
団地の最終清掃では、いつも鍵の数が合わない。
先月の第三火曜日、私は取り壊し前の団地に入った。
緑ヶ丘第三団地。築52年の5階建てが、4棟並んでいる。
来月から解体が始まるので、空き室の最後の清掃を頼まれていた。
私は31歳で、ハウスクリーニング会社に勤めて7年になる。
作業着の胸の名札には、苗字の「森下」しか入っていない。
朝8時、先輩の高橋さんと軽バンで門をくぐった。
高橋さんは50代のベテランで、現場で弱音を吐いたことがない。
その人が、門の内側で小さくくしゃみをした。
「ここ、空気が重いね」
「湿気じゃないですか。もう人もいませんし」
そう答えたが、私も首筋が少し冷えていた。
管理組合の理事長が、団地の合鍵の束を持って待っていた。
鍵は棟ごとに輪ゴムで留められ、色褪せた樹脂の札が付いている。
「全部で68本。返すときに数えるからね」
理事長は80歳近い男性で、私の目の前で一本ずつ数えてみせた。
数は合っていた。
その数え方があまりに丁寧で、私は少し笑ってしまった。
理事長は笑わなかった。
「昔から、ここは鍵の数がうるさい団地でね」
それだけ言って、集会所のほうへ戻っていった。
預かった団地の合鍵
午前中は順調だった。
高橋さんは3号棟の水回りに入り、私は4号棟の4階と5階を一人で受け持った。
窓を開けると、枯れかけた桜の枝が中庭から伸びている。
どの部屋にも、畳の跡と日焼けしていない四角い壁が残っていた。
家具の影が、そのまま壁に焼き付いているようだった。
4階の3部屋目では、カレンダーが一枚だけ壁に残っていた。
何年のものか読む前に、私は裏返して回収箱へ入れた。
昼は、中庭のベンチで弁当を食べた。
中庭には街灯が4本ある。
そのうち1本が、真昼なのに点いていた。
気にしているうちに、隣に誰かが座った。
色褪せた灰色のつなぎを着た、50代くらいの男性だった。
左の肘の少し下に、縦に長い古い傷がある。
手首には、細い紐で束ねた鍵が下がっていた。
「お嬢さん。ちゃんと食べてますか」
男性は前を向いたまま、そう言った。
管理の方だろうと思い、私は会釈した。
「はい。午後は405号室が最後です」
「そうですか」
男性は、ほっとしたように息を吐いた。
「三時までに、必ず外へ出てください」
「三時、ですか」
「三時を過ぎたら、どの部屋にも鍵を掛けて、棟から離れること」
理由を訊こうとしたとき、ポケットのスマホが震えた。
画面を見たのは、数秒だったと思う。
顔を上げると、ベンチには私ひとりだった。
点いていた街灯も、いつの間にか消えていた。
管理人室の黒板
弁当を片づけて、私は集会所の隣にある管理人室へ回った。
理事長に、さっきの男性のことを訊くためだった。
理事長は、首を横に振った。
「管理人室なら、5年前から誰もいないよ」
「灰色のつなぎの方が、中庭にいらしたんです」
「つなぎ、ね」
理事長は、しばらく黙った。
「左の腕に、傷はあったかい」
「縦に長い傷が、肘の少し下に」
理事長は、それ以上何も言わなかった。
ただ、4号棟の鍵の束を私の手から抜き取り、もう一度数え直した。
数は、やはり合っていた。
「管理人さんのことは、あまり人に話さないことにしていてね」
理事長は、鍵の束を私に返しながら言った。
「見える人には見えるし、見えない人には何でもない」
「ただ、三時の話をされたなら、守ったほうがいい」
私は笑って頷いたが、笑いきれなかった。
管理人室の窓は、ガラスが曇っていた。
手をかざして覗くと、壁に小さな黒板が掛かっているのが見えた。
壁の黒板には、チョークで「異常なし」と書かれていた。
その下に、日付はなかった。
5年間誰もいない部屋の黒板だけが、やけに白かった。
午後1時から、私は4号棟の5階に上がった。
405号室は、階段を上がった一番奥にある。
表札の跡だけが、他の部屋より濃く残っていた。
玄関ドアの鍵穴の周りを、細い引っかき傷が輪のように走っている。
鍵を試した跡にしては、数が多すぎた。
預かった鍵で解錠すると、ドアは重く開いた。
室内は2DKで、畳が抜かれ、床板がむき出しになっている。
湿った土のような匂いが、かすかに床下から上がってきた。
キッチンの流しには、水垢の輪が幾重にも重なっていた。
蛇口をひねると、錆びた水が少し出て、すぐに止まった。
その水が排水口へ流れ込む音だけが、妙に長く続いた。
古い配管のせいだと、私は考えることにした。
柱には、子どもの背丈を測った線が何本も刻まれていた。
いちばん上の線の横に、鉛筆で日付がある。
「1974.9.15」
その日付が、なぜか気になった。
柱の線は、9歳の高さには届いていなかった。
8歳のまま、そこで止まっているようにも見えた。
窓を開けて、風を通した。
ドアは、開けたままにしておいた。
三時の階段室
2時を過ぎても、高橋さんは来なかった。
3号棟の作業が押していると、メッセージが入っていた。
私は床を拭き続けた。
雑巾を絞る水の音が、やけに大きく響いた。
窓の外の中庭は、まだ明るかった。
