
運転代行という仕事を、私は三十年あまり続けてきた。
雪深い町で、酔うた客の車を、その家まで送り届ける生業である。
夫が随伴の車で後ろを走り、私が客の車を操る。
客の降りたあと、その車で夫の隣まで戻る、それが段取りだ。
それが、私たち夫婦のささやかな暮らしの糧であった。
六十を過ぎても、ハンドルの感触ばかりは衰えなんだ。
雪道の癖も、橋のたわみも、目をつむっていてもわかる。
けれど、あの晩のことだけは、今もって誰にも話していない。
夫のほかには、ただのひとりにも。
※
二月の、底冷えのする夜であった。
雪は昼のうちに降りやんで、町はしんと静まりかえっていた。
屋根から落ちる雪のかたまりの音さえ、その夜は聞こえなんだ。
場末の小料理屋から迎えを頼む電話が入ったのは、十一時を回った頃だ。
私は手袋を二枚重ね、白い息を吐きながら車を出した。
街灯のほかは、どの家の窓も、もう灯を落としていた。
行ってみると、白髪の老人がひとり、店先の灯の下に立っていた。
ひどく古めかしい外套を着て、背筋をまっすぐに伸ばしている。
雪の上に、その人の足跡が見当たらぬのを、私はぼんやりと思った。
風で消えたのだろう、と、そのときは深くも考えなんだ。
「遅くにすまぬが、家まで頼みます」と、丁寧な物言いであった。
酔うた風もなく、声はよく澄んでいた。
歳の頃は八十か、もっと上か、見当もつかなんだ。
客の車は、雪をたっぷりとかぶった古い国産車であった。
私が雪を払い、運転席に乗り込むと、車内は乾いた埃の匂いがした。
久しく動かしておらぬ蔵のような、冷たく古い匂いだ。
座席の布は、指でなぞると、しっとりと湿っていた。
それでも鍵をひねると、機関は素直に目を覚ました。
妙だ、と私は思うたが、口には出さなんだ。
客商売の長い癖で、余計なことは言わぬのだ。
フロントの隅に貼られた検査の標章は、ずいぶんと昔の年号であった。
こんな古い車で、よく町まで下りてこられたものだ、と思った。
「峠の、奥の在所まで」と、老人は静かに行き先を告げた。
それは土地の者が、夜には決して通らぬと言う道であった。
私は黙ってうなずき、ゆっくりと車をすべらせた。
※
町を抜け、川沿いの坂をゆるゆると登っていく。
川は半ば凍りつき、黒い水だけが、まんなかを細く流れていた。
後ろを走る夫の前照灯が、ある曲がり角で、ふっと消えた。
はっとして振り返ると、すぐにまた、灯はともった。
後で聞けば、ちょうどその時、夫の車は機関が数秒ばかり止まったのだという。
老人は後部の座席で、ただ静かに、窓の外を眺めていた。
「長いこと、待たせてしまいました」と、ぽつりと言う。
誰をです、と私が問うと、「家の者を」と答えた。
「もう、何年も、何年も、遅れてしもうたのです」と。
その物言いは、どこか遠い昔の芝居の台詞のように聞こえた。
私は相槌だけを打って、坂を登り続けた。
雪の照り返しのほかには、灯ひとつない山道である。
杉木立のあいだから、墨を流したような黒い空がのぞいていた。
暖房を強めても、足もとの冷えはいっこうに引かなかった。
後ろの座席だけが、底のほうから冷えてくるように思えた。
鏡をのぞくと、老人は目を閉じ、手を膝の上で重ねていた。
祈っているような、その静かな姿が、なぜか胸に残った。
ラジオをつけてみたが、砂を撒くような雑音しか拾わなんだ。
私はすぐに、それを消した。
ときおり、後ろの座席から、かすかな衣擦れの音がした。
けれど鏡には、身じろぎひとつせぬ老人が映るばかりであった。
※
やがて道は細くなり、両側から杉が迫ってきた。
轍はとうに雪に埋もれ、ただ白い一筋がのびているばかりだ。
タイヤの軋む音だけが、しんとした夜にやけに大きく響いた。
曲がりきった先に、ぼんやりと門灯のともった一軒の家が見えた。
