ゆかりちゃん

その子の名前を、僕は、いまでも、はっきりと覚えている。

ゆかり、といった。

ゆかりちゃんが、僕たちのクラスに転校してきたのは、高校一年の、秋のことだった。

線の細い、色の白い子だった。

いつも、教室のいちばん後ろの、窓際の席に、ぽつんと座っていた。

あまり、しゃべらない子だった。

休み時間も、一人で、窓の外を、眺めていることが多かった。

その横顔は、どこか、寂しげで、それでいて、不思議と、澄んでいた。

ゆかりちゃんは、いつも、制服の胸に、小さなお守り袋を、つけていた。

色の褪せた、古い、手作りのお守りだった。

一度だけ、ゆかりちゃんと、二人で、話したことがある。

放課後の、誰もいなくなった、教室でのことだった。

僕が、忘れ物を取りに戻ると、彼女は、まだ、窓際の席に、座っていた。

夕日が、彼女の白い頬を、赤く、染めていた。

「まだ、帰らないの?」と、僕は、声をかけた。

「うん。ここ、落ち着くから」と、ゆかりちゃんは、微笑んだ。

「家に帰っても、誰も、待ってないし」

その言葉が、寂しくて、僕は、何も、言えなかった。

「でもね」と、彼女は、続けた。

「ここにいると、みんなの声が、聞こえるの。それが、嬉しいの」

僕は、その意味を、深く、考えなかった。

いま思えば、あれは、生きている人間の、言葉では、なかった。

その帰り道、僕は、ゆかりちゃんと、途中まで、一緒に、歩いた。

商店街を抜けて、川沿いの道に出ると、彼女は、立ち止まった。

「わたし、こっちだから」と、彼女は、橋のほうを、指さした。

「送ろうか」と、僕は、言った。

「ううん、大丈夫」と、彼女は、首を振った。

「あのね、今日、話せて、嬉しかった。本当に」

そう言って、彼女は、ぺこりと、頭を下げた。

夕暮れの中、その小さな後ろ姿が、橋を、渡っていった。

橋の真ん中あたりで、彼女は、一度、振り返って、手を振った。

そして、その姿は、夕日の中に、溶けるように、見えなくなった。

あの橋の先に、人家は、一軒も、なかったことを、僕は、ずっとあとで、知った。

ゆかりちゃんの事情は、すぐに、噂で広まった。

彼女は、小学生のころ、両親を、事故で、亡くしていた。

いまは、遠い親戚の家に、引き取られて、暮らしているのだという。

あのお守りは、亡くなった、お母さんの、形見らしかった。

「お母さんが、亡くなる前に、くれたんだって」と、誰かが言った。

「本当に困ったときだけ、開けなさい、って」

だからゆかりちゃんは、一度も、それを、開けたことが、ないらしい。

僕は、その話を聞いて、胸が、締めつけられた。

だから、僕は、なるべく、ゆかりちゃんに、優しくしようと、思った。

プリントを配るとき、忘れずに、彼女の机にも、置いた。

班分けで、一人になりそうなとき、さりげなく、声をかけた。

そのたびに、彼女は、少し驚いた顔をして、それから、嬉しそうに、笑った。

「ありがとう」と、彼女は、いつも、小さな声で言った。

その声を聞くと、なぜか、こちらまで、胸が、温かくなった。

クラスの皆も、彼女のことを、嫌っては、いなかった。

ただ、どこか、遠巻きに、していた。

理由は、誰にも、説明できなかった。

ただ、本能的に、近づいては、いけない気が、したのだ。

いま思えば、ゆかりちゃんには、おかしなところが、いくつか、あった。

一つ目は、彼女の手が、いつも、氷のように、冷たかったことだ。

一度、彼女が落とした消しゴムを、拾って手渡したとき、指先が触れた。

真夏なのに、その手は、ぞっとするほど、冷たかった。

まるで、何時間も、冷たい水に、浸していたような。

いや、それよりも、もっと、深い冷たさだった。

血の通っていない者の、冷たさ。

当時の僕は、もちろん、そんなことは、思いもしなかった。

「ありがとう」と、ゆかりちゃんは、小さく微笑んだ。

その笑顔は、きれいだった。

だが、なぜか、僕は、背筋が、寒くなった。

二つ目は、写真の、ことだった。

文化祭のとき、クラスで、集合写真を撮った。

後日、配られた写真を見て、僕は、首をかしげた。

ゆかりちゃんの姿が、どこにも、写っていなかったのだ。

確かに、彼女は、いちばん後ろの列に、立っていた。

なのに、その場所だけが、ぼんやりと、白く、霞んでいた。

「カメラの、不具合だろ」と、友達は言った。

だが、他の部分は、はっきりと、写っていた。

三つ目は、彼女の、後ろの席だった。

ゆかりちゃんの、後ろの席は、いつも、空いていた。

クラスの誰も、そこに、座りたがらなかった。

理由を聞くと、皆、口をにごした。

「なんか……寒いんだよ。あの席」

「後ろから、見られてる気が、するんだ」

