
仕事を在宅に切り替えてから、休日に都心へ出るのが少しずつ億劫になっていた。
近所のスーパーまで歩く以外に外へ出る用事もなく、季節の変わり目に部屋から景色だけ眺めて過ごしていた頃、思い切って軽自動車を買おうと決めた。
新車を買えるほどの貯金はなかったので、最寄り駅から自転車で行ける範囲の中古車店を、休みのたびに何軒か回った。
結局選んだのは、車検が一年残っていて、走行距離も少ない、紺色の小さな軽自動車だった。
店主は人の好い中年男性で、車のことを何も知らない私に、最初から最後まで丁寧に説明してくれた。
納車されてからしばらく、私は勤務時間の前後に、近所をぐるぐる回ることだけを楽しみにしていた。
※
異変に気づいたのは、引き取って二週間ほど経った頃だった。
初回の点検でディーラーへ持ち込んだとき、整備士の方が、ナビの裏に古いドライブレコーダーが残っているのを見つけてくれた。
シガーソケットに細い配線が伸びて、エアコンの吹き出し口の上あたりに、見えにくい角度で本体が貼り付けてあった。
前のオーナーが取り外し忘れたまま手放したものらしい。
整備士の方は、たぶん中身は古いから消して使えばいい、と笑った。
本体には、小さなmicroSDカードがそのまま入っていた。
個人情報の塊だから、未開封のまま店に返したほうがいい、と最初は思った。
けれど結局、その夜のうちに、私は自分のノートパソコンにカードを差していた。
消去する前に、一度くらい中身を確認しておくべきだ、と自分に言い聞かせていたが、本当はただの好奇心だった。
カードの中には、半年分ほどの動画ファイルが、日付と時刻ごとにきれいに並んでいた。
私は新しいものから順に再生していった。
※
映像はどれも夜だった。
街灯のない田舎道、川沿いの土手、住宅街の外れ、山の中の細い登り道。
カメラは前を向いているから、運転している人の姿は映らない。
映るのはハンドルの上端と、フロントガラスの向こうにのびていく、夜道だけだ。
はじめは、ただ少し退屈な映像だ、というくらいに思っていた。
気になり始めたのは、音声のほうだった。
運転している人の声が、一度も入っていない。
代わりに、助手席のあたりからだけ、女の細い声がときどき聞こえる。
「次の信号、右」
「もう少し奥」
「うん、そこ」
運転手は何も答えない。
ただ言われたとおりにハンドルを切っていく気配だけが、わずかな振動として映像に残っている。
カーナビの音も、ラジオの音も、エンジンの低い唸り以外には何もない。
長距離の同乗者というのは、こんなふうに静かなものなのかもしれない、と最初は思った。
夫婦か、付き合いの長い恋人か。
それなら無言の時間があっても、不自然ではない。
けれど、何本か再生していくうちに、私は妙なことに気づいた。
女の声は、いつも同じ調子で、いつも同じ言い方をするのだ。
「次の信号、右」
「もう少し奥」
「うん、そこ」
違う日付、違う場所、違う時刻に切り替えても通用しそうな台詞ばかりが、判で押したように繰り返されていた。
声の質も、トーンも、間の取り方も、毎回そっくりだった。
同じ録音を別の動画にコピーして貼り付けたのだろうか、と疑って音声波形を見比べてみたが、そういう不自然な切れ目はなかった。
毎回、その場で発した別々の声として、ちゃんと夜道のエンジン音と一緒に揺れていた。
同じ言葉を、同じ調子で、生身の人間が何度も繰り返している、ということだった。
※
動画を遡っていくと、撮影地の景色がだんだん、見覚えのある町並みに近づいてきた。
うちのアパートのある駅前の通りが、フロントガラスの向こうを横切ったときには、思わず再生を止めた。
この車の前のオーナーは、私の住んでいる町をよく走っていたらしい。
軽自動車を売りに出した中古車店も、ここから車で十五分ほどの距離にある。
