スーパーにいる笑い女の声

口

先週の金曜、会社の先輩の大村という男が戻らぬ人になった。

マンションの自室で、倒れているのが見つかったらしい。

両耳を、強く押さえたままの姿だったと聞いた。

会社の連中は、ずいぶん不思議がっていた。

けれど俺は、特に驚かなかった。

笑い女の声のことを、大村から直接聞いていたからだ。

通夜には行かなかった。

課長には、どうしても外せない用事があると断って直帰した。

周りから見たら不自然だっただろうと思う。

ただ、皆が押し黙っているような空間には、今は堪えられそうにない。

静かな場所が、いまの俺にはいちばん怖い。

大村の席は、俺の斜め前だった。

いまも机がそのまま残っている。

引き出しの中身は、まだ誰も片づけていない。

総務の人が、月末までは触らないと言っていた。

大村と俺とは、先輩後輩ということとはあまり関係なく仲が良かった。

お互いに相手のマンションの所在地を知っていた。

それで、どの程度の仲だったかは伝わると思う。

三週間くらい前のあの日も、大村が会社帰りに俺の部屋に来ていた。

俺らは缶ビールを飲みながら、同僚の陰口ばかり叩いていた。

二人とも、酒を飲むときは会話だけを楽しみたいというタイプだ。

だからテレビも点けていなかったし、音楽も流していなかった。

我ながら暗いとは思う。

そのうち、買い溜めてあったビールが尽きた。

俺はアルコールが無くても会話が楽しければいいと思っていた。

大村はそれでは駄目みたいだった。

「すぐに買いに行こう」と言い出す。

渋々ながら、大村を連れてマンションを出た。

近所のスーパーに買い出しに行った。

三月の終わりで、夜はまだ肌寒かった。

自動ドアの前に、古い自転車が何台も停まっていた。

その駐輪場に、二週間後の俺が立つことになる。

野菜売り場のレタス

店に入るとすぐに大村が言ってきた。

「おい、何だよ、あれ」

ニヤニヤしながら、指を差している。

その先を見ると、髪を腰まで垂らした女が買い物カゴをぶら下げていた。

野菜を選んでいる。

別に何の変哲もない、よくある光景だ。

一つだけ変わっているとしたら、女が大声で笑っていることだけ。

レタスを手に取りながら、いひゃっいひゃっ、と笑っているだけ。

それすらも、俺にしてみればよくある光景だった。

「ああ、あれ。笑い女だよ」

説明しておくと、笑い女は近所では有名な人だ。

いつからいるのかは、誰も知らない。

俺が越してきた三年前には、もういた。

不動産屋の担当も、笑って「名物ですよ」と言っていた。

パッと見にはごく普通の若い女で、取り立ててどうこう言うところもない。

確かに、腰まである髪は痛み切ってボサボサだ。

けれど、そんな女はどこに行ってもいると思う。

変わっているのは、その呼び名通り、いつも笑っているところ。

何かから空気が漏れるような、それでいて少し湿った笑い方をする。

口の端から、涎を垂らしている。

だからみんな、笑い女と呼んでいた。

レジ打ちのおばちゃんは、お笑いさん、と呼んでいた。

ただそれだけの存在だ。

買い物カゴの中身も、いつも同じだった。

レタスが一玉と、食パンが一斤。

それだけを持って、レジに並ぶ。

一年以上、俺は同じ組み合わせしか見たことがない。

笑い声さえ気にしなければ、誰に迷惑を掛けるわけでもない。

だから周りはあまり気にしない。

気にしたとしても、嫌なものを見た、と少しの間思うだけだ。

すぐに見て見ぬふりをする。

いま思えば、そのときの大村はかなり酔っていた。

「ちょっと、からかって来るわ」

そう言って、笑い女に近寄って行った。

俺も酔っていたと思う。

何しろ、大村のことを止めようとはしなかったから。

「なぁ、おい、アンタ。何がそんなにおかしいんだよ」

大村は、ぶっきらぼうな口調で声をかけた。

