金の亡者が預かった五柱の位牌

お札

以前勤めていた会社の夜は、人数を数えてはいけなかった。

社員の誰もが、そう言っていた。

理由を知ったのは、入社して三か月後の、雨の夜だった。

陽気な社長のことを、社員は陰で「金の亡者」と呼んでいた。

その呼び名の本当の意味を、私はあの夜に知ることになる。

少し長い話になる。お付き合いいただけると、ありがたい。

その会社は、東京湾を望む広い埋立地の、端に建っていた。

築数年の三階建てのビルだった。

本業は、バブル期の乱開発が残した不備の調査と処理である。

地盤沈下や、排水の不備。

そうした後始末を、役所や施工会社から請け負っていた。

社長は、陽気で人の良い、大柄な人だった。

ただ、同時に大雑把でもあった。

関連業者から頼まれると、本業と関係のない雑務も、気軽に引き受けた。

たとえば、差し押さえた物品の保管である。

一階には、空調付きの大きな倉庫があった。

そこに、取り立て先から回ってきた品が、次々と運び込まれた。

刀剣類。掛け軸。壺。

社長は、それを「美術品の一時預かり」と呼んでいた。

同期入社のW君が、私にこっそり教えてくれた。

「夜に残業するなら、人数は数えるなよ」

「どういう意味」

「そのうち、わかる。わからないほうが、いいけどな」

彼は、それ以上は何も言わなかった。

私は冗談だと思って、笑って流した。

雨の夜の仮眠室

入社して三か月ほど経った頃だった。

慣れない書類の整理が、深夜近くまでかかった。

眠気に負けて、切り上げようとしたとき、外から強い雨音が聞こえた。

会社の周辺は、開発されて間もなく、夜は真っ暗だった。

一人暮らしでスクーター通勤の私には、その雨の中を帰る気力がなかった。

仮眠を取って、翌朝早くに帰ることにした。

警備会社に連絡を入れた。

照明を、省電モードに切り替えた。

人の動きを感知したときだけ点く設定だ。

W君に教えてもらった場所から、社長が買い置きしているスコッチを少しだけいただいた。

二階の事務室の入口脇に、キッチン兼仮眠室がある。

私は、そこのソファベッドに転がった。

掛け布団を頭までかぶり、目を閉じた。

空腹にストレートのスコッチが染みた。

しばらくは、心地良く眠っていた。

しかし、慣れない狭いソファのせいか、ふと目が覚めた。

雨は、いつの間にか止んでいた。

人も車も通らない埋立地の夜は、恐ろしいほど静かだった。

駅前のアパート暮らしの私には、その静けさが不自然だった。

眠り直そうとするのに、かえって五感が研ぎ澄まされた。

そのとき、最初の異変に気づいた。

線香の匂いがした。

どこかで焚かれている、白檀に似た、古い匂いだった。

窓は閉まっている。

そもそも、この会社に仏壇などあるはずがない。

私は鼻を押さえて、起き上がった。

その匂いは、近づくというより、足元から這い上がってくるようだった。

一階の倉庫から、階段を伝って、二階へ上がってくる。

そう思った途端、背筋がひやりとした。

腕時計は、脱いだ衣類と一緒に、テーブルに置いてある。

何時なのか、わからなかった。

隣接する事務室のほうから、誰かの気配がした。

早朝出勤の社員だろうか。

こんな姿は見せられない、と思って身を起こした。

けれど、すぐにおかしいと気づいた。

社員が、キーと暗証番号でビルに入れば、警備が解除される。

省電モードも、就業用に切り替わる。

事務室の電気が、勝手に点くはずなのだ。

それなのに、扉のないドアの向こうは、暗いままだった。

それでいて、何かが動いている気配だけは、はっきりとあった。

事務室を歩く青白い影

こんな時間に、築数年のビルを歩き回るものなど、強盗の類だと思う。

そう思うのが、普通だろう。

音を立てて気取られたら、おしまいだ。

幸い、ソファは事務室から見えない位置にある。

私は静かに床へ転げ落ち、最低限の衣服を身に着けた。

その間も、壁の向こうに気を配っていた。

足音は、ほとんどしなかった。

引き出しを開ける音も、金庫のある社長室のドアを開ける音も、聞こえなかった。

ただ、数人が、静かに徘徊している。

そんな空気が、ゆっくりと部屋を満たしていた。

ソファの影で息を潜めていると、恐怖感に押し潰されそうになった。

しばらくして、気配がふっと途絶えた。

動きが、感じられなくなったのだ。

警備会社が気づいているなら、もう来ているはずだ。

つまり、警報は鳴っていない。

ドアのないこの部屋で、電話をかけるのも危険だった。

それなら、自力で逃げるしかない。

仮眠室の入口を出れば、数歩で、事務室から階段へ続く廊下に出られる。

