虫送りの実盛さま

夕暮れの行列

私の生まれた村では、夏のはじめに虫送りという行事があった。

稲につく虫を、火で田から送り出すのだという。

子どもの私には、その理屈がよく分からなかった。

ただ、その晩だけは、大人たちの顔つきが変わった。

誰ひとり、笑う者がいなかった。

祭りと呼ぶには、あまりに静かな夜だった。

行事の前になると、村でいちばんの年寄りの婆さまが、藁で人形をこしらえた。

皆はそれを、実盛さまと呼んだ。

昔、この土地の田で命を散らした武者の名だと、後になって知った。

実盛という武者は、稲株に足を取られて討たれたのだという。

その無念が虫となり、稲を食うのだと、村の者は信じていた。

だから人形に名を与え、火に乗せて、土地から送り出す。

虫送りとは、虫を憎む行事ではない。

討たれた武者を弔う行事なのだと、祖父は私に教えた。

弔いであるならば、なおのこと、粗末には扱えぬ。

人形を背負う役の者は、前の晩から塩で身を清めた。

その年の実盛さまは、婆さまが亡くなる、ほんの少し前にこしらえたものだった。

最後の仕事のように、念入りに藁を編んだと、後で聞いた。

けれど、やはり目だけは、入れなかったという。

背丈は、ちょうど幼い私くらいあった。

藁を固く束ねただけの、素朴な人の形である。

不思議なことに、その顔には、目がなかった。

のっぺりとした藁の面のまま、何ひとつ描かれていない。

一度、婆さまに尋ねたことがある。

なぜ目を入れぬのか、と。

婆さまは手を止めずに、低い声で答えた。

「目を入れると、こちらを見るでな」

それきり、私は二度と尋ねなかった。

婆さまの指は、節くれだって、藁よりも乾いて見えた。

その手が動くと、ただの藁束が、ひとの形に立ち上がっていく。

私は、それを見ているのが、なぜか恐ろしかった。

虫送りの火は、村のはずれの川で消すのが、古くからの決まりだった。

日が落ちてから、行事は始まる。

男たちが松明を掲げ、田の畦を一列になって歩いた。

先頭の者が鉦を鳴らし、最後尾の者が、実盛さまを背負って運ぶ。

村のはずれの川まで人形を送り、そこで焼くのである。

道々、守らねばならぬ決まりが、ひとつあった。

歩いている間は、決して後ろを振り返ってはならぬ。

ただ前だけを見て、川まで歩く。

なぜそうなのかは、誰も教えてくれなかった。

それでも、村の者は皆、その決まりを守っていた。

火の列が田を巡る晩は、犬さえ鳴かなかった。

村には、もうひとつ、口伝えの言い伝えがあった。

送り損ねた年には、実盛さまが自分の足で帰ってくる、と。

だから決して、振り返ってはならぬのだと、祖父は声を低めた。

私が十六、七の頃だったと思う。

戦が長く続いて、村の若い男は、ずいぶんと減っていた。

その年の虫送りは、人の数が足りなかった。

列の最後尾で実盛さまを背負う役が、私に回ってきた。

前の晩、私は言われたとおり、塩で身を清めた。

母は何も言わず、ただ私の襟元を、固く合わせ直した。

その手が、わずかに震えていたのを覚えている。

母は、私が役を引き受けたことを、喜んではいなかった。

藁の人形は、見た目よりもずっと重かった。

背に負うと、湿った草の、青い匂いがした。

松明の列は、夕闇の田を、ゆっくりと進んでいく。

鉦の音だけが、規則正しく闇に響いていた。

松明の脂の焼ける匂いが、田の水の匂いと混じった。

蛙の声が、列の通る先から、順に止んでいった。

まるで、何かが通るのを、田じゅうが息を潜めて待つようだった。

畦は細く、足もとはぬかるんでいた。

半ばを過ぎたあたりで、私は妙なことに気づいた。

背の人形が、少しずつ、温かくなっていく。

藁のはずのものに、人の肌のような熱がこもっていた。

気のせいだと、私は自分に言い聞かせた。

だが、背の藁が、かすかに身じろぎした気がした。

風は、まったくなかった。

私は、唾を呑むことさえ、ためらった。