けれど、笑い女は答えない。

いひゃっいひゃっ、と笑うばかりだ。

「おい、答えてみろって」

「世の中、こんなに不景気だっつーのに、何を楽しそうにしてやがんだ」

大村はそんな内容のことを言っていた。

俺と一緒に陰口を叩くことで発散していたものが、酔いのせいで他人に向いたのだと思う。

やっぱり、笑い女は笑うだけで何も答えない。

そんなことを暫く繰り返してから、大村は不機嫌そうに離れた。

「何だよ、こいつ、つまんね。おい、もう行こうぜ」

酒の棚での一瞬

俺らは買い物カゴにスナック菓子などを詰め込んだ。

それから、酒の並んだ棚に行った。

大村はすぐに缶ビールを手に取っていた。

俺はビールに飽き始めていたから、チューハイをじっくり選ぶことにした。

そのとき、大村が叫び声を上げた。

何かと思って振り返ると、大村と笑い女が至近距離で向き合っている。

例の笑い声と一緒に、女の口から大村の顔に唾が飛んでいるのが見えた。

それから、大村が両手を突き出して笑い女を押し倒すまでは一瞬だった。

笑い女はフラフラと倒れて、ペタンと尻餅をついた。

それでも、いひゃっいひゃっ、と笑い続けていた。

買い物客や店員が遠巻きに二人を眺めていた。

俺も気まずくなってきたから、適当にチューハイを選んだ。

大村と一緒に、そそくさと会計を済ませた。

笑い女に謝ろうかとも思った。

けれど事情がよく判らないし、俺が謝るのも変な気がしてやめておいた。

レジのおばちゃんは、いつもの調子で釣り銭を台に置いた。

あの人は、笑い女にだけは釣り銭を手渡ししない。

そのことに、俺はその日まで気づいていなかった。

何があったのか大村に聞くと、こう答えた。

「お前が酒選んでるの眺めてボーッとしてたら、耳元で気持ち悪い笑い声が聞こえた」

「驚いて振り返ったら、すぐ目の前にあの女の顔があった」

気味が悪かったから、咄嗟に突き飛ばしたということらしい。

それから、大村は何か付け加えかけた。

大村は最後まで、よく見たらあいつ、と言いかけて口を閉じました。

その続きを、俺は聞かないままにしてしまった。

部屋に帰ってから、また二人で飲み始めた。

でも、大村はさっきのことでバツが悪いのか元気が無い。

ふとした拍子に会話が途切れて、お互いに黙ってしまうことが多くなった。

そんな感じで会話が途切れると、大村はキョロキョロと視線を動かす。

そのうち、「何かゲームやろうぜ」と大村が言い出した。

こいつがゲームで遊びたがるなんて珍しいなとは思った。

それでも、二人ともすぐに熱中し始めた。

大村も、いつも通りの元気な感じになってきた。

途中で一度、大村がコントローラーを置いた。

「なあ、このゲーム、音消せないの」

「消してどうすんだよ」

「いや、逆。もっと出せないのかと思って」

俺は音量を上げてやった。

大村は、それで少し落ち着いたように見えた。

そうしているうちにバスが無くなる時間になって、大村は帰って行った。

このときの俺は、スーパーでのことなんか完全に忘れていたと思う。

イヤホンを外さない男

次の日から、大村の行動がおかしくなり始めた。

まず、やたらとイヤホンで音楽を聴くようになった。

それ自体はおかしなことではない。

けれど、出勤途中に顔を合わせても、軽く手を上げるだけでイヤホンを外さない。

近寄ってみると、物凄い大音量で聴いているようだった。

やたらと音漏れしていた。

ちょっと感じ悪いなと思ったが、そのときは何も言わないでおいた。

それが、昼休みにまで音楽を聴くようになった。

昼飯に誘おうとしても、大村はそそくさとイヤホンを付ける。

そして、一人でどこかに行ってしまう。

挙げ句、仕事中にまでイヤホンを外さなくなった。

さすがにこれはおかしいと思っていた。

そうしたら、更に上の先輩が大村を怒鳴りつけた。

