神に愛されるということ

神に愛されるということ

私は、占い師に、「長くは生きられない」と、言われたことがあります。

理由も、はっきりと、告げられました。

「あんた、若い頃、海の向こうに、長く住んでいたね」

占い師は、私の顔を見るなり、そう言いました。

予約も、していませんでした。

たまたま、通りかかった、小さな占いの店でした。

気まぐれで、暖簾を、くぐっただけです。

それなのに、椅子に座る前から、占い師の顔色が、変わったのです。

私を、まじまじと、見たあと。

ふっと、目を、そらしました。

見てはいけないものを、見たような、しぐさでした。

確かに、私は、二十代の頃、仕事で、しばらく異国で、暮らしていました。

古い、石造りの街でした。

霧の深い、北の国です。

今でも、はっきりと、覚えていることが、あります。

下宿していた屋敷の、地下に、使われていない、古い礼拝堂がありました。

ある晩、私は、好奇心から、そこへ、降りていきました。

ひんやりとした、土と、蝋の匂いが、しました。

祭壇のような場所に、見たこともない、文字が、刻まれていました。

なぜか、その前で、私は、長いあいだ、動けませんでした。

誰かに、見つめられているような、気が、したのです。

今思えば、あれが、始まりだったのかもしれません。

「そこで、憑かれたんだよ」

占い師は、声を、ひそめました。

「ただの、悪霊じゃない。神に、近いものだ」

「だから、まず、祓えない」

「どこへ行っても、障ることを恐れて、誰も、手出しできないよ」

私は、言葉を、失いました。

※

占い師は、続けました。

「日本にいるあいだは、お子さんが、成人するまでは、もつだろう」

「あんたの背後に、白い狐が、見える」

「これが、強い」

「ご先祖に、古い武人を、祀っている家系だね」

「ご先祖に、感謝することだ」

私の家は、確かに、古い土地神を、代々、祀ってきました。

そのことを、私は、占い師に、話してもいませんでした。

「それと、遠い親戚に、修道院にいる人が、いるね」

「その人も、遠くから、あんたを、守っている」

「……でも、それでも、あと数年だね」

息子は、もう、十五歳です。

あと、数年で、私は、この世から、消えるというのでしょうか。

私の、けげんそうな顔を見て、占い師は、さらに、言いました。

「あんた、昔、手の筋を、切ったね」

「それで、何か、できなくなっただろう」

※

その通りでした。

私は、若い頃、チェロを、弾いていました。

それなりに、人前で、演奏する機会も、ありました。

けれど、交通事故の後遺症で、左手が、思うように、動かなくなりました。

弓は持てても、弦を、押さえられない。

チェロは、もう、とうに、諦めていました。

事故のことを、よく、覚えています。

雨の、夜でした。

演奏会の帰り、私は、楽器を抱えて、横断歩道を、渡っていました。

気づいたときには、ヘッドライトが、すぐ目の前に、ありました。

とっさに、私は、自分の身ではなく、チェロを、両腕で、かばいました。

自分の体より、楽器を、守ろうとしたのです。

皮肉なことに、その楽器は、無事でした。

そして、私の左手だけが、二度と、戻らなくなりました。

あれは、本当に、偶然だったのでしょうか。

今では、そうは、思えません。

「それは、持っていかれたんだよ」

占い師は、静かに、言いました。

「でも、命だけは、あんたを守る者たちが、救った」

「次は、すべてを、取る、と言っている」

「……ごめんね。いやなことばかり、言って」

そう言って、占い師は、私から、お金を、受け取りませんでした。

店を出るとき、占い師は、最後に、こう言いました。

「左手は、もう、あちら側だ」

「だから、夢の中では、動くんだよ」

私は、まだ、夢の話など、一言も、していませんでした。

なのに、なぜ、それを、知っているのか。

背中に、冷たいものが、走りました。

※

あと数年で、この世を、去る。

その言葉を、私は、何度も、口の中で、転がしました。

実感は、まるで、わいてきませんでした。

けれど、夜、ひとりになると、その言葉だけが、胸の底で、静かに、ふくらんでいくのでした。

にわかには、信じられませんでした。

今でも、半分は、信じていません。

けれど、その占い師は、当たると、評判の人でした。

高い見料を取る人なのに、あれだけ話して、一円も、受け取らなかったのです。

「残りの人生に、使いなさい」

そう言って、私を、送り出しました。

その言葉が、かえって、重く、のしかかりました。

※

帰宅して、夫と、息子に、話しました。

信じてはいないけど、と前置きして。

「私が、もし、いなくなったら、あなたたちが、心配で」

そう、言いかけると。

