余白に増えていく字

月光と本の静寂

私は古書を商って、もう三十年になる。

商いの実態は、本ではなく、人の生きた痕跡を売り買いする稼業だと、ひそかに思っている。

蔵書には、その持ち主の性分が、そのまま残る。

折り目、傍線、頁の端に残る手垢、栞代わりの古い切符。

書物は、しばしばそれを読んだ人間の鏡である。

だから私は、本そのものよりも、本に残された痕跡を読むことを好んできた。

職業上の悪癖と言ってもいい。

古来、収集家は二種に分かれるという。

汚れのない初版を尊ぶ者と、誰かの手垢のついた本にこそ価値を見る者だ。

私は、明らかに後者である。

※

先月、市の外れの旧家から、蔵書一括の買い取りを請け負った。

主は半年前に鬼籍に入り、遺された書庫を片付けたい、という親族からの依頼だった。

通された土蔵の二階は、黴と古紙の匂いに満ちていた。

故人は在野の学者だったらしい。

哲学と博物学の洋書、和漢の古典が、実によく揃っていた。

私は一冊ずつ検分しながら、その人物の知性の輪郭を、指先でなぞっていった。

蔵書を見れば、会ったことのない持ち主の人柄が、おおよそ知れるものだ。

几帳面で、懐疑的で、孤独を好む人だったろう。

私は、そう見立てた。

親族の話では、晩年は人を遠ざけ、この土蔵にこもりきりだったという。

訪う者もなく、ただ本だけを相手に、長い時間を過ごしていたらしい。

※

買い取った束の中に、一冊だけ毛色の違う本があった。

焦茶の革で装った、書名のない随筆集である。

奥付もなく、私家版か、あるいは故人が自製した合本のたぐいに見えた。

特異なのは、本文よりも、むしろ余白のほうだった。

頁の余白という余白に、細い鉛筆で、びっしりと余白の傍注が書き込まれている。

その筆跡は、几帳面でありながら、どこか落ち着きを欠いていた。

書痴の私には、その注のほうが、本文よりも遥かに面白く読めた。

傍注とは、読者がただ一人、著者に挑むための、小さな決闘場である。

そこには、その人がほんとうに考えていたことが、剥き出しで残る。

商品としては、書き込みは価値を損なう。

だが私はその一冊を、売り物から外し、自分の手元に置くことにした。

※

それからというもの、店を閉めた後で、その随筆集を読むのが、私の夜の習慣になった。

傍注は、本文への反論や、別の書物からの引用、ときに脈絡のない断片だった。

「ここで著者は誤っている」。

「この比喩は、ありふれた焼き直しに過ぎぬ」。

「人は孤独を恐れるが、孤独だけが嘘をつかない」。

故人の知性は、皮肉屋で、しかし不思議と誠実だった。

私は次第に、会ったことのないその人物と、夜ごと卓を挟んでいるような心地になった。

古書を商う者には、この種の片恋が、しばしば起こる。

声も顔も知らぬ故人と、頁の上だけで親しくなる、奇妙な交わりである。

私はその夜更けの対話を、いつしか心待ちにするようになっていた。

※

異変に気づいたのは、梅雨に入ったばかりの、ある雨の夜だった。

私はその夜、ふと、この傍注の主は、なぜこれほど孤独だったのかと考えていた。

頁をめくると、余白にこうあった。

「孤独なのではない。誰も最後まで読まなかっただけだ」。

私は、手を止めた。

その一行を、私は前に読んだ覚えがなかった。

いや、読んだはずがない。

なぜなら、その鉛筆の字が、まだ艶やかに、ついさっき引かれたように光っていたからだ。

私は冷静を装い、ルーペを取り出して、紙の繊維と、黒鉛の乗り方を観察した。

古い書き込みは、年月のうちに黒鉛が紙の繊維へ沈み、艶を失っていく。

半世紀前の鉛筆と、昨日の鉛筆を見分けるのは、私の商売の初歩である。

だがその一行だけは、書きたてのように、ルーペの光を弾いた。

私は本を閉じ、その夜は早くに床に就いた。

※

理性は、私がただ見落としていただけだ、と言った。

分厚い本である、一行や二行、読み飛ばすのは珍しくない。