それからは、仕事中に音楽を聴くようなことはなくなった。

代わりに、独り言を言うようになった。

しかも、「うるさい」などと大声で言う。

周りが注意してもやめようとしない。

俺が気になったのは、大村の声の出し方だった。

誰かに向かって言っているのではない。

音をかぶせようとしているような出し方だった。

みんな、正直気味悪がっていた。

見るに見かねて、退勤してから大村を呼び出して話をすることにした。

大村は最初、俺と話すのを渋った。

「賑やかなところでだったら話す」と言うので、ファミレスに連れ出した。

ファミレスはそこそこの混み具合で、高校生が大声ではしゃいだりしていた。

大村は、その騒がしさの中でようやく肩の力を抜いた。

窓際の席を嫌がって、厨房に近いほうを選んだ。

食器の当たる音が、絶え間なく聞こえる席だった。

注文したドリアには、最後まで手をつけなかった。

ドリンクバーに二度立ったが、二度とも何も注いでいなかった。

ただ、機械の音のそばに立っていただけだった。

俺が「最近のお前はおかしい」と切り出すと、大村は「自分でもわかってる」と言った。

そして、独りでに話し始めた。

なかなか要領を得ない話だったが、大雑把にまとめるとこうだ。

例のスーパーでの一件以降、ふとした拍子に笑い女の声が聞こえるようになった。

初めは微かに聞こえるという程度で、空耳かとも思っていた。

けれど、背後から段々近付いて来ているような感じだった。

日を追うごとに、笑い声は大きくなっている。

周りで何かの音がしているときには聞こえてこない。

ところが、ふと無音状態になると、あの笑い女の声が聞こえてくる。

今では、少しくらい辺りが騒がしくても、それ以上の音量で聞こえることもある。

何より辛いのは夜中だという。

寝ようと思って電気を消すと、部屋中に鳴り響くような勢いで襲ってくる。

とてもじゃないけど、寝つくことなんてできない。

ここまでまとめるとさっぱりしている。

実際には、話している途中でいきなり大声を出したりした。

「あいつが、あいつが」と泣きそうな声で繰り返したりもした。

だから、内容を掴むにはかなり時間がかかった。

しまいには、「あの女に呪われた」と言い出す始末だった。

「あいつ、幽霊なんじゃないか」とも言った。

笑い女の声の中身

俺が何よりもまず思ったのは、大村は変な妄想に取り憑かれているということ。

笑い女は幽霊などではないし、ただのちょっと変わった女でしかない。

その証拠に、俺はあの日以降も何度も見ている。

スーパーで買い物をしているところを、だ。

実在する人間だ。

笑い声が独特で気味が悪いから耳に残ったのだろうと思った。

あとは、大村なりの罪悪感みたいなものが妄想の原因だろうと。

大体、スーパーに出る幽霊というのも、何だか間抜けだと思う。

そう言って聞かせても、大村はまるでこちらの言うことを聞かない。

呪い、幽霊という言葉を繰り返すばかり。

俺は段々イライラしてきた。

「そんなに言うなら、一緒にスーパーに行こう」と切り出した。

大村の言っていることの馬鹿馬鹿しさにも腹が立っていた。

相手が現に実在しているただの女だと認識すれば、妄想も無くなるんじゃないか。

そう思ったからだ。

当然、大村は猛烈に嫌がった。

俺は大村を無理矢理引き摺るようにしてレストランから出た。

電車に乗って、例のスーパーに向かった。

電車の中でも大村は、ブツブツ呟いてびびっていた。

その電車は、たまたま空いていた。

駅と駅の間で、走行音が一度だけ途切れる区間がある。

そこに入ったとき、大村が俺の腕を強く掴んだ。

「いま」

そう言っただけだった。

俺には、何も聞こえなかった。

そのときは、まだ。

やっとスーパーの前まで着いたところで、大村が言い出した。

