運転代行の最後の客

雪の山道と温かな灯火

運転代行という仕事を、私は三十年あまり続けてきた。

雪深い町で、酔うた客の車を、その家まで送り届ける生業である。

夫が随伴の車で後ろを走り、私が客の車を操る。

客の降りたあと、その車で夫の隣まで戻る、それが段取りだ。

それが、私たち夫婦のささやかな暮らしの糧であった。

六十を過ぎても、ハンドルの感触ばかりは衰えなんだ。

雪道の癖も、橋のたわみも、目をつむっていてもわかる。

けれど、あの晩のことだけは、今もって誰にも話していない。

夫のほかには、ただのひとりにも。

二月の、底冷えのする夜であった。

雪は昼のうちに降りやんで、町はしんと静まりかえっていた。

屋根から落ちる雪のかたまりの音さえ、その夜は聞こえなんだ。

場末の小料理屋から迎えを頼む電話が入ったのは、十一時を回った頃だ。

私は手袋を二枚重ね、白い息を吐きながら車を出した。

街灯のほかは、どの家の窓も、もう灯を落としていた。

行ってみると、白髪の老人がひとり、店先の灯の下に立っていた。

ひどく古めかしい外套を着て、背筋をまっすぐに伸ばしている。

雪の上に、その人の足跡が見当たらぬのを、私はぼんやりと思った。

風で消えたのだろう、と、そのときは深くも考えなんだ。

「遅くにすまぬが、家まで頼みます」と、丁寧な物言いであった。

酔うた風もなく、声はよく澄んでいた。

歳の頃は八十か、もっと上か、見当もつかなんだ。

客の車は、雪をたっぷりとかぶった古い国産車であった。

私が雪を払い、運転席に乗り込むと、車内は乾いた埃の匂いがした。

久しく動かしておらぬ蔵のような、冷たく古い匂いだ。

座席の布は、指でなぞると、しっとりと湿っていた。

それでも鍵をひねると、機関は素直に目を覚ました。

妙だ、と私は思うたが、口には出さなんだ。

客商売の長い癖で、余計なことは言わぬのだ。

フロントの隅に貼られた検査の標章は、ずいぶんと昔の年号であった。

こんな古い車で、よく町まで下りてこられたものだ、と思った。

「峠の、奥の在所まで」と、老人は静かに行き先を告げた。

それは土地の者が、夜には決して通らぬと言う道であった。

私は黙ってうなずき、ゆっくりと車をすべらせた。

町を抜け、川沿いの坂をゆるゆると登っていく。

川は半ば凍りつき、黒い水だけが、まんなかを細く流れていた。

後ろを走る夫の前照灯が、ある曲がり角で、ふっと消えた。

はっとして振り返ると、すぐにまた、灯はともった。

後で聞けば、ちょうどその時、夫の車は機関が数秒ばかり止まったのだという。

老人は後部の座席で、ただ静かに、窓の外を眺めていた。

「長いこと、待たせてしまいました」と、ぽつりと言う。

誰をです、と私が問うと、「家の者を」と答えた。

「もう、何年も、何年も、遅れてしもうたのです」と。

その物言いは、どこか遠い昔の芝居の台詞のように聞こえた。

私は相槌だけを打って、坂を登り続けた。

雪の照り返しのほかには、灯ひとつない山道である。

杉木立のあいだから、墨を流したような黒い空がのぞいていた。

暖房を強めても、足もとの冷えはいっこうに引かなかった。

後ろの座席だけが、底のほうから冷えてくるように思えた。

鏡をのぞくと、老人は目を閉じ、手を膝の上で重ねていた。

祈っているような、その静かな姿が、なぜか胸に残った。

ラジオをつけてみたが、砂を撒くような雑音しか拾わなんだ。

私はすぐに、それを消した。

ときおり、後ろの座席から、かすかな衣擦れの音がした。

けれど鏡には、身じろぎひとつせぬ老人が映るばかりであった。

やがて道は細くなり、両側から杉が迫ってきた。

轍はとうに雪に埋もれ、ただ白い一筋がのびているばかりだ。

タイヤの軋む音だけが、しんとした夜にやけに大きく響いた。

曲がりきった先に、ぼんやりと門灯のともった一軒の家が見えた。

