父の携帯電話に、最後まで登録されていた番号は、俺の番号だけだった。
父は、四十年ものあいだ、電話局の交換手をしていた。
まだ、交換手が手作業で電話をつないでいた、古い時代の話だ。
プラグを差し替え、線と線を、指先でつなぐ仕事だったという。
夜勤の晩は、町じゅうの人の声が、父の手のひらを、通り抜けていったそうだ。
火事だ、と叫ぶ声も。子が生まれた、と喜ぶ声も。
父は、その一つ一つを、黙って、繋いでいたのだ。
声も、顔も知らない、他人の人生を。
戦争の晩も、父は、交換台の前に、座っていたそうだ。
どんな夜も、線を、切らさなかった、と。
人と人を繋ぐことに、父は、静かな誇りを持っていた。
父の指は、そうやって、誰かと誰かを、結び続けてきた。
父の自慢は、その、節くれだった指だった。
「昔はな、目をつぶってでも、番号を繋げたもんさ」
酒が入ると、父は決まって、その話をした。
「この指はな、口より先に、数字を覚えとるんだ。」
そう言って、父は、太い指を、得意げに動かしてみせた。
俺は、その話を、子どもの頃から、何度も聞かされて育った。
交換手なんて、もう、とっくに機械に取って代わられた仕事だ。
それでも父は、自分のこの指を、誇りにしていた。
「機械は、心までは繋がん」と、父は、よく言っていた。
その口癖を、俺は、いつも笑って聞き流していた。
まさか、その言葉を、後になって、何度も思い出すことになるとは。
正直、うんざりしていた時期も、あった。
母が亡くなってから、父は、めっきり老け込んだ。
気丈だったはずの父が、母の遺影の前で、背を丸めて座っている。
そんな姿を見たのは、あのときが、初めてだった。
長年連れ添った相手を失うというのは、そういうことなのだろう。
父は、それから、口数が、ぐっと減った。
電話をかけても、生返事ばかりが、返ってくるようになった。
あの、話し好きだった父が、だ。
声の張りも、めっきり、なくなっていった。
一人きりの暮らしは、しだいに、難しくなっていった。
鍋を焦がし、道に迷い、同じ話を、何度も繰り返すようになった。
医者は、認知症だろう、と言った。
進むのを、止める手立ては、ないという。
ただ、ゆっくりと、父が父でなくなっていくのを、見ているしかなかった。
できることは、何もなかった。
いや。本当は、あったのかもしれない。ただ、俺が、しなかっただけだ。
俺は、仕事の都合で、父とは遠く離れて暮らしていた。
迷った末に、俺は、父を、施設に預けることにした。
親不孝だと、自分を責める気持ちも、あった。
せめて、いつでも連絡が取れるように。
遠くで暮らす俺に、してやれるのは、そのくらいのことだった。
そう思って、俺は、父に、携帯電話を持たせた。
「これで、いつでも、お前と話せるなあ」
携帯を渡した日、父は、子どものように、顔をほころばせた。
番号を交換し、俺は、使い方を、何度も、繰り返し教えた。
「ここを押すと、俺に繋がるからな」
「おう。番号なら、任せとけ」
その一言が、どれほど、心強かったことか。
父の指なら大丈夫だと、俺も、どこかで、信じていた。
父は、そう言って、胸を張った。
その頃は、まだ、父の指も、少しは、覚えていたのだ。
渡した携帯を、父は、大事そうに、いつも胸ポケットに入れていた。
面会に行くと、嬉しそうに、それを取り出してみせた。
「ちゃんと、持っとるぞ」と、まるで子どものように。
使えなくなっても、父は、それを、手放さなかった。
俺と繋がる、ただ一つの糸だと、分かっていたのだろうか。
※
だが、認知症の進みは、容赦がなかった。
会いに行くたびに、父は、できないことが、一つずつ増えていた。
俺の顔を見ても、すぐには分からないことが、増えていった。
「どちらさん、でしたかな」と、他人行儀に言われたことも、ある。
それでも、あの携帯だけは、握って、離さなかった。
そのたびに、俺は、うまく笑うことが、できなかった。
やがて、携帯電話の使い方も、忘れてしまった。
電話のかけ方も、メールの打ち方も、分からなくなった。
「これ、どうやって使うんだったかな」
父は、携帯を手の中で裏返しながら、途方に暮れていた。
俺は、その姿を見るのが、つらかった。
あんなに、自分の指先を誇っていた父が。
小さなボタン一つ、思うように押せなくなっていた。
会うたびに、父の指は、頼りなく、宙をさまよった。
かつて、町じゅうの電話を繋いだ、あの指が。
今は、我が子の番号一つ、押せずに、いた。
それでも、押そうと、していたのだ。
面会の足も、少しずつ、遠のいていった。
仕事が忙しいのだと、俺は、自分に言い訳をした。
