犯罪者に縁のある私

これから書くことは、すべて本当にあったことです。

ただし、心霊の話では、ありません。

幽霊より、生きている人間のほうが、よほど怖い。

私は、それを、何度も思い知らされてきました。

夜道で、誰かの足音が、近づいてくる。

その瞬間の、心臓の縮む感覚を、私は、人より、ずっと多く、知っています。

なぜ、と聞かれても、答えようが、ありません。

ただ、私の人生には、節目ごとに、彼らが、現れるのです。

私には、どういうわけか、犯罪者と縁があるのです。

最初は、九歳のときでした。

実家は、商店街で、小さな乾物屋を営んでいました。

ある日、ひとりの男の人が、店の常連になりました。

四十がらみの、物腰のやわらかい人でした。

いつも、私に飴をくれました。

「いい子だね」と、頭をなでてくれました。

近所でも、評判のいい人でした。

ところが、数か月後のことです。

その人が、新聞の、一面に載りました。

生活に困って、知人の老人を、手にかけていたのです。

金を、奪うためでした。

私が初めてその人に会ったときには、もう、事は済んだあとでした。

つまり、人を手にかけた手で、私の頭を、なでていたのです。

私が驚いたのは、事件そのものより、別のことでした。

人を手にかけた人間が、あんなにも、穏やかな顔を、していられること。

飴を、差し出す、その指は、節くれだって、太い指でした。

今でも、甘いものを口にすると、ふと、あの指を、思い出します。

その事実が、子ども心に、深く、刺さりました。

逮捕の日、店に、刑事が、訪ねてきました。

母は、男の名前を聞いて、その場に、座り込みました。

「あんなに、いい人が」

母は、何度も、そう繰り返しました。

私は、もらった飴の、甘さを、思い出していました。

あの手で、人を、と考えると、口の中が、苦くなりました。

優しさと、恐ろしさは、同じ顔の中に、同居できる。

それから、私は、人の笑顔を、素直に、信じられなくなりました。

この人も、ひょっとしたら。

そんな目で、人を、見るくせが、つきました。

九歳の子どもには、重すぎる、教訓でした。

私は、それを、九歳で、学んでしまいました。

次は、十六歳のときでした。

塾の帰り、夜の十時を、回っていました。

人通りのない、住宅街の道でした。

いきなり、背後から、口を、ふさがれました。

革の手袋の、ひやりとした感触を、覚えています。

そのまま、停まっていた車に、引きずり込まれそうになりました。

私は、必死に、抵抗しました。

もみ合いになり、腕を、刃物で、何か所か切られました。

厚手のコートを着ていたのが、幸いでした。

刃が、生地を、引き裂く音を、覚えています。

ぶつ、ぶつ、という、鈍い音でした。

痛みは、あとから、やってきました。

その場では、ただ、逃げることしか、頭に、ありませんでした。

大事には、至りませんでした。

切られた腕より、覚えているのは、男の、息づかいです。

荒くもなく、乱れもしない、落ち着いた息でした。

慣れている。

とっさに、そう感じました。

私を、ひとりの人間としてではなく、ただの、獲物として見ている。

そういう、目でした。

それでも、血は、けっこう出ました。

無我夢中で、近くのコンビニに、駆け込みました。

犯人は、その後、別の場所で、捕まったそうです。

余罪も、いくつか、あったといいます。

あと数秒、逃げ込むのが遅ければ。

今でも、そう思うと、足がすくみます。

二十歳のときには、こんなことがありました。

その前にも、小さな出来事は、いくつもありました。

アルバイト先に、毎日、同じ時間に、来る客がいました。

何も注文せず、ただ、私を、見ているだけの男でした。

ある日、店長が、警察に、連絡しました。

男は、過去に、別の店で、店員を、刺していたそうです。

私は、たまたま、その日、シフトが、休みでした。

間が悪ければ、私だったかもしれない。

そう思うと、休めたことが、ただの偶然とは、思えませんでした。

学生時代に、同じ飲食店で働いていた、先輩がいました。

気のいい、面倒見のいい人でした。

その先輩が、自宅で、命を奪われました。

事件を知ったのは、テレビのニュースでした。

犯人は、先輩に、つきまとっていた男でした。

逮捕された男の顔を、テレビで見て、私は、息をのみました。

見覚えが、あったのです。

以前、先輩に、紹介されたことが、ありました。

あのとき、にこやかに、頭を下げていた、あの男でした。

