虫送りの実盛さま

夕暮れの行列

私の生まれた村では、夏のはじめに虫送りという行事があった。

稲につく虫を、火で田から送り出すのだという。

子どもの私には、その理屈がよく分からなかった。

ただ、その晩だけは、大人たちの顔つきが変わった。

誰ひとり、笑う者がいなかった。

祭りと呼ぶには、あまりに静かな夜だった。

※

行事の前になると、村でいちばんの年寄りの婆さまが、藁で人形をこしらえた。

皆はそれを、実盛さまと呼んだ。

昔、この土地の田で命を散らした武者の名だと、後になって知った。

実盛という武者は、稲株に足を取られて討たれたのだという。

その無念が虫となり、稲を食うのだと、村の者は信じていた。

だから人形に名を与え、火に乗せて、土地から送り出す。

虫送りとは、虫を憎む行事ではない。

討たれた武者を弔う行事なのだと、祖父は私に教えた。

弔いであるならば、なおのこと、粗末には扱えぬ。

人形を背負う役の者は、前の晩から塩で身を清めた。

その年の実盛さまは、婆さまが亡くなる、ほんの少し前にこしらえたものだった。

最後の仕事のように、念入りに藁を編んだと、後で聞いた。

けれど、やはり目だけは、入れなかったという。

背丈は、ちょうど幼い私くらいあった。

藁を固く束ねただけの、素朴な人の形である。

不思議なことに、その顔には、目がなかった。

のっぺりとした藁の面のまま、何ひとつ描かれていない。

一度、婆さまに尋ねたことがある。

なぜ目を入れぬのか、と。

婆さまは手を止めずに、低い声で答えた。

「目を入れると、こちらを見るでな」

それきり、私は二度と尋ねなかった。

婆さまの指は、節くれだって、藁よりも乾いて見えた。

その手が動くと、ただの藁束が、ひとの形に立ち上がっていく。

私は、それを見ているのが、なぜか恐ろしかった。

虫送りの火は、村のはずれの川で消すのが、古くからの決まりだった。

日が落ちてから、行事は始まる。

男たちが松明を掲げ、田の畦を一列になって歩いた。

先頭の者が鉦を鳴らし、最後尾の者が、実盛さまを背負って運ぶ。

村のはずれの川まで人形を送り、そこで焼くのである。

道々、守らねばならぬ決まりが、ひとつあった。

歩いている間は、決して後ろを振り返ってはならぬ。

ただ前だけを見て、川まで歩く。

なぜそうなのかは、誰も教えてくれなかった。

それでも、村の者は皆、その決まりを守っていた。

火の列が田を巡る晩は、犬さえ鳴かなかった。

村には、もうひとつ、口伝えの言い伝えがあった。

送り損ねた年には、実盛さまが自分の足で帰ってくる、と。

だから決して、振り返ってはならぬのだと、祖父は声を低めた。

※

私が十六、七の頃だったと思う。

戦が長く続いて、村の若い男は、ずいぶんと減っていた。

その年の虫送りは、人の数が足りなかった。

列の最後尾で実盛さまを背負う役が、私に回ってきた。

前の晩、私は言われたとおり、塩で身を清めた。

母は何も言わず、ただ私の襟元を、固く合わせ直した。

その手が、わずかに震えていたのを覚えている。

母は、私が役を引き受けたことを、喜んではいなかった。

藁の人形は、見た目よりもずっと重かった。

背に負うと、湿った草の、青い匂いがした。

松明の列は、夕闇の田を、ゆっくりと進んでいく。

鉦の音だけが、規則正しく闇に響いていた。

松明の脂の焼ける匂いが、田の水の匂いと混じった。

蛙の声が、列の通る先から、順に止んでいった。

まるで、何かが通るのを、田じゅうが息を潜めて待つようだった。

畦は細く、足もとはぬかるんでいた。

半ばを過ぎたあたりで、私は妙なことに気づいた。

背の人形が、少しずつ、温かくなっていく。

藁のはずのものに、人の肌のような熱がこもっていた。

気のせいだと、私は自分に言い聞かせた。

だが、背の藁が、かすかに身じろぎした気がした。

風は、まったくなかった。

私は、唾を呑むことさえ、ためらった。

