あの夜、あの遊びを、試してしまったことを、僕はいまも、後悔している。
霊感テスト、というものだ。
もし、この先を読んでも、あなたは、決して、試さないでほしい。
※
大学二年の夏、僕の所属するサークルは、山あいの古い民家を借りて、合宿をした。
築百年は超えているという、大きな茅葺きの家だった。
夜になると、雨が、降り始めた。
屋根を打つ雨音だけが、やけに、大きく、響いていた。
その家は、どこか、妙な空気を、まとっていた。
廊下は、昼でも、薄暗く、奥が、見通せなかった。
仏間には、誰のものとも知れない、古い遺影が、何枚も、並んでいた。
その目が、どこに立っても、こちらを、追ってくるように、感じた。
管理人は、鍵を渡すとき、一言だけ、言い残していった。
「夜は、廊下の、いちばん奥の部屋には、入らんといてください」
理由を聞いても、ただ、首を振るだけだった。
その奥の部屋の襖だけが、なぜか、固く、閉ざされていた。
テレビもない、電波も届かない、その家で、僕たちは、退屈していた。
そんなとき、桐谷さんという先輩が、こう、切り出した。
「お前ら、霊感テストって、知ってるか」
桐谷さんは、その手の話が、好きな人だった。
「なんですか、それ」と、後輩の田中が、身を乗り出した。
「簡単な、遊びだよ。自分に、霊感があるか、わかるんだ」
※
桐谷さんは、ろうそくの炎を、見つめながら、説明を始めた。
「まず、静かに、目を閉じる」
「そして、自分が、生まれ育った家の、玄関を、思い浮かべるんだ」
「できるだけ、正確に。ドアの色、表札、傘立て、全部だ」
僕たちは、言われるまま、目を、閉じた。
「玄関を開けて、家の中に、入る」
「そして、家じゅうの窓を、一つずつ、順番に、開けていく」
「全部、開け終わったら、今度は、さっきとは、逆の順番で」
「一つずつ、閉めていくんだ」
桐谷さんの声が、雨音に、混じって、聞こえる。
「最後に、玄関から、外に出て、終わりだ」
「ただし」と、桐谷さんは、声を、低くした。
「途中で、目を、開けては、いけない」
「窓を、開ける順番と、閉める順番を、間違えても、いけない」
「もし、間違えたら……」
そこで、桐谷さんは、言葉を、切った。
「まあ、たぶん、大丈夫だ」と、彼は、薄く、笑った。
その笑い方が、なぜか、僕は、ひっかかった。
※
僕は、目を閉じたまま、子どもの頃の、実家を、思い描いた。
古い、木造の、二階建て。
玄関の、すりガラスの戸を、開ける。
廊下を、進む。
居間の窓を、開ける。
台所の、小さな窓を、開ける。
階段を、上がって、自分の部屋の窓を、開ける。
両親の寝室の、窓を、開ける。
想像のはずなのに、窓の建てつけの悪さまで、手に、感じた。
ぎい、という、軋む音まで、聞こえた気がした。
開けた窓から、生ぬるい、風が、入ってくる。
その風に、かすかに、線香の匂いが、混じっていた。
なぜ、想像の中で、匂いまで、するのだろう。
そう思った瞬間、背筋に、冷たいものが、走った。
一つ、また一つと、窓を、開けていく。
そして、また、逆の順に、閉めていく。
最後に、玄関を出て、僕は、目を、開けた。
※
「どうだ」と、桐谷さんが、にやりと笑った。
「想像してる間に、家の中で、誰かを、見たか」
「廊下とか、部屋の中に、人が、いなかったか」
その問いに、田中が、首を、かしげた。
「いました。台所に、母が」
「それは、普通だ。家族なら、想像に、出てくる」と、桐谷さんは、うなずいた。
佐倉という、女子の後輩は、青ざめていた。
「わたし……知らない、おばあさんが、二階に」
「ほう」と、桐谷さんの、目が、光った。
「家族じゃない人間を、見たやつは、霊感がある、ってことだ」
「しかも、見た人数が、多いほど、霊感は、強い」
佐倉が、二階で見た、おばあさんのことを、詳しく、話し始めた。
「白い、着物を着て……ずっと、わたしのほうを、見てました」
「顔は」と、桐谷さんが、聞いた。
「それが……のっぺりして、目だけが、あったような」
場の空気が、一段と、冷えた。
別の後輩は、誰も、見なかったと言った。
「俺は、霊感ゼロってことか。よかった」と、彼は、笑った。
だが、その笑い声は、どこか、引きつっていた。
※
僕は、黙っていた。
言い出せなかったのだ。
想像の中で、僕が、見た人の、数を。
廊下に、一人。
居間に、二人。
台所に、立っている、女が、一人。
二階の、自分の部屋には、布団に、座っている、誰かが、一人。
寝室の窓のそばに、こちらを、じっと見ている、男が、一人。
数えきれないほど、では、なかった。
だが、確かに、五人。
