その療養病棟は、町外れの丘の上にありました。

古い結核療養所を改装した、築五十年を超える建物です。

白い壁は雨だれの筋で薄汚れ、廊下の床は歩くたびに、きしんだ音を立てました。

私がそこへ勤め始めたのは、まだ二十代の半ばのことでした。

夜勤の多い、決して楽な職場ではありませんでした。

それでも、患者さんたちは穏やかな方が多く、私はこの仕事を気に入っていました。

今からお話しするのは、その病棟で実際に起きた、ある出来事です。

思い出すたびに、今でも背中が冷たくなります。

病棟の裏手には、手入れのされていない雑木林が広がっていました。

夕方になると、その林から、ひぐらしの声が降るように聞こえてきました。

古い建物は、夜になると、あちこちで小さな音を立てました。

配管の鳴る音、窓のきしむ音、誰もいないはずの廊下を渡る、かすかな足音。

慣れるまでは、夜勤のたびに、何度も振り返ったものです。

先輩からは、こう言われていました。

「この建物は古いからね。気にしすぎると、もたないよ」

私は、その言葉を、まじないのように繰り返していました。

この丘には、古くから、ひとつの言い伝えがありました。

昔、療養所だった頃のことです。

治る見込みのない患者が、よく、こう口にしたのだそうです。

「迎えが、来た」

そして、その晩のうちに、静かに息を引き取る。

丘の上の人々は、それを「お迎え」と呼んでいました。

亡くなった身内が、最期に迎えに来てくれるのだ、と。

年配の職員は、半ば本気で、こう言っていました。

「この丘では、迎えが来たら、おしまいなんだよ」

私は、ただの言い伝えだと、笑っていました。

あのことが、起きるまでは。

その患者さんを、仮にKさんと呼びます。

五十代の男性で、長く入院されている方でした。

病状は比較的落ち着いていて、週末になると、外泊を許されていました。

金曜の夕方、家族の迎えを待って自宅へ帰り、月曜の朝に戻ってくる。

それが、Kさんの決まった過ごし方でした。

Kさんは、その週末を、何よりも楽しみにしていました。

「今週も、娘が迎えに来てくれるんですよ」

金曜になると、Kさんはきまって、私にそう言いました。

「優しい娘でね。毎週、休まず来てくれるんです」

そう話すときのKさんは、本当に幸せそうな顔をしていました。

私も、つられて笑顔になったものです。

「いい娘さんですね」

そう返すと、Kさんは何度もうなずきました。

Kさんの口から娘さんの話を聞かない週は、ありませんでした。

「娘はね、私のことを、お父さんお父さんと慕ってくれてね」

「来週も、きっと迎えに来てくれます。あの子は、約束を破らないんです」

そう語るKさんの目は、いつも、どこか遠くを見ているようでした。

月曜に戻ってくると、Kさんはまた、満ち足りた顔をしていました。

「週末は、どうでしたか」

私が聞くと、Kさんは決まって、こう答えました。

「娘の作ってくれた料理は、本当においしくてね」

その横顔は、おだやかで、何の曇りもありませんでした。

だからこそ、私たちは、何も疑わなかったのです。

金曜の夕方になると、玄関の前に、一台の車が停まりました。

少し古い型の、灰色のセダンでした。

運転席には、若い女性が座っていました。

それがKさんのおっしゃるDさんだろうと、私たちは思っていました。

Kさんは、その車に笑顔で乗りこんでいきました。

「では、行ってきます」

そう言って、軽く頭を下げて。

車は、丘を下る道を、ゆっくりと走り去っていきました。

ここまでは、何度も繰り返された、いつもの光景です。

何ひとつ、おかしなところはありませんでした。

そう、思っていました。

最初に違和感を覚えたのは、同僚のNさんでした。

ある金曜の夜、Nさんが、ふと首をかしげたのです。

「ねえ、Kさんの娘さんの顔、ちゃんと見たことある?」

言われてみれば、私は一度も、はっきりとは見ていませんでした。

車はいつも、玄関から少し離れた場所に停まります。

女性は車から降りず、運転席に座ったままでした。

窓ガラスには、いつも夕日が反射していて、顔は影になっていました。

「いつも、ちょうど顔が見えないのよね」

Nさんは、そう言って、少し気味悪そうにしました。

私は、たまたまだろうと、軽く受け流しました。

そのときは、まだ。

二つめの違和感は、面会記録でした。

私たちの病棟では、外泊の送り迎えに来た家族は、必ず受付の名簿に記帳します。

日付、氏名、続柄。

決まりですから、例外はありません。

ところが、Kさんの娘さんの欄だけが、いつも空白だったのです。

私は、過去の名簿をさかのぼって、確かめました。

