これから書くことは、すべて本当にあったことです。
ただし、心霊の話では、ありません。
幽霊より、生きている人間のほうが、よほど怖い。
私は、それを、何度も思い知らされてきました。
夜道で、誰かの足音が、近づいてくる。
その瞬間の、心臓の縮む感覚を、私は、人より、ずっと多く、知っています。
なぜ、と聞かれても、答えようが、ありません。
ただ、私の人生には、節目ごとに、彼らが、現れるのです。
私には、どういうわけか、犯罪者と縁があるのです。
※
最初は、九歳のときでした。
実家は、商店街で、小さな乾物屋を営んでいました。
ある日、ひとりの男の人が、店の常連になりました。
四十がらみの、物腰のやわらかい人でした。
いつも、私に飴をくれました。
「いい子だね」と、頭をなでてくれました。
近所でも、評判のいい人でした。
ところが、数か月後のことです。
その人が、新聞の、一面に載りました。
生活に困って、知人の老人を、手にかけていたのです。
金を、奪うためでした。
私が初めてその人に会ったときには、もう、事は済んだあとでした。
つまり、人を手にかけた手で、私の頭を、なでていたのです。
私が驚いたのは、事件そのものより、別のことでした。
人を手にかけた人間が、あんなにも、穏やかな顔を、していられること。
飴を、差し出す、その指は、節くれだって、太い指でした。
今でも、甘いものを口にすると、ふと、あの指を、思い出します。
その事実が、子ども心に、深く、刺さりました。
逮捕の日、店に、刑事が、訪ねてきました。
母は、男の名前を聞いて、その場に、座り込みました。
「あんなに、いい人が」
母は、何度も、そう繰り返しました。
私は、もらった飴の、甘さを、思い出していました。
あの手で、人を、と考えると、口の中が、苦くなりました。
優しさと、恐ろしさは、同じ顔の中に、同居できる。
それから、私は、人の笑顔を、素直に、信じられなくなりました。
この人も、ひょっとしたら。
そんな目で、人を、見るくせが、つきました。
九歳の子どもには、重すぎる、教訓でした。
私は、それを、九歳で、学んでしまいました。
※
次は、十六歳のときでした。
塾の帰り、夜の十時を、回っていました。
人通りのない、住宅街の道でした。
いきなり、背後から、口を、ふさがれました。
革の手袋の、ひやりとした感触を、覚えています。
そのまま、停まっていた車に、引きずり込まれそうになりました。
私は、必死に、抵抗しました。
もみ合いになり、腕を、刃物で、何か所か切られました。
厚手のコートを着ていたのが、幸いでした。
刃が、生地を、引き裂く音を、覚えています。
ぶつ、ぶつ、という、鈍い音でした。
痛みは、あとから、やってきました。
その場では、ただ、逃げることしか、頭に、ありませんでした。
大事には、至りませんでした。
切られた腕より、覚えているのは、男の、息づかいです。
荒くもなく、乱れもしない、落ち着いた息でした。
慣れている。
とっさに、そう感じました。
私を、ひとりの人間としてではなく、ただの、獲物として見ている。
そういう、目でした。
それでも、血は、けっこう出ました。
無我夢中で、近くのコンビニに、駆け込みました。
犯人は、その後、別の場所で、捕まったそうです。
余罪も、いくつか、あったといいます。
あと数秒、逃げ込むのが遅ければ。
今でも、そう思うと、足がすくみます。
※
二十歳のときには、こんなことがありました。
その前にも、小さな出来事は、いくつもありました。
アルバイト先に、毎日、同じ時間に、来る客がいました。
何も注文せず、ただ、私を、見ているだけの男でした。
ある日、店長が、警察に、連絡しました。
男は、過去に、別の店で、店員を、刺していたそうです。
私は、たまたま、その日、シフトが、休みでした。
間が悪ければ、私だったかもしれない。
そう思うと、休めたことが、ただの偶然とは、思えませんでした。
学生時代に、同じ飲食店で働いていた、先輩がいました。
気のいい、面倒見のいい人でした。
その先輩が、自宅で、命を奪われました。
事件を知ったのは、テレビのニュースでした。
犯人は、先輩に、つきまとっていた男でした。
逮捕された男の顔を、テレビで見て、私は、息をのみました。
見覚えが、あったのです。
以前、先輩に、紹介されたことが、ありました。
あのとき、にこやかに、頭を下げていた、あの男でした。
