その子の名前を、僕は、いまでも、はっきりと覚えている。
ゆかり、といった。
※
ゆかりちゃんが、僕たちのクラスに転校してきたのは、高校一年の、秋のことだった。
線の細い、色の白い子だった。
いつも、教室のいちばん後ろの、窓際の席に、ぽつんと座っていた。
あまり、しゃべらない子だった。
休み時間も、一人で、窓の外を、眺めていることが多かった。
その横顔は、どこか、寂しげで、それでいて、不思議と、澄んでいた。
ゆかりちゃんは、いつも、制服の胸に、小さなお守り袋を、つけていた。
色の褪せた、古い、手作りのお守りだった。
※
一度だけ、ゆかりちゃんと、二人で、話したことがある。
放課後の、誰もいなくなった、教室でのことだった。
僕が、忘れ物を取りに戻ると、彼女は、まだ、窓際の席に、座っていた。
夕日が、彼女の白い頬を、赤く、染めていた。
「まだ、帰らないの?」と、僕は、声をかけた。
「うん。ここ、落ち着くから」と、ゆかりちゃんは、微笑んだ。
「家に帰っても、誰も、待ってないし」
その言葉が、寂しくて、僕は、何も、言えなかった。
「でもね」と、彼女は、続けた。
「ここにいると、みんなの声が、聞こえるの。それが、嬉しいの」
僕は、その意味を、深く、考えなかった。
いま思えば、あれは、生きている人間の、言葉では、なかった。
その帰り道、僕は、ゆかりちゃんと、途中まで、一緒に、歩いた。
商店街を抜けて、川沿いの道に出ると、彼女は、立ち止まった。
「わたし、こっちだから」と、彼女は、橋のほうを、指さした。
「送ろうか」と、僕は、言った。
「ううん、大丈夫」と、彼女は、首を振った。
「あのね、今日、話せて、嬉しかった。本当に」
そう言って、彼女は、ぺこりと、頭を下げた。
夕暮れの中、その小さな後ろ姿が、橋を、渡っていった。
橋の真ん中あたりで、彼女は、一度、振り返って、手を振った。
そして、その姿は、夕日の中に、溶けるように、見えなくなった。
あの橋の先に、人家は、一軒も、なかったことを、僕は、ずっとあとで、知った。
※
ゆかりちゃんの事情は、すぐに、噂で広まった。
彼女は、小学生のころ、両親を、事故で、亡くしていた。
いまは、遠い親戚の家に、引き取られて、暮らしているのだという。
あのお守りは、亡くなった、お母さんの、形見らしかった。
「お母さんが、亡くなる前に、くれたんだって」と、誰かが言った。
「本当に困ったときだけ、開けなさい、って」
だからゆかりちゃんは、一度も、それを、開けたことが、ないらしい。
僕は、その話を聞いて、胸が、締めつけられた。
だから、僕は、なるべく、ゆかりちゃんに、優しくしようと、思った。
プリントを配るとき、忘れずに、彼女の机にも、置いた。
班分けで、一人になりそうなとき、さりげなく、声をかけた。
そのたびに、彼女は、少し驚いた顔をして、それから、嬉しそうに、笑った。
「ありがとう」と、彼女は、いつも、小さな声で言った。
その声を聞くと、なぜか、こちらまで、胸が、温かくなった。
クラスの皆も、彼女のことを、嫌っては、いなかった。
ただ、どこか、遠巻きに、していた。
理由は、誰にも、説明できなかった。
ただ、本能的に、近づいては、いけない気が、したのだ。
※
いま思えば、ゆかりちゃんには、おかしなところが、いくつか、あった。
一つ目は、彼女の手が、いつも、氷のように、冷たかったことだ。
一度、彼女が落とした消しゴムを、拾って手渡したとき、指先が触れた。
真夏なのに、その手は、ぞっとするほど、冷たかった。
まるで、何時間も、冷たい水に、浸していたような。
いや、それよりも、もっと、深い冷たさだった。
血の通っていない者の、冷たさ。
当時の僕は、もちろん、そんなことは、思いもしなかった。
「ありがとう」と、ゆかりちゃんは、小さく微笑んだ。
その笑顔は、きれいだった。
だが、なぜか、僕は、背筋が、寒くなった。
※
二つ目は、写真の、ことだった。
文化祭のとき、クラスで、集合写真を撮った。
後日、配られた写真を見て、僕は、首をかしげた。
ゆかりちゃんの姿が、どこにも、写っていなかったのだ。
確かに、彼女は、いちばん後ろの列に、立っていた。
なのに、その場所だけが、ぼんやりと、白く、霞んでいた。
「カメラの、不具合だろ」と、友達は言った。
だが、他の部分は、はっきりと、写っていた。
※
三つ目は、彼女の、後ろの席だった。
ゆかりちゃんの、後ろの席は、いつも、空いていた。
クラスの誰も、そこに、座りたがらなかった。
理由を聞くと、皆、口をにごした。
「なんか……寒いんだよ。あの席」