古い造りの、けれど構えの立派な家であった。
玄関のあたりには、人の影が二つ、三つ、迎えに出ているようだった。
小さな子の影も、まじっているように見えた。
老人は座席で深く頭を下げ、懐から札を出して私の手に握らせた。
それは、今ではとんと見ぬ、古い肖像の紙幣であった。
「迎えに来てくれて、ありがとう」と、老人は言うた。
そうして雪を踏みしめ、ゆっくりと門の内へ消えていった。
迎えの影たちが、いっせいに頭を下げたように見えた。
私はなぜだか、胸の奥がじんと温こうなった。
よい家に、ようやっと帰れたのだ、と思った。
門灯の橙色が、降りはじめた雪に、長く尾を引いていた。
私は車を降り、坂の途中で待つ夫の車へと、雪道を歩いて戻った。
歩きながら振り返ると、家の灯はもう、杉に隠れて見えなかった。
足もとの雪を踏む音だけが、私についてきた。
いや、私の足音のほかに、もうひとつ、軽い足音がついてくるようだった。
振り返らずに、私はただ歩いた。
※
助手席に身を入れると、夫が怪訝な顔で私を見た。
「お前、今までいったい、誰と話しておった」と言う。
客を送り届けてきた、と私が答えると、夫は長いこと黙り込んだ。
夫の目には、私はひとりであの車に乗り込んだように見えたのだという。
誰も乗せぬまま、坂を登っていったのだと。
そうして、舗装の切れた草道の奥で、ふらりと車を降りたのだと。
その先には家などなく、崩れた礎石が雪に埋もれているばかりだったと。
夫の声は、いつになく低く、かすれていた。
私は握らされた古い札を、たしかに料金箱へ入れていた。
指先には、まだ紙の、しっとりとした冷たさが残っていた。
その晩は、二人とも、それきり何も言わずに山を下りた。
家に帰り着くまで、夫は一度も、私のほうを見なかった。
夫はその朝、味噌汁にも箸をつけなんだ。
あの峠の話は、それきり、二人でしなくなった。
※
翌朝、私は控えの複写帳を開いて、思わず手が止まった。
行き先を記す欄に、私の知らぬ手で、住所が書きつけてあったのだ。
流れるような、古い時代の達者な筆跡であった。
私はそのような字を、生まれてこのかた書いたためしがない。
墨の色は、まだ乾ききっていないようにも見えた。
そうして、その住所の末尾に、こう添えてあった。
「迎えに来てくれて、ありがとう」と。
私は複写帳をそっと閉じ、しばらく台所の椅子に座り込んでいた。
窓の外では、また雪が静かに降りはじめていた。
湯呑みの茶は、いつのまにか、すっかり冷めていた。
※
のちに、土地の年寄りに、それとなく尋ねてみたことがある。
あの峠の奥には、戦の前まで、一軒の旧家があったのだという。
家の主が出征したきり、とうとう帰らなんだ家だと。
残された家の者は、迎えの来ぬまま、ある雪の年に絶えたのだと。
年寄りは、それ以上は語らず、ただ茶をすすっていた。
私が雪の夜に送り届けたのが、いったい誰であったのか。
それを思うても、不思議と、恐ろしくはなかった。
あの人は、長い長い道のりを経て、ようやく家に帰れたのだ。
迎えに出た影は、待ちわびた家族であったのだろう。
そう思うことに、私は決めている。
ただ、ひとつだけ、今も腑に落ちぬことがある。
その晩から、料金箱の底は、線香の匂いがとれない。
何度洗うても、雪のような冷たい匂いに混じって、かすかに薫るのだ。
私はもう、運転代行の仕事をやめた。
齢のせいだと、人には言うている。
けれど今でも、雪の夜に古い車を見かけると、ふと思うのだ。
あの峠の奥の門灯は、まだ橙色に、ともっているだろうかと。
そうして、迎えを待つ人は、まだどこかにいるのだろうかと。
けれど、あの「ありがとう」という声だけは、今も耳の奥に残っている。
あれは、恨みでも、未練でもなかったように思う。