私は自分にそう言い聞かせ、翌晩も読書を続けた。

翌晩も、その翌晩も、余白には、見覚えのない一行が増えていた。

そしてそれらはいつも、私がその直前に胸の内で思ったことへの、返事になっていた。

私が「この人は報われたのか」と思えば、「報いを求めぬ者だけが、最後まで読む」とあった。

私が本を閉じようかと迷えば、頁の隅に「まだ閉じるな」とあった。

私が、もう寝ようと立ちかけると、「あと一頁」と細い字が増えた。

私はもはや、本文を読んではいなかった。

余白とだけ、夜ごと対話していた。

昼間、店番をしている間も、私の心は、あの革装の本に囚われていた。

※

念のため、旧知の同業者に、それとなく相談してみた。

鉛筆の字が、ひとりでに増えることがあるか、と。

彼は笑って、湿気で紙が動き、薄い字が浮き出して見えることはある、と言った。

科学的で、もっともな説明だった。

私は安堵し、そして同時に、ひどく落胆している自分に気づいた。

私は、あの夜更けの対話を、失いたくなかったのだ。

※

一度だけ、読むのをやめようと決めた夜があった。

私は本を布に包み、店の奥の、めったに開けぬ金庫にしまった。

鍵をかけ、その晩は、別の本を枕元に積んで床に就いた。

だが、明け方まで、一睡もできなかった。

金庫の中の余白に、いま、何が書かれているのか。

その問いが、頭の中で、際限なく増殖していくのだ。

夜が白む頃には、私は金庫の前に座り込んでいた。

鍵を回す手が、自分の手ではないように、ひどく素直に動いた。

包みを解くと、余白には一行だけ、こうあった。

「逃げられないことは、もう知っているはずだ」。

※

故人の筆跡を、確かめたくなった。

私は買い取りの折に預かった、未整理の書簡の束を引っ張り出した。

几帳面な、しかしどこか急いたような、細い鉛筆の字。

それは確かに、随筆集の最初の傍注と、同じ手のものだった。

だが、束の最後の一通だけは、まるで別人の字で書かれていた。

線は震え、払いには、私のものとよく似た癖があった。

日付を見ると、それは、故人がこの世を辞すほんの数日前のものだった。

彼もまた、最後には、誰かの筆跡を写し取っていたのだ。

※

昨夜のことである。

私は思い切って、自分の鉛筆を執り、はじめて余白に書き込んでみた。

「あなたは誰か」。

そう記して、本を閉じ、明かりを消した。

職業柄、私は、他人の本へ書き込むことを、最も忌む人間である。

その私が、なぜそうしたのか、自分でも説明がつかない。

ただ、声を聞きたかった、としか言いようがない。

※

今朝、店を開ける前に、私はその本を開いた。

私の問いの下に、返事が増えていた。

「あなたと同じ、最後まで読んでしまった者だ」。

私は、その筆跡を、ルーペで見つめた。

故人のものと、寸分違わぬ、細い鉛筆の字だった。

だが、よく見ると、一点だけ違った。

私が書いた「誰」という字の、最後の払いに、私だけの癖がある。

返事の文字の払いも、まったく同じ癖を、持っていたのだ。

つまりそれは、いつのまにか、私自身の筆跡になっていた。

※

私はいま、その本を売り物の棚に戻すべきか、迷っている。

迷いながら、こうしてあなたに書いている。

そして、気づいてしまった。

この随筆集の、まだ私が一度も開いていない最終頁にだけ、ぶ厚い余白が残されていることに。

そこに何が書かれているのか、私には、もう見当がついている。

きっとそこには、今夜、私がこの本をどうするかが、もう過去形で記されている。

故人が晩年、なぜ人を遠ざけ、土蔵にこもったのかも、いまならわかる気がする。

彼もまた、誰かの残した余白を、最後まで読んでしまったのだろう。

※

最後まで読んだ者は、次の余白になる。

それが、あの几帳面な旧蔵者の、唯一の、そして本当の本文だったのだ。

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