「後ろから、見られてる気が、するんだ」
そんなふうに、言うのだった。
僕は、それを、ただの、気のせいだと、思っていた。
いや、本当は、気づいていたのかもしれない。
気づかないふりを、していただけ、なのかもしれない。
だって、彼女の周りだけ、いつも、空気が、ひんやりしていた。
窓を、閉めきった、真夏の教室でも。
彼女が、廊下を歩くと、なぜか、足音が、しなかった。
上履きの、きゅっという音が、彼女にだけ、なかった。
そういう、小さな違和感を、僕たちは、見て見ぬふりを、していた。
きっと、認めるのが、怖かったのだ。
あんなに優しいあの子が、もう、この世にいないなんて。
※
四つ目は、雨の日の、ことだった。
下校のとき、激しい雨が、降っていた。
傘を忘れた僕は、昇降口で、雨宿りをしていた。
そこへ、ゆかりちゃんが、傘もささずに、外へ、出ていった。
「濡れるよ!」と、僕は、声をかけた。
だが、おかしなことに、彼女の体だけ、雨に、濡れていなかった。
制服も、髪も、乾いたままだった。
雨粒が、彼女の体を、すり抜けているように、見えた。
僕は、目を、こすった。
次に見たとき、彼女の姿は、雨の中に、もう、なかった。
問題が、起きたのは、冬の、ある日のことだった。
クラスに、少し、乱暴な男子がいた。
名前は、北原、といった。
その北原が、ある日、ゆかりちゃんの、お守りに、目をつけた。
「おい、お前、いつもそれ、つけてるよな」と、北原は言った。
「中身、なんなんだよ。見せろよ」
ゆかりちゃんは、青ざめて、首を、横に振った。
「これは、だめ。大切なものだから」
小さな、けれど、はっきりとした声だった。
※
だが、北原は、引き下がらなかった。
面白がって、ゆかりちゃんの胸から、お守りを、奪い取ろうとした。
「やめて!」と、ゆかりちゃんが、叫んだ。
教室の空気が、一瞬で、凍りついた。
それは、彼女が、初めて、声を、荒らげた瞬間だった。
だが、北原は、ニヤニヤしながら、お守りを、高く、掲げた。
そして、皆の見ている前で、その紐を、ほどき始めた。
「やめて、お願い。それだけは、開けないで」
ゆかりちゃんの声は、震えていた。
その目には、見たことのない、深い、恐れが、浮かんでいた。
いま思えば、彼女が、恐れていたのは、北原では、なかった。
お守りが、開かれること。
その、ただ一つを、彼女は、恐れていたのだ。
おそらく、開けてしまえば、終わりだと、どこかで、知っていた。
自分が、ここに、いられなくなることを。
※
教室の空気が、急に、重く、なった。
窓ガラスが、かたかたと、小さく、震え始めた。
蛍光灯が、一瞬、ちかちかと、明滅した。
皆が、異変に、気づき始めていた。
だが、誰も、動けなかった。
僕は、止めようとした。
「やめろ、北原!」と、僕は、叫んだ。
彼の腕に、手を、伸ばした。
だが、間に合わなかった。
北原の指が、お守り袋の、口を、開いた。
中から、出てきたのは、小さく、折りたたまれた、一枚の手紙だった。
その紙は、ひどく、古びていた。
何度も、何度も、読み返されたような、柔らかさだった。
だが、ゆかりちゃんは、一度も、開けていないはずだった。
では、この、手垢のような、折り目は、誰がつけたのか。
考える間も、なかった。
古い、黄ばんだ、紙だった。
「なんだ、ただの、手紙かよ」と、北原は、拍子抜けした顔をした。
教室の皆が、固唾を呑んで、見守っていた。
きっと、お母さんからの、優しい言葉が、書かれているのだろう。
誰もが、そう、思っていた。
北原は、その手紙を、広げて、声に出して、読み始めた。
「この手紙を、読んでいる、あなたへ……」
北原の声が、教室に、響いた。
はじめは、ふざけた、調子だった。
だが、読み進めるうちに、その声から、笑いが、消えていった。
教室は、しんと、静まり返っていた。
窓の外で、木枯らしが、ひゅう、と鳴った。
※
だが、数行、読んだところで、北原の声が、止まった。
その顔から、みるみる、血の気が、引いていった。
「おい……どうした」と、誰かが、聞いた。
北原は、答えなかった。
ただ、手紙を持つ手を、震わせて、立ち尽くしていた。
僕は、その手紙を、横から、覗き込んだ。
そこには、丁寧な、女性の字で、こう、書かれていた。
※
『この手紙を読んでいる、あなたへ。』
『突然のお願いを、許してください。』
『私の娘の、ゆかりは。』
『五年前のあの事故で、私と一緒に、天国へ、まいりました。』
『あの子は、まだ、自分が、逝ったことに、気づいていません。』
『どうか、お願いです。』
『あの子が、まだ皆さんのそばに、いるように見えても。』