「先輩が、お世話になってます」
そう言って、笑った顔を、覚えています。
ごく、普通の、好青年に、見えました。
その数か月後に、あんなことをするとは、誰も、思わなかったでしょう。
また、私は、犯罪者と、会っていたのです。
知らないうちに、すぐそばに、いたのです。
先輩は、よく、こう言っていました。
「あの人、ちょっと、しつこくてさ」
笑い話のように、話していました。
私も、ありがちなことだと、聞き流していました。
あのとき、もっと、真剣に、受け止めていれば。
後悔は、いつも、手遅れになってから、やってきます。
※
二十五歳の、春のことです。
ひとり暮らしの、マンションでした。
帰宅して、エントランスに、足を踏み入れた、そのときでした。
また、背後から、いきなり、羽交い締めにされました。
今度の男は、目深に、帽子を、かぶっていました。
右手に、細い、刃物のようなものを、持っていました。
集合ポストの陰が、ちょうど、死角になる造りでした。
あとで気づいたのですが、男は、その死角を、知っていました。
つまり、下見を、していたのです。
私が、いつ帰るかも、知っていたのかもしれません。
自分の家が、自分の知らない誰かに、観察されていた。
その事実が、襲われたこと以上に、私を、追い詰めました。
私は、隅へ、引きずり込まれました。
体を、触られました。
恐怖で、涙が、あふれました。
すると、男は、ふと、手を止めました。
「ごめんね」
そう、つぶやきました。
「お金、いる?」
私が、黙って、首を横に振ると。
男は、そのまま、去っていきました。
何が、起きたのか、分かりませんでした。
ただ、ぶるぶると、震えることしか、できませんでした。
あとで、考えました。
なぜ、男は、去ったのか。
お金がいるか、と聞いたのは、本心だったのか。
それとも、何か、別の理由で、気が、変わったのか。
今でも、分かりません。
ただ、あの「ごめんね」という声だけが、耳から、離れません。
※
そして、同じ年の、初夏でした。
私が、人生で、いちばん怖い思いをしたのは、このときです。
刃物を、突きつけられたわけでは、ありません。
殴られたわけでも、ありません。
ただ、ひたひたと、追いつめられた。
じわじわと、逃げ場を、ふさがれていった。
その、静かな恐怖を、私は、忘れることが、できません。
暴力よりも、その手前の、静けさのほうが、ずっと、怖いのだと、知りました。
これは、通り魔とも、少し違います。
友人と、カラオケに行った、その帰りでした。
夜中の、一時を、回っていました。
駅前から、自転車で、帰ることにしました。
漕ぎ出して、すぐのことです。
一台の車が、やけに、気になりました。
理由は、分かりません。
ただ、いやな、予感がしました。
だから、わざと、街灯の多い、大通りを、選びました。
予感は、当たりました。
その車は、私の、一メートルほど後ろを、ついてきたのです。
ヘッドライトが、私の影を、前へ前へと、長く伸ばしました。
ペダルを、どれだけ速く漕いでも、その距離は、変わりません。
エンジンの、低い音だけが、ずっと、背中に、貼りついていました。
心臓が、口から、出そうでした。
自転車のスピードに、ぴたりと、合わせて。
信号のそばに、私のマンションが、ありました。
その手前で、車が、急に、私を、追い越しました。
そして、少し先で、停まりました。
中から、ひとりの男が、降りてきました。
私は、信号を渡らず、全速力で、横道に、折れました。
それを見た男は、車に飛び乗り、追ってきました。
ここからは、男との、やりとりです。
括弧の中は、私の、心の声です。
男「どこ行くの。遊びに行こうよ」
(もう一時過ぎだ。家に帰るに決まってる)
「いえ、親が、待ってるので」
(本当は、ひとり暮らしだけど)
男「遊びに行こうよ」
(さっき、帰るって言ったでしょう)
男「遊びに行こうよ」
同じ言葉を、何度も、繰り返すのです。
抑揚の、ない声でした。
私は、後部座席に、目をやりました。
工具のようなものが、山積みに、なっていました。
電動の、のこぎりのような形のものも、見えました。
業務用の、車だったのかもしれません。
けれど、こんな時間に、こんな場所で。
考えれば考えるほど、つじつまが、合いませんでした。
こんな車で、ナンパ?
そんなはずは、ありません。
「いえ、親が、待ってるんで」
男「じゃあ、先に行きなよ」
(なぜ?)