「やっぱり嫌だ。絶対に中には入りたくない」

駐輪場のガラス越し

仕方がないから、俺が提案した。

「店の前の駐輪場から店内を覗こう」

それでも大村は「帰る」と言い出していた。

俺は相手の肩をがっちり押さえて、逃げ出せないようにした。

ちょっとだけ弱い者をいたぶるような気持ちもあったと思う。

けれど、ガラス越しに店内を眺め渡しても、笑い女はいなかった。

いつも見かける時間は大抵このくらいだ。

きっといるだろうと思ったのが、失敗だったのかもしれない。

マズイな、と思った。

ここで見ておかないと、大村は余計に思い込むかもしれないから。

それでも、もう少し待っていれば現れるかもしれないと俺は粘った。

そのうち、大村が両耳を塞いでガタガタ震え始めた。

「聞こえるよう、聞こえるよう」

子供が泣きじゃくっているみたいな調子で、鼻水を垂らして言う。

「やっぱ呪われたんだよう」と。

でも俺は、それが呪いなんかで聞こえているわけじゃないと気付いていた。

なぜなら、その笑い女の声は、大村だけじゃなくて俺にも聞こえていたから。

首だけを横に向けて振り返った。

俺に肩を掴まれた大村の真後ろに、笑い女が立っていた。

いひゃっいひゃっ、と笑いながら、涎を垂らしている。

俺は大村が絶対に後ろを振り向かないように、肩を押さえる手に力を込めた。

ただでさえ怖がっている大村が、こんな至近距離で向かい合うのは絶対にまずい。

少しすると、笑い女はスーパーとは逆の方向に笑いながら去って行った。

立ち去り際に、その顔が俺の方を向いた。

それまで遠巻きに見たことはあっても、至近距離で真正面から見るのは初めてだった。

口はにんまり開かれている。

ボサボサの髪の中から、こちらを向いている目は全然笑っていない。

でも、怖いと思ったのはそんなことではなかった。

笑い女の口そのものだった。

涎が唇の端で泡になっている、その口の中。

歯が、一本もありませんでした。

大村が言いかけて飲み込んだのは、たぶんこれだ。

あの夜、至近距離で向き合った大村は、先に見ていたのだ。

それから後、俺は随分自分勝手なことをしたと思う。

何も知らずにまだ震えている大村を、無理矢理バスに乗せて一人で帰らせた。

もう、そのときの俺にとって、大村の妄想などはどうでもよかった。

ただただ自分が見たものの気味悪さが恐ろしかった。

早く自分の部屋に帰りたいという一心だった。

その日以来、大村は会社に出て来なくなった。

最初はみんな、この年末にサボりかよ、と言っていた。

けれど、あまりにも無断欠勤が続いた。

いくら何でもこれはおかしいという話になった。

そして先週の金曜、あの知らせが来た。

会社では、いまも大村の席の話題が出ない。

誰も、あの日の欠勤の理由を知らない。

知っているのは、たぶん俺だけだ。

知っていて、何も言わなかった。

いま、俺の部屋ではずっとラジオが点けっぱなしになっている。

音のない時間を、作らないようにしている。

停電の夜が一度あった。

あのときは、朝まで蛇口の水を細く出していた。

水の音だけが、電気を使わずに出せる音だったからだ。

部屋の中で人のざわめきを聞くようになった人の話を、俺は最近になって読んだ。

あれも、静かにした途端に始まっている。

迎えの車が毎週来ていたという話もそうだ。

気づいた人間から、順に減っていく。

大村も気付いていたのかは、もう分からない。

ただ、俺にははっきり分かっていることが一つだけある。

あの、いひゃっいひゃっ、というのは笑い声なんかじゃない。

よく聞くと、居た、居た、居た、と言っていました。

あの店のレジのおばちゃんは、去年で辞めたらしい。

誰を探していたのかは、考えないようにしている。

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