同じ町内で乗っていた車を、同じ町に住んでいる人が買ったというだけのことだ。
そこまでは、まだ理屈で説明がついた。
けれど、その先の一本を再生したとき、私は息を止めた。
映像の中の車は、いつも私が買い物に使っているスーパーの角を曲がり、私の住んでいる側の路地に入っていった。
細い一方通行を、ゆっくりと進んでいく。
そして、私のアパートの前で、止まった。
「ここで、一度止まって」
女の声がそう言った。
映像の右下に表示されている日付は、私がこの軽自動車を契約した日の、ちょうど一週間前だった。
シートベルトを外す音と、助手席のドアが開く音が、続けて録音されていた。
誰かが降りていく気配が、音だけある。
けれどフロントガラスの先には、誰の姿も映らない。
女は、車を降りて、画面の枠の外に消えていった。
三十秒ほどして、ドアが閉まる音がして、運転席側で何かが、長い息を吐く音がした。
そして車はそのまま、私のアパートの前を離れていった。
※
翌日、私は車を買った中古車店に電話をかけた。
あの車の前のオーナーについて、差し支えなければ教えてほしい、と頼んでみた。
店主は少し言葉を濁したあと、独身の男性だったと教えてくれた。
歳は四十代の半ば、私の家から車で二十分ほどの古いアパートに、長く一人で暮らしていたらしい。
三ヶ月ほど前から連絡が取れなくなり、家族の同意で車だけが先に売却に回された、と店主は説明した。
いまも行方は分かっていない、と最後に低い声で付け足した。
同乗者がいたか、と私は聞いた。
家族の話では、ずっと一人暮らしで、付き合っていた人がいたという話も聞いていないということだった。
電話を切ったあと、私はもう一度、ノートパソコンの前に座った。
そして、カードに残された一番古い動画を再生してみた。
そこには、ドライブレコーダーを取り付けた直後らしい、明るい昼間の住宅街が映っていた。
映像の中で、運転手の手がハンドルから一度離れ、助手席のシートに何かを確かめるように触れる動きがあった。
そのとき初めて、運転手の声が録音されていた。
「もう一度、ちゃんと通れるかな」
そう、誰かに確認するように言っていた。
応える声はなかった。
ただ、エアコンの吹き出し口の方向で、紙が一枚揺れる音だけがしていた。
※
microSDカードは、その夜のうちに割って捨てた。
ドライブレコーダーの本体は、店に返してくれと頼んで、翌週引き取りに来てもらった。
軽自動車は、もう少し慣れたら考えるつもりだったが、結局そのまま手放した。
同じ町を走っているとき、ふとした角を曲がるたびに、自分が画面の中の景色をなぞっているような気がしてきたからだ。
それで終わりにするつもりだった。
けれど三日ほど前、夜に自分のノートパソコンを開いたら、デスクトップに見覚えのない動画ファイルが一つ置かれていた。
名前のないファイルで、サムネイルだけが、夜の道路のように真っ暗だった。
右下に小さく表示された日付は、昨日の日付になっていた。
再生ボタンを押すと、私が普段、買い物のときに通っている駅前の細い通りが映った。
カメラは前向きで、運転している人の姿は見えない。
けれど、私はもう、車を持っていない。
あの軽自動車も、ドライブレコーダーも、手元にはない。
映像がアパートの近くの交差点にさしかかったとき、助手席のあたりから、聞き覚えのある細い声がした。
削除しようとしてゴミ箱へ移したファイルは、次の朝には、元の場所に戻っていた。
その次の朝も、また置かれていた。
名前のないファイルの日付だけが、毎日、一日ずつ進んでいる。
映像の中の景色は、どれも、私が普段歩いている町だった。
そして、最後にはきまって、助手席のあたりから、聞き覚えのある細い声がする。
「もう一度、通って」