『そっと、見守って、あげてください。』
※
僕は、はっと、顔を、上げた。
ゆかりちゃんの席を、見た。
そこには、もう、誰も、いなかった。
窓際の、いちばん後ろの席が、ただ、ぽつんと、空いていた。
机の上に、あのお守り袋だけが、ぽつり、と、残されていた。
僕は、震える手で、それを、拾い上げた。
袋の中は、もう、空っぽだった。
あの手紙さえ、いつのまにか、消えていた。
手のひらに残ったのは、かすかな、線香のような、匂いだけだった。
その匂いを、僕は、生涯、忘れないだろう。
開け放たれた窓から、冷たい風が、吹き込んでいた。
カーテンが、ゆっくりと、揺れていた。
※
教室の誰もが、言葉を、失っていた。
何人かの女子が、小さく、悲鳴を、上げた。
北原は、手紙を、握りしめたまま、その場に、座り込んでしまった。
「俺……俺、知らなかったんだよ」と、彼は、うわごとのように、繰り返した。
誰も、彼を、責めなかった。
責める気力も、湧かないほど、皆、呆然としていた。
あの瞬間まで、確かに、僕たちは、ゆかりちゃんと、過ごしていた。
一緒に、笑い、給食を食べ、掃除を、していた。
その記憶だけは、嘘では、なかった。
なのに、彼女は、最初から、どこにも、いなかったのだ。
※
あとで、調べてみて、分かったことがある。
五年前、確かに、ゆかり、という名の少女が、両親と共に、事故で、亡くなっていた。
それは、僕たちが、彼女と出会う、ずっと前のことだった。
担任の先生に、聞いてみた。
だが、先生は、不思議そうな顔を、するばかりだった。
「ゆかり? そんな転校生、うちのクラスに、いたかな」
出席簿を、めくっても、彼女の名前は、どこにも、なかった。
親戚の家、と言われていた住所を、訪ねてみた。
そこは、何年も前から、空き家のままの、古い一軒家だった。
郵便受けには、埃をかぶった、五年前の新聞が、詰まっていた。
庭は、雑草に、覆われていた。
だが、玄関先に、一つだけ、不思議なものが、あった。
小さな、花瓶に挿された、白い花が、一輪。
枯れることなく、瑞々しいまま、そこに、咲いていた。
誰が、供えたのか。
あの家に、足を運んだのは、僕だけでは、なかったのかもしれない。
僕は、そっと、手を合わせて、その場を、後にした。
では、僕たちが、あの秋からずっと、一緒に過ごしてきた、あの子は。
窓の外を、寂しげに眺めていた、あの横顔は。
いったい、誰、だったのだろう。
※
あの日以来、北原は、人が変わったように、おとなしくなった。
彼は、卒業まで、毎日、あの窓際の席に、一輪の花を、供え続けた。
「せめて、これくらいは、させてくれ」と、彼は、ぽつりと言った。
乱暴だった北原が、誰よりも、彼女のことを、悼んでいた。
クラスの皆も、いつしか、その席を、避けなくなった。
むしろ、休み時間になると、誰かが、その席で、窓の外を、眺めるようになった。
ゆかりちゃんが、いつも、そうしていたように。
あれから、長い、年月が、過ぎた。
僕は、いまでも、時々、思い出す。
消しゴムを拾ったとき、触れた、あの冷たい指。
「ありがとう」と言った、あの、澄んだ笑顔。
あの子は、きっと、寂しかったのだと思う。
自分が、もう、この世にいないことも、知らずに。
ただ、誰かと一緒にいたくて、僕たちのそばに、座っていたのだ。
お母さんは、きっと、それを、知っていた。
娘が、まだ、この世を、さまよっていることを。
だから、あの手紙に、書いたのだ。
そっと、見守ってあげてください、と。
困ったときに開けなさい、と言われたお守りを、ゆかりちゃんが、一度も、開けなかった理由。
それは、開けてしまえば、自分が、消えてしまうと、心の奥で、わかっていたから。
彼女は、お別れの言葉を、できるだけ、先延ばしに、していたのだ。
僕たちと、もう少しだけ、一緒にいるために。
いまでも、母校の前を、通ることがある。
あの教室の窓を、見上げると、ふと、思うのだ。
いちばん後ろの、窓際の席に、誰かが、座っているような、気がして。
それが、寂しさなのか、優しさなのか、僕には、わからない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
あの秋からの数か月は、僕にとって、かけがえのない、時間だった。
たとえ、相手が、この世の者でなかったとしても。
誰かを想う気持ちに、生きている、死んでいるは、関係ないのだと思う。
ただ、もし、また会えるなら、今度は、最後まで、隣にいてあげたい。
だから、僕は、いまも、思っている。
あのお守りは、最後まで、開けないであげたかった、と。