そんなふうに、言うのだった。

僕は、それを、ただの、気のせいだと、思っていた。

いや、本当は、気づいていたのかもしれない。

気づかないふりを、していただけ、なのかもしれない。

だって、彼女の周りだけ、いつも、空気が、ひんやりしていた。

窓を、閉めきった、真夏の教室でも。

彼女が、廊下を歩くと、なぜか、足音が、しなかった。

上履きの、きゅっという音が、彼女にだけ、なかった。

そういう、小さな違和感を、僕たちは、見て見ぬふりを、していた。

きっと、認めるのが、怖かったのだ。

あんなに優しいあの子が、もう、この世にいないなんて。

四つ目は、雨の日の、ことだった。

下校のとき、激しい雨が、降っていた。

傘を忘れた僕は、昇降口で、雨宿りをしていた。

そこへ、ゆかりちゃんが、傘もささずに、外へ、出ていった。

「濡れるよ!」と、僕は、声をかけた。

だが、おかしなことに、彼女の体だけ、雨に、濡れていなかった。

制服も、髪も、乾いたままだった。

雨粒が、彼女の体を、すり抜けているように、見えた。

僕は、目を、こすった。

次に見たとき、彼女の姿は、雨の中に、もう、なかった。

問題が、起きたのは、冬の、ある日のことだった。

クラスに、少し、乱暴な男子がいた。

名前は、北原、といった。

その北原が、ある日、ゆかりちゃんの、お守りに、目をつけた。

「おい、お前、いつもそれ、つけてるよな」と、北原は言った。

「中身、なんなんだよ。見せろよ」

ゆかりちゃんは、青ざめて、首を、横に振った。

「これは、だめ。大切なものだから」

小さな、けれど、はっきりとした声だった。

だが、北原は、引き下がらなかった。

面白がって、ゆかりちゃんの胸から、お守りを、奪い取ろうとした。

「やめて!」と、ゆかりちゃんが、叫んだ。

教室の空気が、一瞬で、凍りついた。

それは、彼女が、初めて、声を、荒らげた瞬間だった。

だが、北原は、ニヤニヤしながら、お守りを、高く、掲げた。

そして、皆の見ている前で、その紐を、ほどき始めた。

「やめて、お願い。それだけは、開けないで」

ゆかりちゃんの声は、震えていた。

その目には、見たことのない、深い、恐れが、浮かんでいた。

いま思えば、彼女が、恐れていたのは、北原では、なかった。

お守りが、開かれること。

その、ただ一つを、彼女は、恐れていたのだ。

おそらく、開けてしまえば、終わりだと、どこかで、知っていた。

自分が、ここに、いられなくなることを。

教室の空気が、急に、重く、なった。

窓ガラスが、かたかたと、小さく、震え始めた。

蛍光灯が、一瞬、ちかちかと、明滅した。

皆が、異変に、気づき始めていた。

だが、誰も、動けなかった。

僕は、止めようとした。

「やめろ、北原!」と、僕は、叫んだ。

彼の腕に、手を、伸ばした。

だが、間に合わなかった。

北原の指が、お守り袋の、口を、開いた。

中から、出てきたのは、小さく、折りたたまれた、一枚の手紙だった。

その紙は、ひどく、古びていた。

何度も、何度も、読み返されたような、柔らかさだった。

だが、ゆかりちゃんは、一度も、開けていないはずだった。

では、この、手垢のような、折り目は、誰がつけたのか。

考える間も、なかった。

古い、黄ばんだ、紙だった。

「なんだ、ただの、手紙かよ」と、北原は、拍子抜けした顔をした。

教室の皆が、固唾を呑んで、見守っていた。

きっと、お母さんからの、優しい言葉が、書かれているのだろう。

誰もが、そう、思っていた。

北原は、その手紙を、広げて、声に出して、読み始めた。

「この手紙を、読んでいる、あなたへ……」

北原の声が、教室に、響いた。

はじめは、ふざけた、調子だった。

だが、読み進めるうちに、その声から、笑いが、消えていった。

教室は、しんと、静まり返っていた。

窓の外で、木枯らしが、ひゅう、と鳴った。

だが、数行、読んだところで、北原の声が、止まった。

その顔から、みるみる、血の気が、引いていった。

「おい……どうした」と、誰かが、聞いた。

北原は、答えなかった。

ただ、手紙を持つ手を、震わせて、立ち尽くしていた。

僕は、その手紙を、横から、覗き込んだ。

そこには、丁寧な、女性の字で、こう、書かれていた。

『この手紙を読んでいる、あなたへ。』

『突然のお願いを、許してください。』

『私の娘の、ゆかりは。』

『五年前のあの事故で、私と一緒に、天国へ、まいりました。』

『あの子は、まだ、自分が、逝ったことに、気づいていません。』

『どうか、お願いです。』

『あの子が、まだ皆さんのそばに、いるように見えても。』

