助手席のベルトは締めておけ

月夜の山道を走るトラック

これは、四十年近くハンドルを握ってきた一人の男の、ささやかな告白である。

信じる信じないは、読む方の自由に委ねたい。

ただ、これから書くことに、嘘は一つもない。

私には、語って聞かせる孫もいない。

だから、こうして書き残しておくことにした。

私は長く、夜の高速で貨物を運ぶ仕事をしていた。

昼の道に、私の居場所はなかった。

陽の落ちたあとの、白い照明と黒い闇だけの世界。

そのなかをひとり、荷とともに流れていく。

その孤独が、私の性に合っていた。

妻には、変わり者だと笑われたものだ。

だが、夜の道には、昼にはない秩序がある。

対向車のヘッドライトが、規則正しく流れてくる。

遠くのテールランプが、赤い点となって先を行く。

その赤を追ってさえいれば、道を誤ることはなかった。

夜の高速には、私のような者ばかりが流れていた。

互いに顔も知らぬまま、同じ闇を分け合う仲間だ。

すれ違いざま、ヘッドライトを一度だけ落とす。

それが、夜の道の、ささやかな挨拶だった。

人の世のことは、すべて遠かった。

運転手になりたての頃、一人の先輩に世話になった。

寡黙な人で、世間話の一つもしなかった。

ただ、運転にだけは恐ろしく厳格だった。

先輩の運転は、どこまでも静かだった。

急がず、遅れず、ただ正確に荷を届ける。

私は、その背中だけを見て育った。

その先輩が、たった一つ、私に授けた習慣がある。

「走り出す前に、助手席のベルトを締めておけ」

そう言われた。

誰も乗らない、空(から)の座席のベルトをだ。

わけを尋ねた私に、先輩は前を向いたまま答えた。

「そうしないと、席を取られる」

返ってきたのは、それだけだった。

声に、冗談の響きはなかった。

むしろ、何かを諦めたような、静かな声だった。

取られる、とはどういう意味なのか。

私は問い返したが、先輩は二度と口を開かなかった。

馬鹿馬鹿しい験担(げんかつ)ぎだと、内心では笑っていた。

それでも、私はその言いつけを守りつづけた。

形(かたち)というものを、私は人より重んじる質(たち)だった。

出発の前、空の助手席にベルトを通し、留め金をはめる。

カチリ、という乾いた音が、車内に落ちる。

その音を聞いてはじめて、私の夜が始まるのだ。

靴紐を結ぶように、ネクタイを締めるように。

それは、私という男の輪郭をかたちづくる、小さな儀式だった。

雨の夜も、雪の峠も、私はその手順を崩さなかった。

面倒だと思ったことは、一度もない。

むしろ、その一手間が、私を守っている気がした。

三十年あまり、私はそれを一度も欠かさなかった。

そして、何事も起こりはしなかった。

何事も、である。

異変に気づいたのは、還暦を過ぎた頃だった。

異変は、いつも明け方に集中していた。

夜のあいだは、何も感じない。

ただ、朝になると、痕跡だけが残っているのだ。

ある明け方、路肩で仮眠から覚めたときのこと。

助手席のベルトが、すでに締まっていた。

私が締めた記憶は、なかった。

いや、正しくは、締めたかどうかを思い出せなかった。

寝起きの鈍い頭で、私は自分の手癖を疑うことにした。

体が勝手に締めたのだろう、と。

そう思い込むことは、たやすかった。

次に気づいたのは、留め金の温(ぬく)もりだった。

朝、外そうと指で触れると、金具がかすかに温かい。

まるで、つい今まで、誰かが握っていたかのように。

冷えきった夜明けの車内で、そこだけが人肌の温度を保っていた。

金属が、体温を覚えているはずもないのに。

私は、その温もりを誰にも話さなかった。

話せば、自分が壊れていくようで怖かった。

座面にも、やがて変化が現れはじめた。

私の車の助手席は、灰色の布張りだった。

その布の毛羽(けば)が、ある朝、奥へと倒れていた。

人ひとり分の重みが、長く置かれていたかのように。

浅い窪(くぼ)みが、たしかにそこに刻まれていた。

私は手のひらで撫でて、毛を起こした。

窪みは、翌朝にはまた、同じ場所に戻っていた。

私は、暖房の風向きのせいだと思おうとした。

だが、風は、布の毛を奥へは倒さない。

背もたれの角度も、いつのまにか一段、倒れていた。

楽な姿勢で長旅をする者の、好む角度に。

