余白に増えていく字

月光と本の静寂

私は古書を商って、もう三十年になる。

商いの実態は、本ではなく、人の生きた痕跡を売り買いする稼業だと、ひそかに思っている。

蔵書には、その持ち主の性分が、そのまま残る。

折り目、傍線、頁の端に残る手垢、栞代わりの古い切符。

書物は、しばしばそれを読んだ人間の鏡である。

だから私は、本そのものよりも、本に残された痕跡を読むことを好んできた。

職業上の悪癖と言ってもいい。

古来、収集家は二種に分かれるという。

汚れのない初版を尊ぶ者と、誰かの手垢のついた本にこそ価値を見る者だ。

私は、明らかに後者である。

先月、市の外れの旧家から、蔵書一括の買い取りを請け負った。

主は半年前に鬼籍に入り、遺された書庫を片付けたい、という親族からの依頼だった。

通された土蔵の二階は、黴と古紙の匂いに満ちていた。

故人は在野の学者だったらしい。

哲学と博物学の洋書、和漢の古典が、実によく揃っていた。

私は一冊ずつ検分しながら、その人物の知性の輪郭を、指先でなぞっていった。

蔵書を見れば、会ったことのない持ち主の人柄が、おおよそ知れるものだ。

几帳面で、懐疑的で、孤独を好む人だったろう。

私は、そう見立てた。

親族の話では、晩年は人を遠ざけ、この土蔵にこもりきりだったという。

訪う者もなく、ただ本だけを相手に、長い時間を過ごしていたらしい。

買い取った束の中に、一冊だけ毛色の違う本があった。

焦茶の革で装った、書名のない随筆集である。

奥付もなく、私家版か、あるいは故人が自製した合本のたぐいに見えた。

特異なのは、本文よりも、むしろ余白のほうだった。

頁の余白という余白に、細い鉛筆で、びっしりと余白の傍注が書き込まれている。

その筆跡は、几帳面でありながら、どこか落ち着きを欠いていた。

書痴の私には、その注のほうが、本文よりも遥かに面白く読めた。

傍注とは、読者がただ一人、著者に挑むための、小さな決闘場である。

そこには、その人がほんとうに考えていたことが、剥き出しで残る。

商品としては、書き込みは価値を損なう。

だが私はその一冊を、売り物から外し、自分の手元に置くことにした。

それからというもの、店を閉めた後で、その随筆集を読むのが、私の夜の習慣になった。

傍注は、本文への反論や、別の書物からの引用、ときに脈絡のない断片だった。

「ここで著者は誤っている」。

「この比喩は、ありふれた焼き直しに過ぎぬ」。

「人は孤独を恐れるが、孤独だけが嘘をつかない」。

故人の知性は、皮肉屋で、しかし不思議と誠実だった。

私は次第に、会ったことのないその人物と、夜ごと卓を挟んでいるような心地になった。

古書を商う者には、この種の片恋が、しばしば起こる。

声も顔も知らぬ故人と、頁の上だけで親しくなる、奇妙な交わりである。

私はその夜更けの対話を、いつしか心待ちにするようになっていた。

異変に気づいたのは、梅雨に入ったばかりの、ある雨の夜だった。

私はその夜、ふと、この傍注の主は、なぜこれほど孤独だったのかと考えていた。

頁をめくると、余白にこうあった。

「孤独なのではない。誰も最後まで読まなかっただけだ」。

私は、手を止めた。

その一行を、私は前に読んだ覚えがなかった。

いや、読んだはずがない。

なぜなら、その鉛筆の字が、まだ艶やかに、ついさっき引かれたように光っていたからだ。

私は冷静を装い、ルーペを取り出して、紙の繊維と、黒鉛の乗り方を観察した。

古い書き込みは、年月のうちに黒鉛が紙の繊維へ沈み、艶を失っていく。

半世紀前の鉛筆と、昨日の鉛筆を見分けるのは、私の商売の初歩である。

だがその一行だけは、書きたてのように、ルーペの光を弾いた。

私は本を閉じ、その夜は早くに床に就いた。

理性は、私がただ見落としていただけだ、と言った。

分厚い本である、一行や二行、読み飛ばすのは珍しくない。

