黄色いベストが配る帰り道札

雨夜の倉庫と月影の幽霊

夜の3時前になると、搬入口の自動ドアは一度だけ、誰もいないのに開く。

私はその音を、この春からほぼ毎晩聞いている。

最初のうちは、センサーの誤作動だと思っていた。

誤作動にしては、きっかり一度だけなのが気になっていた。

あの人から帰り道札をもらったのは、今年の9月のことだ。

あれから、私の仕事は少しだけ変わった。

変わったのは、仕事だけではなかった。

その話を、順に書いておく。

私は34歳で、駅南のショッピングモールで夜間清掃をしている。

前の会社を辞めたあと、朝が怖くなって、夜の仕事を探した。

22時の閉店から翌朝5時までが勤務時間だ。

班は三人。

私と、パートの米山さんと、夜間警備の堀さんだ。

米山さんは60代で、休憩のたびにおにぎりを半分くれる。

堀さんは元自衛官で、声が低く、冗談がうまい。

「宮川くん、今日も床は鏡だな」

「鏡にしておかないと、米山さんに叱られますから」

「叱りますよぉ。ここはもともと学校だったんだから、床はきれいにしておかないと」

米山さんはそう言って笑う。

このモールが建つ前、ここには市立南小学校があった。

私もそこの卒業生だ。

ただ、通った頃の記憶は薄い。

小学校の思い出は、全体に曇りガラスの向こうにあるようだった。

左手の小指だけ、子どもの頃から少し曲がっている。

理由を聞かれても、転んだとしか答えられない。

母方の祖母の苗字を、私は咄嗟に思い出せない。

祖母のことを、私は今でも「ばあちゃん」としか呼べない。

祖母は私が中学に上がる頃に、眠るように亡くなった。

優しい人だったという印象だけが残っている。

顔は、帽子のつばの影に隠れていて、うまく浮かばない。

仕事そのものは、単調だった。

閉店後のモールは、昼間とは別の建物になる。

シャッターが下りると、足音の響き方が変わる。

フードコートの椅子を逆さに上げ、テーブルを一台ずつ拭く。

エスカレーターは止まり、銀色の段が、階段の形に戻る。

その静けさが、私には心地よかった。

人のいない広い場所にいると、朝の恐怖が薄れた。

1階の中央には、迷子センターの小さなカウンターがある。

夜は、カウンターの上に白い布が掛けられていた。

その布を、私は毎晩きちんと畳み直した。

理由は、自分でも分からない。

子どもの忘れ物を預かる場所に、手を抜きたくなかった。

搬入口の帰り道札

搬入口は、モールの裏手にある。

トラックが横付けできる広い土間で、床には黄色い線が何本も引かれている。

夜はそこだけ照明を半分落とす。

私の仕事は、その土間の床を磨き上げることから始まる。

9月のある夜も、私はそこで床磨き機を回していた。

午前2時40分。

壁の時計が、そう告げていた。

自動ドアが、ひとりでに開いた。

外には誰もいなかった。

外灯の下に、雨も降っていないのに、濡れた地面が一筋だけ光っていた。

風が入ってきた。

雨上がりの土の匂いがした。

私は床磨き機を止め、ドアのほうを見た。

ドアの外、光の届くぎりぎりの端に、誰かが立っていた。

黄色いベストを着た、小柄な年配の女性だった。

紺の帽子を深くかぶり、白い手袋をしている。

右手は体の横にだらりと下げていた。

左手だけ、腰の高さで軽く開いていた。

何も握っていないのに、誰かの手を引くような形だった。

「お疲れさま」

女性のほうから、先に声を出した。

「こんな時間に、ご苦労さんです」

「あ、どうも。ここは関係者以外は…」

「すぐ済みますから」

女性は、小さな紙片を差し出した。

折りたたんだ、手のひらほどの白い紙だった。

「帰り道札です。持っていきなさい」

「帰り道札、ですか」

「持っていれば、帰れますから」

私は、なぜか断れなかった。

受け取ると、紙は少し湿っていた。

顔を上げると、女性はもう立っていなかった。

自動ドアが、ゆっくり閉まった。

私は紙片を、作業着の胸ポケットに入れた。

その夜は、ほかに何を磨いたのか、よく覚えていない。

ただ、胸ポケットの紙が、呼吸のたびに、かすかに温かくなった。

体温とは違う温かさだった。

誰かの掌を、服の上から押し当てられているようだった。

休憩室で、堀さんにその話をした。

「黄色いベストの女? 駐車場の誘導員かな」

