峠の先のドライブインに灯りがあった夜

列車

あれは去年の秋、十月の半ばを過ぎた頃だったと思う。

夜中の二時を回った頃、俺は山間部を縫う国道を、長距離トラックで走っていた。

積み荷は翌朝までに、北部の物流センターへ届けなければならなかった。

峠越えのルートは、三年前から何十回と走った道だ。

慣れた道のはずなのに、その夜に限っては霧が濃かった。

霧の峠とドライブイン

ヘッドライトの光は、白い壁にぶつかるように散っていった。

路肩の白線だけが、頼りだった。

速度を落とし、ギアを落とし、それでもカーブのたびに緊張が積み重なった。

ラジオはいつの間にかノイズだけになっていて、気づいた時には音を切っていた。

エンジンの低い唸りと、タイヤが湿った路面を噛む音だけが、車内に満ちていた。

眠いわけではなかった。むしろ、変な息苦しさがあった。

山のせいだと思っていた。気圧か、霧のせいか。

とにかく峠を越えるまでの辛抱だと、自分に言い聞かせて走っていた。

カーナビの画面は、さっきから現在地の矢印を、同じ場所で瞬かせていた。

地図の上では、道は途切れず続いているのに、矢印だけが前へ進まない。

対向車のライトは、一台も見えなかった。

夜の山道では、珍しいことではない。そう思おうとした。

ダッシュボードのデジタル時計が、二時十二分のまま動いていないことに、俺はまだ気づいていなかった。

峠の頂上を過ぎた辺りの、右カーブを曲がったときだった。

前方に、橙色の灯りが見えた。

ドライブインだった。

山道には似つかわしくない、昔ながらの建屋だった。

軒先には、赤い提灯が三つ並んでいた。

窓ガラスの向こうに電灯がともり、「食堂」と書かれた看板が白く浮かんでいる。

駐車場の砂利には、大型トラックが二台止まっていた。

こちらとほぼ同型の、四トン車だ。

二台とも、フロントガラスが白く曇っていた。

どこかで一度、休んでいくつもりだった。

あの霧の中を無理に走り続ける気にも、なれなかった。

俺は広い場所を選んでトラックを止め、財布だけをポケットに入れた。

引き戸に手をかけると、冷たい金具が指に張りついた。

看板の「食堂」の文字は、塗装がところどころ剥げていた。

けれど、そのドライブインだけが、霧の中で妙にくっきりと浮かんで見えた。

赤い提灯の食堂

中は思いのほか広かった。

カウンターが六席ほどで、奥にテーブル席がいくつか並んでいる。

入ったとたん、古い木材とタバコが混ざったような匂いがした。

だしの匂いも、かすかに混じっていた。

どこかで、柱時計が小さく時を刻む音がしている。

「いらっしゃい」

低い声がした。

カウンターの奥、流し台のそばに、年配の女性が立っていた。

白い割烹着を着て、こちらを見ている。

笑ってはいなかったが、怖い顔でもなかった。

ただ、静かに立っていた。

テーブル席には、作業着姿の男が二人いた。

どちらもうどんを前にして、箸を持っている。

俺が入ってきても、ちらりと目を向けただけで、すぐに下を向いた。

二人とも、ひとことも喋らなかった。

片方の男の帽子には、見覚えのない運送会社のマークが縫い付けてあった。

もう片方は、袖口が油で黒く光っていた。

どちらも、背中を丸めたまま、まばたきさえしないように見えた。

俺はカウンターに座り、コーヒーを頼んだ。

「お疲れさん」

女将さんはそう言って、少し間を置いてから、白いカップを出してくれた。

湯気が立っていた。

ちゃんと温かかった。

一口飲みながら、ぼんやりと店内を眺めた。

壁には、古い観光地のポスターが二枚貼ってある。

電話台の上には置き時計があって、秒針が動いていた。

奥の柱には、農協のカレンダーが貼られていた。

十月のページが開かれ、日付が大きく印刷されている。

その下の一番小さな文字で、年号が刷られていた。

元号だと思ったが、数字がどこかおかしかった。

じっと見ようとしたとき、女将さんの手が伸びてきた。

「もう一杯いる?」

「いや、結構です」

そう答えた拍子に、カレンダーから目が離れた。

テレビは壁の高い位置に設置されていた。

画面では、男性のアナウンサーがニュースを読んでいる。

けれど、画面の隅に局名のロゴが見当たらなかった。

テロップの字体も、どこか見慣れない気がした。

眠気のせいかもしれないと思い、深くは考えなかった。

テーブル席の二人は、最後までひと言も喋らなかった。

丼はとうに空になっているのに、どちらも動こうとしなかった。

