鵜ノ首の網蔵に籠るもの

月夜の海辺の村

これは昭和五十二年の夏、私が二十四の時に鵜ノ首の浦で過ごしたひと月の話。

都会の勤めを途中で投げ出して、私は行き場をなくしていた。

母は私を持て余し、半島の先にいる親戚を頼れと言った。

勤めを辞めた理由を、私は自分でもうまく言えなかった。

ただ、毎朝、満員の電車に体を入れることが、少しずつできなくなっていった。

気づけば私は、どこにも要らない人間のような顔で、下宿の天井ばかり見上げていた。

鵜ノ首の浦。

地図の端で、海に細く突き出した岬の根もとにある、小さな漁村だった。

バスを降りてからは、潮で錆びた手すりの坂を、半時間ほど下る。

坂の途中で、もう波の匂いが喉の奥まで届いた。

浦には家が二十軒ばかり。

どれも板壁を潮風で灰色に焼かれ、瓦の代わりに石を載せた屋根が、低く身を寄せ合っていた。

昔は鰯がよく獲れて、浦には網元の蔵がいくつも並んでいたのだと、バスの運転手が言っていた。

今は若い者がみな町へ出て、残っているのは年寄りばかりだという。

坂を下りきると、潮の引いた浜に、傾いだ番屋と、朽ちかけた桟橋が見えた。

人の姿は、ほとんどなかった。

私が世話になるのは、母の伯母にあたるフミという人の家だった。

フミ婆さんは、浦でいちばん古い家を、一人で守っていた。

背は私の肩ほどしかないのに、土間に立つと、家全体がその背中に支えられているように見えた。

「よう来たのう、美津子」

低い、湿った声だった。

「都会は、お前を要らんと言うたか」

返す言葉がなくて、私はただ頭を下げた。

フミ婆さんは、それ以上は何も訊かなかった。

家は、浜に背を向けて建っていた。

正面の障子を開けると、すぐ目の前が砂利の庭で、その先に一棟の蔵がある。

板を黒く塗り固めた、窓のない蔵だった。

「あれは網蔵じゃ」

フミ婆さんは、私の視線を追って言った。

「網と、古い道具をしまうとる。お前は近づかんでええ」

浜の蔵だというのに、その戸からは、潮の匂いがしなかった。

代わりに、乾いた線香のような匂いが、戸の隙間から細く流れていた。

フミ婆さんの家は、土間の奥に板の間があり、煤けた梁が低く渡されていた。

奥の仏間には、古い位牌がいくつも並び、線香の匂いが家じゅうに沁みついていた。

その晩の膳には、私の知らない小魚の干物と、味噌の汁が出た。

「浦のもんは、これで足りる」

フミ婆さんはそう言って、自分はほとんど箸をつけなかった。

食べているあいだ、婆さんは時おり、庭の網蔵のほうへ目をやった。

何かの気配を確かめるような、慣れた目の動きだった。

その日の夕方、私は庭の縁に腰を下ろして、海を見ていた。

入り江の沖に、笠を伏せたような小さな岩礁が、一つだけ浮かんでいる。

干潮で、岩の根もとが、黒く濡れて露れていた。

沖の離れ岩には、その形から、誰かが付けたらしい名があった。

けれどフミ婆さんは、その名を、決して口にしなかった。

浜で網を繕っていた年寄りが、ふいに手を止め、その岩を拝むように頭を下げた。

それから私のほうを見て、何も言わずに目をそらした。

妙な浦だと思った。

ただ、その時はまだ、それだけのことだった。

寝る前に、フミ婆さんは一つだけ、私に言いつけをした。

「夜中に、網蔵のほうで音がしても、起きて見に行くな」

「戸を開けるのも、声をかけるのも、いけん」

「ただ、布団のなかで、寝とればええ」

私は意味も分からぬまま、はい、と答えた。

婆さんは満足そうにうなずいて、奥の仏間へ消えていった。

夜、私に与えられたのは、庭に面した三畳の部屋だった。

布団に入ると、波の音に混じって、もう一つ別の音が聞こえた。

網蔵のほうから、何かが低くこすれるような音。

濡れた網を、ゆっくり引きずるような音だった。

潮が満ちて、流木でも軒に当たっているのだろう。

そう思おうとしたが、その晩は、風がまるでなかった。

襖を、私はきつく閉め直した。

それでも、襖の向こうの闇に向かって、しばらく耳を澄ましていた。

波は、満ちては引き、引いては満ちた。

その繰り返しのなかに、あの低い音は、確かに混じっていた。