「夜中の2時40分にですか」

「夜中に誘導員はいないな」

堀さんは缶コーヒーを開けながら、首をひねった。

「巡回の映像、あとで見ておくよ」

私はポケットの紙を取り出した。

四つ折りの紙を、ゆっくり開く。

鉛筆の、丁寧な字だった。

『この子の帰り道札
好きなもの
あげパン
水色のスニーカー
鉄棒の逆上がり
この人が、この子の手を引いて帰ってくれますように』

読み終えても、意味がつかめなかった。

「この子」が誰なのか、どこにも書いていない。

ただ、「この人」が私を指していることだけは、なぜか分かった。

あげパンの文字を、指でなぞった。

指先が、かすかに湿った。

「宮川くん、顔色が悪いぞ」

「いえ。大丈夫です」

「変な紙なら、捨てておけよ」

私は捨てなかった。

捨てようとしたのだが、手が動かなかった。

その理由を、うまく説明できない。

95センチの手形

翌晩から、異変が始まった。

最初は音だった。

2階の通路で床磨き機を回していると、背後で足音がした。

上履きのような、軽い音だった。

走っては止まり、また走る。

私が振り向くと、止まる。

床磨き機を止めると、足音も止まった。

機械を回すと、また後ろで走り出す。

「米山さん、2階に子どもの…」

「ここ、夜は誰も入れないのよ」

米山さんは雑巾を絞りながら言った。

「でも、ときどき走る音、するわよね。私は気にしないことにしてる」

「気にしない、ですか」

「ここは学校だったんだから。走る子くらい、いるでしょ」

冗談のような口ぶりだった。

ただ、手は止まっていた。

その翌晩は、音ではなく、痕跡だった。

搬入口の自動ドアのガラスに、小さな手形が付いていた。

左手だ。

指が短く、掌の幅も狭い。

高さは、床からちょうど95センチほどだった。

私はガラスクリーナーで拭き取った。

手形は、きれいに消えた。

次の晩、同じ位置に、同じ手形があった。

拭いても、拭いても、同じ高さに戻ってくる。

しかも、ドアの外側ではなく、内側に付いていた。

その次の晩は、足跡だった。

ワックスを掛けたばかりの床に、小さな足跡が並んでいる。

長さは17センチほど。

ほんのり水色がかった跡だった。

雨は降っていない。

足跡は搬入口から入ってきて、私が磨いている通路の手前で、ふっと途切れていた。

翌朝、私は足跡の水色を、ウエスで拭き取った。

ウエスの白が、空色に染まった。

洗っても、その色は落ちなかった。

ウエスは、いまも私のロッカーの底にある。

捨てられない物が、少しずつ増えていった。

私は足跡の前に立って、しばらく動かなかった。

左手の小指が、ずきりと痛んだ。

曲がった小指だ。

普段は痛まない指だった。

あの紙は、まだ胸ポケットに入っていた。

一度、休憩室のごみ箱に捨てた。

退勤前に作業着を着替えると、同じ紙が、胸ポケットに戻っていた。

折り目も、湿り気も、そのままだった。

もう一度、今度は駅のゴミ箱に捨てた。

翌晩、搬入口に着くと、紙は内ポケットに入っていた。

私は、捨てることをやめた。

それからの私は、昼に眠れなくなった。

目を閉じると、小さな靴音が、枕の下から聞こえた。

部屋の床に、水色のスニーカーの形の湿り気が付いていた日もあった。

アパートの2階なのに、雨の匂いが入ってきた。

窓は閉めていた。

私は、カーテンを開けて、空を確かめた。

晴れていた。

それでも、足元の畳だけが、雨の日の色をしていた。

「宮川くん、それ、御守りか何か?」

堀さんが、胸の膨らみを見て訊いた。

「まあ、そんなところです」

「お守りは、持ち主を選ぶからな」

堀さんは、いつもの冗談の調子で言った。

私は笑おうとして、うまく笑えなかった。

その夜、3時7分に、館内放送の開始音が鳴った。

営業時間外は、放送設備の電源が切れているはずだった。

短いチャイムのあと、音が途切れた。

マイクの前に立つ誰かが、息を吸い込む気配だけが、天井のスピーカーから降ってきた。

次の言葉は、なかった。

翌朝、帰りの電車で、私は自分の左手を何度も見た。

曲がった小指は、いつもどおり曲がっていた。

ただ、爪の脇に、砂粒のようなものが付いていた。

指で擦ると、白い粉になって落ちた。

チョークの粉だった。

黒板にだけ似合う、あの白さだった。

