床から聞こえるざわつき声

white-noise-andy-mercer

高校を卒業して、進学して、一人暮らしを始めたばかりの頃の話だ。

ある夜、部屋でゲームをしていると、下の方から声が聞こえてきた。

大勢の人がざわざわと騒ぐような、ざわつき声だった。

あのざわつき声のことを、俺はいまも人に説明できずにいる。

説明できないまま、住んでいた部屋を二週間で出た。

最初は、下の階の人のところに客が来ているのかと思った。

けれど耳を澄ますと、数人という感じではない。

もっと大勢の人の声のように聞こえる。

気のせいかもしれないが、大きな駅の雑踏のざわめきに近かった。

そのときは、そういう映画かテレビ番組でも見ているのかと考えた。

それ以上、気にせずにいた。

しかし、寝る頃になっても一向に止まなかった。

そこまで大きな音ではない。

ただ、深夜三時頃まで聞こえていた。

結局、その日はほとんど寝ることができなかった。

それから数日間、毎日ではないが頻繁に聞こえてくる。

夜十時頃から、深夜三時頃まで。

俺はろくに眠ることができなくなった。

講義中に居眠りをして、注意されたのもこの頃だ。

目の下のくまを、友人にからかわれた。

「夜な夜な何やってんだよ」

笑って返したが、説明できる話ではなかった。

いい加減、苦情を言おうと階下の人のところへ行くことにした。

築十五年の、二階建てのアパートだった。

外階段が錆びていて、降りるたびに音が鳴る。

その音すら、あの数日は嫌だった。

三日目の夜、俺は試しに録音をしてみた。

携帯を床に伏せて置いて、二時間ほど回した。

翌朝、再生してみた。

入っていたのは、冷蔵庫の音と、自分の寝返りの音だけだった。

ざわつき声は、一秒も入っていなかった。

そのときは、機械の性能のせいだと思った。

下の階の呼び鈴

呼び鈴を押して暫らくすると、住人が出てきた。

歳は俺より二つか三つくらい上だろうか。

見た感じ、学生っぽく見える。

俺が上の階の住人であることを話し、苦情を言おうとした。

すると、その人はいきなり不機嫌になった。

「あんた毎日毎日真夜中に何やってんだ、煩くて仕方が無いんだが」

逆に言われてしまった。

ここからは、下の階の人を仮にサトウさんとしておく。

意味が解らない俺は、事情を最初から話した。

下の方から、ほとんど毎日のように大勢の人のざわつき声が聞こえてくる、と。

するとサトウさんは、少し黙ってからこう言った。

「あんた、それ何時ごろだ」

「十時から、三時くらいまでです」

サトウさんの顔色が、そこで変わった。

「うちは、上から聞こえてくる」

夜になるとざわつき声が上から降ってくるのだという。

そろそろ大家か不動産屋に苦情を言おうと思っていた、とも言った。

その話を聞いて、俺は理由は解らないが、何か嫌な感じがしてきた。

俺の部屋は二階で、サトウさんの部屋は一階だ。

上と下の、間にあるものは一つしかない。

あれは明らかに人の声だ。

何度も聞いているから、聞き間違いは無い。

それにサトウさんも、大勢の人のざわめきであることは間違いないという。

暫らくの沈黙のあとで、サトウさんが言った。

「天井裏に何かあるのかな」

「天井裏、行ってみる」

サトウさんは、俺の返事も待たずに懐中電灯を持ち出してきた。

その懐中電灯は、新品には見えなかった。

ゴムのグリップが、手の形に黒ずんでいた。

しかし、俺は止めた。

勝手に解決しようとして、万が一にも天井を踏み抜いたらまずい。

そうでなくとも、何か壊してしまったら後々問題になるかもしれない。

ここは管理している不動産屋に事情を話して来てもらったほうがいい。

そう提案して、行く気満々のサトウさんを説得した。

そして俺は、不動産屋に電話を入れた。

ざわつき声がすると言うと不信に思われるので、その辺りははぐらかした。