音を立てれば、それがこちらに気づく気がした。

そのうちに、足音が増えた。

私のすぐ後ろで、もうひと組の足音が、ぬかるみを踏んでいた。

私の歩みに、半拍だけ遅れて、ついてくる。

列の最後尾は、たしかに私のはずだった。

私の後ろには、誰もいないはずだった。

振り返ってはならぬ、という決まりだけが、頭の中を占めていた。

私は前を見て、ただ歩き続けた。

背中の熱は、川が近づくにつれて、ますます濃くなった。

うなじに、人の吐息のようなものが、かかった気もした。

足音は、川の音が聞こえはじめるまで、ずっと止まなかった。

川の岸に着くと、男たちは黙って実盛さまを下ろした。

あとは、火にくべるばかりであった。

背から人形を下ろしたとき、松明の灯りが、その顔を照らした。

実盛さまの顔に、目が描かれていた。

のっぺりとしていたはずの藁の面に、墨で、二つの目が入っていた。

その目は、川のほうではなく、村のほうを向いていた。

誰が描いたのかと、男たちは互いの顔を見合わせた。

名乗り出る者は、ひとりもいなかった。

目を入れる役だった婆さまは、その春に亡くなっていた。

しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。

それでも、虫送りを途中でやめることは、できなかった。

男たちは黙したまま、実盛さまを火にくべた。

藁の爆ぜる音の中で、人形は村のほうを見たまま、崩れていった。

私は最後まで、その二つの目から、目を逸らすことができなかった。

灰になるまで、その目だけが、こちらを見ているように思えた。

火が人形を呑むまで、誰ひとり身じろぎしなかった。

川風が、その灰を、村のほうへと運んでいった。

流れてくる灰を、誰も手で払おうとはしなかった。

翌朝のことである。

実盛さまをこしらえた、婆さまの家の前に、足あとが残っていた。

川のほうから、村のほうへと続いていた。

裸の足の、深く沈んだ跡だった。

ひどく重いものが、ゆっくりと歩いてきたかのように。

足あとは、閉ざされた婆さまの戸口の前で、ふつりと消えていた。

戸を開けて確かめた者は、ひとりもいなかったという。

村の年寄りは、ただ黙って手を合わせるばかりだった。

誰も、あの目のことを口にしなかった。

口にすれば、また来る。

そういう気が、皆の心の底にあったのだと思う。

その年を最後に、村で虫送りをする者はいなくなった。

稲につく虫は、不思議と、それきり寄りつかなくなったと聞く。

だが、それを喜ぶ者は、ひとりもいなかった。

送るべきものを、送れなくなった村に、何が残ったのか。

それを思うと、今でも背筋が冷える。

※

私も、もうずいぶんと長く生きた。

今でも夏のはじめになると、田の畦を歩く。

日の落ちる頃には、決して後ろを振り返らないことにしている。

ずっと昔、一度だけ、振り返らずに足を止めたことがあった。

私の足音が止まった、そのすぐあとに。

もう半拍、ぬかるみを踏む音が、確かに聞こえた。

それきり私は、田の暮れ方というものを、信じないことにしている。

婆さまの家は、とうに取り壊されて、今はただの田になっている。

その田の畦を歩くと、夏の夕暮れだけ、足もとがやけにぬかるむ。

雨の降らぬ日でも、そこだけは、いつも湿っている。

あの晩、私の後ろを歩いていたものが、何であったのか。

いまも分からぬし、知りたいとも思わぬ。

ただ、背負った藁のあの温もりだけは、今も掌が覚えている。

藁の人形に目を入れてはならぬ理由を、私はいまも知らない。

ただ、こちらを見るのだと、婆さまは言った。

その言葉の意味だけは、年を取るほどに、よく分かるようになった。

だから私は、いまも藁を編まない。

目のない人形ほど、こちらを見るものはないと、知っているからだ。

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