
去年の十月の話だ。
正確には、十月から翌年の二月にかけての五ヶ月間に起きたことになる。
俺は今も都内のコンビニで夜勤をしている。
最寄り駅から歩いて七分ほどの住宅街にある店だ。
深夜の二時を過ぎると客はほとんど来ない。
そんな時間帯に、毎晩決まって来る客がいた。
俺は心の中で、その人を目薬の常連と呼んでいた。
三十歳前後の女性で、いつも午前三時ちょうどに自動ドアをくぐる。
買うものは毎回同じ三品。
カフェイン入りの栄養ドリンクを一本、小箱の絆創膏をひとつ、それから目薬。
目薬の常連がこの店に通い始めてから、俺の夜勤の時間の感覚が変わった。
それまでは深夜の時計はただ遅く進むだけだった。
三時が近づくと、少しだけ耳が動く。
自動ドアのチャイムを待っている自分に気づくようになった。
角を曲がると急に家並みが静かになって、街灯の間隔が広くなる。
その先に、うちの店の白い看板が浮かんでいる。
住宅街の外れで、深夜でも煌々と灯っている店だ。
裏口の横に業務用のゴミ箱が三つ並んでいて、その奥に従業員用の自転車置き場がある。
表から見えるのは、ガラス張りの正面と白い看板だけだ。
冷蔵ケースのコンプレッサーの音と蛍光灯の低い唸りが、無人の店内を満たしている。
防犯カメラのモニターには暗い駐車場が映っていて、たまにタクシーが横切るだけの変化のない画面だ。
週五日、二十二時から翌朝六時までの八時間。
棚の前出しをしたり、フライヤーを分解して洗ったり、期限の近い弁当に値引きシールを貼ったりしながら夜を過ごす。
日付が変わると客足が減り始め、終電帰りのサラリーマンの波が午前一時に引くと、あとは一時間に一人来るかどうかだ。
その静寂の中で、目薬の常連だけは狂いなく現れた。
三時ちょうど。
ドアのチャイムが鳴り、蛍光灯に照らされた通路を、まっすぐレジに向かってくる。
棚を見て回ることはない。
必要なものだけ手に取って、迷いなくカウンターに来る。
三つの商品をカウンターに置くとき、彼女は必ず等間隔に並べた。
左から順に、栄養ドリンク、絆創膏、目薬。
商品と商品のあいだに拳ひとつ分の隙間を空けて、まるで棚に陳列するように丁寧に置く。
会計はいつも端数まで小銭で出す。
お釣りが発生したことは一度もなかった。
事前に計算しているのか、毎回ぴったりだった。
「ありがとうございます」と小さな声で言い、ビニール袋を持って出ていく。
ドアのチャイムが鳴り、蛍光灯の通路がまた無人に戻る。
それだけの客だった。
ただ、ひとつだけ俺が続けていた習慣がある。
目薬だけは、袋に入れると他の商品に押されて潰れることがあるので、俺はいつも別にして手渡すようにしていた。
「こちら、別にしますね」と最初に言ったとき、彼女は少し驚いた顔をした。
それから小さく頷いて、手を差し出した。
彼女は目薬を受け取るとき、ほんの一瞬だけ俺の指に触れた。
最初は偶然だと思った。
二度目も気のせいだと思った。
三度続いて、偶然ではないと知った。
けれど、何も言わなかった。
深夜のコンビニでは、それくらいのことは流す。
夜勤を始めて三年になるが、あれほど正確な客は他にいなかった。
タクシーの運転手が缶コーヒーを買いに来ることはあっても、毎晩同じ時刻に同じ三品を買う客は彼女だけだった。
三時ちょうどに来て、三時五分には出ていく。
滞在時間は最初の頃、五分もなかった。
だから俺も、名前も住所も聞いたことがない。
常連というのはこちらが勝手につけた呼び名にすぎなかった。
彼女の手は冬でもひんやりと冷たくて、指先だけがかすかに震えていた。
爪は深く噛み切られていて、指先がわずかに赤い。
そのことが気になっていたのに、俺は一度も聞かなかった。
目薬の常連の来店
目薬の常連が通い始めて二ヶ月ほど経った頃、俺はあることに気づいた。
十月からずっと、彼女はタートルネックを着ている。
色は黒か紺で、手首まで完全に覆うタイプだった。
十月ならまだわかる。
けれど十一月の暖かい日でも、十二月に暖房の効いた店内に入ってきても、一度も袖をまくったことがなかった。