それなのに、階段のほうからだけ、夜の気配が染み出していた。
廊下の蛍光灯が一本、小さく唸ってから消えた。
私は無意識に、ポケットの鍵を握りしめた。
2時40分ごろ、階段室の電球が下から順に消えていった。
最初は1階。次に2階、3階。
暗がりが、段を踏んで上がってくるようだった。
「ベタ…ズル…」
濡れた布を引きずるような音がした。
足音ではなかった。
重いものが、一段ずつ這い上がってくる音だった。
廊下に出て、手すり越しに下を覗いた。
踊り場のコンクリートに、黒い染みが点々と続いている。
水ではなかった。
乾いた泥が、湿ったまま足跡の形に盛り上がっていた。
急に、息が白くなった。
9月の半ばなのに、奥歯が鳴った。
スマホの時計は、2時58分を指している。
階段の最上段に、黒いものが現れた。
人の形に近い、輪郭の揺れる影だった。
髪のようなものが、肩から垂れている。
見た途端、立っていられないほどの眩暈がした。
私は、405号室の玄関へ後ずさった。
ドアは、開け放してある。
鍵を掛けなければ、と頭のどこかで思った。
手が震えて、団地の合鍵を落とした。
拾おうとしても、指が言うことを聞かない。
そのとき、背中のすぐ後ろで声がした。
「ゆかりさん。内側から、お願いします」
昼のベンチの男性が、私と影のあいだに立っていた。
灰色のつなぎの背中が、廊下いっぱいに広がって見えた。
彼は振り返らずに言った。
「今度は、間に合いましたから」
私はドアを閉めた。
内側のつまみを回し、チェーンを掛けた。
ドアの向こうで、ベタ、と一度だけ濡れた音がした。
そこから先の記憶はない。
気がつくと、中庭のベンチに横になっていた。
空が、茜色に染まっていた。
スマホの時計は、18時12分だった。
高橋さんが、私の肩を揺すっている。
「どこにいたの。3時間も探したんだよ」
405号室のドアは、内側から鍵もチェーンも掛かっていたという。
中には、誰もいなかった。
それなのに私は、棟の外のベンチで眠っていた。
高橋さんが指さしたベンチの足元に、乾いた泥の跡があった。
私の作業靴は、どこも汚れていなかった。
高橋さんは「熱中症だよ、9月でも」と言って、缶コーヒーを握らせてくれた。
私は、何も言えなかった。
手のひらに、強く握った鍵の跡が赤く残っていた。
ポケットの鍵束は、4つとも樹脂の札のままだった。
母に訊いた電話
帰り支度をしていて、作業鞄の底に気づいた。
見覚えのない鍵が、一本入っていた。
真鍮の古い鍵で、木の札が通してある。
札には「405」と焼き印があり、角がすり減っていた。
理事長に見せに行くと、彼は長いあいだ動かなかった。
「うちの鍵は、全部プラスチックの札だよ」
「木の札は、団地ができた年のものだ」
「これは、返ってこなかった一本だ」
理事長は、ぽつりぽつりと話した。
1974年9月、団地ができて最初の台風の夜に、405号室の女の子がいなくなった。
8歳だった。
玄関の鍵が、開いたままだったという。
初代の管理人は、朝まで全棟を探し続けた。
団地の敷地は、もとは水の溜まる田んぼだった。
それから毎晩、全戸の鍵を確かめて回るようになった。
左の腕の傷は、その夜に割れた窓で負ったものだ。
「その人は、3年前に亡くなったよ」
「亡くなる前の日まで、巡回に出ていたそうだ」
「誰に頼まれたわけでもないのにね」
管理人室の窓を、もう一度覗いた。
黒板の「異常なし」の下に、その日の日付が書き足されていた。
電車の中で、ようやく気づいた。
胸の名札に苗字しかないのに、彼は最初から、下の名前で私を呼んでいた。
私の名前は、ゆかりという。
その夜、実家の母に電話をかけた。
「今日、緑ヶ丘の団地で仕事だったの」
母は、しばらく返事をしなかった。
「……あそこ、まだあったのね」
「お母さん、あの団地に住んでたの」
「405よ」
母の声は、ひどく静かだった。
「姉がいたの。2つ上の、ゆかり」
「台風の夜に、鍵が開いたまま、いなくなった」
「あんたの名前は、その子からもらったのよ」
「おやつの三時になると、あの子は必ず私の手を引いて、棟の外へ出たの」
「鍵を掛けてからじゃないと、出ない子だった」
「管理人さんはね、引っ越したあとも、毎年葉書をくれた」
「文面は、いつも同じ。異常なし、って一行だけ」
「引っ越す前の晩にも、鍵を掛けに来てくれたの」
「もう開けっぱなしにはさせませんから、って」
電話を切って、私は木の札を裏返した。
受話器を置いた指が、まだ少し冷たかった。
裏には「1974」の刻印と並んで、細い彫り文字があった。
私と同じ、3文字だった。
翌朝、団地の合鍵の束を返す前に、405号室の玄関へ寄った。
錠前は2009年に交換されていると、理事長から聞いていた。
2009年に交換されたはずの錠前は、古い真鍮の鍵を、最初から知っているように受け入れた。
理事長は、返した束と木の札を並べて、台帳を開いた。
「台帳には、69本とある」
「ずっと、1本足りなかったんだ」
鍵の数は、52年ぶりに、ちょうど合った。