アガリビト

山は、こわい。

幽霊や、野生の動物や、急な天候。

こわいものは、いくらでもある。

だが、山でいちばんこわいのは、人だ。

正確に言えば、人だったもの、だ。

私の祖母は、四国の山深い村に、一人で暮らしていた。

子どもの頃、私は夏になると、その村に預けられた。

テレビもろくに映らない、谷あいの小さな集落だった。

家の裏は、すぐに、深い山だった。

昼でも、山の奥は、薄暗かった。

村の人は、決して、必要以上に山へ入らなかった。

山菜を採るのも、決まった場所まで、と決まっていた。

その先には、古い注連縄が張られ、それより奥へは、誰も行かなかった。

「あの縄から、向こうは、神さんの場所やけんな」

祖母は、よく、そう言っていた。

幼い私は、その注連縄を見るたびに、なぜか、背筋がすくんだ。

夜になると、墨を流したような闇が、家をすっぽりと包んだ。

祖母は、寝る前によく、山の話をしてくれた。

狸に化かされた話や、沢の主の話。

どれも、子ども心に、わくわくする話だった。

だが、その晩の祖母は、いつもと様子が違った。

古い行灯の灯りに照らされた顔が、やけに、こわばって見えた。

そのなかに、ひとつだけ、怖い話があった。

「山にはな、アガリビトちゅうもんが、おるんよ」

アガリビト。

はじめて聞く言葉だった。

「人の顔をして、人やないもんよ」

「山の奥でな、人みたいなもんを見たら、すぐに逃げぇ」

「ぜったいに、目を合わせたらいけん」

祖母は、いつになく真剣な顔で、そう言った。

「この村ではな、アガリビトは、神さんなんよ」

「昔はな、山で人が消えるのは、神さんに上げてもろうたんやと、そう言うてな」

「お山に、上がってしもうたんやと」

「上がった者は、もう、下りてこん」

「山がな、その人を、気に入ってしまうんよ」

「ええ人ほど、山は、ほしがる」

「下りてきても、それは、もう、その人やない」

祖母は、そう言って、囲炉裏の灰を、火箸でかき混ぜた。

「だからな、山の奥で、知った顔を見ても、ついて行ったらいけんよ」

「呼ばれても、ぜったいに、返事をしたらいけん」

神様なのに、なぜ逃げなければいけないのか。

子どもの私には、その理屈が分からなかった。

ただ、祖母のその声の低さだけが、妙に耳に残った。

祖母の兄も、若い頃に、山で行方知れずになったのだという。

そして、数年後、ひょっこりと、村に戻ってきたそうだ。

姿は、消えたときのまま、少しも年を取っていなかった。

だが、家族の誰のことも、覚えていなかった。

言葉も、ほとんど話さなくなっていた。

ただ、夜になると、山のほうを、じっと見上げていたという。

そして、ある朝、また、いなくなった。

今度は、二度と、戻ってこなかった。

「あれは、アガリビトに、なったんよ」

祖母は、それだけ言って、口を閉じた。

大人になり、私は都会で、会社勤めをするようになった。

人混みと、書類と、終わらない仕事に、すり減る日々だった。

そんな自分を、たまには山で癒したい。

そう思って、私は一人で、登山を始めた。

最初は、整備された観光地の山ばかりだった。

だが、人の多さに、だんだん物足りなくなっていった。

もっと、人のいない、深い山へ。

その欲求は、月を追うごとに、強くなっていった。

いま思えば、それ自体が、すでに、何かに引かれていたのかもしれない。

山が、私を、呼んでいたのかもしれない。

ある秋、私は、ほとんど人の入らない山へ、足を踏み入れた。

登山道の標識も、途中から、なくなっていた。

沢の音と、自分の足音だけが、聞こえていた。

鳥の声が、いつの間にか、消えていた。

虫の音も、しなくなっていた。

あれほど賑やかだった山が、しんと、静まり返っていた。

あとで思えば、それが、最初の異変だった。

生き物たちは、その奥に、入ってはいけないものを、知っていたのだ。

奥へ進むほど、不思議と、心が軽くなっていった。

肩の力が抜け、頭のなかが、すうっと澄んでいく。

ああ、これだ、と思った。

この解放感のために、自分は山に来るのだ、と。

だが、その解放感の正体を、私は、勘違いしていた。

あれは、心が軽くなったのではない。

人としての、たがが、ゆるみはじめていたのだ。

観光地の山なら、まだいい。

道しるべや、空き缶ひとつでも、人工物があれば、人は人でいられる。

だが、まったく人の手の入らない、純粋な自然のなかは、ちがう。

長くいると、人は、戻ってしまう。

動物に、戻ってしまうのだ。

だが、いま思えば、あれが、危険の入り口だった。

祖母の言葉を、私はすっかり忘れていた。

都会で、人工物に守られて暮らしてきた人間ほど、あぶないのだという。

人としての、境目を、たやすく越えてしまうから。