Kさんが外泊を始めてから、もう一年以上。

その間、娘さんが記帳した記録は、ただの一度もありませんでした。

「変ね。毎週来ているのに」

Nさんも、名簿をのぞきこんで、眉をひそめました。

気になって、私はもう一歩、踏みこんで調べました。

Kさんの外泊許可の書類を、確認したのです。

そこには、保護者の署名欄がありました。

娘の名で、毎回、きれいな字のサインがされていました。

けれど、その筆跡を、私は知りませんでした。

病棟の誰も、その手を見たことがなかったのです。

いつ、誰が、この書類にサインをしていたのか。

考えると、指先が、冷たくなりました。

受付の職員に聞いても、誰も、その女性と言葉を交わした覚えがないと言うのです。

いつのまにか来て、Kさんを乗せて、いつのまにか帰っている。

そういう存在でした。

一度だけ、私は、その女性の顔を見ようとしたことがありました。

金曜の夕方、Kさんを見送るふりをして、車に近づいたのです。

灰色のセダンは、いつものように、玄関から少し離れて停まっていました。

私は、さりげなく運転席のほうへ、歩み寄りました。

あと数歩で、窓ガラスに手が届く、というところでした。

そのとき、ふいに、ぞくりと、首筋の毛が逆立ちました。

理由は、わかりません。

ただ、これ以上、近づいてはいけない。

そう、体のほうが、先に感じ取ったのです。

私は、足を止めました。

窓ガラスの向こうで、女性の影が、ゆっくりとこちらを向いた気がしました。

けれど、夕日の反射が強くて、その顔は、やはり見えませんでした。

「先生、どうかしましたか」

Kさんに声をかけられて、私は我に返りました。

「いえ、なんでもありません。お気をつけて」

私はそう言うのが、やっとでした。

車が走り去ったあと、私の手のひらは、汗でびっしょりと濡れていました。

三つめの違和感は、防犯カメラでした。

玄関には、古い防犯カメラが一台、設置されていました。

あるとき、別の用事でその映像を確認することがありました。

金曜の夕方の、Kさんが外泊する時間帯です。

画面の中で、Kさんが玄関から出てきました。

そして、ぺこりと頭を下げて、歩いていきます。

けれど、その先に、車は映っていませんでした。

カメラの角度のせいかと思い、私は何度も巻き戻しました。

Kさんは、誰もいない方向へ向かって、笑顔で話しかけていました。

そして、まるで車のドアを開けるような仕草をして。

何もない空間に、乗りこむように、身をかがめたのです。

画面には、灰色のセダンも、若い女性も、どこにも映っていませんでした。

私は、背筋が冷たくなるのを感じました。

私は、その映像を、同僚のNさんにも見せました。

Nさんは、画面を食い入るように見つめて、それから、震える声で言いました。

「車が、ない。Kさん、何もないところに、しゃべってる」

「これ、どういうこと」

私は、答えることができませんでした。

私たちは、その映像のことを、誰にも言いませんでした。

言ったところで、信じてもらえるはずがありません。

それに、口にすれば、何かが現実になってしまう気がしたのです。

その日から、私は金曜の夕方が、少しだけ怖くなりました。

玄関に停まる、見えない車。

その運転席に座る、誰か。

考えないようにすればするほど、その影は、頭から離れませんでした。

その違和感が決定的な恐怖に変わったのは、ある月曜の朝でした。

いつもなら、Kさんは八時には病棟に戻っています。

ところが、その日は、九時を過ぎても戻りませんでした。

十時になっても、Kさんは現れませんでした。

私たちは心配になり、Kさんの自宅へ電話をかけました。

何度かの呼び出し音のあと、年配の女性が電話に出ました。

Kさんの奥さんでした。

「もしもし、療養病棟の者ですが。ご主人がまだお戻りでなくて」

私がそう告げると、奥さんは、不思議そうな声でこう言いました。

「主人が? 外泊なんて、私は何も聞いていませんよ」

私は、言葉に詰まりました。

「ですが、毎週末、娘さんがお迎えに来られて」

そこまで言って、受話器の向こうが、しんと静まり返りました。

奥さんは、低い声で、こう続けました。

「うちには、娘なんていません」

その一言で、私の頭の中が、真っ白になりました。

「子どもは、いないんです。ずっと、夫婦二人きりで」

奥さんの声は、震えていました。

奥さんは、すぐに病棟まで駆けつけてきました。

小柄な、品のいい方でした。

「主人は、外泊なんて、一度もしていないはずです」

奥さんは、青ざめた顔で、そう繰り返しました。

