神に愛されるということ

私は、占い師に、「長くは生きられない」と、言われたことがあります。

理由も、はっきりと、告げられました。

「あんた、若い頃、海の向こうに、長く住んでいたね」

占い師は、私の顔を見るなり、そう言いました。

予約も、していませんでした。

たまたま、通りかかった、小さな占いの店でした。

気まぐれで、暖簾を、くぐっただけです。

それなのに、椅子に座る前から、占い師の顔色が、変わったのです。

私を、まじまじと、見たあと。

ふっと、目を、そらしました。

見てはいけないものを、見たような、しぐさでした。

確かに、私は、二十代の頃、仕事で、しばらく異国で、暮らしていました。

古い、石造りの街でした。

霧の深い、北の国です。

今でも、はっきりと、覚えていることが、あります。

下宿していた屋敷の、地下に、使われていない、古い礼拝堂がありました。

ある晩、私は、好奇心から、そこへ、降りていきました。

ひんやりとした、土と、蝋の匂いが、しました。

祭壇のような場所に、見たこともない、文字が、刻まれていました。

なぜか、その前で、私は、長いあいだ、動けませんでした。

誰かに、見つめられているような、気が、したのです。

今思えば、あれが、始まりだったのかもしれません。

「そこで、憑かれたんだよ」

占い師は、声を、ひそめました。

「ただの、悪霊じゃない。神に、近いものだ」

「だから、まず、祓えない」

「どこへ行っても、障ることを恐れて、誰も、手出しできないよ」

私は、言葉を、失いました。

占い師は、続けました。

「日本にいるあいだは、お子さんが、成人するまでは、もつだろう」

「あんたの背後に、白い狐が、見える」

「これが、強い」

「ご先祖に、古い武人を、祀っている家系だね」

「ご先祖に、感謝することだ」

私の家は、確かに、古い土地神を、代々、祀ってきました。

そのことを、私は、占い師に、話してもいませんでした。

「それと、遠い親戚に、修道院にいる人が、いるね」

「その人も、遠くから、あんたを、守っている」

「……でも、それでも、あと数年だね」

息子は、もう、十五歳です。

あと、数年で、私は、この世から、消えるというのでしょうか。

私の、けげんそうな顔を見て、占い師は、さらに、言いました。

「あんた、昔、手の筋を、切ったね」

「それで、何か、できなくなっただろう」

その通りでした。

私は、若い頃、チェロを、弾いていました。

それなりに、人前で、演奏する機会も、ありました。

けれど、交通事故の後遺症で、左手が、思うように、動かなくなりました。

弓は持てても、弦を、押さえられない。

チェロは、もう、とうに、諦めていました。

事故のことを、よく、覚えています。

雨の、夜でした。

演奏会の帰り、私は、楽器を抱えて、横断歩道を、渡っていました。

気づいたときには、ヘッドライトが、すぐ目の前に、ありました。

とっさに、私は、自分の身ではなく、チェロを、両腕で、かばいました。

自分の体より、楽器を、守ろうとしたのです。

皮肉なことに、その楽器は、無事でした。

そして、私の左手だけが、二度と、戻らなくなりました。

あれは、本当に、偶然だったのでしょうか。

今では、そうは、思えません。

「それは、持っていかれたんだよ」

占い師は、静かに、言いました。

「でも、命だけは、あんたを守る者たちが、救った」

「次は、すべてを、取る、と言っている」

「……ごめんね。いやなことばかり、言って」

そう言って、占い師は、私から、お金を、受け取りませんでした。

店を出るとき、占い師は、最後に、こう言いました。

「左手は、もう、あちら側だ」

「だから、夢の中では、動くんだよ」

私は、まだ、夢の話など、一言も、していませんでした。

なのに、なぜ、それを、知っているのか。

背中に、冷たいものが、走りました。

あと数年で、この世を、去る。

その言葉を、私は、何度も、口の中で、転がしました。

実感は、まるで、わいてきませんでした。

けれど、夜、ひとりになると、その言葉だけが、胸の底で、静かに、ふくらんでいくのでした。

にわかには、信じられませんでした。

今でも、半分は、信じていません。

けれど、その占い師は、当たると、評判の人でした。

高い見料を取る人なのに、あれだけ話して、一円も、受け取らなかったのです。

「残りの人生に、使いなさい」

そう言って、私を、送り出しました。

その言葉が、かえって、重く、のしかかりました。

帰宅して、夫と、息子に、話しました。

信じてはいないけど、と前置きして。

「私が、もし、いなくなったら、あなたたちが、心配で」

そう、言いかけると。