床下から何か異音がする、と白々しく伝えた。

すると不動産屋は、天井裏にネズミか何かが入り込んだと思ったのだろう。

数日以内に業者を連れてそちらに向かう、と言ってきた。

俺は結果的に騙しているような感じになって、ちょっと引け目を感じた。

そのことをサトウさんに話すと、こう言われた。

「まあ、異音がするのは事実だしとにかく来てもらおうよ」

特に問題ないだろうとのことだった。

その日の夜、俺は初めて、声の中身を聞き取ろうとした。

床に耳をつけて、十分ほど動かずにいた。

言葉は、どうしても聞き取れない。

ただ、抑揚だけは分かった。

大勢が、同じ抑揚で喋っている。

雑踏なら、抑揚はばらばらになるはずだった。

俺はそこで耳を離して、電気を点けたまま朝まで起きていた。

バスルームの天井

当日、結構早い時間にサトウさんが俺の部屋にやってきた。

不動産屋と約束した時間には、まだかなり余裕がある。

急な用事が入ってしまって、今日は立ち会えないという。

不動産屋が来たら問題ないから、合鍵で勝手に部屋に入ってかまわない。

そう伝えてほしいとのことだった。

玄関先での話は、一分もかからなかった。

サトウさんは、一度も部屋の中を見なかった。

いつもなら、天井のほうを気にする人だった。

その朝だけは、ずっと俺の顔を見ていた。

「じゃあ、頼んだから」

それが、最後に聞いた声になった。

そんな事、自分で電話しろよ。

俺はそう思ったが、まあ仕方が無い。

了解して、待ち合わせの時間まで待機することにした。

玄関でサトウさんを見送ったとき、少し引っかかった。

急ぎの用事だというのに、鞄も持っていなかった。

サンダルのままだった。

「サトウさん、天井裏は結局どうします」

「業者に任せればいいよ」

あれだけ自分で行くと言っていた人の返事とは思えなかった。

そのときの俺は、単に怖くなったんだろうと考えた。

昼少し前くらいに、不動産屋が駆除業者と一緒にやってきた。

不動産屋が、サトウさんと連絡が取れないが何か聞いていないかと言う。

今日の早朝にあったことを話すと、少し困った顔をした。

それでも、一応サトウさんの部屋へ行くことにした。

話を聞くと、一階と二階の間を調べる方法は一つしかないらしい。

サトウさんの部屋のバスルームの天井から入るしか無いという。

サトウさんの部屋に行くと、なぜかドアの鍵は開いていた。

合鍵で開けてほしいと言われていたはずだった。

流石に俺が入るのは問題があると思う。

業者と不動産屋に任せて、外で待っていた。

すると突然、中から声が聞こえてきた。

「うわ、大丈夫ですか」

何事かと玄関のドアを開けてみた。

不動産屋と業者が真っ青な顔をして出てきた。

「警察に電話を」

そう言われた。

業者の人は、玄関を出たところでしゃがみ込んでいた。

不動産屋は、携帯を持つ手が震えていた。

「天井は」

俺が聞くと、不動産屋は首を横に振った。

「開けてない。開ける前だ」

その間いろいろあったのだが、長くなるので結論から書く。

サトウさんが、バスルームで冷たくなっていた。

それから、いろいろ大変だった。

パトカーや救急車がやってきて大騒ぎになった。

俺も警察から、いろいろと事情を聞かれた。

朝にサトウさんと話したとき、不審な様子は俺の見た感じでは一切なかった。

そう話し、一応、天井裏のことも警察に伝えた。

それも含めて調べていたようだが、何か見付かったのかは教えてもらえなかった。

結局、天井裏のざわつき声も、サトウさんのことも、何もかもあやふやなままになった。

ひとつだけ、あとで知ったことがある。

バスルームの天井の点検口は、内側から留め具が外されていたそうだ。

誰かが、一度は開けたということになる。

ざわつき声の向き

その日の夜のことだ。