音を立てれば、それがこちらに気づく気がした。

そのうちに、足音が増えた。

私のすぐ後ろで、もうひと組の足音が、ぬかるみを踏んでいた。

私の歩みに、半拍だけ遅れて、ついてくる。

列の最後尾は、たしかに私のはずだった。

私の後ろには、誰もいないはずだった。

振り返ってはならぬ、という決まりだけが、頭の中を占めていた。

私は前を見て、ただ歩き続けた。

背中の熱は、川が近づくにつれて、ますます濃くなった。

うなじに、人の吐息のようなものが、かかった気もした。

足音は、川の音が聞こえはじめるまで、ずっと止まなかった。

川の岸に着くと、男たちは黙って実盛さまを下ろした。

あとは、火にくべるばかりであった。

背から人形を下ろしたとき、松明の灯りが、その顔を照らした。

実盛さまの顔に、目が描かれていた。

のっぺりとしていたはずの藁の面に、墨で、二つの目が入っていた。

その目は、川のほうではなく、村のほうを向いていた。

誰が描いたのかと、男たちは互いの顔を見合わせた。

名乗り出る者は、ひとりもいなかった。

目を入れる役だった婆さまは、その春に亡くなっていた。

しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。

それでも、虫送りを途中でやめることは、できなかった。

男たちは黙したまま、実盛さまを火にくべた。

藁の爆ぜる音の中で、人形は村のほうを見たまま、崩れていった。

私は最後まで、その二つの目から、目を逸らすことができなかった。

灰になるまで、その目だけが、こちらを見ているように思えた。

火が人形を呑むまで、誰ひとり身じろぎしなかった。

川風が、その灰を、村のほうへと運んでいった。

流れてくる灰を、誰も手で払おうとはしなかった。

翌朝のことである。

実盛さまをこしらえた、婆さまの家の前に、足あとが残っていた。

川のほうから、村のほうへと続いていた。

裸の足の、深く沈んだ跡だった。

ひどく重いものが、ゆっくりと歩いてきたかのように。

足あとは、閉ざされた婆さまの戸口の前で、ふつりと消えていた。

戸を開けて確かめた者は、ひとりもいなかったという。

村の年寄りは、ただ黙って手を合わせるばかりだった。

誰も、あの目のことを口にしなかった。

口にすれば、また来る。

そういう気が、皆の心の底にあったのだと思う。

その年を最後に、村で虫送りをする者はいなくなった。

稲につく虫は、不思議と、それきり寄りつかなくなったと聞く。

だが、それを喜ぶ者は、ひとりもいなかった。

送るべきものを、送れなくなった村に、何が残ったのか。

それを思うと、今でも背筋が冷える。

私も、もうずいぶんと長く生きた。

今でも夏のはじめになると、田の畦を歩く。

日の落ちる頃には、決して後ろを振り返らないことにしている。

ずっと昔、一度だけ、振り返らずに足を止めたことがあった。

私の足音が止まった、そのすぐあとに。

もう半拍、ぬかるみを踏む音が、確かに聞こえた。

それきり私は、田の暮れ方というものを、信じないことにしている。

婆さまの家は、とうに取り壊されて、今はただの田になっている。

その田の畦を歩くと、夏の夕暮れだけ、足もとがやけにぬかるむ。

雨の降らぬ日でも、そこだけは、いつも湿っている。

あの晩、私の後ろを歩いていたものが、何であったのか。

いまも分からぬし、知りたいとも思わぬ。

ただ、背負った藁のあの温もりだけは、今も掌が覚えている。

藁の人形に目を入れてはならぬ理由を、私はいまも知らない。

ただ、こちらを見るのだと、婆さまは言った。

その言葉の意味だけは、年を取るほどに、よく分かるようになった。

だから私は、いまも藁を編まない。

目のない人形ほど、こちらを見るものはないと、知っているからだ。

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