丼の縁から、湯気が一筋も立っていないことに、俺はそのとき初めて気づいた。

コーヒーを飲み干して、立ち上がった。

財布から五百円玉を出して、カウンターに置く。

「いくらですか」

「ちょうどよ」

女将さんは、そう言った。

その声は、思ったより遠くから聞こえた。

カウンターの隅には、湯気の立たない湯呑みが、いくつも整然と並んでいた。

釣りはなかった。

「気をつけてな」

その声を背中に聞きながら、俺は引き戸を押して外へ出た。

二十分のはずの一時間

霧は、少し薄くなっていた。

時計を確かめると、店に入ってから、およそ二十分が経っていた。

スマートフォンに目をやった瞬間、おかしいと思った。

妻からの着信が、五件も入っていた。

いちばん古い着信は、一時間以上前だった。

峠に入る前、俺は妻に「今から山越えに入る」とメッセージを送っていた。

その履歴は、画面に残っている。

だが着信の時刻を見ると、あのメッセージを送った直後から、電波が途絶えていたことになる。

店の中で、スマホを触った覚えはない。

二十分の間に、一時間以上が過ぎていた計算になる。

すぐに、妻へ折り返した。

「何度かけても出ないから、心配したのよ」

「悪い。ずっと圏外だったみたいだ」

「峠のあたりは、そうなのよね」

妻は少し笑った。

「少し、仮眠を取ってた」

俺はそう言った。それ以上、説明する言葉が見つからなかった。

電話を切って、ふと駐車場を振り返った。

砂利の上に、二台のトラックが並んでいる。

フロントガラスは、やはり白く曇ったままだった。

俺は逃げるように運転席に乗り込み、エンジンをかけた。

ダッシュボードの時計は、二時十二分のまま止まっていた。

更地に残った砂利

翌月、同じルートを走ったとき、俺はあのカーブを意識しながらハンドルを握った。

峠を越えた先の、右カーブを抜けたところ。

夜に見たときより、昼の山道は、ずっと明るく穏やかだった。

それが、かえって落ち着かなかった。

路肩のガードレールには、錆びた跡が長く伸びている。

あの夜、この場所に提灯の赤い色が灯っていたのだと思うと、背中が冷たくなった。

砂利の駐車スペースがあったはずの場所に、建物はなかった。

砂利は残っていたが、草が根を張っていた。

かつてドライブインの駐車場だった場所に、俺は車を止めて降りてみた。

足の下で、砂利がじゃりと鳴った。

その音だけが、昼の静けさの中で、妙に大きく響いた。

遠くで、鳥が一羽、短く鳴いて飛び去った。

しゃがんで手を伸ばすと、砂利の隙間から、丸い金属の縁が覗いていた。

五百円玉ではなかった。ずいぶん古い、錆びた硬貨だった。

俺はそれを拾わず、そっと砂利をかぶせて、トラックへ戻った。

車を出すとき、ミラーの中で枯れ草が、誰かの手招きのように揺れた。

軒先どころか、基礎らしきものもない。

ただの空き地だった。

風が吹くと、背の高い枯れ草が、乾いた音を立てて揺れた。

俺はしばらくの間、ハンドルを握ったまま、動けなかった。

後日、休憩所で先輩のドライバーに、それとなく話してみた。

「峠の、あの下り口のあたりに、食堂ってなかったでしたっけ」

先輩は缶コーヒーを持ったまま、少し黙った。

この話を、俺は前にも誰かにしたことがあったか。

運送会社の休憩室には、古い体験談を綴じた冊子が置かれている。

『赤い誘導棒は右を指す』という話を、そこで読んだことを思い出した。

『点呼の数が合ってしまう』も、同じ冊子に載っていた。

夜の道には、そういう話が似合う。ただ、自分がその当事者になるとは思っていなかった。

「ああ、あそこか」

「あったんですか」

「俺が駆け出しの頃は、よく使ったな。うどんが旨くてな」

先輩は懐かしそうに言ってから、ふっと目を細めた。

「あの晩、駐車場に二台、トラックが残ってたって話だ」

「二台、ですか」

「ああ。霧の濃い十月の夜で、運転手は二人とも店にいた」

「二十年以上前に火事で焼けたんだ。それ以来、ずっと更地のはずだけど」

俺は、その言葉をどう受け取ればいいのか、わからなかった。

あの夜のコーヒーの温度は、今でもはっきりと覚えている。

湯気が立ち、白いカップが少し熱かった。

五百円玉を置いたとき、女将さんの指先は氷のように冷たかった。

それだけは、妙にはっきりしている。

あの二人の男は、今もあの席で、うどんを前に座っているのだろうか。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。