夫も、息子も、こう、言ってくれました。

「それは、僕たちが、乗り越えること」

「母さんは、心配しないで、残りを、好きに使っていいよ」

その優しさが、ありがたくて、少し、泣きました。

けれど、夜になると、不安が、押し寄せました。

息子が、成人するまで。

その言葉を、何度も、頭の中で、繰り返しました。

あと、数年。

それは、息子の、自立の時期と、ちょうど、重なっていました。

役目を、終えたら、連れていく。

そう、言われているようで、ぞっとしました。

※

後日、私は、ある古い神社へ、相談に、行きました。

事情を話すと、神主さんは、しばらく、黙り込みました。

そして、こう、言いました。

「申し訳ないが、これは、できる限り、障りたくないものです」

「こちらの、命も、危ないので」

私は、思わず、聞き返しました。

「あの、いったい、どんなものが、憑いていると?」

神主さんは、言葉を、選ぶように、答えました。

「……地の底の、神です」

「あなたの、左手を、握っています」

「日本の、神では、ありませんね」

回避の方法は、ない、と言われました。

※

私は、神主さんに、正直に、言いました。

「でも私は、基本的に、こういうことを、信じていないんです」

「私には、見えませんから」

すると、神主さんは、こう、返しました。

「その、強い気持ちも、大切ですよ」

「なんで、私なんでしょう」

思わず、こぼした問いに、神主さんは、薄く、笑いました。

「人と、同じですよ。好み、なんです」

「昔から、言うでしょう。神に愛されると、長生きできない、と」

「あれと、同じことです」

私は、もう、若くもないのに、と思いました。

その心を、見透かしたように、神主さんは、言いました。

「寿命から見れば、あなたは、まだ、じゅうぶん、若い」

※

それからの私は、毎日、土地の神に、手を合わせています。

実家の、お社にも、近所の、古い神社にも。

けれど、最近、妙なことに、気づきました。

右の肩が、いつも、重いのです。

湿布を貼っても、もんでもらっても、その重みは、取れません。

整形外科でも、異常は、見つかりませんでした。

ただ、医師に、診てもらっているあいだも。

その手は、確かに、私の肩に、置かれたままでした。

何かが、そっと、手を、置いているように。

それに、もともと、夢など、めったに見ないのに。

このごろ、毎晩のように、同じ夢を、見るのです。

※

夢の中で、私は、どこかの、広い屋敷にいます。

古い、洋館のような、場所です。

窓の外は、いつも、夕暮れです。

けれど、その夕暮れは、いつまでも、夜に、なりません。

ずっと、同じ、赤い光が、差し込んでいます。

時間が、止まっているような、場所です。

床は、冷たい石で、足音が、よく響きます。

壁には、見覚えのない文字が、刻まれています。

あの、地下の礼拝堂で見た、あの文字と、同じものです。

私は、そこで、チェロを、弾いています。

動かないはずの、左手が、なめらかに、弦の上を、走ります。

指の先まで、音が、満ちていきます。

こんなに、気持ちのいいことは、ありません。

ずっと、ここに、いたい。

夢の中で、私は、いつも、そう、思うのです。

すると、背後から、声が、します。

「ずっと、いても、いいんだよ」

低い、優しい声です。

そして、右の肩に、そっと、手が、置かれます。

その、ひやりとした感触で、私は、目を、覚まします。

目を覚ますと、しばらく、自分が、どこにいるのか、分かりません。

左手を、開いたり、閉じたりして、何度も、確かめます。

やはり、指は、思うように、動きません。

夢の中の、あの、自由な感覚が、まだ、残っているのです。

それが、たまらなく、せつなくて。

同時に、たまらなく、恐ろしいのです。

なぜなら、その夢は、年々、長く、なっているからです。

最初は、ほんの、数小節でした。

それが、今では、一曲を、まるごと、弾き終えるまでに、なりました。

弾き終えたとき、私を、迎えに来るものが、いる気が、するのです。

※

いつか、このまま、目を、覚まさなくなるのでしょうか。

夢の中で、チェロを、弾き続けたまま。

信じていない、と、言い切りたい。

けれど、まったくの、他人に、二人も、同じことを言われると。

さすがに、少し、怖く、なります。

それでも、私は、淡々と、毎日を、過ごしています。

あと数年と、言われたところで、できることは、変わりません。

目の前のことを、ひとつずつ、やっていく。

それしか、ないのです。

ただ、夜が、来るのが、少しだけ、こわくなりました。

眠れば、また、あの屋敷へ、行ってしまう。

そして、いつか、目が覚めないかもしれない。

