
これは、四十年近くハンドルを握ってきた一人の男の、ささやかな告白である。
信じる信じないは、読む方の自由に委ねたい。
ただ、これから書くことに、嘘は一つもない。
私には、語って聞かせる孫もいない。
だから、こうして書き残しておくことにした。
※
私は長く、夜の高速で貨物を運ぶ仕事をしていた。
昼の道に、私の居場所はなかった。
陽の落ちたあとの、白い照明と黒い闇だけの世界。
そのなかをひとり、荷とともに流れていく。
その孤独が、私の性に合っていた。
妻には、変わり者だと笑われたものだ。
だが、夜の道には、昼にはない秩序がある。
対向車のヘッドライトが、規則正しく流れてくる。
遠くのテールランプが、赤い点となって先を行く。
その赤を追ってさえいれば、道を誤ることはなかった。
夜の高速には、私のような者ばかりが流れていた。
互いに顔も知らぬまま、同じ闇を分け合う仲間だ。
すれ違いざま、ヘッドライトを一度だけ落とす。
それが、夜の道の、ささやかな挨拶だった。
人の世のことは、すべて遠かった。
※
運転手になりたての頃、一人の先輩に世話になった。
寡黙な人で、世間話の一つもしなかった。
ただ、運転にだけは恐ろしく厳格だった。
先輩の運転は、どこまでも静かだった。
急がず、遅れず、ただ正確に荷を届ける。
私は、その背中だけを見て育った。
その先輩が、たった一つ、私に授けた習慣がある。
「走り出す前に、助手席のベルトを締めておけ」
そう言われた。
誰も乗らない、空(から)の座席のベルトをだ。
わけを尋ねた私に、先輩は前を向いたまま答えた。
「そうしないと、席を取られる」
返ってきたのは、それだけだった。
声に、冗談の響きはなかった。
むしろ、何かを諦めたような、静かな声だった。
取られる、とはどういう意味なのか。
私は問い返したが、先輩は二度と口を開かなかった。
※
馬鹿馬鹿しい験担(げんかつ)ぎだと、内心では笑っていた。
それでも、私はその言いつけを守りつづけた。
形(かたち)というものを、私は人より重んじる質(たち)だった。
出発の前、空の助手席にベルトを通し、留め金をはめる。
カチリ、という乾いた音が、車内に落ちる。
その音を聞いてはじめて、私の夜が始まるのだ。
靴紐を結ぶように、ネクタイを締めるように。
それは、私という男の輪郭をかたちづくる、小さな儀式だった。
雨の夜も、雪の峠も、私はその手順を崩さなかった。
面倒だと思ったことは、一度もない。
むしろ、その一手間が、私を守っている気がした。
三十年あまり、私はそれを一度も欠かさなかった。
そして、何事も起こりはしなかった。
何事も、である。
※
異変に気づいたのは、還暦を過ぎた頃だった。
異変は、いつも明け方に集中していた。
夜のあいだは、何も感じない。
ただ、朝になると、痕跡だけが残っているのだ。
ある明け方、路肩で仮眠から覚めたときのこと。
助手席のベルトが、すでに締まっていた。
私が締めた記憶は、なかった。
いや、正しくは、締めたかどうかを思い出せなかった。
寝起きの鈍い頭で、私は自分の手癖を疑うことにした。
体が勝手に締めたのだろう、と。
そう思い込むことは、たやすかった。
次に気づいたのは、留め金の温(ぬく)もりだった。
朝、外そうと指で触れると、金具がかすかに温かい。
まるで、つい今まで、誰かが握っていたかのように。
冷えきった夜明けの車内で、そこだけが人肌の温度を保っていた。
金属が、体温を覚えているはずもないのに。
私は、その温もりを誰にも話さなかった。
話せば、自分が壊れていくようで怖かった。
※
座面にも、やがて変化が現れはじめた。
私の車の助手席は、灰色の布張りだった。
その布の毛羽(けば)が、ある朝、奥へと倒れていた。
人ひとり分の重みが、長く置かれていたかのように。
浅い窪(くぼ)みが、たしかにそこに刻まれていた。
私は手のひらで撫でて、毛を起こした。
窪みは、翌朝にはまた、同じ場所に戻っていた。
私は、暖房の風向きのせいだと思おうとした。
だが、風は、布の毛を奥へは倒さない。
背もたれの角度も、いつのまにか一段、倒れていた。
楽な姿勢で長旅をする者の、好む角度に。