夫も、息子も、こう、言ってくれました。

「それは、僕たちが、乗り越えること」

「母さんは、心配しないで、残りを、好きに使っていいよ」

その優しさが、ありがたくて、少し、泣きました。

けれど、夜になると、不安が、押し寄せました。

息子が、成人するまで。

その言葉を、何度も、頭の中で、繰り返しました。

あと、数年。

それは、息子の、自立の時期と、ちょうど、重なっていました。

役目を、終えたら、連れていく。

そう、言われているようで、ぞっとしました。

後日、私は、ある古い神社へ、相談に、行きました。

事情を話すと、神主さんは、しばらく、黙り込みました。

そして、こう、言いました。

「申し訳ないが、これは、できる限り、障りたくないものです」

「こちらの、命も、危ないので」

私は、思わず、聞き返しました。

「あの、いったい、どんなものが、憑いていると?」

神主さんは、言葉を、選ぶように、答えました。

「……地の底の、神です」

「あなたの、左手を、握っています」

「日本の、神では、ありませんね」

回避の方法は、ない、と言われました。

私は、神主さんに、正直に、言いました。

「でも私は、基本的に、こういうことを、信じていないんです」

「私には、見えませんから」

すると、神主さんは、こう、返しました。

「その、強い気持ちも、大切ですよ」

「なんで、私なんでしょう」

思わず、こぼした問いに、神主さんは、薄く、笑いました。

「人と、同じですよ。好み、なんです」

「昔から、言うでしょう。神に愛されると、長生きできない、と」

「あれと、同じことです」

私は、もう、若くもないのに、と思いました。

その心を、見透かしたように、神主さんは、言いました。

「寿命から見れば、あなたは、まだ、じゅうぶん、若い」

それからの私は、毎日、土地の神に、手を合わせています。

実家の、お社にも、近所の、古い神社にも。

けれど、最近、妙なことに、気づきました。

右の肩が、いつも、重いのです。

湿布を貼っても、もんでもらっても、その重みは、取れません。

整形外科でも、異常は、見つかりませんでした。

ただ、医師に、診てもらっているあいだも。

その手は、確かに、私の肩に、置かれたままでした。

何かが、そっと、手を、置いているように。

それに、もともと、夢など、めったに見ないのに。

このごろ、毎晩のように、同じ夢を、見るのです。

夢の中で、私は、どこかの、広い屋敷にいます。

古い、洋館のような、場所です。

窓の外は、いつも、夕暮れです。

けれど、その夕暮れは、いつまでも、夜に、なりません。

ずっと、同じ、赤い光が、差し込んでいます。

時間が、止まっているような、場所です。

床は、冷たい石で、足音が、よく響きます。

壁には、見覚えのない文字が、刻まれています。

あの、地下の礼拝堂で見た、あの文字と、同じものです。

私は、そこで、チェロを、弾いています。

動かないはずの、左手が、なめらかに、弦の上を、走ります。

指の先まで、音が、満ちていきます。

こんなに、気持ちのいいことは、ありません。

ずっと、ここに、いたい。

夢の中で、私は、いつも、そう、思うのです。

すると、背後から、声が、します。

「ずっと、いても、いいんだよ」

低い、優しい声です。

そして、右の肩に、そっと、手が、置かれます。

その、ひやりとした感触で、私は、目を、覚まします。

目を覚ますと、しばらく、自分が、どこにいるのか、分かりません。

左手を、開いたり、閉じたりして、何度も、確かめます。

やはり、指は、思うように、動きません。

夢の中の、あの、自由な感覚が、まだ、残っているのです。

それが、たまらなく、せつなくて。

同時に、たまらなく、恐ろしいのです。

なぜなら、その夢は、年々、長く、なっているからです。

最初は、ほんの、数小節でした。

それが、今では、一曲を、まるごと、弾き終えるまでに、なりました。

弾き終えたとき、私を、迎えに来るものが、いる気が、するのです。

いつか、このまま、目を、覚まさなくなるのでしょうか。

夢の中で、チェロを、弾き続けたまま。

信じていない、と、言い切りたい。

けれど、まったくの、他人に、二人も、同じことを言われると。

さすがに、少し、怖く、なります。

それでも、私は、淡々と、毎日を、過ごしています。

あと数年と、言われたところで、できることは、変わりません。

目の前のことを、ひとつずつ、やっていく。

それしか、ないのです。

ただ、夜が、来るのが、少しだけ、こわくなりました。

眠れば、また、あの屋敷へ、行ってしまう。

そして、いつか、目が覚めないかもしれない。

