黒い背広と赤茶けた背広
小学二年の九月、留守番の家で泣いていた私のもとへ、一度も来たことのない叔父が二人だけ訪ねてきました。その日、二人は町役場から一歩も出ていなかったといいます。福岡…
小学二年の九月、留守番の家で泣いていた私のもとへ、一度も来たことのない叔父が二人だけ訪ねてきました。その日、二人は町役場から一歩も出ていなかったといいます。福岡…
友だちの家の廊下の突き当たりに、一枚だけ色の違う壁がありました。負けたくなくて十回叩いた私に聞こえてきたのは、数の増え続ける数え唄です。広島・竹原の塩田の町に残…
アイルランド西部のコネマラ。祖母の家には、寝る前に暖炉脇の泥炭を一度すべて崩してから積み直すという古い決まりがありました。雨が三日続いた晩に階段へ立った人影の忠…
奄美大島で測量の仕事をする私は、山で一晩明かすことになり、祖父から伝わる作法どおり地面に円を描きました。翌朝、円の外側だけが乾いていた理由と、祖父の野帳に残る丸…
商店街の奥の椅子に座る年寄りは、通る人を見て食べ物の名を一言だけ呟きました。直前に食べたものを当てているのだと思っていた私は、呟かれた人の記録を追ううちに、この…
雨の晩、堤防の道で前を行く車は追い越すな、鳴らすな。祖母の言いつけを破った夜勤明けの朝、前の軽自動車のワイパーだけが一度も動いていませんでした。その意味を知った…
但馬の鉱山の旧坑から出た、用途の分からない素焼きの壺。夜だけ振れる電位計、毎週坑口に落ちている金色の板、そして日報といつも一つだけ合わない人数。台帳に残した三と…
昭和五十八年の秋、八溝の山あいの集落で、数の合わない彫刻石が見つかりました。誰も見ていない日にだけ増え、絵はしだいに新しくなり、やがて建ったばかりの建物が現れま…
霧ヶ沼の人は、ものを渡すとき決して「あげる」と言いません。期限を言わない贈り物は沼のものになるからです。図書室で仲良くなったあの子が遺した三行のノートを、私は期…
津軽のりんご園には、枯れた木の代わりを決めておく習わしがあります。祖父が三十年、南のはずれの一本だけ袋を掛けなかった理由と、新しいはずの剪定鋏の柄に残る二つの握…
駅のホームで起きた出来事から、娘の目だけは守ったはずだった。なのに娘は言った——「上からだと、ぜんぶ見えたもん」。古い木の跨線橋に伝わる「振り返ってはいけない」…
九月の初め、東北の遠い親戚を訪ねました。熱帯魚好きのお父さんと畑へ向かう途中、小屋で生まれたばかりの子犬たちを見つけます。ところが最後に生まれた一匹だけ、顔が人…
物心がつく前から、僕には「前にもここにいた」という口ぐせがあったそうです。母の実家の細い道でだけ、足がすくむ。入ったことのない部屋を、なぜか知っている。やがて祖…
火山の噴火で地中に沈んだ村の跡で、井戸を掘っていた私の祖先が、古い屋根の下から響く音を聞いた話です。三十三年ぶりに掘り出された二人の生き残り、記録と合わない人数…
怖い話。山でいちばんこわいのは、人だったもの。祖母が語り継いだ「アガリビト」の言い伝えと、人の手の入らぬ深い山で道に迷い、人であることをやめかけた私が見てしまっ…
祖父の通夜の晩、築百五十年の庄屋屋敷で一人、ガラス張りの奥座敷に通された私。長い廊下を引きずる足音、波打つ襖、共振するガラス。家族はイタチの仕業だと言うが――山…
瀬戸内の窯業の町で、大きなため池が埋め立てられ、広い更地になりました。ため池の跡は絶好の遊び場でしたが、地元の子は誰も真ん中へは行きません。真ん中まで走っていく…
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