「先輩が、お世話になってます」

そう言って、笑った顔を、覚えています。

ごく、普通の、好青年に、見えました。

その数か月後に、あんなことをするとは、誰も、思わなかったでしょう。

また、私は、犯罪者と、会っていたのです。

知らないうちに、すぐそばに、いたのです。

先輩は、よく、こう言っていました。

「あの人、ちょっと、しつこくてさ」

笑い話のように、話していました。

私も、ありがちなことだと、聞き流していました。

あのとき、もっと、真剣に、受け止めていれば。

後悔は、いつも、手遅れになってから、やってきます。

二十五歳の、春のことです。

ひとり暮らしの、マンションでした。

帰宅して、エントランスに、足を踏み入れた、そのときでした。

また、背後から、いきなり、羽交い締めにされました。

今度の男は、目深に、帽子を、かぶっていました。

右手に、細い、刃物のようなものを、持っていました。

集合ポストの陰が、ちょうど、死角になる造りでした。

あとで気づいたのですが、男は、その死角を、知っていました。

つまり、下見を、していたのです。

私が、いつ帰るかも、知っていたのかもしれません。

自分の家が、自分の知らない誰かに、観察されていた。

その事実が、襲われたこと以上に、私を、追い詰めました。

私は、隅へ、引きずり込まれました。

体を、触られました。

恐怖で、涙が、あふれました。

すると、男は、ふと、手を止めました。

「ごめんね」

そう、つぶやきました。

「お金、いる?」

私が、黙って、首を横に振ると。

男は、そのまま、去っていきました。

何が、起きたのか、分かりませんでした。

ただ、ぶるぶると、震えることしか、できませんでした。

あとで、考えました。

なぜ、男は、去ったのか。

お金がいるか、と聞いたのは、本心だったのか。

それとも、何か、別の理由で、気が、変わったのか。

今でも、分かりません。

ただ、あの「ごめんね」という声だけが、耳から、離れません。

そして、同じ年の、初夏でした。

私が、人生で、いちばん怖い思いをしたのは、このときです。

刃物を、突きつけられたわけでは、ありません。

殴られたわけでも、ありません。

ただ、ひたひたと、追いつめられた。

じわじわと、逃げ場を、ふさがれていった。

その、静かな恐怖を、私は、忘れることが、できません。

暴力よりも、その手前の、静けさのほうが、ずっと、怖いのだと、知りました。

これは、通り魔とも、少し違います。

友人と、カラオケに行った、その帰りでした。

夜中の、一時を、回っていました。

駅前から、自転車で、帰ることにしました。

漕ぎ出して、すぐのことです。

一台の車が、やけに、気になりました。

理由は、分かりません。

ただ、いやな、予感がしました。

だから、わざと、街灯の多い、大通りを、選びました。

予感は、当たりました。

その車は、私の、一メートルほど後ろを、ついてきたのです。

ヘッドライトが、私の影を、前へ前へと、長く伸ばしました。

ペダルを、どれだけ速く漕いでも、その距離は、変わりません。

エンジンの、低い音だけが、ずっと、背中に、貼りついていました。

心臓が、口から、出そうでした。

自転車のスピードに、ぴたりと、合わせて。

信号のそばに、私のマンションが、ありました。

その手前で、車が、急に、私を、追い越しました。

そして、少し先で、停まりました。

中から、ひとりの男が、降りてきました。

私は、信号を渡らず、全速力で、横道に、折れました。

それを見た男は、車に飛び乗り、追ってきました。

ここからは、男との、やりとりです。

括弧の中は、私の、心の声です。

男「どこ行くの。遊びに行こうよ」

(もう一時過ぎだ。家に帰るに決まってる)

「いえ、親が、待ってるので」

(本当は、ひとり暮らしだけど)

男「遊びに行こうよ」

(さっき、帰るって言ったでしょう)

男「遊びに行こうよ」

同じ言葉を、何度も、繰り返すのです。

抑揚の、ない声でした。

私は、後部座席に、目をやりました。

工具のようなものが、山積みに、なっていました。

電動の、のこぎりのような形のものも、見えました。

業務用の、車だったのかもしれません。

けれど、こんな時間に、こんな場所で。

考えれば考えるほど、つじつまが、合いませんでした。

こんな車で、ナンパ?

そんなはずは、ありません。

「いえ、親が、待ってるんで」

男「じゃあ、先に行きなよ」

(なぜ?)