そう思うと、いつのまにか、夜更かしを、するように、なりました。

皮肉なことに、寝不足の体には、肩の重みが、いっそう、こたえます。

ここからは、その後の、報告です。

占い師に告げられた、その「数年」を、私は、無事に、越えました。

そして、自分でも、驚いたことに。

成人を迎える上の息子の、下に、もうひとり、男の子が、生まれました。

高齢の出産でしたが、安産でした。

いま、三か月の、その子は、健康そのものです。

妊娠が、分かったとき、私は、誰よりも、驚きました。

この歳で、と、半ば、信じられませんでした。

医師も、奇跡のようだ、と言いました。

つわりも、ほとんど、ありませんでした。

まるで、何かが、この子の誕生を、許したかのように。

あるいは、私を、もう少し、この世に、留めるために。

そんなことを、考えてしまう自分が、います。

右の肩は、相変わらず、重いままです。

左手も、動かないままです。

赤ん坊を抱くのにも、少し、苦労します。

それでも、私は、生きています。

あの神主さんに、出産を、報告しました。

すると、神主さんは、こう、言いました。

「寿命が、延びましたね」

私は、その意味を、尋ねました。

「母親というのは、強いんです」

「子どもが、小さいほど、その力は、強くなる」

「病気や事故は、どうにもなりませんが」

「この手のものは、たいてい、はじいてしまいますよ」

もうひとり、守るべき子が、できたから。

「成人するまで」の、期限が、延びたのでしょうか。

そこまでは、聞きませんでした。

聞くのが、こわかったのかもしれません。

答えによっては、また、あの、肩の重みを、思い出してしまうから。

ただ、神主さんは、別れ際に、こう、付け加えました。

「その子を、大切にしなさい」

「その子が、あなたの、いちばんの、守りです」

私は、深く、頭を下げて、社を、後にしました。

夢は、今も、見続けています。

けれど、赤ん坊の、夜泣きで、中断されることが、増えました。

屋敷で、チェロを弾く私の、すぐそばで、夢が、ぷつりと、途切れる。

そのたびに、背後で、舌打ちのような音が、聞こえる気が、します。

気のせいだと、思いたい。

夢に、意味なんて、ないのだと、思いたい。

けれど、夢の中の私の左手は、いまだに、衰えていません。

現実では、とうに、動かなくなったはずなのに。

夢の中だけは、あの頃のまま、なめらかに、弦を、押さえるのです。

ある晩、夢の中で、私は、ふと、手を、止めました。

屋敷の、奥の、暗がりに、人影が、立っていたのです。

顔は、見えません。

ただ、こちらへ、ゆっくりと、手を、差し伸べていました。

「もう、痛くないところへ、行こう」

そう、聞こえました。

私が、立ち上がりかけた、その瞬間でした。

現実の、赤ん坊の泣き声が、夢を、引き裂きました。

目を覚ますと、私は、汗びっしょりでした。

そして、隣で泣く我が子を、夢中で、抱きしめました。

助かった。

理屈ぬきに、そう、感じました。

我が子の、あたたかさが、私を、現実に、つなぎとめてくれた。

その小さな命が、あの暗がりの手から、私を、引き戻してくれたのです。

母とは、子を守るものだと、よく言います。

けれど、本当は、子が、母を、守ってくれることも、あるのだと、私は、知りました。

私は、もう、来年に、死ぬ気は、しません。

この子が、歩き、笑い、言葉を、覚えるのを、見届けたい。

その思いだけが、あの、肩の重みに、対抗できる、唯一の力なのだと、思います。

それでも、ふとした瞬間に、思うのです。

あの夢の中の、屋敷は、いったい、どこなのだろう、と。

霧の深い、あの北の街の、地下の礼拝堂に、よく似ている気が、します。

私は、あのとき、何かと、約束を、してしまったのでしょうか。

覚えのない、約束を。

あの礼拝堂で、見つめられていると感じた、あのとき。

私は、知らないうちに、何かに、見初められて、しまったのかもしれません。

神に愛される、というのは、こういうことなのでしょうか。

もし、そうなら。

私は、その愛を、丁重に、お断りしたい。

まだ、こちらの岸で、やるべきことが、たくさん、ありますから。

母とは、強いものだと、神主さんは、言いました。

私は、その言葉を、お守りのように、抱いて、生きています。

いつか、肩の手が、もう、離さないと、決めた日まで。

それまでは、何度でも、夜泣きで、目を、覚ましてやろうと、思います。

この子の泣き声は、私にとって、いちばんの、子守唄なのかもしれません。

目を覚ましていられる限り、私は、あの屋敷へは、行きません。

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