古い造りの、けれど構えの立派な家であった。

玄関のあたりには、人の影が二つ、三つ、迎えに出ているようだった。

小さな子の影も、まじっているように見えた。

老人は座席で深く頭を下げ、懐から札を出して私の手に握らせた。

それは、今ではとんと見ぬ、古い肖像の紙幣であった。

「迎えに来てくれて、ありがとう」と、老人は言うた。

そうして雪を踏みしめ、ゆっくりと門の内へ消えていった。

迎えの影たちが、いっせいに頭を下げたように見えた。

私はなぜだか、胸の奥がじんと温こうなった。

よい家に、ようやっと帰れたのだ、と思った。

門灯の橙色が、降りはじめた雪に、長く尾を引いていた。

私は車を降り、坂の途中で待つ夫の車へと、雪道を歩いて戻った。

歩きながら振り返ると、家の灯はもう、杉に隠れて見えなかった。

足もとの雪を踏む音だけが、私についてきた。

いや、私の足音のほかに、もうひとつ、軽い足音がついてくるようだった。

振り返らずに、私はただ歩いた。

助手席に身を入れると、夫が怪訝な顔で私を見た。

「お前、今までいったい、誰と話しておった」と言う。

客を送り届けてきた、と私が答えると、夫は長いこと黙り込んだ。

夫の目には、私はひとりであの車に乗り込んだように見えたのだという。

誰も乗せぬまま、坂を登っていったのだと。

そうして、舗装の切れた草道の奥で、ふらりと車を降りたのだと。

その先には家などなく、崩れた礎石が雪に埋もれているばかりだったと。

夫の声は、いつになく低く、かすれていた。

私は握らされた古い札を、たしかに料金箱へ入れていた。

指先には、まだ紙の、しっとりとした冷たさが残っていた。

その晩は、二人とも、それきり何も言わずに山を下りた。

家に帰り着くまで、夫は一度も、私のほうを見なかった。

夫はその朝、味噌汁にも箸をつけなんだ。

あの峠の話は、それきり、二人でしなくなった。

翌朝、私は控えの複写帳を開いて、思わず手が止まった。

行き先を記す欄に、私の知らぬ手で、住所が書きつけてあったのだ。

流れるような、古い時代の達者な筆跡であった。

私はそのような字を、生まれてこのかた書いたためしがない。

墨の色は、まだ乾ききっていないようにも見えた。

そうして、その住所の末尾に、こう添えてあった。

「迎えに来てくれて、ありがとう」と。

私は複写帳をそっと閉じ、しばらく台所の椅子に座り込んでいた。

窓の外では、また雪が静かに降りはじめていた。

湯呑みの茶は、いつのまにか、すっかり冷めていた。

のちに、土地の年寄りに、それとなく尋ねてみたことがある。

あの峠の奥には、戦の前まで、一軒の旧家があったのだという。

家の主が出征したきり、とうとう帰らなんだ家だと。

残された家の者は、迎えの来ぬまま、ある雪の年に絶えたのだと。

年寄りは、それ以上は語らず、ただ茶をすすっていた。

私が雪の夜に送り届けたのが、いったい誰であったのか。

それを思うても、不思議と、恐ろしくはなかった。

あの人は、長い長い道のりを経て、ようやく家に帰れたのだ。

迎えに出た影は、待ちわびた家族であったのだろう。

そう思うことに、私は決めている。

ただ、ひとつだけ、今も腑に落ちぬことがある。

その晩から、料金箱の底は、線香の匂いがとれない。

何度洗うても、雪のような冷たい匂いに混じって、かすかに薫るのだ。

私はもう、運転代行の仕事をやめた。

齢のせいだと、人には言うている。

けれど今でも、雪の夜に古い車を見かけると、ふと思うのだ。

あの峠の奥の門灯は、まだ橙色に、ともっているだろうかと。

そうして、迎えを待つ人は、まだどこかにいるのだろうかと。

けれど、あの「ありがとう」という声だけは、今も耳の奥に残っている。

あれは、恨みでも、未練でもなかったように思う。

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