「毎週末、ご主人はどちらに帰っていらしたんですか」

私が尋ねても、奥さんは、ただ首を横に振るばかりでした。

自宅には、Kさんが帰ってきた形跡は、まったくなかったのです。

では、Kさんは毎週、どこで、誰と過ごしていたのか。

奥さんは、震える手で、一枚の古い写真を取り出しました。

色のあせた、小さな写真でした。

そこには、幼い女の子が、はにかんで写っていました。

「これが、亡くなった娘です」

奥さんは、そう言って、目を伏せました。

その横顔を見て、私は、言葉を失いました。

あどけない、けれど、どこか芯の強そうな目もと。

もし、この子が大人になっていたら。

きっと、あの灰色のセダンの運転席に、よく似合ったことでしょう。

考えれば考えるほど、足元が崩れていくような心地がしました。

私は、何も言えませんでした。

毎週、笑顔で迎えに来ていた、あの若い女性。

灰色のセダン。

Kさんが「優しい娘」と呼んでいた、その存在。

迎えに来ていた娘など、初めから、どこにもいなかったのです。

その後、Kさんの行方は、ようとして知れませんでした。

警察にも届けましたが、手がかりは何ひとつ出てきませんでした。

丘を下る道に、防犯カメラはありません。

目撃者も、いませんでした。

Kさんは、ただ、煙のように消えてしまったのです。

いえ、正確には、こう言うべきかもしれません。

あの灰色のセダンに乗って、どこかへ連れていかれた、と。

誰も顔を見たことのない、あの娘に。

事件のあと、私は気になって、Kさんの古い記録を調べました。

分厚い、黄ばんだファイルの中に、それはありました。

Kさんには、かつて、一人の娘がいたのです。

けれど、その娘さんは、ずっと昔に、幼くして亡くなっていました。

記録の片隅に、小さな字で、その死亡の日付が書かれていました。

亡くなったときの年齢も。

もし生きていれば、ちょうどあのくらいの、若い女性になっていたはずでした。

その娘さんは、まだ三つか四つの頃に、病で亡くなっていました。

ファイルには、当時のKさんの様子も、短く記されていました。

娘を失ったあと、Kさんは長く、心を病んだのだと。

「娘が、迎えに来る」

Kさんは、入院した当初から、ずっとそう言い続けていたそうです。

医師は、それを、悲しみが生んだ妄想だと考えていました。

けれど、私たちは、たしかに見たのです。

金曜の夕方、玄関に停まる、灰色のセダンを。

Kさんを乗せて、丘を下っていく、その後ろ姿を。

あれが、妄想であったのなら。

いったい誰が、毎週Kさんを、どこかへ連れていっていたのでしょう。

私は、ファイルを閉じる手が、止まりませんでした。

Kさんは、本当に、娘に迎えに来てもらっていたのかもしれません。

ひとつだけ、忘れられないことがあります。

Kさんがいなくなった、あの月曜の朝のことです。

私が出勤すると、Kさんのベッドの上に、一枚の紙が置かれていました。

子どもが書いたような、たどたどしい字でした。

「おとうさんは、わたしがあずかります」

ただ、それだけが書かれていました。

誰が、いつ、その紙を置いたのか。

夜勤の職員は、誰も気づかなかったと言いました。

病棟の扉は、夜のあいだ、すべて施錠されていたのです。

その紙きれは、今も、私の手元にあります。

何度捨てようとしても、なぜか、できないのです。

見るたびに、あのたどたどしい字が、静かにこちらへ語りかけてくる気がします。

おとうさんは、ちゃんと、迎えに来てもらえたのだと。

あの病棟は、数年前に取り壊されました。

丘の上には今、何も残っていません。

雑木林だけが、昔のままに、風に揺れています。

ときどき、あの丘の前を通ることがあります。

そのたびに、私は車のスピードを、少しだけ落としてしまうのです。

何かが、停まっている気がして。

窓ガラスに、夕日を反射させた、あの車が。

あれから、もう何年も経ちました。

私は、今も同じ仕事を続けています。

けれど、金曜の夕方になると、いまだに、玄関のほうを見てしまうのです。

灰色のセダンが、停まっていないかと。

窓ガラスに夕日を反射させた、あの車が。

Kさんは、今、どこにいるのでしょう。

優しい娘さんと、しあわせに暮らしているのなら、それでいいのです。

そう思おうとしても、夕暮れの玄関を見るたびに、どうしても、背筋が冷たくなります。

あの娘は、いったい、何者だったのか。

そして、本当にKさんを迎えに来ていたのは、誰だったのか。

その答えは、いまも、わからないままです。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。