そんな、ある日のことだ。
俺の携帯に、父から、メールが届いた。
珍しいこともあるものだと、俺は、画面を開いた。
件名は、なかった。
本文には、ただ、こう打たれていた。
「いわいわいわいわいわいわいわいわいわいわ」
画面いっぱいに、その二文字が、埋めつくされていた。
意味が、まるで、分からなかった。
「いわ」という二文字が、ただ、延々と続いているだけだ。
ボケた父が、でたらめに、ボタンを押したのだろう。
俺は、そう思って、力なく苦笑した。
認知症の父が、手すさびに、ボタンを触ったのだろう。
そのくらいにしか、思っていなかった。
今なら、殴ってやりたい。あの頃の、自分を。
返信も、しなかった。
何と返せばいいのかも、分からなかったからだ。
意味のない文字の羅列に、返す言葉など、あるはずもなかった。
そう、俺は、自分に言い聞かせた。
※
その翌日も、父から、メールが来た。
やはり、件名は、ない。
今度の本文は、こうだった。
「いらいらいらいらいらいらいらいらいらいら」
こちらも、画面が、その言葉で、あふれていた。
何かに追い立てられるような、必死さだけが、伝わってきた。
それを、俺は、うるさいとさえ、感じていた。
なのに、俺は、それを、読み解こうとも、しなかった。
「いら」が、これも、延々と、続いている。
いらいら、か。
何か、苛立つことでも、あったのだろうか。
施設で、嫌なことでも、あったのかもしれない。
せめて、電話の一本でも、かけてやればよかった。
けれど、そのときの俺は、そうしなかった。
そう思いながらも、俺は、また、返信をしなかった。
日々の忙しさに、かまけていた。
仕事のメールには、すぐに返すくせに。
父の一通には、指一本、動かさなかった。
親不孝とは、こういうことを、言うのだろう。
いま思えば、俺は、ただ、面倒だっただけなのだ。
父の、壊れていく姿から、目を、そらしていた。
メールが届くたびに、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
けれど、その小さな痛みにも、俺は、いつしか慣れてしまっていた。
メールは、その後も、幾度か、届いた。
届くのは、いつも、決まって深夜だった。
施設は、とうに消灯している、はずの時刻だ。
暗い部屋で、父は、たった一人、ボタンを押していたのだ。
誰かに、繋がることを、信じて。
「いわ」だったり、「いら」だったり。
来るのは、いつも、その二つの言葉の、繰り返しだった。
何かの、暗号みたいだと、ふと思ったことも、あった。
だが、それ以上、深く考えることは、しなかった。
一度、施設の職員に、尋ねてみたことがある。
「父は、携帯で、何をしているんでしょうか」
「ええ、いつも、両手で握りしめて、ボタンを押しておられます」
職員は、少し困ったように、そう答えた。
「取り上げようとすると、それはもう、ひどく嫌がられて」
何かを、懸命に伝えようとしているみたいだと、職員は言った。
俺は、その言葉を、深くは、受け止めなかった。
ボケた老人の、ただのこだわりだろう、と。
俺は、電池が切れれば、そのうち止まるだろう、くらいに考えていた。
※
冬の、底冷えのする晩だった。
施設から、一本の電話が、かかってきた。
父が、亡くなった、という報せだった。
受話器を握ったまま、俺は、しばらく、その場から動けなかった。
ほんの数日前に、会いに行ってさえ、いれば。
そう悔いても、もう、何もかも、遅かった。
父は、もう、この世の、どこにもいなかった。
手のひらに残された携帯だけが、ただ、冷たかった。
あの晩、独りきりだった父の指と、同じくらいに。
その夜、父は、ひどく取り乱したらしい。
職員の制止を振り切って、一人、廊下に出た。
そして、暗い階段から、足を、踏みはずしたのだという。
打ちどころが、悪かった。
夜勤の職員が気づいた時には、もう、手遅れだったという。
見つかった時には、もう、事切れていた。
一人きりで、冷たい階段の、下で。
誰にも、気づかれないまま。
父の手には、あの携帯電話が、固く、握られていた。
開いた指の跡が、手のひらに、くっきりと残るほどだったと、職員は、言いにくそうに話した。
それほどまでに、父は、その携帯を、強く握りしめていたのだ。
最後の瞬間まで、その指は、ボタンの上に、あったのだろう。
助けを、求めながら。
誰か、来てくれ、と。
葬儀の手配に追われ、俺は、泣く暇さえ、なかった。
父が死んだという実感が、まるで、湧かなかった。
涙よりも先に、ただ、後悔だけが、じわじわと、こみ上げてきた。
すべてが済んで、少し落ち着いてから。
