駅の掲示板に、お知らせが貼り出された。

老朽化のため、跨線橋は今年度いっぱいで取り壊されるらしい。

よかった、と思う気持ちと、別の気持ちが、半分ずつある。

橋がなくなったら、あの子は、どこから見るのだろう。

あの日、私は娘の目を塞いだ。

間に合ったと、ずっと思っていた。

でも、時々考える。

私が塞いだあの数秒、娘の目は、どこで、誰に、使われていたのだろう。

そして、貸したものは、もう、返してもらえたのだろうか。

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