いろいろありすぎて疲れてしまい、さっさと寝てしまおうと早めに布団に入った。

すると、例のざわつき声がいきなり聞こえてきた。

ただ、何かがいつもと様子が違う。

良く解らないが、違和感がある。

暫らくして、違和感が何なのかに気がついた。

今までは下から聞こえてきていた声が、明らかに横から聞こえる。

しかも、今までは床越しに聞いていたので多少くぐもっていた。

今回は、まるで同じ部屋の中から聞こえてくるように鮮明だ。

そう考えた途端に、急に背筋が寒くなってきた。

部屋の中には、俺しかいない。

玄関の鍵も、チェーンもかけてある。

窓も閉めていた。

目を開けて声のほうを見てみたい気持ちもある。

ぶっちゃけ、怖い。

そうは言っても、やはり声の正体は気になる。

俺は意を決してベッドから起き上がり、声のする方向を見た。

部屋の空気が、耳の奥で詰まったような感じがした。

プールの底にいるときの、あの詰まり方だ。

そして、とんでもないものをみた。

そこには、スーツ姿の男が一人立っていた。

ただ、厳密には立っていたというのとは少し状態が違う。

まるで水面から上半身だけを出しているかのようだった。

床から人の上半身が生えているような状態だ。

それだけでもかなり異様な状況だ。

そのスーツ姿の男は、眼球を上下左右に激しく動かしていた。

口も、まるで早口言葉を喋っているかのように激しく動いている。

そして、その口から例のざわつき声が聞こえてきていた。

大勢の人のざわめきが、一人の口から出ている。

俺はあまりの事に体が動かせなかった。

訳も解らず、そのスーツ姿の男を凝視していた。

暗がりに目が慣れてきて、もう一つ異様なものをみつけた。

サトウさんだ。

サトウさんが床から顔だけを出していた。

めいっぱい目を見開いて、天井を見つめている。

まるで魚のように、ゆっくりと口をパクパクさせていた。

それをみた時、なぜか直感的に感じた。

あれは、何かとてつもなくヤバイものだ。

俺は完全に思考が停止してしまった。

訳も分からず、着の身着のままで携帯と財布だけを持って部屋から逃げ出した。

外階段を降りるとき、一度だけ振り返った。

俺の部屋の電気は、消えていた。

点けたまま出たはずだった。

その夜は、ひとまずマンガ喫茶で夜を明かした。

個室に入ってからも、耳栓を外せなかった。

音のある場所のほうが、まだましだった。

引っ越しの許可

朝一番で、不動産屋へと向かった。

あんな場所にはもう住んでいられない。

引越し手続きをするためだ。

不動産屋に着いて、担当の人にすぐ引越しの話を切り出した。

ところが、突然の事にしてもやけに担当の人の様子がおかしい。

なぜか、どうしても引越しをさせたくないように見える。

不信に思ってしつこく追求してみた。

どうも俺は、サトウさんのことに関係があるのではと疑われているらしい。

だから、安易な引越しはさせられないようだった。

担当の人は、机の上の書類を手で隠すようにしていた。

その書類の見出しだけが、俺の位置から読めた。

あの部屋の、前の入居者の名前だった。

俺は何も言わなかった。

言われてみれば当たり前の事だ。

サトウさんと最後に会っていたのは俺だ。

何より、騒音トラブルもあった。

朝の出来事も、俺がそう言っているだけで客観的な証明など何一つない。

そこに来ていきなり引越しをしたいと言えば、不動産屋としても当然疑うだろう。

かと言って、あの部屋に戻るのだけは絶対に嫌だ。

そこで、信じてもらえるかどうかは分からないが、正直に話した。

今までの経緯と、昨晩の事を。

すると不動産屋は、この話を信じたのかどうなのか分からなかった。

とりあえず自分の裁量ではどうにも判断できないので、警察と相談して欲しいと言ってきた。

仕方が無く、俺は前日に貰った名刺の番号に電話をした。