婆さんの言いつけを思い出し、私は布団のなかで、ただ目を閉じていた。

いつのまにか、私は眠っていた。

鵜ノ首の浦の朝は、潮の引く音で明ける。

三日目の朝、私は庭の砂利に、妙なものを見つけた。

網蔵の戸口から、家の縁の下へ向かって、濡れた跡が点々と続いていた。

指先で触れると、細い海藻が一本、絡んできた。

浜から誰かが網を運んだのだろうと、はじめは思った。

だが、その跡は、浜のほうからは来ていなかった。

窓のない網蔵の、固く閉じた戸の内側から、始まっていた。

私はそのことを、フミ婆さんに言わなかった。

言えば、自分がこの家に長く居られなくなる気がした。

鵜ノ首の浦には、よそ者には聞かせない怖い話が、いくつもあるらしかった。

浦に来て幾日か、私はフミ婆さんの一日の決まりごとを、少しずつ覚えていった。

婆さんは毎朝、網蔵の戸口に、ひとつまみの塩を盛った。

夕方には、それを下げて、新しい塩に替えた。

雨の日も、風の強い日も、それを欠かすことはなかった。

「これを切らすと、戸が緩む」

一度だけ、婆さんはそう言った。

戸が緩む、という言い方が、私の胸に、小さな棘のように残った。

四日目の夜明け前、私は喉が渇いて目を覚ました。

台所へ行こうと廊下に出ると、庭に面した障子が、うっすらと明るい。

隙間から覗くと、フミ婆さんが、網蔵の戸の前に立っていた。

手に小さな灯りを提げ、戸に向かって、何かを低く唱えている。

お経のようでもあり、子をあやす声のようでもあった。

ときどき、戸の内側から、それに応えるような軋みが返った。

フミ婆さんは、一度だけ、頭を深く下げた。

まるで、戸の向こうにいる誰かへ、挨拶をするように。

私は息を詰めて、そっとその場を離れた。

五日目、私は手桶を提げて、浦の共同井戸へ水を汲みに行った。

年寄りの女が三人、釣瓶のそばで何か話していた。

私が近づくと、話し声が、ぴたりとやんだ。

「フミさんとこの、都会の娘さんか」

いちばん年かさの女が、しわの寄った目で私を見た。

「はい。お世話になっています」

「あの家はなあ……」

言いかけて、女は口をつぐみ、ほかの二人と顔を見合わせた。

「いや、なんでもない。早う、町へ帰りんさい」

それだけ言うと、三人は手桶を抱えて、足早に去っていった。

井戸の水は、なぜか、かすかに潮の味がした。

翌日、浜で網を繕う年寄りに、私は思いきって尋ねた。

「あの蔵には、何が入っているんですか」

年寄りは、繕う手を止めなかった。

「お前さん、フミさんの縁の者か」

「はい」

「なら、近づかんことじゃ」

「どうしてですか」

「あすこにゃ、浦のずっと古いもんが籠っとる」

年寄りはそこで初めて顔を上げ、沖の離れ岩を、顎で指した。

「昔、あの岩から上がったものよ。名ぁを呼んだら、呼んだ者が連れていかれる」

「連れて……どこへ」

「向こうじゃ」

年寄りはそれきり口を閉じ、また網に目を落とした。

潮の引いた浜に、繕い針の擦れる音だけが、残った。

別の日、その年寄りは、もう少しだけ話してくれた。

「昔、よその学者が来てな、蔵を開けて、写真を撮ろうとした」

「その晩から、男は浦の言葉で寝言を言うようになって、三日して、ふらりと坂を上っていった」

「それきり、戻らんかった」

年寄りは、それ以上は語らなかった。

その日の午後、私は浦のはずれの、古い寺に寄った。

半ば朽ちた堂の脇に、苔むした石が、いくつか並んでいた。

浦の者の名を彫った、供養の石だった。

いちばん古い一基には、年号と、ただ「沖ヨリ還ル」とだけ刻まれていた。

供養石の前には、腰の曲がった老婆が一人、しゃがんでいた。

枯れた花を替え、何かを低く唱えている。

私が会釈すると、老婆は皺だらけの顔を上げた。

「沖から、還ってきたんよ」

問わず語りに、老婆はそう言った。

「昔、大きな時化のあった年に、離れ岩のほうから、ぬるりと這い上がってきたものがあってな」

「浦の網元が、それを家に留めて、二度と外へ出さんように祀った」

「名を聞いた者が、連れていかれるけえ、誰も口にせん」

老婆はそれだけ言うと、また供養石に向き直り、私のことは忘れたように手を合わせた。