気がつくと、日が、傾きはじめていた。

引き返そうと、来た道を振り返った。

だが、そこには、道らしいものが、見当たらなかった。

どこをどう歩いてきたのか、まるで思い出せない。

腕時計を見て、ぞっとした。

まだ、昼を過ぎたばかりのはずだった。

なのに、針は、夕方の五時を指していた。

歩いていたのは、せいぜい、一時間ほどの感覚だった。

山のなかで、何時間も、溶けて消えていたことになる。

時間の感覚すら、ここでは、あてにならなかった。

私は、道に、迷っていた。

はじめは、たいしたことはないと思っていた。

下へ下へ、沢沿いに歩けば、いつか里に出る。

そう、自分に言い聞かせた。

だが、歩いても歩いても、景色は変わらなかった。

同じような木立が、どこまでも続いている。

やがて、あたりは、暗くなりはじめた。

気温が、ぐんぐん下がっていく。

携帯電話は、当然、圏外だった。

そのとき、ふと、嫌な考えがよぎった。

助けは、来ないかもしれない。

このまま、死ぬかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間だった。

自分のなかの、何かが、変わるのを感じた。

生き延びるために、頭が、別の働き方をしはじめたのだ。

不思議と、恐怖が、薄らいでいった。

そのかわり、奇妙な、研ぎ澄まされた感覚が、芽生えてきた。

遠くの物音が、はっきりと聞こえる。

暗がりのなかでも、ものの輪郭が、見えるようになった。

鼻が、土や、獣の、においを、嗅ぎ分けはじめた。

人間の感覚では、ないものが、目を覚ましていた。

それは、太古から、私のなかに眠っていたものだったのかもしれない。

木の皮を、かじってみようか。

土の下に、何か食えるものはないか。

そんな考えが、ごく自然に、湧いてきた。

常識やモラルが、炭酸の抜けるように、すうっと、抜けていく。

コーラの泡が、時間をかけて消えていくように。

私を私たらしめていたものが、一滴ずつ、こぼれ落ちていく。

恐ろしいのは、それが、まるで、心地よかったことだ。

楽になっていく、とすら、感じた。

このまま、何も考えず、山に溶けてしまえたら。

そんな誘惑が、甘い霧のように、私を包んだ。

このまま座り込めば、楽になる。

立ち上がる気力が、すうっと、抜けていく。

私は、近くの倒木に、腰を下ろしかけた。

その瞬間、足の裏に、小さな痛みが走った。

見ると、靴底に、登山道で拾った小石が、挟まっていた。

人工物ではない、ただの石だ。

だが、その小さな痛みが、私を、ぎりぎりで、つなぎとめた。

私は、はっと、我に返った。

いけない。

このままでは、本当に、戻れなくなる。

自分が、だんだん、別のものになっていくのが、分かった。

そして、その感覚が、私を救ったのかもしれない。

ある瞬間、私は、ぴたりと、足を止めた。

理由は、分からない。

ただ、本能が、動くな、と告げた。

二十メートルほど先。

木立の、暗がりのなか。

そこに、何かが、立っていた。

夕闇に、溶けるように。

だが、たしかに、そこにいた。

人のかたちを、していた。

こちらに、背を向けている。

一瞬、登山者かと思った。

助かった、と、声をかけそうになった。

だが、おかしかった。

その姿は、裸足だった。

そして、こんな山奥に、不釣り合いなほど、姿勢がよかった。

微動だに、しない。

風で、木の葉は揺れている。

だが、その人影だけは、彫像のように、静止していた。

呼吸を、しているようにも見えなかった。

そして、その肌は、夕闇のなかで、奇妙に、白かった。

服は、着ていなかった。

だが、痩せこけても、汚れてもいない。

まるで、ついさっきまで、人の暮らしのなかにいたかのようだった。

それなのに、まとう空気だけが、決定的に、人とは違った。

そこだけ、世界から、切り取られているようだった。

見ているだけで、頭の芯が、しびれていく。

早く、目をそらさなければ。

そう思うのに、体が、動かない。

人が、あんなふうに、まったく動かずにいられるはずがない。

その背中を、見ているうちに、ぞっと、総毛立った。

あれは、人ではない。

頭で考えるより先に、体が、そう叫んでいた。

そのとき、祖母の声が、よみがえった。

人みたいなもんを見たら、すぐに逃げぇ。

ぜったいに、目を合わせたらいけん。

呼ばれても、ぜったいに、返事をしたらいけん。

祖母の言葉が、次々と、よみがえった。

忘れていたはずの言葉が、体の奥から、湧き上がってきた。

それは、理屈ではなかった。

血のなかに、刻み込まれた、警告のようだった。

私は、息を殺して、後ずさりした。

一歩、また一歩。

そのときだった。

