無記と呼ばれた桐の名箱
去年の11月、県の北端にある神無の谷へ古書の出張買取に入った。奥座敷へ通される前に、この部屋では人の名を呼ばないでくださいと言われた。祠の土台にあった桐の名箱は…
去年の11月、県の北端にある神無の谷へ古書の出張買取に入った。奥座敷へ通される前に、この部屋では人の名を呼ばないでくださいと言われた。祠の土台にあった桐の名箱は…
深夜2時57分から3時までの三分間は、番組表の上では何も入っていません。コミュニティFMの当直に入った私は、その三分の確認用録音にだけ低い声が入っていることに気…
去年の4月から今年の6月まで、私は同じ依頼主の単身引越を三度運んだ。そのたびに、伝票に載っていない無地の段ボールが一つ、鍵を開ける前から新しい部屋の玄関に置かれ…
洲影の郵便局の裏には、配らない葉書を入れる留め置き棚がある。入るのは消印の日付が翌日になっている葉書だけで、切手は貼られていない。宛名はいつも浜通りの十一軒。先…
ロープアクセスの現場で、ロープは二本と決まっている。それなのに上で私を見ている相方だけが、代わる代わる三本目のロープを見たと言って現場を離れていった。私には一度…
向渡へ渡る短い橋が架け替えになり、看板屋の私は親柱の写しを引き受けた。石の欠けまで写せたのに、根元のもやい輪だけが新しい柱に付かなかった。工房に預かった輪には、…
湾岸の物流倉庫の四階、E通路の突き当たりに、床を四角く抜いて据えられた丸い石がある。動かせなかったのだと先輩は言い、その前では決して口をきかなかった。ある晩、私…
市役所で公共の時計を合わせて回っていた頃、広場の時計塔だけが二分進む時計だった。何度直しても翌月には必ず同じだけ先を指している。明治の頃まで町中に時を配っていた…
昭和五十七年、国鉄の保線区で私が受け持った十四キロには用地境界の柵があり、その外側だけ草が伸びなかった怖い話。刈る者はいない。境界杭の外に残る内向きの素足の跡と…
買い取った蔵書から抜いたはずの古書の紙片が、翌朝また同じ頁に挟まっている。鉛筆の数字は、私が抜いた回数と同じだけ減っていった。四分遅れの柱時計と、いないはずの人…
神田の古書店に、同じ一冊が三度持ち込まれた。臙脂の布装、貼られた貸出票、十七の罫のうち十三の行だけが白い。借りた覚えのない本の、その行に自分の字があった日から、…
埼玉北部の分譲地に建つ空き家の錠を、私は錠前技師として二日がかりで十一箇所すべて交換した。前の持ち主は施設へ移るとき、鍵を一本だけ持って行ったという。作業を終え…
深夜の品出しのアルバイトで、俺と先輩は同じ紺のエプロンを着て、地下に残る旧魚市場の氷室へ降りた。だが石段を上がってきたのは一人だけだった。顔を笠で隠し名前も呼ば…
怖い話。深夜に取材音源を文字起こしする四十代のライターが、二人だけのはずの対談に低く混じる三人目の声に気づく。相づちはやがて録音の中の会話ではなく、いま聞いてい…
三十二年前の初冬、京都の古書店を訪れた白髪の老人が一冊の和綴じ本を置いていった。不思議な話だと思いながら棚の奥に仕舞い続けたが、三十年後のある日、その本に縁のあ…
引っ越した翌月から、毎晩午後11時に隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。でも管理会社に確認すると、その部屋は2年前から空室だと言う。そして朝、部屋の内側に一本…
中小IT企業の受付として働く私の元に、昼休み明けだけ鳴る謎の内線があった。昭和五十三年入社の田中さんを呼ぶ、穏やかな男の声。三年経ったある日、その声が私の名字を…
祖父の七回忌で帰省し、遺品整理をしていると古い連絡帳が見つかった。亡くなった人の名前に命日が書き込まれていた。そして最後のページには、自分の名前があった。…
転勤で引越した先の自治会に参加した私。公民館の一番奥の席に、毎回同じ老婦人が静かに座っていた。誰も彼女のことを話してくれない。その理由に気づいた時、背筋が冷えた…
廃線になった長野の山間部の駅跡を取材した写真家が出会った老人。宿で写真を確認すると、老人の影だけが最初から写り込んでいて、しかもその影の向きが太陽と逆方向だった…