そう思うと、いつのまにか、夜更かしを、するように、なりました。

皮肉なことに、寝不足の体には、肩の重みが、いっそう、こたえます。

※

ここからは、その後の、報告です。

占い師に告げられた、その「数年」を、私は、無事に、越えました。

そして、自分でも、驚いたことに。

成人を迎える上の息子の、下に、もうひとり、男の子が、生まれました。

高齢の出産でしたが、安産でした。

いま、三か月の、その子は、健康そのものです。

妊娠が、分かったとき、私は、誰よりも、驚きました。

この歳で、と、半ば、信じられませんでした。

医師も、奇跡のようだ、と言いました。

つわりも、ほとんど、ありませんでした。

まるで、何かが、この子の誕生を、許したかのように。

あるいは、私を、もう少し、この世に、留めるために。

そんなことを、考えてしまう自分が、います。

右の肩は、相変わらず、重いままです。

左手も、動かないままです。

赤ん坊を抱くのにも、少し、苦労します。

それでも、私は、生きています。

※

あの神主さんに、出産を、報告しました。

すると、神主さんは、こう、言いました。

「寿命が、延びましたね」

私は、その意味を、尋ねました。

「母親というのは、強いんです」

「子どもが、小さいほど、その力は、強くなる」

「病気や事故は、どうにもなりませんが」

「この手のものは、たいてい、はじいてしまいますよ」

もうひとり、守るべき子が、できたから。

「成人するまで」の、期限が、延びたのでしょうか。

そこまでは、聞きませんでした。

聞くのが、こわかったのかもしれません。

答えによっては、また、あの、肩の重みを、思い出してしまうから。

ただ、神主さんは、別れ際に、こう、付け加えました。

「その子を、大切にしなさい」

「その子が、あなたの、いちばんの、守りです」

私は、深く、頭を下げて、社を、後にしました。

※

夢は、今も、見続けています。

けれど、赤ん坊の、夜泣きで、中断されることが、増えました。

屋敷で、チェロを弾く私の、すぐそばで、夢が、ぷつりと、途切れる。

そのたびに、背後で、舌打ちのような音が、聞こえる気が、します。

気のせいだと、思いたい。

夢に、意味なんて、ないのだと、思いたい。

けれど、夢の中の私の左手は、いまだに、衰えていません。

現実では、とうに、動かなくなったはずなのに。

夢の中だけは、あの頃のまま、なめらかに、弦を、押さえるのです。

ある晩、夢の中で、私は、ふと、手を、止めました。

屋敷の、奥の、暗がりに、人影が、立っていたのです。

顔は、見えません。

ただ、こちらへ、ゆっくりと、手を、差し伸べていました。

「もう、痛くないところへ、行こう」

そう、聞こえました。

私が、立ち上がりかけた、その瞬間でした。

現実の、赤ん坊の泣き声が、夢を、引き裂きました。

目を覚ますと、私は、汗びっしょりでした。

そして、隣で泣く我が子を、夢中で、抱きしめました。

助かった。

理屈ぬきに、そう、感じました。

我が子の、あたたかさが、私を、現実に、つなぎとめてくれた。

その小さな命が、あの暗がりの手から、私を、引き戻してくれたのです。

母とは、子を守るものだと、よく言います。

けれど、本当は、子が、母を、守ってくれることも、あるのだと、私は、知りました。

※

私は、もう、来年に、死ぬ気は、しません。

この子が、歩き、笑い、言葉を、覚えるのを、見届けたい。

その思いだけが、あの、肩の重みに、対抗できる、唯一の力なのだと、思います。

それでも、ふとした瞬間に、思うのです。

あの夢の中の、屋敷は、いったい、どこなのだろう、と。

霧の深い、あの北の街の、地下の礼拝堂に、よく似ている気が、します。

私は、あのとき、何かと、約束を、してしまったのでしょうか。

覚えのない、約束を。

あの礼拝堂で、見つめられていると感じた、あのとき。

私は、知らないうちに、何かに、見初められて、しまったのかもしれません。

神に愛される、というのは、こういうことなのでしょうか。

もし、そうなら。

私は、その愛を、丁重に、お断りしたい。

まだ、こちらの岸で、やるべきことが、たくさん、ありますから。

母とは、強いものだと、神主さんは、言いました。

私は、その言葉を、お守りのように、抱いて、生きています。

いつか、肩の手が、もう、離さないと、決めた日まで。

それまでは、何度でも、夜泣きで、目を、覚ましてやろうと、思います。

この子の泣き声は、私にとって、いちばんの、子守唄なのかもしれません。

目を覚ましていられる限り、私は、あの屋敷へは、行きません。

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