私は自分にそう言い聞かせ、翌晩も読書を続けた。

翌晩も、その翌晩も、余白には、見覚えのない一行が増えていた。

そしてそれらはいつも、私がその直前に胸の内で思ったことへの、返事になっていた。

私が「この人は報われたのか」と思えば、「報いを求めぬ者だけが、最後まで読む」とあった。

私が本を閉じようかと迷えば、頁の隅に「まだ閉じるな」とあった。

私が、もう寝ようと立ちかけると、「あと一頁」と細い字が増えた。

私はもはや、本文を読んではいなかった。

余白とだけ、夜ごと対話していた。

昼間、店番をしている間も、私の心は、あの革装の本に囚われていた。

念のため、旧知の同業者に、それとなく相談してみた。

鉛筆の字が、ひとりでに増えることがあるか、と。

彼は笑って、湿気で紙が動き、薄い字が浮き出して見えることはある、と言った。

科学的で、もっともな説明だった。

私は安堵し、そして同時に、ひどく落胆している自分に気づいた。

私は、あの夜更けの対話を、失いたくなかったのだ。

一度だけ、読むのをやめようと決めた夜があった。

私は本を布に包み、店の奥の、めったに開けぬ金庫にしまった。

鍵をかけ、その晩は、別の本を枕元に積んで床に就いた。

だが、明け方まで、一睡もできなかった。

金庫の中の余白に、いま、何が書かれているのか。

その問いが、頭の中で、際限なく増殖していくのだ。

夜が白む頃には、私は金庫の前に座り込んでいた。

鍵を回す手が、自分の手ではないように、ひどく素直に動いた。

包みを解くと、余白には一行だけ、こうあった。

「逃げられないことは、もう知っているはずだ」。

故人の筆跡を、確かめたくなった。

私は買い取りの折に預かった、未整理の書簡の束を引っ張り出した。

几帳面な、しかしどこか急いたような、細い鉛筆の字。

それは確かに、随筆集の最初の傍注と、同じ手のものだった。

だが、束の最後の一通だけは、まるで別人の字で書かれていた。

線は震え、払いには、私のものとよく似た癖があった。

日付を見ると、それは、故人がこの世を辞すほんの数日前のものだった。

彼もまた、最後には、誰かの筆跡を写し取っていたのだ。

昨夜のことである。

私は思い切って、自分の鉛筆を執り、はじめて余白に書き込んでみた。

「あなたは誰か」。

そう記して、本を閉じ、明かりを消した。

職業柄、私は、他人の本へ書き込むことを、最も忌む人間である。

その私が、なぜそうしたのか、自分でも説明がつかない。

ただ、声を聞きたかった、としか言いようがない。

今朝、店を開ける前に、私はその本を開いた。

私の問いの下に、返事が増えていた。

「あなたと同じ、最後まで読んでしまった者だ」。

私は、その筆跡を、ルーペで見つめた。

故人のものと、寸分違わぬ、細い鉛筆の字だった。

だが、よく見ると、一点だけ違った。

私が書いた「誰」という字の、最後の払いに、私だけの癖がある。

返事の文字の払いも、まったく同じ癖を、持っていたのだ。

つまりそれは、いつのまにか、私自身の筆跡になっていた。

私はいま、その本を売り物の棚に戻すべきか、迷っている。

迷いながら、こうしてあなたに書いている。

そして、気づいてしまった。

この随筆集の、まだ私が一度も開いていない最終頁にだけ、ぶ厚い余白が残されていることに。

そこに何が書かれているのか、私には、もう見当がついている。

きっとそこには、今夜、私がこの本をどうするかが、もう過去形で記されている。

故人が晩年、なぜ人を遠ざけ、土蔵にこもったのかも、いまならわかる気がする。

彼もまた、誰かの残した余白を、最後まで読んでしまったのだろう。

最後まで読んだ者は、次の余白になる。

それが、あの几帳面な旧蔵者の、唯一の、そして本当の本文だったのだ。

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