来店する時刻が少しずつずれ始めていることにも気づいた。
最初は三時ちょうどだったのが、十一月の終わりには二時五十分になった。
十二月に入ると二時半になり、年末には二時十五分になった。
まるで外に出ていい時間の枠が、少しずつ狭まっているように見えた。
だからこそ、早く出てきているのかもしれなかった。
許される時間が短くなるから、少しでも早く家を出て、この店にいる時間を確保しようとしている。
そんなふうに考えたことがある。
考えただけで、何もしなかった。
コンビニの夜勤で三年間、数えきれない客を見てきた。
深夜に来る客にはそれぞれの事情がある。
その事情に踏み込まないのが、この仕事の暗黙のルールだった。
買い物の内容にも変化があった。
栄養ドリンクと目薬はそのままだが、絆創膏がワンサイズ大きくなった。
指先用の小さなものから、手のひらを覆うサイズに変わった。
やがて、コンシーラーが加わった。
ファンデーションではなく、コンシーラーだけ。
カバー力の強い、厚塗りタイプのものだった。
それでも彼女は商品を等間隔に並べた。
四品になっても、左から順に、同じ丁寧さで。
ある夜、彼女がカウンターに商品を並べたとき、袖がわずかにずれた。
手首の内側に、指の形をした痕が見えた。
紫というより、黄色く変色した古い痕だった。
上から新しい痕が重なっている。
彼女はすぐに袖を引き下ろした。
俺はバーコードリーダーに視線を落とした。
レジを打ち、商品を袋に入れ、目薬を手渡した。
いつもと同じように。
何も見なかったかのように。
十二月の半ばだったと思う。
彼女がレジに来たとき、左の頬に薄くコンシーラーが塗られていた。
照明の角度で、その下にある腫れが見えた。
俺は「袋、お付けしますか」とだけ言った。
彼女は小さく頷いた。
いつも通り目薬を手渡して、いつも通り指先が触れた。
そのときだけ、彼女の手が少し長く留まった気がした。
年が明けて一月になった頃、目薬の常連は以前より早く来るようになっていた。
二時、一時四十五分、一時半。
来店が早まるにつれて、店内にいる時間が長くなった。
以前は買い物だけ済ませてすぐ帰ったのに、会計を終えても出ていかなくなった。
雑誌コーナーの前で立ち止まるようになった。
雑誌を読んでいるわけではなかった。
ページをめくる手は動いていない。
開いたまま、同じ見開きを眺めているだけだった。
十分、十五分、そのまま立っている。
蛍光灯の白い光の中で、ただ、そこにいた。
ときどき自動ドアの方を振り返る。
誰か来たのかと思うが、誰もいない。
駐車場の暗闇を確認して、また雑誌に目を落とす。
外を見ているのではなく、外から誰かが来ていないかを確かめている。
そのことに気づいたのは、三度目か四度目だった。
同僚の長谷川が休憩中に言った。
「最近のあの常連さん、やたら長くない?」
「買い物が済んでも帰らないんだよな」と俺は答えた。
「何かあるのかな」
「知らん。客の事情だろ」
長谷川はそれ以上聞かなかった。
俺も、聞かなかった。
ただ、長谷川が事務所に戻った後、俺は雑誌コーナーの通路の照明を少しだけ明るくした。
それが俺にできた唯一のことだった。
変わっていく買い物
一月の半ばだった。
目薬の常連がカウンターに来たとき、ポケットから携帯電話が滑り落ちた。
画面が上を向いたまま、タイルの床に落ちた。
拾おうと屈んだ俺の目に、画面が映った。
通知がびっしりと並んでいた。
全部、同じ名前からのメッセージだった。
「何時に帰る」
「返事しろ」
「今どこにいる 写真送れ」
「勝手に出るなって言ったよな」
俺は携帯を拾い上げ、彼女に手渡した。
彼女は一瞬、目を見開いた。
画面を見たかどうか、俺の顔を確認するように見た。
それから画面を伏せてポケットにしまい、何も言わずに会計を済ませた。
俺も何も言わなかった。
「大丈夫ですか」の一言でも言えばよかったのだと思う。
あるいは、相談窓口の番号を書いたメモを袋に入れるくらいのことは、できたかもしれない。
店の裏に貼ってある、警察の相談ダイヤルのポスターを思い出した。
番号は知っていた。