私は意を決して、静かにドアへ近づいた。

そっと、事務室を覗いた。

そこに、青白い影が、ざっと五体いた。

三体は、事務室の奥、社長室のドアの前に、佇んでいる。

残りの二体は、目の前、およそ三メートルの位置にいた。

顔形は、わからなかった。

けれど、こちらを意識していることだけは、はっきりと感じられた。

その瞬間、強盗から走って逃げようとしていた意思が、ぽっきりと折れた。

体中の力が抜けた。

その場に、立ち尽くしてしまった。

二体の影が、ゆっくりと近づいてきた。

私は、しゃがみ込んだ。

左手首には、祖父からもらった、小さな数珠が巻いてある。

右手を伸ばすのが、精一杯だった。

教わった般若心経を唱えるなど、思いつきもしなかった。

そのまま、意識が遠くなった。

飲み屋に集まった社員たち

電気音とともに、事務室の照明が点いた。

それで、気がついた。

どれくらい経ったのだろう。

腰が抜けて、しゃがみ込んでいる私を、数分後に、早朝出勤の同僚T君が見つけてくれた。

「どうしたんですか、こんなところで」

私はまだ混乱していて、うまく答えられなかった。

連絡を受けたW君が駆けつけた。

彼は何も聞かず、スクーターのキーを預かって、私をアパートまで送ってくれた。

その日は、社長の勧めで休んだ。

夕方、社長から電話があった。

「近所の飲み屋で、話がある。来られるか」

指定された店に行くと、入口にスクーターが停まっていた。

中には、社員六人が、全員揃っていた。

みんな、私を元気づけるために集まってくれたのだという。

事情はわからないまま、私は昨夜の話をした。

青白い影の数。社長室の前に並んでいた三体。近づいてきた二体。

聞き終えて、数人が唖然としていた。

けれど、社長と、古参の社員が数人、目配せを交わした。

いや、目配せというよりも、社長を睨んでいた。

「社長」

最年長の先輩が、低い声で言った。

「やっぱり、あの倉庫ですよね」

社長は、頭をかいて、黙り込んだ。

「あの人はね、金に目が眩むと、他のことが見えなくなる」

先輩は、私のグラスにビールを注ぎながら言った。

「だから俺たちは、陰で社長を金の亡者って呼んでるんだ」

「聞こえてるぞ」

社長は苦笑いしたが、反論はしなかった。

その沈黙が、いちばん雄弁だった。

同じように、夜の建物で数が合わなくなる話を、ビルの隙間という体験談で読んだことがある。

古い部屋に居座るものの話なら、鶯谷のホテルも忘れがたい。

手短にお話しする。

一階の倉庫に収まっている物品は、刀剣類や美術品が主だという建前だった。

けれど、時々は、取り立て先の位牌を持ってくる業者もいたのだ。

社長は、「見ざる、聞かざる、言わざる」の立場だった。

社員の幾人かは、数の合わない人の気配がするので、早朝出勤も、残業も避けていたという。

W君の言葉の意味が、ようやくわかった。

飲み会は、そのまま社長への糾弾の席になった。

金の亡者と預かり品の仏壇

翌日、倉庫の中を調べた。

空調の効いた冷たい空気が、肌にまとわりついた。

一番奥に、大きな木の箱が置かれていた。

蓋を開けると、立派な仏壇が納まっていた。

黒漆の扉。金の飾り金具。

運搬の途中で、倒れたのだろう。

中の位牌は、ひっくり返って、目も当てられない状態だった。

私は、位牌を一つずつ起こして、数えた。

五柱あった。

昨夜の影の数と、同じだった。

引き出しには、取り立て先の借用書が、一枚ずつ丁寧に折り畳まれて、位牌と同じ数だけ納めてあった。

社長は、さすがに慌てた。

「いや、まさか位牌が入ってるとは思わなくてな」

「見ざる、聞かざるでは、済まないでしょう」

先輩が、静かに言った。

社長は、うなだれて頷いた。

金の亡者と呼ばれても、笑って流す人が、その日は一言も返さなかった。

その日のうちに、業者を呼んで、仏壇一式を引き取ってもらった。

業者のトラックが、倉庫の前から遠ざかっていく。

荷台の隅に、白い布をかけた仏壇が、小さく揺れていた。

布の端が、風でめくれた。

一瞬、金色の飾り金具が光って、すぐに見えなくなった。

私は、その荷台を、ずっと見送っていた。

今にして思うと、あの青白い影たちから、害意は感じなかった。

見知らぬ場所に連れてこられて、戸惑っていたのだろうか。

それとも、自分たちの居場所を探して、夜ごと、社長室の前に並んでいたのだろうか。

それにしても。

げに恐ろしきは、恐れを知らない金の亡者ということだ。

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