切り取られたカレンダー

五年ぶりに、実家の敷居をまたいだ。

母の四十九日が、ようやく済んだばかりだった。

駅から実家までの道を、私は、ゆっくりと歩いた。

見慣れた商店街は、半分ほど、シャッターを下ろしていた。

子どものころ、母に手を引かれて歩いた道だった。

その記憶だけが、色褪せずに、胸に残っている。

母が、もういない。

その実感が、家が近づくにつれ、じわじわと、込み上げてきた。

古い木造の家は、私が出ていったころと、何ひとつ変わっていなかった。

ただ、母の気配だけが、すっぽりと抜け落ちていた。

玄関で出迎えた父は、思いのほか、穏やかな顔をしていた。

「よく帰ってきたな。さあ、上がりなさい」

その声に、私は、かすかな違和感を覚えた。

母の介護で、あれほど憔悴していた父が、妙に、生き生きとして見えたのだ。

母は、晩年、認知症を患っていた。

身の回りの世話を、つきっきりでする父を、ずいぶん困らせたと聞く。

夜中に徘徊し、父の名前さえ、わからなくなることもあったという。

その母を、父は、最後まで、家で看取った。

立派なことだと、親戚は口々に言った。

私だけが、その看病を、何ひとつ手伝わなかった。

「あんたの父さんは、本当に、よくやったよ」

親戚の伯母は、しみじみと、そう言った。

「夜も寝ずに、付きっきりでね。あんな旦那さん、なかなかいないよ」

私は、その言葉に、ただ頷くしかなかった。

だが、葬式のときの父の顔が、ふと、思い出された。

涙ひとつ見せず、どこか、晴れ晴れとした表情だった。

疲れ果てた末の、安堵だろうと、そのときは思っていた。

後ろめたさが、胸の奥で、小さく疼いた。

夕飯まで、まだ時間があった。

私は、線香をあげようと、母の書斎へ向かった。

そこは、母が生前、いちばん長く過ごした、小さな和室だった。

襖を開けると、かび臭い空気と、墨の匂いが、ふわりと流れ出た。

机も、本棚も、母がいたころのまま、きちんと残されていた。

母は、この書斎で、よく手紙を書いていた。

几帳面な人で、筆まめだった。

棚には、古い便箋や、万年筆が、きちんと並んでいる。

その整然とした様子が、かえって、私の胸を締めつけた。

ここに座る母は、もう、いないのだ。

私は、机に手をついて、しばらく、目を閉じた。

私は、ふと、あるものを探していることに気づいた。

去年の暮れ、私が母に贈った、一冊のカレンダーだ。

花の写真が月ごとに変わる、ささやかな贈り物だった。

電話で礼を言われたとき、母の声は、まだ、しっかりしていた。

カレンダーを贈ったとき、母は、電話口で、こう言った。

「きれいな花ねえ。毎月、めくるのが、楽しみだわ」

「体に気をつけてね、お母さん」

「あなたこそ。たまには、顔を見せに帰ってきなさいな」

そのときの母は、いつもの、しっかりした母だった。

認知症の影など、まだ、どこにもなかった。

それから、ほんの数ヶ月で、母は、人が変わったように、衰えていった。

あまりに急な変化に、私は、ただ、戸惑うばかりだった。

だが、壁のどこにも、そのカレンダーは、見当たらなかった。

捨ててしまったのだろうか。

認知症だったのだから、仕方のないことだ。

そう思いながら、私は、机の引き出しを開けた。

引き出しの中を見て、私は、息を止めた。

あのカレンダーが、ハサミで、バラバラに切り刻まれていたのだ。

日付の書かれた、小さな紙片が、何枚も入っていた。

だが、それは、でたらめに切られたものではなかった。

紙片は、まるで意味があるように、きちんと順番に並べられていた。

母は、認知症が進んでも、私からの贈り物だけは、大切にしてくれていた。

それなのに、こんな形に、切り刻んでしまうなんて。

病とは、こんなにも、人を変えてしまうものなのか。

私は、しばらく、その紙片を、ただ見つめていた。

そして、感傷とともに、並べられた日付を、そっと読み上げてみた。

四月四日、四月四日、四月十日。

六月十一日、三月一日、六月十二日。

五月六日、七月二日、六月七日、六月十七日。

四月十日、四月十四日、五月十六日。

ただ、月日が、並んでいるだけだった。

特別な記念日でも、誕生日でもない。

母の頭の中の、混乱が、そのまま形になったようだった。

ただ一枚、六月十七日の紙片だけが、上下、逆さまになっていた。

私は、何の気なしに、その一枚を、ほかと同じ向きに直した。

そのとき、一階から、父の声が響いた。

「おーい。飯ができたぞ。降りてきなさい」

いつになく、弾んだ声だった。

私は、紙片を引き出しに戻し、書斎を出た。

階段を降りると、台所から、いい匂いが漂っていた。

食卓には、湯気の立つ料理が、所狭しと並べられていた。