モールには、チョークを使う場所がない。

私はその粉を、手帳の間に挟んで持ち帰った。

集めておかなければならない気がした。

何のために、とは、考えなかった。

誰も見ていない人

「あの人、見えるのは宮川くんだけみたいだよ」

堀さんが、監視モニターを指さして言った。

3日後の明け方だった。

搬入口のカメラの映像が、再生されている。

午前2時40分。

自動ドアが開き、私が一人で立っている。

私は左手を、腰の高さで軽く開いている。

何も握っていない手を、誰かに引かれるように、少しだけ前へ出した。

ドアの外は、最初から最後まで無人だった。

「俺も最初は、悪ふざけかと思った」

堀さんは言った。

「でも、お前、そのあと笑ってるんだよ。誰かに話しかけてる顔で」

私は笑っていなかった。

少なくとも、そのつもりはなかった。

「黄色いベストの女なら、俺にも心当たりがある」

「誰ですか」

「緑のおばさん。学校の前の横断歩道で、旗を持ってた人」

そこで堀さんは、声を落とした。

「俺も南小の出でね。だから覚えてる。あの人、児童の帰りが遅い日は、校門の前で最後まで待ってた」

「その人は、今は…」

「もう、いないはずだよ。ずいぶん前に」

休憩室で、米山さんにも訊いてみた。

米山さんは、おにぎりを持つ手を止めた。

「通学路の、黄色いベストの人のことかしら」

「知っているんですか」

「PTAの集まりで、名前が出たのよ。私も、名前までは思い出せないけど」

「その人が、どうして夜中に」

「さあね。1998年の大雨の日に、一年生の男の子が一人、帰ってこなかったの」

米山さんは、おにぎりを袋に戻した。

「あの人、その子のことをずっと気にしていたみたい」

「帰ってこなかった、というのは」

「行方知れずのままよ。それ以上は、私の口からは言えないわ」

米山さんは、私の顔をまっすぐ見た。

「宮川くん、あなたもあの年の一年生じゃなかった?」

私は、答えられなかった。

1998年、私は一年生だった。

あの大雨の日のことを、私は何も覚えていない。

思い出そうとすると、記憶の手前に、白い霧が掛かった。

休憩室の壁には、南小学校の校門の写真が、額に入って掛けてあった。

モールが建つとき、記念にと、誰かが寄贈したものだ。

その写真の端に、黄色いベストの人が写っていた。

帽子のつばで、顔は見えなかった。

右手は体の横に下げ、左手だけを、腰の高さに軽く開いている。

写真の中の人も、誰かの手を待っていた。

私は、その写真の前を、何度も通っていたはずだった。

なのに、一度も、その人に気づかなかった。

「でもね、宮川くん。あの人が札を渡す相手は、昔から決まっていたらしいの」

米山さんが、小さな声で言った。

「決まっていた?」

「誰なのかは、私は知らない。知らないほうがいいことも、あるでしょ」

米山さんは、そう言って、笑おうとした。

その笑いは、途中で途切れた。

黄色い線の内側

その夜、私は2時30分に、搬入口へ向かった。

床の黄色い線の、幅の広い一本の上に立った。

塗り直されていないその線は、ところどころ擦れて、古い塗料がのぞいていた。

自動ドアが開く。

外には、誰もいない。

それでも私は、左手を腰の高さに出した。

曲がった小指に、小さな指が掛かった。

冷たい指だった。

普通の人の手より、ずっと冷たかった。

大きな手の中へ、小さな手が滑り込んでくる感覚が、はっきりあった。

私は、息を止めた。

指の腹に、小さな爪の硬さを感じた。

爪は、短く切り揃えられていた。

誰かが、きちんと切ってやった爪だった。

「帰ろうか」

口から出た言葉に、自分で驚いた。

返事はなかった。

ただ、小指に掛かる指が、きゅっと締まった。

私は歩き出した。

搬入口を出て、駐車場を横切る。

駐車場の白線が、ふいに、黄色い横断帯に見えた。

白線は、白線のままだった。

それなのに、私の足は、黄色い横断帯の上を歩いているように感じた。

外灯がひとつ消え、代わりに、古い校門の門柱が、影のように立ち上がった。

雨の匂いがした。

足元の地面だけが濡れていた。

道の両側は乾いているのに、私の歩く筋だけが、雨のあとのように光っていた。

ポケットのスマートフォンは、歩数を数えていなかった。

歩幅が、いつもと違った。