けれど、しなかった。
深夜のコンビニ店員が、客の生活に口を出す筋合いはない。
そう自分に言い聞かせた。
面倒に巻き込まれたくなかった、と言ったほうが正確かもしれない。
それから数日後の深夜、彼女は商品を並べ終えた後、初めて俺に話しかけた。
「ここに来るまでの道だけ、自分の足で歩いてる気がするんです」
俺は何と返せばいいか分からなかった。
「はぁ」とだけ答えた気がする。
レジの向こうに立ったまま、彼女は続けた。
「あの信号を渡って、坂を下って、この店の灯りが見えると、大丈夫だって思えるんです」
それから少し間を置いて言った。
「ここで何を買うか考えてるとき、自分が自分のままでいられるんです」
俺は黙っていた。
何か言うべきだったのだと思う。
けれど何を言えばよかったのか、今でもわからない。
彼女は小さく笑って、「変なこと言ってすみません」と言った。
いつものように目薬を受け取り、指先に一瞬触れ、出ていった。
自動ドアのチャイムが鳴った。
蛍光灯の通路が無人に戻った。
冷蔵ケースのコンプレッサーが低く唸っていた。
俺はしばらく、レジの前に立ったまま動けなかった。
時計は三時十二分を指していた。
いつもなら彼女はもう坂を上って帰っている時間だった。
その翌週から、目薬の常連は来なくなった。
一週間が過ぎた。
最初の三日は、遅れているだけかもしれないと思った。
四日目に、長谷川が「あの常連さん、今日も来なかったね」と言った。
五日目、俺は三時を過ぎてから目薬の棚を確認した。
在庫は先週と同じ数だった。
二週間が過ぎた。
目薬の棚の在庫が減らなくなった。
一ヶ月が経っても、深夜の自動ドアは鳴らなかった。
三時になると、俺は無意識にモニターの駐車場を見ていた。
坂の上から降りてくる人影を探していた。
いなかった。
あの夜、携帯を拾ったとき、画面に並んでいたメッセージのことを思い出した。
もう外に出ることを許されなくなったのかもしれない、と思った。
思っただけで、何もしなかった。
「引っ越したんじゃないか」と長谷川に答えた。
それで終わった。
終わったと思っていた。
けれど、終わらなかった。
三時二分の着信
二月に入って最初の休日のことだ。
自宅のアパートで寝ていた俺の携帯が鳴った。
枕の横で震えている画面を見ると、知らない番号が表示されていた。
市外局番は見たことがある。
店の近くのエリアの番号だ。
時刻は午前三時二分。
出た。
自動ドアのチャイムが聞こえた。
コンビニの、あの電子音だ。
ピンポーン、という間延びした音。
毎晩何十回と聞いているから、聞き間違えるはずがない。
「もしもし」と言ったが、返事はない。
チャイムの後に、足音が続いた。
スニーカーがタイルの床を踏む、軽くて慎重な足音。
右足、左足、右足、左足。
聞き覚えのあるリズムだった。
十秒ほどで通話が切れた。
翌日も、三時二分に同じ番号から着信があった。
今度は出なかった。
留守番電話にメッセージが残っていた。
自動ドアのチャイム。
足音。
そして何かがカウンターに置かれる音。
小さな音が三回、等間隔に。
電話の向こうで、何かがカウンターに一つずつ置かれる音が、あの等間隔と同じリズムで聞こえた。
続いて、バーコードを読み取る電子音がピッ、ピッ、ピッと三回。
ビニール袋が開かれる音。
そして聞き覚えのある小さな声が言った。
「ありがとうございます」
俺は携帯を耳から離して、しばらく画面を見ていた。
番号を検索してみたが、該当する情報は出てこなかった。
着信は毎晩続いた。
三時二分、同じ番号、だいたい同じ長さ。
三日目からは出なかった。
けれど留守電は毎回確認した。
聞かずにいられなかった。
四日目の留守電は少し長かった。
いつもの自動ドアのチャイムの後に、店内BGMの切れ端が聞こえた。
あの有線放送の、午前三時台に流れるジャズのインストだ。
選曲まで正確だった。
俺が知っている店の三時台が、そっくりそのまま電話の向こうに存在していた。
それは録音ではなく、今この瞬間に鳴っている音のように聞こえた。