この道は、一方通行です。

普通なら、車が、先に行くものです。

「いえ、先に、行ってください」

男「先に、行きなよ」

(どうして、二回も、同じことを言うの)

「いえ、先に、行ってください」

私は、もう、半分、泣いていました。

男「……そのまま、そこに、いるの?」

(あなたが去ったら、すぐ帰る)

「……」

男「そのまま、そこで、じっとしてたら、すぐ、済むから」

その一言で、背筋が、凍りました。

すぐ、済む。

何が、すぐ済むというのでしょう。

その意味を、考えたくも、ありませんでした。

男の声には、欲も、興奮も、ありませんでした。

ただ、作業の、手順を、確認するような。

そういう、平坦な声でした。

感情が、ないわけでは、ないのでしょう。

ただ、私に対しては、何の感情も、向けていない。

そう、感じました。

ものを、片づけるときの、あの、無関心さ。

それを、人間に、向けられたのは、初めてでした。

それが、何より、恐ろしかった。

男が、車から、降りてきました。

右手を、後ろに、隠していました。

左手には、白い、紙のようなものを、持っていました。

あの白い紙が、何だったのか。

今でも、夢に、出てきます。

地図のようにも、見えました。

あるいは、何かの、手順書のように。

考えすぎだと、笑う人も、いるでしょう。

けれど、その場にいた人間にしか、分からない、空気というものが、あります。

あのとき、私の体は、頭より先に、危険を、悟っていました。

「それ以上、近づいたら、大声を出します」

私は、声を、振り絞りました。

男は、いったん、立ち止まりました。

そして、少し、首を、かしげました。

男「じっとしてたら、すぐ、済むから」

また、近づこうと、しました。

「大声を、出しますよ」

もう一度、ダメもとで、叫びました。

男は、また、止まりました。

何か、考えるように、空を、見上げました。

それから、ゆっくりと、車に、乗り込みました。

男「先に、行きなよ」

「いえ、先に、行ってください」

(絶対に、はねられる)

男「……」

長い、沈黙のあと。

やっと、車は、走り去っていきました。

テールランプが、闇に、消えていきました。

それでも、私は、しばらく、動けませんでした。

また、戻ってくるかもしれない。

そう思うと、足が、地面に、根を張ったようでした。

私は、部屋に駆け込み、鍵を、すべて、かけました。

一晩中、布団の中で、震えていました。

いちばん、無傷で済んだのに。

いちばん、恐ろしかった。

後日、知り合いの、警察の人に、話しました。

その人は、顔色を、変えました。

ベテランの、刑事さんでした。

めったなことでは、驚かない人だと、思っていました。

その人が、私の話を聞いて、メモを取る手を、止めました。

「それは、危なかった」

「たぶん、君は、殺されていた」

「あれは、最初から、ナンパじゃない」

「ああいう手合いは、断られると、いったん引く」

「そして、油断した頃に、また、来る」

そう、警察の人は、言いました。

あの車の、ナンバーは、控えていませんでした。

暗くて、半分しか、見えなかったのです。

結局、あの男が、誰だったのかは、今も、分かりません。

捕まったという話も、聞きません。

つまり、あの男は、今も、どこかで、車を、走らせているのです。

「連れ去って、どうにかするのが、目的だ」

私は、その夜、生きていることを、ただ、ありがたく思いました。

これで、私が遭った出来事の、おもなものは、ひととおりです。

書き出してみて、改めて、その数の多さに、自分でも、ぞっとします。

なぜ、私ばかりが、こんな目に、遭うのでしょう。

通り魔とは、人生で、何度も、出会うものなのでしょうか。

優しい顔の、常連客。

夜道の、革手袋。

先輩を、手にかけた、男。

そして、抑揚のない声で、同じ言葉を、繰り返した、あの男。

どの顔も、今でも、はっきりと、思い出せます。

そして、いちばん、怖いのは。

その全員が、私のことを、覚えているのかもしれない、ということです。

彼らにとって、私は、逃した、ひとりです。

うまくいかなかった、一件です。

そういうものを、人は、案外、忘れないものではないでしょうか。

私は、引っ越しを、何度も、繰り返しました。

夜道は、できる限り、歩かないように、しています。

それでも、ふとした瞬間に、視線を、感じることがあります。

振り返っても、誰も、いません。

けれど、確かに、誰かが、いた気配だけが、残るのです。

いつか、また、どこかで。

私は、もう若くは、ありません。

それでも、警戒を、解くことが、できません。

玄関の鍵は、二重に、しています。

カーテンは、日が暮れる前に、閉めます。

そうやって、身を守ることが、すっかり、習い性に、なりました。

あの抑揚のない声が、すぐ後ろで、こう言う気がするのです。

私は、振り返れません。

振り返ったら、そこに、本当に、いる気がして。

だから私は、今日も、背中を、壁につけて、眠ります。

誰にも、後ろを、取られないように。

じっとしてたら、すぐ、済むから、と。

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