煮魚、ほうれん草のおひたし、味噌汁、それに、炊きたての白い飯。

「お前の好きだったものを、作っておいた」

父は、得意げに、そう言った。

考えてみれば、父の手料理を食べるのは、五年ぶりだった。

母が倒れてから、この家の台所に、父が立つことはなかったはずだ。

「さあ、たくさん食べなさい。遠慮するな」

父は、しきりに、私に飯をよそった。

「最近、どうだ。仕事は、うまくいってるのか」

父は、私の茶碗に、三杯目の飯をよそった。

「もう、いいよ。そんなに食べられない」

「何を言う。痩せたんじゃないか。ほら、食え」

その勧め方は、もはや、断らせない響きがあった。

私は、苦笑しながら、また箸を取った。

父の目が、私の口元を、じっと追っているのに気づいた。

まるで、ちゃんと飲み込んだかを、確かめるように。

食卓で、父は、味噌汁を、自分では、ほとんど口にしなかった。

煮魚にも、あまり、箸をつけなかった。

そのことに、私は、あとになって、気づいた。

父が、しきりに勧めたのは、私の茶碗だけだった。

「遠慮するな」と、何度も、父は繰り返した。

あの言葉が、今は、まるで違う響きで、よみがえる。

私は、出されたものを、何ひとつ、残さなかった。

いい子だ、とでも言うように、父は、頷いていた。

その熱心さが、なぜか、少しだけ、引っかかった。

食事のあいだ、父は、機嫌よく喋り続けた。

母の介護が、どれほど大変だったか。

夜も眠れず、自分まで、おかしくなりそうだったこと。

「あれで、わしも、ようやく解放されたよ」

そう言って、父は、かすかに笑った。

その笑い方に、私は、また、あの違和感を覚えた。

解放、という言葉が、妙に、生々しかった。

私は、曖昧に頷きながら、出された飯を、平らげた。

父は、満足そうに、その様子を見つめていた。

部屋に戻ったのは、夜も、すっかり更けてからだった。

布団に入っても、私は、なかなか寝つけなかった。

あの、切り刻まれたカレンダーが、頭から離れなかった。

母は、なぜ、私の贈ったものを、あんな形にしたのか。

順番に並べられていた、というのが、どうにも、気にかかった。

認知症の人間が、あれほど几帳面に、紙を並べるだろうか。

私は、起き上がり、もう一度、書斎へ向かった。

懐中電灯の光で、紙片を、一枚ずつ、見つめ直した。

そして、ふと、あることに気づいた。

日付の数字を、月と日に、分けてみる。

四と四。四と四。四と十。

その数字を、私は、化学の周期表に、当てはめてみた。

学生のころ、理科だけは、得意だったのだ。

なぜ、母が、元素記号など知っていたのか。

いや、母は、若いころ、薬剤師を目指していたのだ。

周期表など、暗誦できて、当たり前だった。

その記憶だけは、病に蝕まれても、最後まで、残っていたのだろう。

私は、一枚いちまい、数字を記号に、置き換えていった。

手が、震えて、なかなか、字が書けなかった。

私は、ひとつずつ、記号を確かめていった。

ティーアイは、チタンで、二十二番。

だが、母が使ったのは、原子番号ではなかった。

周期の、族の番号を、組み合わせていたのだ。

四の四。第四周期、第四族。

その交点にある元素を、たどっていく。

母は、誰にも気づかれぬよう、二重に、暗号をかけていた。

病に蝕まれた頭で、ここまでの仕掛けを。

それは、母の、最後の知性の、ともしびだった。

消えゆく意識の中で、母は、私だけに、それを託したのだ。

四番目の元素は、チタン。記号は、ティーアイ。

私は、震える指で、紙片の順に、記号を書き出していった。

ティー、アイ。ティー、アイ。エヌ、アイ。

エー、ユー。エヌ、エー。エイチ、ジー。

エム、オー。アール、エー。アール、イー。

そして、十七番目の、エー、ティー。

並んだアルファベットを、私は、声に出して、読んでみた。

ち、ち、に……あう、な……。

そこまで読んで、私の背筋に、冷たいものが走った。

逆さまだった、六月十七日。

あれを、私は、自分の手で、元の向きに直してしまった。

本当は、逆さに読むべき、一枚だったのだ。

エー、ティーを、ひっくり返せば、ティー、エー。

私は、最後の記号を、入れ替えて、もう一度、読み直した。

つなげて読んだ、その言葉に、私は、凍りついた。

——父に会うな、水銀を盛られた、逃げて。

母は、認知症などでは、なかったのだ。

少しずつ、何かを、飲まされていた。

その意識が、混濁していく中で、母は、最後の力を振り絞った。

私への贈り物を、切り刻み、暗号にして、警告を遺したのだ。

母が、徘徊していたという話を、私は、思い返していた。

父の名前が、わからなくなった、という話も。