帰り道、私は沖の離れ岩を、もう一度見た。

潮が満ちて、岩はその根もとまで、黒い水に沈んでいた。

その夜、私は妙な夢を見た。

満ち潮の浜に、私は一人で立っている。

沖の離れ岩から、黒い水が、こちらへ向かって、ゆっくり伸びてくる。

逃げようとしても、足が砂に埋もれて、動かない。

目が覚めると、布団の襟が、汗でぐっしょりと濡れていた。

枕元では、網蔵の唸りが、いつもより低く、長く尾を引いていた。

翌朝、庭の隅に、見慣れない浮きが一つ、転がっていた。

硝子の、古い玉浮きだった。

フミ婆さんに尋ねると、婆さんは一目見るなり、すぐに拾い上げ、袂に隠した。

「これは、こっちのもんじゃ」

そう言ったきり、何も説明しなかった。

昼の浦は、嘘のように静かだった。

子どもの姿は、ほとんど見かけなかった。

たまに浜で遊ぶ子らも、沖の離れ岩のほうへは、決して近づかなかった。

親たちにそう言いつけられているのだと、井戸端の女が、後で教えてくれた。

フミ婆さんは、無口な人だった。

けれど、夕餉のあとに、ときどき昔の浦の話をしてくれた。

鰯の群れで、海がひと晩じゅう銀色に光った年のこと。

嫁いできた日に、姑からこの家の決まりごとを教わったこと。

網蔵のことだけは、その話のなかに、一度も出てこなかった。

私が水を向けても、婆さんは、ただ静かに首を振るだけだった。

網蔵の音は、夜ごとに増えていった。

一つだった擦れる音が、二つになり、三つになった。

満ち潮の晩には、低い唸りが、家の梁を伝って、私の枕元まで届いた。

風のない晩でも、それは、変わらず聞こえた。

私は、この浦で起きていることが、少しずつ分からなくなっていった。

七日目の晩、夕餉を終えると、フミ婆さんが私の前に座った。

膝に両手を置き、しばらく私を見ていた。

「美津子」

「はい」

「お前を、ここへ呼んだのは、わしじゃ」

「……はい」

「見せておくものがある」

フミ婆さんの手には、いつの間にか、古い提灯が二つ握られていた。

一つを私に持たせ、土間の草履をつっかけて、庭へ出た。

網蔵の黒い戸の前に立つと、婆さんは帯の間から鍵を抜いた。

「ゴ、ズー」

重い音とともに、戸が横へ滑った。

中は、墨を流したような闇だった。

線香の匂いに混じって、満ち潮の、生臭い潮の匂いが押し寄せてきた。

窓のない蔵に、海の匂い。

私の足は、一歩を踏み出すのに、ずいぶん時間がかかった。

蔵の中は、繕われた網と、古い樽が積まれているだけだった。

フミ婆さんは奥へ進み、積まれた樽の陰の、低い梁を、提灯で照らした。

梁の上に、人がやっと這い上がれるほどの、板の口が開いていた。

「上じゃ」

婆さんは私の手を引いて、先に自分が上がった。

私が続いて梁裏の闇に身を入れた瞬間、潮の匂いが、倍になった。

息を吸うと、口の中が、海の底のように塩辛くなった。

梁裏は、築百年を超える家の骨が剥き出しになった、低い空間だった。

提灯のわずかな揺れに、剥き出しの梁が、肋骨のように浮かんでは消えた。

埃の匂いはせず、ただ、満ちた海の匂いだけが、そこを満たしていた。

提灯の輪を巡らせると、その端に、ぬめりと光るものが見えた。

小さな祠だった。

板は黒く濡れ、注連縄が潮を吸って垂れている。

神棚のようでいて、どこか造りが違う。

祠の扉は、家の奥ではなく、海のほうへ開いていた。

「あれが、夜ごとの音の元じゃ」

フミ婆さんが、祠に灯りを向けた。

その時、婆さんの顔が、ふいにこわばった。

私から提灯を二つとも奪うと、火を吹き消した。

梁裏は、完全な闇に落ちた。

「フミ婆さん……」

「黙っとれ」

低い、刃のような声だった。

「今から戸口まで下がる。それまで、息を止めえ」

「息を、止める……?」

「ええけえ。あれから、目を離すな」

闇に目が慣れてくると、祠の輪郭だけが、わずかに浮かんで見えた。

私が大きく息を吸い込んだ、そのすぐあとだった。

祠の扉の隙間から、墨よりも黒いものが、ぬるりと滲み出した。

それは、ゆっくりと、人の形に伸び上がった。

潮に濡れた、海藻のような髪を、長く垂らしていた。