五日目、留守電を聞きながら気づいたことがある。
バーコードの音と袋の音のあいだに、わずかな間がある。
俺が目薬を袋から出して、手渡していた時間だ。
その間だけ、かすかに息を吸う音が聞こえた。
まるで手を差し出して、待っているように。
六日目には、息を吸う音の後に、指先が何かに触れる微かな音がした。
目薬を受け取るときの、あの一瞬の接触。
俺の指はそこにないのに、彼女は毎晩それを繰り返していた。
七日目の留守電には、チャイムの前に新しい音が加わっていた。
坂を下る足音だ。
アスファルトを踏む靴底の音が、だんだん近づいてくる。
彼女がアパートを出てから店に着くまでの道のりが、そのまま再生されていた。
信号の電子音、坂道を下りきった先のグレーチングを踏む金属音まで入っている。
俺は自分の通勤路と彼女の道が途中まで同じであることに初めて気づいた。
電話の向こうの部屋
八日目の夜、着信に出てしまった。
音が違った。
自動ドアのチャイムはなかった。
代わりに、ドアが閉まる音がした。
重い、金属的な音だ。
鍵が回る音が二度続いた。
内側から施錠される音だとわかった。
それからしばらく、何も聞こえなかった。
冷蔵庫の唸りに似た低い音が、遠くで鳴っていた。
やがて、かすかに泣き声がした。
声を押しつぶすように、喉の奥で堪えている音だった。
壁に何かが当たる鈍い音がした。
一度ではなかった。
二度、三度。
俺は電話を切った。
九日目も着信はあった。
出なかった。
けれど留守電に残った音を、結局は再生してしまった。
同じ部屋の音だった。
泣き声の代わりに、畳の上を何かが引きずられる音がしていた。
低い声で誰かが何か言っている。
聞き取れない。
聞き取りたくなかった。
十日目の留守電は、ほとんど無音だった。
ただ壁時計の秒針だけが、正確に時を刻んでいた。
その向こうに、浅い呼吸の音が混じっていた。
息をしている。
それだけが確認できた。
十一日目、留守電の音が変わった。
秒針の音はまだあった。
呼吸はなかった。
代わりに、水が流れる音がした。
蛇口から、細く、長く。
十二日目は着信がなかった。
十三日目もなかった。
ほっとしたのか、不安になったのか、自分でもわからなかった。
その週の終わり、同僚の長谷川がスマートフォンの画面を見せてきた。
「これ、この近所じゃない?」
ニュースアプリの記事だった。
店から歩いて五分ほどのアパートで、女性が保護されたと書いてあった。
長い間、外出を制限されていた形跡があったらしい。
通報したのは隣室の住人で、深夜に物音が続くのが気になったと。
記事に名前は出ていなかった。
年齢だけが書かれていた。
三十歳。
確認する術はない。
けれど俺には、わかっていた。
翌日の着信は、それまでとまるで違った。
出ると、最初から彼女の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ、って、言ってくれないんですか」
俺は何も言えなかった。
「いつも言ってくれたのに」
声は穏やかだった。
責めているのではなく、ただ不思議がっているような口調だった。
長い沈黙のあと、彼女の声がもう一度聞こえた。
「栄養ドリンクと、絆創膏と、目薬。全部、自分で選んだものでした」
「あの店に行く時間だけ、何を買うか自分で決められたんです」
「帰りたくなかったから、商品を並べるのに時間をかけていたんです」
「目薬。いつも手渡してくれましたね。あれだけが、誰かの手から関わるものでした」
通話が切れた。
翌日から、三時二分の着信は来なくなった。
あの番号を調べ直した。
電話番号検索で、ようやく一件だけ出た。
店から三分ほど歩いた交差点の公衆電話の番号だった。
その公衆電話は、二年前に撤去されている。
俺は今でも夜勤を続けている。
三時になると、自動ドアのチャイムが鳴るのを待っている自分がいる。
鳴ることはない。
俺は今でも目薬の棚を整えるとき、等間隔に並べてしまう。
左から順に、ひとつずつ、丁寧に。
昨日、三時二分に目が覚めた。
枕元に、小さな目薬の箱がひとつ、置いてあった。