だが、本当に、そうだったのだろうか。

母は、わかっていて、父から、逃げようとしていたのではないか。

父の名を呼ばなかったのは、忘れたからではなく、拒んでいたから。

そう考えると、すべての辻褄が、不気味なほど、合ってしまう。

認知症という言葉が、都合よく、すべてを覆い隠していた。

周りは、母の異変を、ただ病のせいだと、信じ込んでいたのだ。

父も、それを、利用していたのかもしれない。

母の訴えは、誰の耳にも、届かなかった。

なぜ、母は、もっと早く、誰かに助けを求めなかったのか。

きっと、求めたのだろう。

だが、認知症の老婆の言葉を、誰が、本気で聞いただろう。

水銀を盛られている、と訴えても、また始まったと、流される。

母は、それを、痛いほど、わかっていた。

だから、言葉ではなく、暗号に、託すしかなかった。

誰にも気づかれず、けれど、私にだけは、解ける形で。

カレンダーを選んだのは、私からの贈り物だったからだ。

私なら、きっと、見つけて、解いてくれると、信じて。

母の、その必死さを思うと、胸が、張り裂けそうになった。

私は、看病を、何ひとつ、手伝わなかった。

母が、いちばん助けを必要としていた、その時に。

その後悔が、今になって、刃のように、私を抉った。

私は、解読を終えた紙片を、震える手で、握りしめた。

窓は、開かない。

襖の向こうには、父がいる。

携帯電話は、一階の、上着の中だった。

助けを呼ぶ手立ては、何ひとつ、なかった。

私は、母が遺した暗号の紙を、そっと、懐にしまった。

これだけは、絶対に、父に渡してはならない。

母の最後の声を、ここで、消されるわけにはいかなかった。

父が、なぜ、母を手にかけたのか。

その理由は、まだ、何ひとつ、わからなかった。

わからないまま、私は、その同じ食卓に、座らされていた。

そして、出されたものを、笑って、平らげてしまった。

母が、命を懸けて止めようとした、まさにそれを。

体のどこにも、まだ、異変は感じない。

だが、それが、何の慰めにもならないことを、私は知っていた。

母も、最初は、こうして、気づかなかったはずだから。

いつか、私が、この家に帰ってくる日のために。

父に会うな、と。

私は、自分が、何を口にしたのかを、考えた。

煮魚。おひたし。味噌汁。そして、何杯もの、白い飯。

そのどれに、何が、仕込まれていたのか。

知る術は、もう、なかった。

母を蝕んだものが、今度は、私の体に、入っているのかもしれない。

そう思った瞬間、胃の底が、すっと冷たくなった。

私は、紙片を、一枚も動かさなかったことを、悔やんだ。

いや、一枚だけ、動かしてしまった。

六月十七日の、あの、逆さまの紙を。

もし、あのまま気づかずにいたら。

私は、暗号を、解けなかったかもしれない。

そうすれば、何も知らずに、また、この家で眠っていた。

知ってしまったことが、幸運なのか、不運なのか。

今の私には、まるで、わからなかった。

私は、自分の手を、見つめた。

その手は、たった今、父の作った飯を、残さず食べた手だった。

階下から、ぎし、ぎし、と、階段を踏む音が、聞こえてきた。

父が、ゆっくりと、上がってくる。

「どうした。眠れんのか」

襖の向こうから、あの、穏やかな声がした。

襖が、すっと、十センチほど開いた。

廊下の暗がりに、父の影が、立っていた。

「明かりが、漏れていたぞ。何を、しているんだ」

父の手には、湯気の立つ、湯呑みが握られていた。

「眠れないなら、これを飲むといい。よく眠れる」

私は、その湯呑みから、目を、離せなかった。

父の顔は、相変わらず、穏やかに、微笑んでいた。

その微笑みの意味を、私は、もう、知ってしまっていた。

逃げて、と母は、命を懸けて、書き遺した。

だが、出口の前には、父が、静かに立っていた。

私は、書斎の窓に、そっと近づいた。

二階の窓の下は、暗い庭だった。

飛び降りれば、足くらいは、折るかもしれない。

だが、ここにいては、いけない。

母の警告が、頭の中で、鳴り響いていた。

逃げて。逃げて。逃げて。

窓の鍵に手をかけたとき、それは、固く錆びついていた。

何年も、開けられていない窓だった。

がたがたと、音を立てるばかりで、びくともしない。

その音に、廊下の足音が、ぴたりと、止まった。

襖の隙間から、父が、もう一歩、踏み込んできた。

私は、後ずさりしながら、懐の紙片を、強く握りしめた。

逃げて、という母の声が、また、耳の奥で響いた。

私の茶碗は、夕餉の食卓で、もう、空になっていた。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。