警察署で、不動産屋で話したことと同じ事を話した。

当たり前といえば当たり前だが、当然話は信じてもらえなかった。

寧ろ、こいつは何を言っているんだ、みたいな態度を取られた。

連日の寝不足の事もあってイライラしていた俺は、発作的に怒鳴った。

「作り話をしてる暇があったら、少し寝なさい」

その一言で、俺の中で何かが切れた。

「だったらてめーもあそこで一晩居てみろよ」

そう言って、担当の警察官に自分の部屋のカギを投げつけた。

後から考えれば、理不尽で無茶な要求をしていたのは俺の方だ。

警官は俺を落ち着かせると、いくつか条件を出してきた。

引越し先はあまり遠くにしない事。

引越し先の住所を報告する事。

警察からの電話には必ず出る事。

それを約束すると、引越しを許可してくれた。

その足で、俺は新しい部屋を探しに行った。

条件は一つだけ伝えた。

最上階であること。

担当の人は、理由を聞かなかった。

その後、俺はなんとか別の場所に引っ越す事ができた。

荷物は、業者に頼んで全部出してもらった。

俺自身は、あの部屋に二度と入っていない。

鍵の返却も、不動産屋の窓口で済ませた。

サトウさんの件も、事件性はないという結論になったらしい。

俺への疑いも、なんとか晴れた。

パソコンの中の日記

それから暫らくして、俺はまた警察に呼ばれた。

どうもサトウさんのパソコンから、日記が見つかっていたらしい。

そこに書かれている内容の一部に、あのスーツ姿の男と酷似した人物のことが書かれていたそうだ。

その辺りの事情を、もう一度詳しく聞きたいということだった。

取調室のような部屋ではなく、普通の相談室だった。

担当の人は、前に会った人とは別だった。

「あのアパートは、去年も一件あってね」

そう言いかけて、口をつぐんだ。

続きは、最後まで聞けなかった。

警察から聞いた話で、いくつか判ったこともある。

俺が最初に苦情に行った時より前に、サトウさんはあの男に出会っていた。

ざわつき声の正体がその男である事も、知っていたようだった。

日記には、その懐中電灯を買った日のことも書かれていた。

半年前だった。

サトウさんがあの部屋に越してきたのが、七か月前だという。

つまり、越してきて一か月で買っている。

買った理由も、書いてあったという。

そして日記には、男が明らかに悪意のある相手である事が繰り返し書かれていた。

サトウさんは、身の危険を感じていたらしい。

なぜそこまで判っていたのに、あんなにも何も知らないかのような態度を取ったのだろうか。

もう一つ、あとから引っかかったことがある。

サトウさんは、俺に苦情を言い返したあの日から、一度も不動産屋に連絡していない。

そろそろ言おうと思っていた、と言っていたはずだった。

半年、黙っていた人が、俺が来た週にだけ動いた。

いま思えば、サトウさんは俺に嘘をついた。

天井裏に何かあるのかな、と言ったあの一言だ。

知っていたのに、初めて考えたような言い方をした。

毎週決まった曜日に迎えが来ていたという話を読んだことがある。

あれも、知っていた人だけが黙っていた。

音を絶やせなくなった人の話も、俺には他人事ではない。

警察は日記の中身を、ほとんど教えてくれなかった。

ただ、最後に一つだけ、確認のためだと言って読み上げられた行がある。

日記の最後の行には、上の部屋の男、とだけ書かれていた。

あの部屋に越してきたのは、俺が後だ。

引っ越しの日、下の階の人に挨拶へ行った。

いない、と言われた。

もう半年、誰も入っていない部屋だという。

それでも俺は、夜になると床を気にしてしまう。

最上階の部屋は、結局すぐに埋まっていた。

いま住んでいる部屋も、二階だ。

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