左右に揺れ、ふいに崩れて、四つ這いになり、蟹のように横へ動いた。

潮の匂いが、そのものの動きに合わせて、濃くなったり薄くなったりした。

まるで、それが、ゆっくりと呼吸をしているようだった。

動くたびに、梁裏の闇に、ぴた、ぴた、と濡れた音が響いた。

私は息を止めたまま、それから目を離せなかった。

フミ婆さんが、私の袖を、そっと引いた。

私たちは、足音を忍ばせて、板の口まで後ずさった。

幸い、それは、すぐ近くにいる私たちに、気づいていないようだった。

息を止めさせたのは、気づかれないためだったのだと、後で分かった。

板の口から下りる間も、私はそれから、目をそらせなかった。

それが揺れるたび、梁裏で、濡れた足音が鳴り続けていた。

庭に足が着いた瞬間、私は提灯を投げ出して、家へ駆け込んだ。

居間に駆け込んで、私は電灯をつけ、ラジオの音を大きくした。

さっきまでの梁裏が、別の世界の出来事のように、遠かった。

やがてフミ婆さんが、何事もなかったように入ってきた。

「見たか」

「……はい」

「あれはな、浦のずっと昔の、縁の者よ」

婆さんは、湯呑みを両手で包んで、ぽつりと言った。

「沖の離れ岩から還ってきて、この家からは出られん。あの黒い戸も、注連縄も、内に留めておくための結界じゃ」

「名前は……」

「言うてはいけん」

婆さんは、静かに首を振った。

「名を聞いた者に、憑く。それだけは、覚えておけ」

「……でも、フミ婆さんは、その名を、知っているんでしょう」

「知っとる」

「それで、どうして平気なんですか」

「秘密じゃ」

婆さんはそれきり笑って、何も教えてくれなかった。

翌朝、私はまた、庭の縁に座っていた。

昨夜のことは、夢だったのではないか。

この家に、あんなものがあるはずがない。

そう思おうとしていたところに、フミ婆さんがやって来て、私の向かいに腰を下ろした。

「おはよう、美津子」

「……おはようございます」

婆さんは、両膝に手を置いて、私をまっすぐに見た。

そして、低い声で、ひと言、何かを唱えた。

私の知らない、聞いたことのない響きだった。

けれど、私の体は、その意味を、一瞬で悟っていた。

あれの、名だった。

背筋を、潮の冷たさが、這い上がった。

「フミ婆さん、今、何を……」

「案じるな」

婆さんは、穏やかに笑った。

「あれは、この家からは出られん。お前が、この浦を離れさえすればええ」

私がその週のうちに荷物をまとめ、坂を上って都会へ戻ったことは、言うまでもない。

浦を出るとき、フミ婆さんは、坂の下まで送りに来てくれた。

「もう、来んでええ」

そう言って、婆さんは、小さく手を振った。

その手が、思いのほか温かかったことを、私は今も覚えている。

後日談。

フミ婆さんは、それから二年の後に、静かに向こうへ渡った。

浦から届いた報せに、私はしばらく、坂の上の停留所に立ち尽くした。

気は進まなかったが、義理を欠くわけにもいかず、私は鵜ノ首の浦へ戻った。

網蔵の黒い戸は、固く閉じられたままだった。

潮の匂いも、夜ごとの音も、もう何もしなかった。

私には、何も憑いてはいなかった。

都会へ戻った私は、やがて小さな勤めを見つけ、人並みの暮らしに戻った。

あの浦のことを、私は、これまで誰にも話したことがない。

今でも、あの名が何だったのか、私には分からない。

ただ、近ごろになって、ふと思うことがある。

あの婆さんは、私を浦から追い出すために、わざと、あの名を口にしたのではないか。

要る者か、そうでない者しか残らない浦に、私を縛りつけないために。

呪いの形を借りた、いちばん不器用なやさしさだったのではないか、と。

確かめる術は、もう、どこにもない。

近ごろ、海辺の町を旅することがある。

潮の満ちる時刻になると、私はいつも、ふと足が止まる。

波の音の奥に、あの低い唸りが混じっていないかと、つい耳を澄ましてしまう。

ただ、潮の匂いを嗅ぐたびに、私はあの低い声を思い出す。

案じるな、と。

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