私は、子どもの歩幅に合わせて歩いていた。

小さな歩みに合わせると、道は、ひどく長かった。

遠回りをしているのではない。

一歩が、短いだけだ。

その短さの中に、あの日の雨が、すべて詰まっている気がした。

途中、何度か、小さな手が重くなった。

立ち止まりたいのだと、分かった。

私は、そのたびに、立ち止まった。

待つことくらいしか、私にできることはなかった。

手を引かれたまま、私は駐車場の端まで来た。

そこは、昔の校門があったはずの場所だった。

小さな手が、私の指から、すっと離れた。

離れる直前、子どもの声がした。

「じゃあね」

それだけだった。

男の子の声だった。

聞き覚えのある声だった。

私はその声を、7歳の私が何度も聞いた声だと、理由もなく思った。

搬入口に戻って、壁の時計を見た。

2時40分だった。

出ていったときと、同じ時刻だった。

なのに、靴の底は、重く湿っていた。

名札の二文字

黄色い線の内側に、白い手袋が揃えて置かれていた。

左右が、ぴたりと重なっていた。

手袋の下には、黄色いベストが畳んであった。

ベストの胸には、名札が縫い付けてあった。

名札には、園田、とあった。

私は、その場にしゃがみこんだ。

母方の祖母の苗字が、そのとき、ようやく口に浮かんだ。

園田。

祖母は、南小学校の見守り員だった。

黄色いベストを着て、白い手袋をして、雨の日も校門の前に立っていた。

あの人が祖母だったと言える証拠は、何もない。

ただ、名札と、手袋と、あの日の私の記憶の空白が、同じ場所を指していた。

1998年の大雨の日、私は、同じ一年生の男の子と手をつないで帰っていた。

横断歩道の手前で、私は手を離して、風に飛ばされた帽子を追いかけた。

男の子は、そこに立っていた。

雨の音が、急に大きくなった。

そこから先を、私は今も思い出せない。

夜明け前だったが、母に電話を掛けた。

母はすぐに出た。

「ばあちゃんの名前、園田ヨシだったよね」

「どうしたの、急に」

「あの大雨の日、俺、誰かと一緒に帰っていたかな」

電話の向こうで、母が黙った。

それから、小さな声で言った。

「あんたは、ひとりで帰ってきたのよ。ばあちゃんが、ずっと言ってた」

「何て」

「あの子の手が、まだ離れていないって」

「手が?」

「あんたの左手を、ずっと見ていたの。曲がった小指を」

母は、それ以上は話さなかった。

私も、訊かなかった。

電話を切ったあと、私は搬入口の外に出た。

空は、ゆっくり白んでいた。

駐車場の白線は、ただの白線だった。

それでも私は、白線を踏まないように、横へ避けて歩いた。

翌朝、更衣室のロッカーを開けた。

作業着のポケットに、白い紙が入っていた。

四つ折りの紙を開くと、鉛筆の、丁寧な字があった。

『この人の帰り道札
好きなもの
あげパン
水色のスニーカー
鉄棒の逆上がり』

一行目から、三行目までが、あの晩の札と同じだった。

札の最後の行には、祖母の字で、私の名前が書いてあった。

名前の下に、もう一行あった。

『この人が、もう手を離しませんように』

私はロッカーの前で、長いあいだ動けなかった。

その日の始業前、米山さんが更衣室に顔を出した。

「どうだった?」

私は、札を見せなかった。

「帰れたみたいです。あの子は」

「そう。それは、よかった」

米山さんは、それだけ言って、私の肩に軽く手を置いた。

置かれた手は、少しだけ震えていた。

あれから、2か月が過ぎた。

手袋とベストは、堀さんに頼んで、倉庫の棚に置いてもらった。

米山さんは何も訊かず、今夜もおにぎりを半分くれる。

私は毎晩、黄色い線の内側に立っている。

あの夜以来、雨の日には、搬入口の床がよく濡れる。

拭いても乾かない場所が、黄色い線のそばにだけある。

そこに立つと、足元から、ほんのり土の匂いがする。

私は、その匂いを、嫌だと思わなくなった。

ときどき、搬入口の自動ドアが開く。

外には、誰もいない。

私は左手を、腰の高さに出す。

小指に、小さな指が掛かる夜もある。

掛からない夜もある。

掛からない夜は、少しだけ寒い。

夜の3時前。搬入口の自動ドアが、今夜も一度だけ開く。

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