『そっと、見守って、あげてください。』

僕は、はっと、顔を、上げた。

ゆかりちゃんの席を、見た。

そこには、もう、誰も、いなかった。

窓際の、いちばん後ろの席が、ただ、ぽつんと、空いていた。

机の上に、あのお守り袋だけが、ぽつり、と、残されていた。

僕は、震える手で、それを、拾い上げた。

袋の中は、もう、空っぽだった。

あの手紙さえ、いつのまにか、消えていた。

手のひらに残ったのは、かすかな、線香のような、匂いだけだった。

その匂いを、僕は、生涯、忘れないだろう。

開け放たれた窓から、冷たい風が、吹き込んでいた。

カーテンが、ゆっくりと、揺れていた。

教室の誰もが、言葉を、失っていた。

何人かの女子が、小さく、悲鳴を、上げた。

北原は、手紙を、握りしめたまま、その場に、座り込んでしまった。

「俺……俺、知らなかったんだよ」と、彼は、うわごとのように、繰り返した。

誰も、彼を、責めなかった。

責める気力も、湧かないほど、皆、呆然としていた。

あの瞬間まで、確かに、僕たちは、ゆかりちゃんと、過ごしていた。

一緒に、笑い、給食を食べ、掃除を、していた。

その記憶だけは、嘘では、なかった。

なのに、彼女は、最初から、どこにも、いなかったのだ。

あとで、調べてみて、分かったことがある。

五年前、確かに、ゆかり、という名の少女が、両親と共に、事故で、亡くなっていた。

それは、僕たちが、彼女と出会う、ずっと前のことだった。

担任の先生に、聞いてみた。

だが、先生は、不思議そうな顔を、するばかりだった。

「ゆかり? そんな転校生、うちのクラスに、いたかな」

出席簿を、めくっても、彼女の名前は、どこにも、なかった。

親戚の家、と言われていた住所を、訪ねてみた。

そこは、何年も前から、空き家のままの、古い一軒家だった。

郵便受けには、埃をかぶった、五年前の新聞が、詰まっていた。

庭は、雑草に、覆われていた。

だが、玄関先に、一つだけ、不思議なものが、あった。

小さな、花瓶に挿された、白い花が、一輪。

枯れることなく、瑞々しいまま、そこに、咲いていた。

誰が、供えたのか。

あの家に、足を運んだのは、僕だけでは、なかったのかもしれない。

僕は、そっと、手を合わせて、その場を、後にした。

では、僕たちが、あの秋からずっと、一緒に過ごしてきた、あの子は。

窓の外を、寂しげに眺めていた、あの横顔は。

いったい、誰、だったのだろう。

あの日以来、北原は、人が変わったように、おとなしくなった。

彼は、卒業まで、毎日、あの窓際の席に、一輪の花を、供え続けた。

「せめて、これくらいは、させてくれ」と、彼は、ぽつりと言った。

乱暴だった北原が、誰よりも、彼女のことを、悼んでいた。

クラスの皆も、いつしか、その席を、避けなくなった。

むしろ、休み時間になると、誰かが、その席で、窓の外を、眺めるようになった。

ゆかりちゃんが、いつも、そうしていたように。

あれから、長い、年月が、過ぎた。

僕は、いまでも、時々、思い出す。

消しゴムを拾ったとき、触れた、あの冷たい指。

「ありがとう」と言った、あの、澄んだ笑顔。

あの子は、きっと、寂しかったのだと思う。

自分が、もう、この世にいないことも、知らずに。

ただ、誰かと一緒にいたくて、僕たちのそばに、座っていたのだ。

お母さんは、きっと、それを、知っていた。

娘が、まだ、この世を、さまよっていることを。

だから、あの手紙に、書いたのだ。

そっと、見守ってあげてください、と。

困ったときに開けなさい、と言われたお守りを、ゆかりちゃんが、一度も、開けなかった理由。

それは、開けてしまえば、自分が、消えてしまうと、心の奥で、わかっていたから。

彼女は、お別れの言葉を、できるだけ、先延ばしに、していたのだ。

僕たちと、もう少しだけ、一緒にいるために。

いまでも、母校の前を、通ることがある。

あの教室の窓を、見上げると、ふと、思うのだ。

いちばん後ろの、窓際の席に、誰かが、座っているような、気がして。

それが、寂しさなのか、優しさなのか、僕には、わからない。

ただ、一つだけ、確かなことがある。

あの秋からの数か月は、僕にとって、かけがえのない、時間だった。

たとえ、相手が、この世の者でなかったとしても。

誰かを想う気持ちに、生きている、死んでいるは、関係ないのだと思う。

ただ、もし、また会えるなら、今度は、最後まで、隣にいてあげたい。

だから、僕は、いまも、思っている。

あのお守りは、最後まで、開けないであげたかった、と。

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