背を向けていたそれが、ゆっくりと、首だけを回しはじめた。

ありえない角度まで、ぐるりと。

私は、見る前に、目を、固くつむった。

見てはいけない、と、全身が叫んでいた。

あの首が、こちらを向ききる前に。

その顔を、見てしまったら。

二度と、人には、戻れない。

なぜか、そう、確信していた。

そして、振り返らずに、来た方向へ、走り出した。

枝が顔を裂くのも、かまわなかった。

背後で、ずる、ずる、と、何かを引きずるような音がした。

その音は、私の走る速さに、ぴたりと、合わせてきた。

離れもせず、近づきもせず。

まるで、私が転ぶのを、待っているかのように。

そして、一度だけ、背後で、声がした。

私の名を、呼ぶ声だった。

やさしい、なつかしい声だった。

足を止めて、振り返りたくなる声だった。

返事をしてしまえば、楽になれる、と、どこかで思った。

だが、祖母は、言っていた。

呼ばれても、返事をしたらいけん、と。

祖母の、声だった。

とうに、亡くなったはずの、祖母の。

私は、歯を食いしばって、その声を、振り切った。

だが、決して、振り返らなかった。

どうやって里に下りたのか、よく覚えていない。

気づくと、私は、麓の県道に、座り込んでいた。

空は、すっかり、夜だった。

通りかかった軽トラックの老人が、私を見つけてくれた。

「あんた、山に入っとったんか」

私が頷くと、老人は、顔をしかめた。

「この山はな、入っちゃいかん山よ」

「上がってしもうた者が、何人もおる」

上がってしまった、という言い方に、私は、ぞっとした。

それは、祖母の言った、アガリビトと、同じ響きだった。

あとで知ったことだが、その村でも、山で人が消えることがあるという。

老人は、軽トラックの荷台から、塩の袋を取り出した。

そして、私の肩や背中に、ばさばさと、塩を振りかけた。

「憑いてきとるといけんからな」

その手つきには、迷いがなかった。

私は、塩の刺激に、ようやく、息を吹き返した心地がした。

それまで、自分が半分、人でなかったことに、はじめて気づいた。

軽トラックの助手席で、私は、声を殺して、泣いた。

何度も、こうしてきたのだろう、と思わせる手つきだった。

そして、行方不明になった者のなかには、ときどき、戻ってくる者もいるそうだ。

だが、戻ってきた者は、もう、人ではないのだという。

老人は、ぽつりぽつりと、話してくれた。

十年ほど前にも、若い登山者が、この山で行方不明になったという。

大がかりな捜索が行われたが、見つからなかった。

ところが、半年後、その男は、ふらりと、麓に現れた。

家族は、泣いて喜んだそうだ。

だが、戻ってきた男は、笑わなくなっていた。

そして、生のものしか、口にしなくなったという。

「あれも、上がってしもうたんやろう」

老人は、そう言って、山のほうを、見上げた。

見た目は、その人のまま。

けれど、中身が、すっかり、抜け落ちている。

それを、村の人たちは、アガリビトと呼んで、おそれ、敬ってきた。

あのとき、私が見たものも、かつては、人だったのかもしれない。

道に迷い、助けを待ち、そして、人であることを、やめてしまった者。

私は、あと一歩で、その仲間に、なるところだった。

木の皮をかじろうとした、あの感覚を、私は、今でも覚えている。

あれは、人と、人でないものの、境目だった。

人は、誰でも、その境目の、すぐ近くを歩いている。

ふだんは、ただ、気づかないだけだ。

街の灯りや、人の声が、それを、覆い隠してくれている。

いまでも、ふとした夜に、山が、私を呼ぶ気がする。

おいで、こっちは、楽だよ、と。

私は、その声を、聞かないようにして、生きている。

あれ以来、私は、二度と、深い山へは、入っていない。

観光地の、人の多い山でさえ、足が、すくむ。

あの解放感が、今では、何より、こわい。

あれは、人をやめる一歩手前の、甘い、誘いだったのだから。

今でも、ときどき、思う。

あのとき、靴に小石が挟まっていなかったら。

あの痛みが、なかったら。

私は、今ごろ、あの山の奥で、裸足のまま、立っていたかもしれない。

誰かが迷い込むのを、静かに、待ちながら。

あの白い背中は、もしかしたら、ずっと昔に迷い込んだ、誰かだったのかもしれない。

そして、いつか、私の背中も、誰かに、そう見られるのかもしれない。

山は、今日も、静かに、そこにある。

何も知らずに、足を踏み入れる者を、ただ、待っている。

もし、あなたが、人の手の入らない山で、人みたいなものを見たら。

どうか、目を合わせず、すぐに、逃げてほしい。

それは、あなたの、すぐ隣にある可能性なのだから。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。