俺は、ようやく、自分の携帯を開いた。
父から届いた、最後のメールを、見返すためだった。
最後の一通は、父が亡くなった、あの晩に、届いていた。
その最後のメールが届いた時刻は、父が階段から落ちた、まさにその時刻だった。
本文は、いつもの、あれだった。
「いらいらいらいらいらいらいらいら」
俺は、その画面を、しばらく、ただ、見つめていた。
見慣れた、意味のない、文字の羅列だった。
そのときの俺は、まだ、何一つ、気づいていなかった。
※
それから、しばらく、経った頃のことだ。
俺は、遺品の携帯を、なんとなく、充電してみた。
父が、最後の最後まで、握りしめていた、あの携帯だ。
何気なく、俺は、メールの作成画面を、開いた。
そして、試しに、数字を、打ってみようとした。
文字の入力は、かな入力の、ままだった。
数字の「1」のボタンを、一度、押す。
画面に、「あ」と、出た。
もう一度、同じ「1」を、押す。
「あ」が、「い」に、変わった。
続けて、「0」のボタンを、押した。
「わ」が、出た。
画面には、「いわ」と、並んでいた。
見覚えの、ある二文字だった。
父が、何度も、俺に送ってきた、あの二文字。
指先が、すっと、冷たくなった。
心臓が、いやな音を立てて、早鐘のように鳴りはじめた。
まさか、と思いながら、俺は、続けた。
「1」を二度、そして、「9」を、押す。
画面に、「いら」と、出た。
「いわ」は、一一〇。
頭の中で、ばらばらだった何かが、一つに、繋がった。
交換手の父が、線と線を、繋いだように。
「いら」は、一一九。
間違いなかった。何度、打ち直しても、同じだった。
言葉を忘れた父の指は、それでも、番号だけは、憶えていたのだ。
父は、あの何度ものメールで、ずっと、助けを呼んでいたのだ。
一一〇番。警察。
一一九番。消防、救急。
言葉を失った父が、震える指で、必死に押していた番号だった。
それが、字に化けて、俺のところへ、届いていたのだ。
かな入力のままの携帯で、番号を打とうとして。
「1」「1」「0」が、「いわ」に。
「1」「1」「9」が、「いら」に、化けて。
「いわ」も、「いら」も。
苛立ちなんかでは、断じて、なかった。
あれは、SOSだったのだ。
声を失った父の、たった一つの、伝える手立てだった。
父は、助けてくれ、と、打っていたのだ。
誰かを、呼ぼうと、していたのだ。
そして、その番号を打つ父の指が、最後にすがった相手は。
携帯に、たった一つ登録された、番号。
俺の、番号だった。
助けを呼ぶ番号を押しても、繋がる先は、警察でも、救急でも、なかった。
ただ、遠くの息子に、意味の分からない文字を、送るだけ。
それでも父は、その番号を、押し続けたのだ。
※
あの晩、最後のメールが届いた、あの時。
もし、俺が、すぐに気づいていたら。
施設に、電話を、一本、入れていたら。
父は、あの暗い階段から、落ちずに、済んだのだろうか。
あの晩、父は、どれほど、心細かったろう。
助けを呼んでも、誰も、来てはくれないのだ。
押しても、押しても、来ない。
それでも、父は、押すことを、やめなかった。
助かって、いたのだろうか。
いくら考えても、答えは、出ない。
出ないと分かっていて、それでも、俺は、今も考える。
あの二文字を、俺が、一度でも、まともに見ていたら。
「いわ」を、声に出して、読んでいたら。
気づけたかもしれないのに、と。
父の指は、最後の最後まで、俺を、頼っていた。
番号を押せば、俺が来てくれると、信じていたのかもしれない。
言葉が消えても、その一心だけは、消えなかったのだ。
助けて、と打つとき、父の頭に浮かんでいたのは、俺の顔だったろうか。
それなのに、俺は。
俺は今も、あの二通のメールを、消せずにいる。
「いわ」と「いら」。
それが、父が遺した、最後の、声だ。
消してしまえば、少しは楽になれるのかもしれない。
だが、俺には、どうしても、できない。
あの二文字だけが、今も、父と、俺を、繋いでいる。
皮肉な、話だと思う。
繋ぐ人だった父を、繋がなかったのは、ほかならぬ、息子の俺だ。
交換手だった父が、その生涯の最後に繋いだのは、俺との、この一本だった。
その細い線を、切ってしまったのは。
ほかの誰でもない、この、俺だった。
父が、最後の力で信じた、その線を。
俺が、この手で、切ってしまった。
一度、切れてしまった線は、二度と、繋がらない。
読み返すたびに、あの晩、番号を押し続ける、父の指が見える。
助けを求めて、暗い部屋に、たった、ひとりで。
数字だけを、憶えていた、あの指が。
最後の一文字まで、俺を、呼びながら。