助手席の足元に、薄く土の匂いが残る朝もあった。
私が踏み入れた覚えのない、湿った土の匂いだ。
私は何も見ていない、と自分に言い聞かせた。
老いた目の、ただの錯覚だと。
※
ある時期から、燃費がわずかに落ちた。
同じ道を、同じ速度で走っているのに、だ。
まるで、車が一人分、重い荷を積んでいるかのように。
整備士に診せても、車に異状はないと言われた。
私は、気のせいだと帳簿を閉じた。
※
一度だけ、私はそれを確かめようとした。
その晩は、ひどく疲れていた。
験担ぎなど、老いた男のつまらぬ妄想だと、思い切りたかった。
私は出発の前、わざとベルトを締めなかった。
空の座席を、空のままにして、私は走り出した。
先輩の言葉に、初めて背いた夜だった。
高速に乗ってしばらくは、何事もなかった。
いつもの白い闇、いつものエンジンの唸り。
だが、深夜の二時を回った頃。
助手席のあたりの空気が、ふと、重くなった。
気圧が変わったような、耳の奥の塞がる感じ。
車内の温度計が、一度だけ、上がっていた。
助手席の側だけが、ぬるい。
雨に濡れた羊毛のような、嗅いだ覚えのない匂いがした。
私は、ラジオの音量を上げた。
何かで、その気配を、かき消したかった。
だが、雑音の向こうから、別の音が聞こえた。
衣擦れのような、身じろぎの音だった。
すぐ、隣で。
私は、横を見なかった。
見てはならない、と全身の毛が逆立っていた。
そのときだった。
誰もいない助手席で、留め金が、ひとりでに鳴った。
カチリ、と。
私が三十年、毎晩鳴らしてきた、あの音で。
※
ハンドルを握る手が、汗で滑った。
私はただ前だけを見て、アクセルを踏みつづけた。
バックミラーを見る勇気は、どうしても出なかった。
やがて、サービスエリアの灯(あか)りが見えてきた。
私は車を寄せ、転がるように運転席から降りた。
そして、助手席のドアを、外から開け放った。
誰も、いなかった。
ただ、ベルトだけが、きちんと締まっていた。
私が締めなかったはずの、そのベルトが。
留め金は、まだ、ほのかに温かった。
空は、もう白みかけていた。
私は震える手で、缶コーヒーを買った。
夜明けまで、運転席に戻れなかった。
※
それから私は、二度とあの試しをしなかった。
出発の前には必ず、空の座席にベルトを通す。
カチリ、と鳴らす。
その音は、もう、ただの験担ぎではない。
私は今では、はっきりと理解している。
あのベルトは、何かを締め出すためのものではないのだ。
席を、与えるためのものだ。
締めておけば、それは大人しく、座っている。
だが、締めなければ。
それは、みずから「席を取る」。
先輩の言葉は、警告ではなかった。
作法を、伝えていたにすぎない。
席を与えるとは、つまり、認めるということだ。
そこに、何かが在ると。
見ないふりは、いちばんいけない。
見ないものは、やがて、座る場所を自分で決める。
取られた席に、次に座るのが誰になるのか。
それを、私はまだ知らない。
知りたくも、ない。
※
先月、私はとうとうハンドルを置いた。
長い夜の稼業から、ようやく降りたのだ。
車は、見込みのある若い者に譲った。
鍵を渡すとき、私はあの習慣だけを、彼に伝えた。
「走り出す前に、助手席のベルトを締めておけ」
若い男は、怪訝(けげん)な顔をした。
かつての私と、寸分たがわぬ顔だった。
わけを問われ、私は先輩と同じ言葉を返した。
「そうしないと、席を取られる」
それ以上は、何も言わなかった。
言えば、彼が降りてしまう気がしたからだ。
※
それきり、私はあの車に乗っていない。
ただ、ときおり、夢を見る。
夜の高速を、私の古い車が走っている夢だ。
運転席には、あの若い男が座っている。
そして助手席には、きちんとベルトを締めた、誰かがいる。
その横顔を、私はどうしても思い出せない。
思い出せないのに、なぜか、見覚えがあるのだ。
目を凝らすたび、夢は、そこで終わる。
若い男からは、まだ何の便りもない。
便りがないのは、無事の証だと思っている。
今夜も、日本のどこかの高速を、その車は走っているのだろう。
助手席のベルトを、きちんと締めて。