助手席の足元に、薄く土の匂いが残る朝もあった。

私が踏み入れた覚えのない、湿った土の匂いだ。

私は何も見ていない、と自分に言い聞かせた。

老いた目の、ただの錯覚だと。

ある時期から、燃費がわずかに落ちた。

同じ道を、同じ速度で走っているのに、だ。

まるで、車が一人分、重い荷を積んでいるかのように。

整備士に診せても、車に異状はないと言われた。

私は、気のせいだと帳簿を閉じた。

一度だけ、私はそれを確かめようとした。

その晩は、ひどく疲れていた。

験担ぎなど、老いた男のつまらぬ妄想だと、思い切りたかった。

私は出発の前、わざとベルトを締めなかった。

空の座席を、空のままにして、私は走り出した。

先輩の言葉に、初めて背いた夜だった。

高速に乗ってしばらくは、何事もなかった。

いつもの白い闇、いつものエンジンの唸り。

だが、深夜の二時を回った頃。

助手席のあたりの空気が、ふと、重くなった。

気圧が変わったような、耳の奥の塞がる感じ。

車内の温度計が、一度だけ、上がっていた。

助手席の側だけが、ぬるい。

雨に濡れた羊毛のような、嗅いだ覚えのない匂いがした。

私は、ラジオの音量を上げた。

何かで、その気配を、かき消したかった。

だが、雑音の向こうから、別の音が聞こえた。

衣擦れのような、身じろぎの音だった。

すぐ、隣で。

私は、横を見なかった。

見てはならない、と全身の毛が逆立っていた。

そのときだった。

誰もいない助手席で、留め金が、ひとりでに鳴った。

カチリ、と。

私が三十年、毎晩鳴らしてきた、あの音で。

ハンドルを握る手が、汗で滑った。

私はただ前だけを見て、アクセルを踏みつづけた。

バックミラーを見る勇気は、どうしても出なかった。

やがて、サービスエリアの灯(あか)りが見えてきた。

私は車を寄せ、転がるように運転席から降りた。

そして、助手席のドアを、外から開け放った。

誰も、いなかった。

ただ、ベルトだけが、きちんと締まっていた。

私が締めなかったはずの、そのベルトが。

留め金は、まだ、ほのかに温かった。

空は、もう白みかけていた。

私は震える手で、缶コーヒーを買った。

夜明けまで、運転席に戻れなかった。

それから私は、二度とあの試しをしなかった。

出発の前には必ず、空の座席にベルトを通す。

カチリ、と鳴らす。

その音は、もう、ただの験担ぎではない。

私は今では、はっきりと理解している。

あのベルトは、何かを締め出すためのものではないのだ。

席を、与えるためのものだ。

締めておけば、それは大人しく、座っている。

だが、締めなければ。

それは、みずから「席を取る」。

先輩の言葉は、警告ではなかった。

作法を、伝えていたにすぎない。

席を与えるとは、つまり、認めるということだ。

そこに、何かが在ると。

見ないふりは、いちばんいけない。

見ないものは、やがて、座る場所を自分で決める。

取られた席に、次に座るのが誰になるのか。

それを、私はまだ知らない。

知りたくも、ない。

先月、私はとうとうハンドルを置いた。

長い夜の稼業から、ようやく降りたのだ。

車は、見込みのある若い者に譲った。

鍵を渡すとき、私はあの習慣だけを、彼に伝えた。

「走り出す前に、助手席のベルトを締めておけ」

若い男は、怪訝(けげん)な顔をした。

かつての私と、寸分たがわぬ顔だった。

わけを問われ、私は先輩と同じ言葉を返した。

「そうしないと、席を取られる」

それ以上は、何も言わなかった。

言えば、彼が降りてしまう気がしたからだ。

それきり、私はあの車に乗っていない。

ただ、ときおり、夢を見る。

夜の高速を、私の古い車が走っている夢だ。

運転席には、あの若い男が座っている。

そして助手席には、きちんとベルトを締めた、誰かがいる。

その横顔を、私はどうしても思い出せない。

思い出せないのに、なぜか、見覚えがあるのだ。

目を凝らすたび、夢は、そこで終わる。

若い男からは、まだ何の便りもない。

便りがないのは、無事の証だと思っている。

今夜も、日本のどこかの高速を、その車は走っているのだろう。

助手席のベルトを、きちんと締めて。

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