知らない人間が、僕の、実家の中に、いた。
いちばん、ぞっとしたのは、寝室の、男だった。
他の四人は、ぼんやりと、立っているだけ。
だが、その男だけは、はっきりと、僕の、顔を、見ていた。
まるで、僕が、来るのを、待っていた、かのように。
目を開けたあとも、その視線の感触が、首筋に、残っていた。
※
「お前は、どうだった」と、桐谷さんが、僕に、聞いた。
僕は、正直に、答えた。
「五人……見ました。全員、知らない人です」
その瞬間、場が、しんと、静まった。
桐谷さんの、笑みが、消えていた。
「五人か」と、彼は、低い声で、つぶやいた。
「お前、相当、強いな」
「でも、ただの、想像ですよね」と、僕は、笑おうとした。
「ああ、想像だ」と、桐谷さんは、言った。
「ただ、一つだけ、言っておく」
「あのテストはな。やるたびに、人が、増えるんだ」
※
その言葉の意味を、僕は、深く、考えなかった。
合宿は、何事もなく、終わった。
いや、一つだけ、おかしなことが、あった。
最終日の朝、開かずの間の、襖が、半分、開いていた。
中は、何もない、ただの、空き部屋だった。
だが、畳の真ん中に、ろうそくが、一本。
火の消えた、それが、ぽつんと、立っていた。
誰が、置いたのか、誰も、知らなかった。
桐谷さんに、聞こうとしたが、その朝、彼の姿は、もう、なかった。
「先に、帰ったんだろ」と、皆、気にも、留めなかった。
楽しい、三日間だった。
あの遊びのことも、すっかり、忘れていた。
夏が、過ぎ、秋が、来た。
ある、雨の夜のことだった。
屋根を打つ雨音を、聞いていたら、ふと、あの夜のことを、思い出した。
なんとなく、もう一度、試してみたく、なった。
やるたびに、人が、増える。
あの、桐谷さんの言葉も、覚えてはいた。
だが、どうせ、ただの、暗示だろうと、高を、くくっていた。
いま思えば、僕は、何かに、呼ばれていたのかもしれない。
気づけば、僕は、布団の上で、正座を、していた。
僕は、部屋の電気を消して、目を、閉じた。
そして、また、実家の玄関を、思い浮かべた。
※
玄関を、開ける。
廊下を、進む。
だが、すぐに、僕は、異変に、気づいた。
廊下に、人が、立っていた。
一人では、なかった。
廊下の、両側に、ずらりと、並んでいた。
壁に、背を、つけるようにして。
皆、うつむいて、僕が、通り過ぎるのを、待っている。
僕が、横を通ると、その首が、ゆっくりと、持ち上がった。
前のときより、ずっと、多い。
窓を、開けるたびに、その数は、増えていった。
居間に、五人。
台所に、四人。
階段の、踊り場に、三人。
皆、無言で、こちらを、見ている。
その顔は、どれも、ぼんやりと、霞んでいた。
だが、視線だけは、はっきりと、僕に、注がれていた。
一番奥の、両親の寝室に、いちばん背の高い、男が、立っていた。
その男だけは、ゆっくりと、こちらへ、近づいてくる。
足音は、しなかった。
僕は、慌てて、窓を、閉め始めた。
※
逆の順に、窓を、閉めていく。
早く、終わらせたかった。
早く、玄関から、出たかった。
一つ、窓を、閉めるたびに、人影が、一人、増える。
閉じ込めているのか、招いているのか、わからない。
台所の窓を、閉める。
その、すぐ横に、女が、立っていた。
居間の窓を、閉める。
振り返ると、ソファに、誰かが、座っていた。
一つずつ、玄関に、近づくほど、家の中は、人で、埋まっていった。
最後の窓を、閉めて、玄関へ、向かう。
すりガラスの戸に、手を、かける。
だが、戸が、開かない。
何度、引いても、びくとも、しない。
背後に、気配を、感じた。
気配は、玄関のほうから、では、なかった。
廊下の、いちばん奥から、近づいてくる。
あの、合宿の家の、開かずの間と、同じ方向。
なぜ、実家の想像に、あの部屋が、あるのか。
考えると、頭が、割れそうに、痛んだ。
たくさんの、人の、気配。
振り向いては、いけない。
そう、思った。
※
そのとき、耳元で、声が、した。
聞き覚えの、ある声だった。
「だから、言っただろ」
桐谷さんの、声だった。
「やるたびに、増えるって」
僕は、思わず、目を、開けた。
真っ暗な、自分の部屋。
誰も、いない。
心臓が、激しく、打っていた。
全身が、汗で、濡れていた。
ただの、夢だ。
そう、自分に、言い聞かせた。
※
その夜から、僕の生活は、少しずつ、おかしくなっていった。
夜、廊下を歩くと、背後で、衣擦れの音が、する。
振り向くと、誰も、いない。
風呂に入っていると、磨りガラスの向こうに、人影が、立つ。
声をかけても、返事は、ない。
テレビを消した、暗い画面に、自分の後ろに立つ、誰かが、映る。