この道は、一方通行です。
普通なら、車が、先に行くものです。
「いえ、先に、行ってください」
男「先に、行きなよ」
(どうして、二回も、同じことを言うの)
「いえ、先に、行ってください」
私は、もう、半分、泣いていました。
男「……そのまま、そこに、いるの?」
(あなたが去ったら、すぐ帰る)
「……」
男「そのまま、そこで、じっとしてたら、すぐ、済むから」
その一言で、背筋が、凍りました。
すぐ、済む。
何が、すぐ済むというのでしょう。
その意味を、考えたくも、ありませんでした。
男の声には、欲も、興奮も、ありませんでした。
ただ、作業の、手順を、確認するような。
そういう、平坦な声でした。
感情が、ないわけでは、ないのでしょう。
ただ、私に対しては、何の感情も、向けていない。
そう、感じました。
ものを、片づけるときの、あの、無関心さ。
それを、人間に、向けられたのは、初めてでした。
それが、何より、恐ろしかった。
男が、車から、降りてきました。
右手を、後ろに、隠していました。
左手には、白い、紙のようなものを、持っていました。
あの白い紙が、何だったのか。
今でも、夢に、出てきます。
地図のようにも、見えました。
あるいは、何かの、手順書のように。
考えすぎだと、笑う人も、いるでしょう。
けれど、その場にいた人間にしか、分からない、空気というものが、あります。
あのとき、私の体は、頭より先に、危険を、悟っていました。
「それ以上、近づいたら、大声を出します」
私は、声を、振り絞りました。
男は、いったん、立ち止まりました。
そして、少し、首を、かしげました。
男「じっとしてたら、すぐ、済むから」
また、近づこうと、しました。
「大声を、出しますよ」
もう一度、ダメもとで、叫びました。
男は、また、止まりました。
何か、考えるように、空を、見上げました。
それから、ゆっくりと、車に、乗り込みました。
男「先に、行きなよ」
「いえ、先に、行ってください」
(絶対に、はねられる)
男「……」
長い、沈黙のあと。
やっと、車は、走り去っていきました。
テールランプが、闇に、消えていきました。
それでも、私は、しばらく、動けませんでした。
また、戻ってくるかもしれない。
そう思うと、足が、地面に、根を張ったようでした。
※
私は、部屋に駆け込み、鍵を、すべて、かけました。
一晩中、布団の中で、震えていました。
いちばん、無傷で済んだのに。
いちばん、恐ろしかった。
後日、知り合いの、警察の人に、話しました。
その人は、顔色を、変えました。
ベテランの、刑事さんでした。
めったなことでは、驚かない人だと、思っていました。
その人が、私の話を聞いて、メモを取る手を、止めました。
「それは、危なかった」
「たぶん、君は、殺されていた」
「あれは、最初から、ナンパじゃない」
「ああいう手合いは、断られると、いったん引く」
「そして、油断した頃に、また、来る」
そう、警察の人は、言いました。
あの車の、ナンバーは、控えていませんでした。
暗くて、半分しか、見えなかったのです。
結局、あの男が、誰だったのかは、今も、分かりません。
捕まったという話も、聞きません。
つまり、あの男は、今も、どこかで、車を、走らせているのです。
「連れ去って、どうにかするのが、目的だ」
私は、その夜、生きていることを、ただ、ありがたく思いました。
※
これで、私が遭った出来事の、おもなものは、ひととおりです。
書き出してみて、改めて、その数の多さに、自分でも、ぞっとします。
なぜ、私ばかりが、こんな目に、遭うのでしょう。
通り魔とは、人生で、何度も、出会うものなのでしょうか。
優しい顔の、常連客。
夜道の、革手袋。
先輩を、手にかけた、男。
そして、抑揚のない声で、同じ言葉を、繰り返した、あの男。
どの顔も、今でも、はっきりと、思い出せます。
そして、いちばん、怖いのは。
その全員が、私のことを、覚えているのかもしれない、ということです。
彼らにとって、私は、逃した、ひとりです。
うまくいかなかった、一件です。
そういうものを、人は、案外、忘れないものではないでしょうか。
私は、引っ越しを、何度も、繰り返しました。
夜道は、できる限り、歩かないように、しています。
それでも、ふとした瞬間に、視線を、感じることがあります。
振り返っても、誰も、いません。
けれど、確かに、誰かが、いた気配だけが、残るのです。
いつか、また、どこかで。
私は、もう若くは、ありません。
それでも、警戒を、解くことが、できません。
玄関の鍵は、二重に、しています。
カーテンは、日が暮れる前に、閉めます。
そうやって、身を守ることが、すっかり、習い性に、なりました。
あの抑揚のない声が、すぐ後ろで、こう言う気がするのです。
私は、振り返れません。
振り返ったら、そこに、本当に、いる気がして。
だから私は、今日も、背中を、壁につけて、眠ります。
誰にも、後ろを、取られないように。
じっとしてたら、すぐ、済むから、と。