眠ろうとすると、布団の、足元に、重みを、感じる。
僕は、だんだん、夜が、来るのが、怖くなった。
病院にも、行った。
医者は、過労だと、言った。
ストレスによる、幻覚だろう、と。
だが、幻覚なら、なぜ、皆、同じ、白い着物を、着ているのか。
なぜ、誰も、足音を、立てないのか。
なぜ、日に日に、その数が、正確に、増えていくのか。
処方された薬は、何の、役にも、立たなかった。
僕は、霊感テストのことを、医者には、話せなかった。
話せば、その人にも、移る気が、したのだ。
翌日、僕は、サークルの仲間に、桐谷さんの、連絡先を、聞いた。
あの遊びについて、もう一度、聞きたかったのだ。
だが、田中は、不思議そうな顔を、した。
「桐谷さん? そんな先輩、いましたっけ」
「いただろ。合宿で、霊感テストの話を、した」
「合宿で、そんな話、誰も、してませんよ」と、田中は、言った。
佐倉に、聞いても、同じだった。
「霊感テスト? なんですか、それ」と、佐倉は、きょとんと、していた。
あの夜、白い着物のおばあさんを見て、青ざめていた、彼女が。
きれいさっぱり、忘れていた。
いや、忘れさせられていた、のかもしれない。
覚えているのは、世界で、僕、ただ一人。
そう思うと、足元が、すうっと、冷たくなった。
誰も、桐谷さんという先輩を、覚えていなかった。
あの夜、ろうそくの炎の前で、確かに、話を、していた、あの人を。
※
サークルの、古いアルバムを、調べてみた。
そして、見つけてしまった。
五年前の、合宿の、集合写真。
その隅に、桐谷さんが、写っていた。
だが、写真の下には、こう、添え書きが、あった。
「桐谷先輩を、偲んで」
彼は、五年前に、亡くなっていた。
その死因の欄を、見て、僕は、息を、呑んだ。
写真の桐谷さんは、僕の知る、あの先輩と、寸分、違わなかった。
同じ、笑い方を、していた。
五年前から、彼は、何も、変わっていなかったのだ。
「自宅にて。原因不明」
先輩たちに、それとなく、聞いてみた。
すると、一人だけ、桐谷さんを、覚えている人が、いた。
「ああ、あの人な。霊感テストに、ハマっててな」
「毎晩、何度も、繰り返してたらしいぞ」
「最後は、自分の部屋で、何かに、怯えて、死んでたって」
「壁を、ひっかいた跡が、いっぱい、残ってたって、話だ」
まるで、何かから、必死で、逃げようとした、ように。
僕は、その場に、立っていられなかった。
桐谷さんは、人が、増えすぎたのだ。
そして、逃げ場を、失ったのだ。
※
それ以来、僕は、二度と、あのテストを、していない。
だが、もう、遅かったのかもしれない。
最近、夜になると、家の中で、視線を、感じる。
廊下の、角や、部屋の、隅から。
数えたくは、ないが、増えている、気がする。
先週は、三人だった。
昨日は、たぶん、七人。
廊下を、通るたびに、肩が、何かに、触れる。
夜中に、台所で、水を飲む音が、する。
僕は、一人暮らしの、はずなのに。
部屋の隅に、立つ影は、日に日に、はっきりと、輪郭を、持ち始めている。
いちど、お祓いに、行こうとも、思った。
だが、神社の鳥居の前で、足が、すくんで、動かなかった。
背中の、たくさんの気配が、いやがるように、僕を、引き止めた。
結局、僕は、引き返すしか、なかった。
あれらは、僕から、離れる気が、ないのだ。
いや、もう、僕の、一部に、なりかけているのかもしれない。
そして、昨夜のことだ。
ふと、鏡を、見たとき。
僕の、すぐ後ろに、桐谷さんが、立って、笑っていた。
※
振り返ると、そこには、誰も、いなかった。
だが、鏡の中だけ、彼は、笑い続けていた。
その口が、ゆっくりと、動いた。
声は、聞こえない。
けれど、何を言っているのか、僕には、わかった。
「お前も、こっちに、来いよ」
そう、読めた。
僕は、鏡から、目を、そらした。
以来、家の鏡は、すべて、布で、覆っている。
それでも、ふとした拍子に、窓ガラスや、暗いテレビ画面に、彼が、映る。
いつも、僕の、すぐ後ろで、笑っている。
※
だから、お願いだ。
この話を、読んでも、あの遊びは、試さないでほしい。
目を閉じて、実家の、玄関を、思い浮かべることも、しないでほしい。
もし、想像の中で、知らない誰かを、見てしまったら。
その人は、もう、あなたの、すぐそばに、来ているのだから。
一度、扉を開ければ、二度と、閉じられない。
窓を、開ける順番は、覚えていても。
招き入れてしまったものを、追い出す方法は、誰も、教えてくれないのだ。
いま、この文章を、書いている、僕の背後にも。
気配が、一つ、増えた。